第五章  スタートは上々

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 車窓の向こうを夏の景色がゆっくりと流れていく。雲一つない青空に満開のひまわり畑。麦わら帽子をかぶった老人と目が合った。やがて、駅を出発した列車は次第にその速度を上げていく。


 八月四日、午前十時。


 私と猫子は列車に揺られながら隣町であるG**市を目指していた。猫子は涼しげな白いワンピースを少女のように着こなし、退屈そうに背もたれに体を預けている。

 ボックス席に向かい合って座っていると、これから友人と旅行に行くような錯覚に陥る。窓の下に取り付けられたささやかなテーブルにスナック菓子を広げている様も、そのような雰囲気を増幅させるのに一役買っている。

 が、私たちは遊びに来ているわけではない。


「きーちゃん、何時からだっけ」

「午後一時です」


 あれから、私たちは本格的に快生教団の情報収集にあたった。自分の目で物事を調べてみると、どれだけマスコミが恣意的な報道をしているのかがよく判った。


 快生教団は二十年前に月ヶ瀬日絵という女が立ち上げた〈真理者ニーチェの会〉という哲学組織が母体となっている。

 主な活動内容はニーチェの思想の啓蒙と宇宙、そして世界の意味についての探求だった。客観的に見ても胡散臭い団体ではあるが、日絵はその活動の中でのちの教団の基礎となる〈真理〉を理解し、永劫回帰の思想でいうところの、超人――無限に続く人生を肯定する者――として覚醒したという。

 こうして〈真理〉を獲得した日絵はその素晴らしい教えを俗世に生きる者たちに広めるため、宗教法人日本快生教団を設立した。


 快生教団の本部は、東海はS県の北東部にあり、支部は全国三か所に置かれている。その内の一つが、今私たちが向かっているG**市にあるのだが、今日の目的は支部に乗り込むことではない。いきなり訪ねても門前払いを食らうだけだろうし、夏目龍翔がその支部にいるという保証もない。

 ではなぜわざわざ列車に乗ってまで向かうのかというと、今日、その町のとあるビルで、快生の入信案内セミナーが開催されるのだ。それに参加して入信のための手続きを行い、快生の懐に潜り込もうという算段である。

 あくまで依頼のための形だけの入信であり、私たちは快生の教義に興味などないことをお断りしておく。


 最優先事項は夏目龍翔との接触である。


 その龍翔本人がどの支部にいるのかは依然として判らない。運よく彼のいる支部もしくは本部を引き当てられれば良いのだが、こればかりは運任せだ。

 もし駄目なら、引っ越しする、と適当な理由をつけて別の支部に転属させてもらう。そして再び龍翔を捜す。

 二つの駅を通り過ぎ、やがて私たちを乗せた列車は目的地に到着した。


 時刻は午前十時半。


 ホームに降りると、でかでかとした快生教団の広告看板が目に入った。沈みゆく夕日を背景に、恋人と思われる男女が手を繋いでいる写真が引き伸ばされている。右下に快生教団の文字と〈あなただけの、快い人生を〉というキャッチコピーが見えた。


「いい写真じゃないか。あたしたちが思っているほど、悪い宗教じゃないかもしれないね」

 そんなことを言いながら、猫子は腰をかがめて看板の左下にあるアクセスマップを見た。セミナーが開催されるビルは駅から徒歩で十分ほどの距離にある。少し早く到着し過ぎてしまったようだ。

「どこかで時間を潰しましょうか。早めのお昼でも食べに行きませんか?」

「そうしようか」

 ロータリーでタクシーを拾う。

 運転手は気のよさそうな壮年の男だった。

 この辺りの地理には疎いので、おすすめの食事処を教えてもらい、そこに向かうことにした。二十分ほど車に揺られ、到着したのはロッジ風の洒落た喫茶店だった。陽射しが差し込むオープンテラスは実に気持ちがよさそうだ。ランチタイムにはまだ少しだけ時間があるせいか、客足は少なかった。

