第七章  密室、ではない

 1


「……ここは?」

 視界を白い天井が埋めている。体にブランケットが掛けられており、なんだか背中が痛い。どうやら私は寝かされているようだ。体を起こし、周囲の様子を窺った。


 細長い廊下だ。そして私は長椅子の上にいる。


 奥の突き当たりに非常階段へ続く扉があった。反対側の突き当たりにも扉があり、そちらは解放されていた。その先に見えるのは横長の会議机だった。先ほど私を含めた参加者が集まっていた部屋だと、すぐにピンときた。

 だんだんと記憶が戻ってきた。猫子と共に四階へ上がり、窓を覗いて……


(そうだ、私、気絶しちゃったんだ)


 瞬時にあの凄惨な遺体が脳裏に浮かび上がってきた。ホラーやスプラッター映画はよく見るし、猫子の助手として事件に関わることも少なくないが、焼死体など、今までの人生で目にしたことはなかった。あまりのショックに私の理性は耐えられず、失神してしまったらしい。


「いやっ」


 首を激しく振って、網膜にへばりついた赤茶けた遺体を追い払う。脂汗がじっとりと浮かんできた。心なしか頭痛もする。

「……ねこさん、どこ?」

 いったい、何が起こっているのだろうか。

 心細さがそのまま恐怖に変換される。猫子はどこだ? それに他の参加者たちや快生の人間はどうしたのだろう。向こうの部屋は無人のようだ。廊下には四枚の扉が一定の間隔を置いて並んでいる。どれもぴったり閉まっていたが、人の気配はする。かすかな話し声のようなものが聞こえるのだ。


 壁に掛かった時計は午後四時四十五分を指していた。三時間ほど眠ってしまったらしい。四時からの専門学校の授業も始まってしまっている。あとで連絡をしなくては。ああ、いや、今日は夏休みだった。

 ゆっくりと立ち上がるも、鈍いめまいに襲われてしまった。壁に手をつき、収まるのを待っていると、奥から二番目の扉が勢いよく開かれた。


「あ、ねこさん」


 猫子が出てきたのだ。すり減っていた私の精神は瞬く間に安堵感に包まれた。

「なんだい、きーちゃん。ご主人様の帰宅を喜ぶ犬みたいな顔をして」

「何があったんですか? あの死体はなんですか? 私をほっぽってどこに行ってたんですか? どうして誰もいないんですか? いったい、いったい何が起こっているんですか?」

「質問は一つずつにしてくれよ。でもまあ、すぐに判るよ。歩ける? あたしについておいで」


 猫子の手を取り、彼女が出てきた部屋に向かって歩をそろりと進める。六畳ほどの狭い部屋。奥の汚れたホワイトボードの前に長方形のテーブルがあり、それをパイプ椅子が囲んでいる。

「あちらの紳士が現状を説明してくれるよ」

 猫子はくいっと顎を突き出し、パイプ椅子に深々と座っている男を示した。白いものが混じった短髪に浅黒い肌。顎にまばらに生えた無精ひげが哀愁を漂わせている。くたびれたワイシャツ姿の男は獲物を狙う獣のように私を見据える。


「あ、矢立やたて警部!」


 彼はK県警捜査一課の警部、矢立吾郎ごろう。所轄の交番勤務からのし上がった叩き上げの老刑事である。職業軍人を思わせる鋭い眼光や威圧的な風貌とは裏腹に根は温厚で、私のような小娘にも常に敬意を持って接してくれる。猫子とは古い付き合いがあるそうで、彼女の許に難事件の協力依頼を持ってくるのは主に彼である。そのため、私も何度か会ったことがあった。


「意識が戻ったようだね。ぐっすり眠れたかい?」


 矢立警部はほがらかに笑ってみせたが、私は緊張したままだった。彼の目から上が笑っていなかったからだ。

「最悪の目覚めだ、と顔に書いてあるね。そりゃそうだ。起き抜けにこんなむさ苦しいおじさんと会っちまったんだから。まあ座りたまえ」

 猫子と共に彼の向かいの席に落ち着く。

 保護者同伴で校長室に呼び出しを食らった悪ガキのような居心地の悪さを感じる。同時に、早くこの状況を説明して欲しいという願望がめらめらと燃え始めた。


「さて、何から話そうか」

 矢立警部は中空に視線を泳がせながら、顎髭を撫でた。

「あの、私たちは――」

「ああ、いい。お前さんたちの事情については、そこのどら猫に聞いているよ。難儀な仕事の真っ最中に面倒なことに巻き込まれちまってなぁ、同情しとるよ」

「私が見たあれは……」


「死体さ」


 実にあっさりとした調子で老警部は言った。

「やっぱり……じゃあ」

「殺しだよ。俺がここにいることがその裏付けになってるだろ? このビルの四階で、男が一人殺された。そうか、万野原さんは遺体を見るのは初めてか」

「はい」

 机の下で、猫子がそっと私の手を握ってくれた。その小さな手を強く握り返しながら、目の前の男を見つめる。

「あまり長引かせるのも悪いから、手短かに説明しよう。被害に遭ったのは、快生教団の信者、泉町さとし。四十二歳。死因は詳しく解剖しなきゃ判らんだろうが、おそらくショック死だろう。彼は全身に重度のやけどを負った状態で発見された。両手足を縄のようなもので縛られていたんだ」

