第十章  悪人

 1


 その日の夜、事務所の固定電話がけたたましい呼び出し音を響かせた。猫子が風呂に入っていたので、代わりに私が出る。

 今日も私は泊まりだった。


「もしもし、百合川探偵事務所でございます」

「万野原さんかい、俺だ」

 電話の相手は矢立警部だった。

「ねこのやつは?」

「今、入浴中です」

「なんだ、のんきに風呂なんか入ってやがるのか」


 ため息交じりにそう言うと、矢立警部は辺りをはばかるように声量を落とした。

「たった今、捜査会議が終わったところなんだ。いくつかめぼしい情報も挙がったから、お前さんたちにも伝えておこうと思ってな。部下たちが汗水たらしてかき集めた貴重な情報だ。ったく、それなのに風呂だと? 猫は水が嫌いなはずだぜ」

 悪態をつく彼の言葉にはしかし、たしかな猫子への信頼が窺える。

「そろそろ出てくるころだと思いますけど……あっ」

 湯気をまとった猫子が浴室から戻ってきた。頭にバスタオルを乗せ、タンクトップと下着だけというはしたない姿だ。


「ねこさん、またそんな恰好でうろついて」

「いいじゃない。夏なんだから。で、電話は、誰?」

「矢立警部です。事件のことで、伝えたいことがあるそうです」

「ん、代わって」


 猫子に受話器を手渡した。

 話の内容はあとで聞けば猫子が教えてくれるだろうが、私は好奇心を抑えきれなかった。彼女の隣にかがんで耳をそばだてる。矢立の声は年齢の割に若々しいハリのあるバリトンなので、集中すれば問題なく聞き取れた。

「あー、もしもし。こちら猫子」

「おう、出たなどら猫。ちょっくらおじさんに付き合ってくれよ」

「そういうの、いいから。さっさと話すことだけ話してよ」

「なんだ、冷たいな。まあいい。例の事件についてだが、いろいろと判ったことがある」


 猫子は電話台の抽斗からメモ帳とペンを取り出すと、私に押し付けた。速記係に任命されたようだ。私は空白のページを開いて、矢立警部の次の言葉を待った。


「まず、被害者の泉町智について判ったことだが……やつは今でこそ宗教団体の幹部という畏れ多い地位についているが、その過去は詐欺や窃盗で何度もしょっぴかれている社会のゴミだった。とにかく悪知恵が働くやつで、ムショにも二回ぶち込まれてる。一回目は二十歳の時にやった連続強盗事件、二回目は二十七歳にやらかした詐欺事件」

「……ゴミは言い過ぎよ」

「その詐欺というのが、架空の未公開株を買わせる投資詐欺で、主なターゲットは資産運用について無知な老人や主婦だった。約十五年前かな、けっこうでかいニュースにもなったんだ」

「憶えてるよ。たしか、被害者の中で自殺者が出た記憶がある。そうだそうだ、泉町智って、どっかで聞いたことある名前だと思ってたんだよ」


 十五年前というと、私は当時四歳だ。憶えているはずがない。それにしても、猫子はいったい、いくつなのだろうか。


「首をくくったのは全財産ぶっこんだ、先のないじいさんと、夫に内緒で貯金を溶かした専業主婦だった。それ以外にも、のっぴきならない状況に追い込まれた被害者は大勢いた」

「要はその時の恨みが犯行の動機かもしれないと、警察は見てるのね」

「ああ。それ以外に考えられんだろう。二十九歳の時に刑が確定し、七年間臭い飯を食ったあと、泉町は何を思ったのか当時まだ知名度の低かった快生教団に入信した。そこに金の匂いを嗅ぎつけたのか、心を入れ替え、真っ当に生きようと思い立ったのかは判らんがな。そこで泉町は持ち前の悪知恵と巧みな話術でのし上がり、本部の幹部にまで上り詰めた」