 奥行きのある店内には四つのテーブル席とカウンター席があった。私はテラスの席に行きたかったのだが、猫子が無言でカウンターに向かったため、仕方なくついて行った。


「ご注文は?」


 カウンターの奥から現れた店主は、まるで童話の世界から抜け出してきたかのような大男だった。ゴリラと熊を掛け合わせ、虎に育てさせたらこうなるのではないか、というほど無骨で恐ろしい風貌をしていた。しかし怖いのは見た目だけで、物腰は柔らかく、強面を崩して浮かべる笑みはほがらかだった。

 人気メニューのたらこスパゲッティとアイスコーヒーを二人分注文し、店主がキッチンに消えると私はさりげなく店内を見渡した。


「……ねこさん」

「うん、気づいてるよ。とんでもない偶然だけど、この店は快生の人間が経営しているようだね」


 店内のそこかしこに、快生の文字が入ったポスターやら写真やらが飾られていた。駅で見た広告をポスターサイズに縮小したものもある。カウンターの向かいの壁には荘厳な額縁に収まった、教祖である月ヶ瀬日絵のバストショットが掛けられていた。

 セピア色に変色した被写体は、若かりし頃の日絵である。射貫くような鋭い視線、肩で切り揃えた黒髪。棘がありながらも、その表情そして美しさは他者を惹きつけるには十分すぎるほど魅力的だった。


 現在、月ヶ瀬日絵が公の場に姿を見せることはほとんどなく、本殿があるS県の山中に籠っているという。年に数度、教団の公務のために各支部を訪れる以外に、彼女の姿をその眼に収める機会はない。

 また、その際写真を撮影することも禁じられているそうだ。世間に出回っている写真も過去のものしかないため、今現在の日絵がどのように年老いたのか、それは信者しか確認できない。


「気になりますか?」

「え、おわぁっ」

 気がつくと、店の主人がたらこスパゲッティを両手に、目の前で仁王立ちしていた。

「あ、ありがとうございます。えっと、この店って」

「店主さんも快生の信者なんですか?」

 料理を受け取りながら、猫子は何気ないふうを装って尋ねた。

「ええ、家族一同、己の人生を素晴らしいものにすべく日々尽力しています」

「この町は信者さんが多いんですかね?」


 器用にスパゲッティを巻きながら猫子は続ける。彼女はこの巨漢に全く臆していない。店が空いているからか、店主はこちらの話に乗ってくれるようだった。なるほど、カウンター席を選んだのは世間話を装って快生の情報収集をするためだったのか。


「そうですね、まあ支部がありますから、よその地域よりかは信仰が盛んでしょうか。快生は地域密着を目的に毎年寄付金を役所や地元の介護施設に送っているので、偏見のまなざしで見られることもほとんどありません。マスコミが報道するような異常なカルト集団ではないのです」

「じゃあ、あの自殺騒動っていうのは快生の主導じゃないんですか」

「当然です。我々の目的は永遠に続く人生を快く生きることですから。しかし、自殺していった者たちの気持ちも判ります。彼らの多くは、苦渋に満ちた人生を送り、泥を啜って生きてきたのです。そこからの救いを快生に求めたのでしょう」


 信者同士でも、教義の解釈に違いがあるようだ。


「実はあたしたち、快生教団に入信しようと思って来たんです。駅前のビルで今日の一時からセミナーがあるみたいなんで、まずはそれに参加しようかなって」

 本格的に店主から情報を引き出すことに決めたようだ。大柄な店主は怪しむようなそぶりを見せないまま、快生教団への入信を希望する美少女二人組、という私たちの設定を信じてくれたらしい。

「ああ、そうだったのですか」店主はいっそう表情を緩めて「見たところお若いようですが」

「二人とも成人してます」

 私はしてないが。

「まあ人それぞれ事情がありますからねぇ。いいでしょう、何でも訊いてください」


 話を聞いてみると、店主は相当信心深い快生の教徒であることが判った。

 毎月、支部で行われる定例集会には家族を連れて必ず出席し、数年前に月ヶ瀬日絵に直に会ったことを何よりの誇りとしていた。しかしながら、快生についての情報は既知のものばかりで、事前に下調べしたもの以上の新たな情報は得られなかった。


