第八章 母親なんかじゃない
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「あの、どうして僕だけ呼ばれたのでしょうか。もう警察の方にお話しすることは何もないと思いますけれど」
龍翔は上目遣いでこちらを見ると、震えた声で言った。その顔は、絵理華から受け取った写真と全く同じだった。日焼けした肌、スポーツ刈りの頭、鼻筋の通った濃いめの顔立ち。
ただ一つだけ違う点を挙げるとすれば、それは彼の表情だろう。写真の中の彼はまぶしい笑顔を見せていたが、目の前にいる夏目龍翔は自分一人だけに捜査の目が向いているという勘違いからか、ひどく怯えていた。
「まあ、そう硬くならずに」
猫子はやんわりとした声を作り、警戒心を与えないよう努めていた。
「夏目龍翔さんで間違いないですね?」
「は、はい」
「今日ここで何が起きたのか、判っていますか?」
「……はい」
「ああ、別にあなただけが特別疑われているというわけではありませんから。まずは肩の力を抜いて、軽くお喋りしましょうよ」
そうして猫子は当たり障りのない世間話をし始めた。自分の置かれている状況が理解できない恐怖心からか、龍翔の口は重かった。
(……)
猫子は言った。「状況が変わった」と。
本来、百合川探偵事務所が一度に複数の依頼を受けることはめったにない。一つの依頼に全力を出す、というのが猫子のポリシーなのだ。それなのに、彼女は矢立警部の要請を受け、今日起きたばかりの殺人事件の捜査依頼を引き受けてしまった。それはひとえに、目の前の男がこのビルにいたから、いてしまったからだろう。すなわち、夏目龍翔が容疑者の一人として今回の事件に関わってしまったからなのだ。
これは非常にまずい展開だ。
もし龍翔が事件に関わっていた場合、私たちは彼を絵理華の許に引きずり出すことは叶わず、彼は塀の中へ送致されることになる。仮に関わっていなくとも、彼の無実を証明するためには犯人を突き止める必要がある。
「なるほど、生まれはT県のS**市ですか」
猫子は話題を龍翔の身辺に関する事柄に誘導していた。次第に彼の口も滑らかになる。
「あの、さっきからどうでもいいことばかり話していますけど、いったい僕に何を聞きたいんですか? 何か聞き出したいから、僕だけを呼び出したのでしょう」
「おや、そう見えますか?」
「とぼけないでください」
「まあまあ、落ち着いて。そうですね、そろそろ本題に入りましょうか。龍翔さん、あなた、お母様とは最近どうですか?」
その質問は矢のように龍翔の精神に突き刺さったようだ。目の焦点がぶれ、彼はぎゅっと下唇を噛んだ。明らかに動揺している。彼の返答を待たぬまま、追い打ちをかけるように猫子は続けた。
「あたしたちは警察ではありません。探偵です。あなたのお母様、夏目絵理華さんに頼まれて、あなたを捜していました」
「……」
「あなた、お母様に連絡先も教えず、教団に入ったようですね」
「……僕はもう成人している。何か行動を起こすのに、いちいち親の許可なんていらないはずだ」
ようやく絞り出した声は、壊れたラジオのようにかすれていた。龍翔の瞳には怒りとも悲しみともとれる色が浮かんでいる。
「そりゃ、そうですがね。血の繋がった親なんだ。連絡くらいは――」
「違う」
バンっと鈍い音が響いた。龍翔が握りしめた拳をテーブルに打ち付けたのだ。
「違う。あの人は、あの人は僕の親なんかじゃない」
沈黙が場を支配した。
想定外の龍翔の反応に、猫子も虚を突かれたようだった。それにしても、「親なんかじゃない」とまで言い切るということは、絵理華と龍翔の間に、想像を絶するような確執があったということではなかろうか。私は恐る恐る訊いた。
「失礼ですけれど、あなたと絵理華さんの間に何があったのですか」
「そんなこと、あんたたちに話す義理なんかないだろ」
吐き捨てるようにそう言うと、龍翔は逃げるように部屋を出て行ってしまった。ややあって、矢立警部が顔を出す。
「どうした、スカウトマン。交渉決裂かい?」
「茶化さないでよ」猫子は顔の前で手を振って「ああ、もう。あのガキ、舐めた態度取りやがって……むきぃーっ」
「とりあえず、被疑者たちは全員帰しておいた。これ以上拘束しても何も出てこねぇからな。現時点で手に入れた情報を改めて話そうか」
「この件の責任者は矢立さんになったの?」
「ああ、うちの班だ」
矢立警部は右手にファイル、左手に三本の缶コーヒーを器用に持ちながら先ほど座っていた席に腰を下ろすと、二本の缶を私たちに手渡した。
「ありがとうございます」
うやうやしく受け取ったコーヒーを飲みながら、私は矢立警部の口元を注視した。