「教団内での評判は?」

「調べた限りでは、泉町の周りでトラブルがあったという話は挙がっていない。人当たりもよく、信者にも信頼されていたようだ。まあ、これには泉町が前歴を隠していたってことも理由の一つとしてあるが……やつに前科があることを知っていた信者はほとんどいなかった」

「現場にいた信者の中で、泉町と親交があった人はいた?」

「現在調査中だ。ただ、あの場にいた信者は全員G**支部の人間だから、本部の泉町と関わる機会はそうないだろうと思われる」

「泉町についてはそれだけ?」

「あと、正確な死亡推定時刻が判った。泉町が死んだのは、昨日――八月四日の午前十一時半から、午後十二時半までの一時間。これは今までの証言と矛盾しない。が、ここまで絞り込めても、ここから突破口を見つけ出すのは難しい。全員に明確なアリバイがないからだ。また、頭部の傷以外に暴行を受けた形跡はなく、抵抗したような跡もなかった。不意の一撃で昏倒させ、縄で自由を奪った、という推測は当たっていたな」

「動機の面から考えても、やっぱり計画的殺人の線が強いね。口論の末の衝動殺人じゃあなさそうだ。明確な殺意が感じられるよ」

「俺たちもそう考えてる。教団本部の人間と人気のない場所で二人きりになれる絶好のタイミングで犯行がなされたんだ」


 ここで矢立警部は一度言葉を切った。受話器から大きく息を吐く音が聞こえる。深呼吸でもしているか、たばこをふかしているのだろう。十秒ほどの間を置いて、再び会話が始まる。


「こんなところだな。以上が俺の部下たちの血と汗の結晶だ。何か訊きたいことはあるか?」

「血なんて流れてないじゃん。訊きたいことっていうか、お願いなんだけど」

 珍しく、しおらしい声で猫子は言った。

「何だ」

「あたしたちがG**支部に出入りできるように取り計らって欲しいんだ。被疑者の話を聞きたいし、も進めたい」


 こっちの仕事とはつまり、夏目龍翔を説得することだ。信者として潜入する作戦が失敗に終わった上に、想定外の龍翔との邂逅で、こちらの目的が彼にばれてしまった。もはや正攻法は通じない。

「ああ、そうだったな、お前さんたちはお前さんたちで、別件の依頼があったんだったな。いいだろう、全く無関係な話でもないし、いずれ本腰を入れて協力してもらうつもりだったんだ。近いうちにG**支部へ案内しよう」

「ありがと。じゃあね、お休み。いい夜を」

「馬鹿野郎、こちとらまだまだ仕事がたんまり残っ――」


 猫子は臭いものに蓋をするように受話器を置くと、私が必死になって書いたメモを持ってソファーに向かった。時計の針が九時を指す。すでに窓の外は夜のとばりが下りていた。

「被害者って、本当は悪い人だったんですね」

 向かいに座りながら私がそう言うと、猫子は神妙な顔つきになって、


「悪人だから、殺されて当然?」


「えっ……だって、たくさんの人をひどい目に合わせて、自殺した人だっていたらしいし……自業自得だと思います」

 私は自分の心に正直に答えた。

「でも泉町は裁判を受けて、もう罪を償ったんだ」

「そんなの、そんなの関係ありません。あんな人、殺されたって文句は言えないじゃないですか。許せませんよ……普通」


 間接的に二人の人間を殺し、大勢の罪なき人の財産と幸福を奪ったのに、たった七年刑務所に入るだけで許されてしまうのか。法律には詳しくないが、そんなのは甘すぎる。


「きーちゃんの気持ちも判るよ。でもね、例えどんなに卑劣な人間が相手でも、その命を奪う権利は誰にもない。他人の人権を侵害することは誰にもできない。その前提が成立するからこそ、警察や司法が機能するんだよ」

「……」

「真に許されざるべき者とは、罪を犯したのにも関わらず、だけさ」

 そう結んだ猫子の顔はどこか悲しげだった。

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