第六章 彼の最期は焼死
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店主に礼を言って店を出たのが午後十二時半。
一皿のスパゲッティと一杯のコーヒーですっかり長居してしまった。この店の客層は快生の信者が多いらしく、正午前あたりからそれらしい客が増え始めた。念のため、その客たちにも夏目龍翔について尋ねてみたが、心当たりのある者はいなかった。
呼び出したタクシーに乗り込み、目的地のビルへ向かう。
「皆さん、いい顔してましたね」
店に集まった信者たちは一様に輝かしい顔をしていて、心の底から人生を楽しんでいるように見受けられた。
「例の自殺騒動さえ除けば、さっきねこさんが言ったようにまっとうな宗教だと考えていいかもしれませんね。信者の人たちにとっても、自殺騒動は異端な考えみたいですから」
「それはどうかな。どちらが快生の本質なのか、あたしたちは知らないじゃないか。まだ信者でないあたしたちに入信を翻意させないためにしらばっくれてるだけかもよ」
「穿ち過ぎですよ」
「信者の自殺は事実としてある。それを教団が促しているのか、それとも信者の自由意志なのかはどうでもいい。問題は、夏目龍翔に自殺願望があるのかどうか。この一点だけさ」
「……あると思いますか?」
「あるだろうね。母親に連絡先すら教えてないのが何よりの証拠だろう。快い人生を送りたいだけなら、母親を遠ざける必要はないじゃないか」
「二人の間に何らかの確執があって、それで絵理華さんを避けているのかも」
「その辺りのことを夏目さんは何も話さなかった。夏目龍翔が快生教団という宗教にハマったきっかけとなる出来事があったはずなんだ。夏目さんはそれを意図的に話さなかったのか、それとも自覚していないだけなのか」
「とりあえず夏目さんに報告だけしときますか。龍翔さんの居場所が判ったって」
「まだしなくていいよ。捜査は緒に就いたばかりだし」
やがて私たちを乗せたタクシーは目的のビルへ到着した。
四階建ての真新しいビルだ。一階にラーメン屋、二階に税理士の事務所が入っており、セミナーが開催されるのは三階のようだった。最上階は空室のようで、テナント募集の張り紙が窓を埋めていた。
ビル横の階段を上り三階へ。やがて、「快生教団入会セミナー」と書かれた看板が目に入った。
「いよいよですね」
「ああ」
このような怪しげな集まりに参加するのは初めての経験だ。
緊張と暑さでかいた汗をハンカチで拭いながら、私は扉の脇に建てられた看板に改めて目を落とす。星が散りばめられた宇宙、その中央に二匹の白蛇が互いの尾を絡み合わせて睨みあっている。
扉は解放されていて、入るとすぐ受付があった。こちらの来訪を認めると、私とそう年齢の変わらない女が愛想よく出迎えてくれた。栗色の髪をポニーテールにし、赤いシャツを着ている。
「ようこそお越しくださいました。参加希望の方ですね」
「二人です、まだ席はありますか?」
「はいー、大丈夫ですよ。ではこちらの名簿にお名前と住所をお願いします」
女はそれ以外の感情を知らないとでもいうように、終始笑顔で応対した。それが快い人生を送っている証なのだろうか。それとも単に参加者に警戒されないために努めてそうしているのか、おそらくは後者だろう。
名簿には大勢の名前が記されていた。参加者は存外多いようだ。パンフレットを受け取って奥の部屋へ進む。
正方形の部屋に会議机がスクール形式で整然と並べられている。前の席はほとんど人で埋まっているが、後方――入り口側――は余裕があった。まだ人のいない机を選んで座った。
現在時刻は午後十二時五十五分。開始まであと五分だ。
「なんだか皆、暗い感じですね」
集まっている参加者たちは皆、表情が硬いというか、心に余裕がないというか、焦燥感に満ちた顔つきをしていた。彼らから滲み出た鉛のように重たい負のオーラが、室内に充満している。言葉を交わしている者はおらず、単調に響く空調機の稼働音が空気をいっそう沈んだものにしていた。
「宗教に救いを求めるのは、そのほとんどが、現実が上手いこといってないやつだから」
猫子は切り捨てるようにそう言うと、猫が何もないはずの空間をじっと見つめるようにブラインドの下りた窓を眺め始めた。隙間から斜めに差し込む陽射しが彼女のベージュの髪を照らす。
さわやかな配色のパンフレットを開きながら、私は開始時刻を待った。表紙をめくると、豊かな森林の風景が見開きで掲載されていた。下部にある説明文によると、S県にある本部の敷地内で撮られた写真らしい。木々のざわめきが聞こえてくるようだ。
(綺麗……)
次のページから快生教団の成り立ち、そして現在に至るまでの軌跡が綴られていた。最後の方は今現在教団に所属している信者たちのインタビューが顔写真付きで掲載されていた。内容はどれも同じようなもので、快生教団の教えがいかに素晴らしいか、入信してどれだけ自分の人生が快いものになったか、という点にスポットを当ててまとめられていた。
夏目龍翔のインタビューがないか探してみたが、それらしいものは見つからなかった。その代わり、先ほど会った受付係の女――名前は