「さっきの夏目を含めて、被疑者は七人いる。が、どいつも完全なアリバイを持ってはいなかった。……最初から話そうか。泉町智がこのビルに来たのは今朝九時。教団の本部から自分の車で直接来たようだ。近くのパーキングに車が残ってた。G**支部のやつらが来たのはその三十分後。教団所有のワゴン車で七人全員がまとまってやってきた。八人全員が集まってから、セミナーのための打ち合わせをし、泉町智は一度外へ出て行ったらしい。何をしてたのかはまだ調査中だが、戻って来た時刻ははっきりしている。午前十一時ちょうどのようだ。それからやつは隣の控室に戻った。これは数人の被疑者が目撃している。そしてその後、生きている泉町を見たものは誰もいない、というわけだな」
「誰か控室には行かなかったんですか?」
私が訊いた。
「どうも泉町は気難しい性格だったらしくてな。一人の時間を邪魔されるのを何よりも嫌っていたようで、開始時刻まで誰も来るな、と念押ししていたようだ。が、これはこういうふうにも解釈できる。泉町は犯人との密会のためにあえて周囲を遠ざけたのではないか、と」
「犯人と被害者の間に、人目に知られたくないトラブルがあって、その解決の話し合いをするために被害者は犯人と共に四階へ向かった。しかし、犯人は最初から殺人を計画しており、まんまと被害者は殺されてしまった。こんなストーリーが容易に想像できるね」
先ほどのことを引きずっているのか。猫子は不機嫌そうに言った。
「あの、他の人たちはそれまで何をしていたんですか?」
「七人の信者たちは打ち合わせ後、会場の設営をしていたそうだ。十二時頃に全て終わって、残りの時間は思い思いに過ごしていたらしい。問題はここだ。互いに見張り合っていたわけじゃないし、設営作業中にだって隙を見て抜け出すことができた」
「誰にでも犯行の機会があったということですか?」
「ああ」
誰にでも……つまり、夏目龍翔にも。
「現場は見てくか?」
「いや、いいよ」
猫子は気難しげに首を振った。矢立警部はファイルを開きながら、
「じゃあこっちだけでも見てけ。遺体と現場の写真だ」
「きゃっ」
私はすぐさま首を横に向けた。あの惨たらしい遺体はもう絶対に見たくない。
「うわぁ、惨いね。きーちゃんは見ない方がいい」
「頼まれたって見ませんから!」
「こっちの写真を見てくれ。頭部に深めの傷があった。鈍器で殴打された痕だろう。隙をついて頭部を殴り、昏倒した被害者をロープで拘束したようだな。この凶器は現場の隅に残されていた鉄パイプだ。が、指紋や体液などは採れなかった。体毛も落ちてねぇ。それから尻のポケットに諭吉さんが七人収まった財布が残っていた。物取り目的の犯行じゃあねぇな」
「完全に炭化はしてないね。顔は判別が不可能なほど焼け焦げちゃってるけど……絶命を確認した時点で、火消ししたってことかな」
「だろうな。現場には焼け焦げた革の敷物があった。つまり、犯人は長時間現場に滞在していた可能性がある。誤って火災を起こさないためにも、現場で燃え具合を見てなきゃならんからな」
「そうかな? 火をつけたあと、長時間の不在を怪しまれないために階下に戻って、少しずつ抜け出して燃え具合を確認したのかもしれないよ」
私のすぐ横で嫌な会話が繰り広げられている。とここで、私はある疑問を抱いた。それは実に素朴な謎だった。横を向いたまま会話に混ざる。
「あの、ちょっといいですか。気になることがあるんです」
「何さ」と猫子。
「あの、どうして犯人は火あぶりにして殺すなんて、残酷な方法を取ったんでしょうか」
一瞬の間を置いて、猫子は答えた。
「そりゃあんた、それがもっとも苦しみを与えることができるからだよ」
「たしかに、焼死はあらゆる死に方の中でもっとも苦痛を伴うと聞くな」
「いいや違うよ、矢立さん」
「うん? 今お前がそう言ったじゃないか」
「動機が判明していない以上明言はできないけれど、もしこれが深い怨恨による殺人だったら、これほど効果的なものはないんだ」
視界に入っていないので判らないが、おそらく矢立警部は不思議なものを見るような目つきになっていることだろう。快生についてある程度の下調べをしてきた私には、猫子の言わんとすることが判りかけてきた。
「快生教団の信者にとって、もっとも避けるべきことは己の人生を汚す苦痛。彼らにとって人生とは永遠に繰り返されるものであり、その中で味わった全ての快楽、苦痛は次の人生でも同じ時、同じ程度で繰り返されるんだ。彼――泉町智の最期はこれで固定されてしまった。彼は死の間際、これ以上ないというほど絶望したことだろうよ。何せ、彼の人生の終幕には焼死という苦痛が刻み込まれてしまったのだから」
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