「お嬢ちゃんたちは地元の子かい? 支部には宿舎もあるからね。定員はあるが、空きがあれば無料で入れるよ。新しい宿舎も建設中だし」

 だんだんと砕けた話し方になってきた。若い信者が増えることが嬉しいようだ。

「無料とは太っ腹ですね」

「信者の生活向上が快い人生の第一歩ですから。お布施も献金もほとんど取りませんよ。わけの判らん祭壇や本当にご利益があるのかも疑わしい仏像を無理やり買わせる、金儲けを目的としたカルトとは違うのです。まあ、自由意志で教団の維持費を援助する者もいますがね」


 教団の資金源については諸説あり、暴力団と繋がってるだの、理不尽なお布施を強制しているだの、教徒を自殺させてるのは実は多額の保険金目当てだの、根拠のない憶測が世間を賑わせている。


「ところで、ご主人、この人を知りませんか」


 猫子はバッグから夏目龍翔の写真をさりげなく取り出すと、カウンターに滑らせた。

 店主は腰を折ってまじまじと写真を見つめると、初めて不審な表情を顔に出してこちらを見返した。


「この方は?」


 さすがに「彼を翻意させるために快生に潜入するのだ」とは言えない。猫子はさりげないそぶりで耳にかかった髪をかき上げ、小さくため息をついた。


「実は、その、不潔なことかもしれませんが、あたし、彼に恋をしているんです」

 は?

「ほう」


 おいおい、それは悪手ではないだろうか。

 私は内心の動揺を悟られないように気を引き締めた。不純な動機で入信を希望する節度のない女だと思われたら、店主伝いに教団に連絡が行き、マークされるかもしれないではないか。


「いつだったか、夜道を歩いていたら悪漢に襲われたんです。店長さんよりも背の高い大男で、手には釘を打ったバットを持っていました。あたし、怖くって怖くって、足がすくんでしまったんです。もう駄目だって覚悟を決めた時、この人が助けてくれて……」


 よくここまで即興でうそぶくことができるものだ。私は素直に感心しつつ、横目で店主の反応を窺った。色々と突っ込みどころがある猫子の作り話を、彼は真面目くさった顔で聞いている。


「この写真は後日、お礼をした時に撮らせていただきました。本当に心優しい方で、あたしはすっかり心を奪われてしまったんです。その後も何度かお会いする機会がありましたが、最近はめっきりで……彼、教団の活動に忙しいみたいです。それで、あたしも快生教団に興味を持ちまして、昔から宗教にはあまりいいイメージを持ってなかったんですけど、己の人生を素晴らしいものにするために努力を惜しむな、という快生教団の理念に感動して――」


 店主と猫子の間に湿っぽい空気が流れ始めた。目尻にうっすらと涙を浮かべた大男は、時おりその太い指で雫を拭い、言葉を詰まらせるように低い嗚咽を漏らしていた。

 なんとまあ単純な男なのだろう。

 猫子の話が一段落ついても、店主が落ち着くまで時間があった。ようやく話ができる状態になってから、猫子は本題に入った。


「それでですね、この方がG**市の支部にいるのかどうかを知りたいんですけど」

「ああ、それなら、何度か支部の本堂で見かけたことがあるなぁ。おそらくG**支部の者でしょう」

「本当ですか?」

 私は心の中でガッツポーズをした。

「名前までは判らんが、たしかに快生教団G**支部の信者です。間違いない」

 大当たりだ。

 猫子は顔を伏せ、含み笑いをしながらこちらに目配せをした。彼女もここまで上手く事が運ぶとは想像もしていなかっただろう。

「それと、たぶん彼は支部内の宿舎に住んでいると思いますよ。以前、集会のあとで宿舎の方へ歩いていく姿を見かけましたから。でも知ってるのはそこまで。すれ違えば会釈くらいはするが、それほど親しくしているわけではないのでね。いるでしょう? お二人にもそういう微妙な関係の人間が」

「ええ、それが人間関係というものです」


 夏目龍翔の名前すら知らない店主からここまでの情報を引き出すことができたのだから、上々の出来だろう。幸先のいいスタートを切れた。これならば、今回の依頼は案外スムーズに進むかもしれない。

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