「生きながら焼き殺されたってことですか……ひどい」

「現場はこのビルの四階。玄関横の部屋だ。君も窓から見ただろう?」

「……はい」

「泉町は快生教団本部の幹部で、今日は入信説明セミナーの講師としてここへ来たそうだ。しかし、セミナーが始まる寸前になって、彼の行方が判らなくなったらしい。携帯にかけても通じない。部屋を捜してもどこにもいない。そうして焦った快生の連中は別の階まで捜索の手を広げた。そして上の階で焼け死んでいる泉町を発見したってわけだ」

「ここで重要なのが」猫子が割り込む「ことだよね」


 そういえば、あの時猫子は扉を開けようと試みたが、ガチャガチャと音が鳴るだけで扉は開かなかった。


「密室だったってことですか」

「ああ、いや、厳密に言うとそうじゃない」

「はあ。じゃあ、窓から入ったんですかね」

 私たちは玄関扉の横の窓を覗いて遺体を発見した。その窓から侵入したのだろうか。

矢立警部は手を振って、

「いや、それも違う。現場の窓は内側から鍵が掛かっていた。さらに付け加えると、玄関にも窓にも、外側から鍵を掛けられるような工作の痕跡はなかったし、現場の鍵は全て管理会社が保管している」

「それじゃあ、どうやって犯人は中に?」

「裏からさ。ビルの裏手には非常階段があり、そこに通じる扉が壊されていた。犯人は何らかの口実をつけて被害者を四階へ連れ出し、非常口から中に入ったんだ。そして泉町を火刑に処した。ここで重要になってくるのが下の階の人間の証言だ。ここの真下の税理士が証言するには、、と、こう言うんだな。彼は犯行があったとみられる時間帯、事務所の休憩室にいた。そして、その部屋の窓からは非常階段がよく見えるそうなんだな。緊急時でもない限り、そんなところを通る人間なんているはずがないから、もし誰かが通ったとしたら絶対に気づくはずだ、と」

「それはそうですね。その人の言ってることは正しいです」

「となると、だ。玄関や窓からは入れないしその痕跡もない。唯一の出入り口である非常階段は二階に見張りがいた……」

「犯人は三階から非常階段を上った。つまり、、ということですか」

「ブラボー」


 矢立警部は胸の前で軽快に拍手をした。


「そうとしか考えられん。当時このビルにいたのは三十四人のセミナー参加者と被害者を含めた八人の信者たちだ。参加者たちは向こうの会議室から一歩たりともこちらに入ってきていない。すなわち、泉町と共にセミナーの準備のためにやってきたG**支部の信者の中に、ホシはいる」

 ここで言葉を切って、矢立警部は深く椅子に座り直した。彼がここまでの情報を提供するということは、猫子に捜査協力を要請しているのと同義だ。しかし、今、私たちは全く別の依頼を解決するために全力を尽くさなければならない。


「ねこさん……」

「ああ、きーちゃんの言いたいことは判るさ。本来なら、あたしたちは快生相手に悪目立ちをしちゃいけない。でも

「どういうことですか?」

「矢立さん、彼を呼んできて」

 老警部が退室すると、猫子は真顔で囁いた。

「これは僥倖と言っていいのか。それとも運命の悪戯なのか。今回の依頼は本当に一筋縄じゃ行かないみたいだ。きーちゃん、これから何があっても表情に出しちゃいけないよ。ポーカーフェイスの自信がないなら、今すぐ出て行くんだ」

「はぁ、大丈夫だと思いますけど。たぶん」

「たぶんじゃダメ」

「大丈夫です、絶対」


 猫子の言葉の意味を理解できたのは、矢立警部が一人の男を伴って戻ってきてからだった。その男の登場に、私は再びパニックに陥りかけた。本当に次から次へと、事態はジェットコースターのように忙しく移り変わる。


「どうぞこちらへ」


 矢立警部が背中を押し、男は慎重な足取りで入ってきた。矢立警部は男が椅子に座るのを見届けると、軽く手を振って出て行った。

 室内に取り残された私たち三人は、しばらく無言の時間を過ごした。私は内心の動揺を悟られぬよう、目の間にいる男――夏目龍翔――を見据えた。

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