(救われている人もいる……)
教義の真偽、そして社会的倫理観はともかくとして、快生教団の教えが苦しむ人の心を救い、生きる希望を与えているのは事実のようだ。己の幸せへの努力を惜しまない健全な思想と自死によって幸せな運命を固定する破滅的な思想、どちらがこの教団の真の顔なのだろう。
「ねえ、ねこさん――」
私の脳内では納得のいく答えが出なかったので、依然としてぼんやりしている猫子の肩を叩いた。真面目に聞いているのかいないのか、彼女は無表情のまま私の説明を聞いていた。
「それはきーちゃん、どちらも別に矛盾はしてないじゃないか」
「え?」
「だから、己の人生を幸せにするために必死で努力する、そして手に入れた幸せを自殺によって固定させる。その二つの思想は一つの線の延長線上にあるものだよ」
「じゃあこのインタビューを受けている人たちはいずれ自殺してしまうんでしょうか」
「さあね」
私ならどうするだろうか。
自分のヘアサロンを持って、カリスマ美容師になるという夢を叶えたあと、私の精神はどのような境地へたどり着くのだろう。ようやく手に入れた輝かしい栄光を失うことを恐れてしまうのか、それともさらなる高みを目指すのか……今のちっぽけな私には想像もつかない世界だ。
「それにしても、遅いね」
猫子は壁掛け時計を見やった。時刻は午後一時五分。開始時刻を五分過ぎてしまっている。
「そういえばそうですね。何かトラブルがあったのかも」
イベント事に五分や十分の遅れはつきものだ。打ち合わせが長引いているだけだろう。この時はそう思っていた。時計の針が粛々と動き続け、やがて何も起きないまま分針が半を通り過ぎた。
場がざわめいている。何人かが苛立ちながら立ち上がり、そのまま出て行った。当然だろう。散々待たされた挙句、何の連絡もないのだ。残された者たちも、訝しげに正面の隅にある扉を注視していた。
「ねぇ、ねこさん。変じゃないですか」
猫子は顎に手を当てたまま、開く気配のない扉を見据えている。再び数人がしびれを切らして退室していった。
二の腕に手をやると、なぜか肌が粟立っていた。冷房が十分に効いているはずなのに、粘性のある汗がじわりと吹き出す。胸騒ぎが収まらなかった。
参加者たちのボルテージが頂点に達しかけた時、ようやく、一人の男が扉から出てきた。しかし、彼はこちらに目もくれず、一目散に入り口の方へ駆け出した。彼の背中に野次が飛ぶ。
彼が出てきた扉の方へ目を向けると、数人の男女が戸口に立っていた。彼らは一様に思いつめた表情をしている。
「おい、いつまで待たせるんだ」
「どうなってるの?」
参加者たちが思い思いに感情を爆発させる。非難轟々の中、扉の向こうにいた教団員の一人が正面のホワイトボードの前に立ち、一同をなだめ始めた。
「大変申し訳ありません。皆さん、落ち着いてください。もうしばらくお待ちください。ただいま――」
その時、ひきつった悲鳴がどこからか聞こえてきた。それは雷鳴のように轟き、一瞬で場は鎮まった。
皆、何が起きたのか判らないようだった。私にも判らない。ただ言えることは、どこからか女の悲鳴が聞こえてきたということだけである。
「行くよ、きーちゃん」
猫子は弾かれたように椅子から飛び降りると、入り口の方へ走り出す。
「えっ、え?」
私もいくばくかの間をおいて探偵のあとを追う。
受付に山宮春香の姿はなかった。
「ねこさん、どこに行くんですか?」
「声は上から聞こえた」
段を飛ばしながら階段を駆け上がる。
最上階に着くと、山宮と最初に飛び出てきた男が立ち尽くしていた。
「どう、されました?」
息を整えながら、私たちは彼らに接触した。山宮は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしている。男は青ざめた顔のまま、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
「な、中で、
「何かあったんですね、この先で」
最上階はテナントが入っていない。無人のはずだ。猫子が扉に飛びついたが、扉は鍵が掛かっており、入ることはできそうにない。男は悪心をせき止めるように口元を手で押さえ、もう片方の手を扉の右横の窓へ向けた。長方形の窓でカーテンもなく、ブラインドも下りていない。
猫子は足音を立てずにその窓に寄ると、そっと中の様子を窺った。
「これは……」
「何、何です」
「あ、いや、見ない方がいいって」
「気になりますもん」
私は猫子の背後に歩み寄り、彼女の頭越しに室内を覗いた。薄暗い部屋の中央に、何か茶色い塊がある。それは意外と大きく、横に長い。
私は最初、それが焼け焦げた丸太に見えた。しかし、その物体を凝視し続けると、その丸太が人間のような形をしているが判った。
「あ……あ……」
それは丸太ではなかった。
ちりちりになった頭髪。
熱によって変色した皮膚。
それは、私の視界にあるそれは――
「いやああああああああああ」
焼けた人間の死体だった。
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