第九章 絵理華の告白
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翌日、八月五日。
私は猫子の事務所にいた。二人並んでソファーに座り、見るでもないテレビの雑音を聞いている。
あのあと、被疑者たちの情報を受け取って私たちは現場を辞した。あれ以上あの場にいても捜査員たちの邪魔になるだけだし、一刻も早くあの場所を離れたい、と私がごねたからだ。また、被疑者である快生の信者たちも帰ってしまっていたため、本来の目的である快生に潜り込むための手続きをすることはできなかった。電車に揺られてF**市へ帰り、そのまま猫子の事務所に泊まらせてもらった。
事件当時現場にいた快生の信者は被害者の泉町を除くと七人。
山宮春香。
そして夏目龍翔だ。
階下の税理士の証言が正しければ、犯人はこの中にいると結論付けることができる。しかしながら、現時点でここからさらに犯人を絞り込める証拠や証言は挙がっていない。遺留品からも犯人特定に繋がる指紋や体液などは検出されなかったそうだ。
「七人の中で己のアリバイを証明できる者はいない。かといって、特定の誰かに嫌疑がかかるような超重要な証拠も見つかっていない……」
噛んで含めるようにそう言うと、猫子はちらりとこちらを見た。私に意見を求めているらしい。
「どうして殺されたのか、その動機はまだ判らないんでしょうか」
「あの殺し方じゃあ、十中八九、怨恨の殺人だよ。状況を見る限りでは計画的殺人の線が強い。相当深い恨みだろうね。財布が残されていたことから物取りとは考えられないし。今警察は躍起になって被害者の人間関係、過去、人となりを洗ってる最中さ。新しい情報が入り次第、こっちに報告してくれるって矢立さんは言ってたけど。事件もそうだけど、あたしたちの本命の依頼はあの生意気なガキんちょを引きずり出すことだからね」
「そっちの方が無理難題な気がしますね。昨日の調子だと」
「さあ、それは夏目さんの協力次第さ」
時計の針が十時を指した時、チャイムの音が鳴った。
玄関扉を開けると、そこには悲壮な面持ちの夏目絵理華が佇んでいた。
「おはようございます。ご無沙汰しております」
今日の彼女は着物姿だった。白地に水色の帯を巻いている。とっさに季節外れの雪女を連想した私だった。
「おはようございます、先生がお待ちです」
「失礼します」
絵理華を応接間に通し、麦茶とお茶請けを出す。着物姿の淑女が深々と頭を下げ、洗練された所作でソファに腰を下ろした。
「やあ、すいませんね。急にお呼び立てしてしまって、どうぞ、お座りください」
猫子は鷹揚な態度で応対した。私は壁際に立ち、向かい合った両者を見守った。
「いえ、午前中は何も予定がありませんから」
絵理華はひどく緊張しているように見受けられた。ほっそりとしたうなじに汗の粒が浮かび、膝に乗せた手は力強く握り込まれている。小さな肩が震えているのが痛ましい。
「なぁに、中間報告ですよ。そう構えないでください。ただ、あまり気持ちのいい話でもありません……結果から言いましょうか。昨日、私たちは龍翔くんに会いました」
その瞬間、絵理華の蒼白の顔が上気し、人並みの活力と生気が戻った。
「あ、あの子はどこに?」
身を乗り出し、猫子に迫る彼女の横顔には、息子を想う母の顔があった。猫子は余裕のあるまなざしで絵理華を見返し、麦茶を一口飲んだ。
「昨日、G**市で起きた殺人事件のことをご存知ですか」
「え、ええ。朝刊と朝のニュース番組で……快生教団の信者が殺されたとか、なんとか」
彼女の顔が再び色を失っていく。最悪の想像が頭をよぎったようだ。
「ま、まさか、龍翔が――」
「いやいや、安心してください。被害者は龍翔君ではありません。が、事件と全く無関係というわけでもない」
快生信者であるレストランの店主の話から、龍翔がG**支部内の宿舎にいる可能性が高いこと。
快生教団のセミナーが行われる予定だったビルで教団の幹部が殺害されたこと。 現場の状況から、当時ビル内にいた信者の中に犯人がいると断定できること。
そしてその中には龍翔の名前があること。
これらの要点を踏まえながら、猫子は昨日の出来事を簡潔に説明した。その間、絵理華はじっと息をひそめて猫子の話に耳を傾けていた。
「とまあ、そういうわけで、龍翔くんは被疑者の一人として警察にマークされています」
「ああ、なんということでしょう。百合川さん、あの子は決してそんな、人殺しなんて、恐ろしいことをする人間ではありません。幼い頃から、虫すら殺さない、心優しい子でした」
息子が無事である喜びと、事件に巻き込まれるという悲況に陥った悲しみが、彼女を感情的にさせた。訴えるような視線が猫子を貫く。
「ええ信じますよ。親である、あなたがそう言うのなら」
「親」という部分に強いアクセントを置いて猫子は言った。
「ただね、龍翔くんのことでちょっとしたトラブルもありました。あたしたちにとっちゃ、事件よりもこっちの方が問題でしてね」
そう前置きをして、猫子はいくぶん低い声で続けた。自然と私も緊張してくる。
「龍翔くんはこう言っていました。一字一句違えず伝えますよ、いいですね。『あの人は僕の親なんかじゃない』」
その言葉に、絵理華は強いショックを受けたようだった。瞳が小刻みに揺れ動き、手は見えない何かを捕まえるように虚空を空ぶっている。半開きになった口から嗚咽が漏れ、やがて一筋の涙が彼女の頬を伝った。
「あ、ああ――」
「いいですか、彼はあなたの許に戻ることに対し、明確な拒絶の意志を表明したわけです。こうなると、いくらあたしでもこんな状態であなたの望み通りに依頼を遂行するのは難しい、いや、不可能です。さあ、話してください。あなたと彼との間に、いったいどのような確執があったのか。そこが不明瞭なままでは、あたしは何もできません。守秘義務は徹底させていますが、もしこの場で話すことがためらわれるならば、万野原桔梗は退席させましょう。夏目さんっ」
ハンカチで拭った目元は化粧が落ちてしまっていた。絵理華はひとしきり涙を流すと、自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
「ここにいるのはあなたの味方だけですよ。夏目さん」
猫子は子供を諭すような声色で言った。
「じゃ、じゃあ、私は出てますね」
気まずい空気を感じ取り、私が踵を返して扉の方へ向かうと、絵理華の呟くような声が聞こえた。
「構いません、万野原さんもいてください。話します。全て話します」
「きーちゃん、飲み物のおかわりを注いであげなさい」
並々と注がれた麦茶を一息に飲み干すと、絵理華は覚悟を決めたように表情を引き締め、背筋を伸ばしてソファーに座り直した。そこにあるのは艶美な貴婦人の取り澄ました顔だった。
「私は息子のことをこの世の誰よりも愛しています。あの子の幸せのためなら、私はどうなっても構わない。そう心に刻んで今まで生きてきました。そして、その気持ちは今でも変わりません。それだけは、信じてください」
「信じますよ」
「……ありがとうございます」
そうして絵理華はとつとつと語り始めた。
それは捉えようによっては、あまりにちっぽけな問題のようにも思われたし、人生がひっくり返るような衝撃を孕んでもいた。
要は受け手がどう思うか、焦点はその一点のみに集中していた。それはすなわち、私たち外部の人間が容易に踏み込んではいけない領域の問題である。
猫子は静かに聞いていた。
余計な相槌や質問は入れず、借りてきた猫のように、ただ黙って絵理華の話に耳を傾けていた。私は私で、その告白をどう受け止めるべきか、ひたすら考えていた。
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