第四章 永遠とは何か
1
「日本は憲法で信教の自由が保障されていますからねぇ。信者の自殺騒動を自殺幇助や自殺教唆として立件して問題にすることも厳しいでしょう。それに息子さんは成人だし……きーちゃん、その信者たちの自殺はどんなふうに報道されていたのかな?」
「えっと、主に取り上げられていたのは私と同じくらい若い人の自殺ばっかりでした。そこからなぜか将来を悲観する若者の問題に論点がすり替わって、『若者が未来に希望を持てない政府が悪い』といった感じにまとまっていましたね」
「マスコミなんてそんなもんさ」
「快生の幹部が取材に応じる一幕もありましたけど、教団側が信者に自殺を促すことはない、の一点張りでした」
実態はともかくとして、教団の立場としてはそう答えるほかないだろう。
「今年だけでも、すでに三十五人の信者が自殺しているそうです」
「難しい問題だねぇ」
まるで他人事のように猫子は呟いた。
「宗教の絡んだ問題で一番面倒なのが当事者の価値観なんだよね。一度何かを信じることを経験した人間は、それを何よりの拠り所としてしまう。教義に筋が通っているとか、屁理屈だとかは関係ないんだ。いくら他人が論理的な筋道を立てて説得をしても、彼らには愚者の世迷言にしか聞こえないだろうね。厄介な話です。空飛ぶスパゲッティ・モンスターを信仰する皮肉屋集団ならそこそこ話は通じるだろうけど」
私の直感が告げていた。
猫子はこの依頼を受けないだろう、と。
彼女の依頼解決率はたしかに百パーセントではあるが、受諾率は比較できるほど高くはないのだ。
むしろ低いといっていい。
彼女を頼って遠路はるばるやってきた依頼人たちの悲痛な背中を私は何度も目にしている。
要は、解決の見込みがある依頼にしか食指が動かないのである。非情と思われるかもしれないが、解決の見込みがない依頼に時間を割くことは猫子にとって時間の無駄でしかないし、依頼人にとっても金をドブに捨てるだけの結果に終わってしまう。
見方によっては、猫子は限りなく温情味のある合理主義者であると言える。
絵理華は唇をぎゅっと結んで顔を伏せている。可哀そうだとは思うが、仕方ないだろう。快生に入信したからといって、龍翔が自殺すると決まったわけではない。
「いいでしょう」
「え?」
猫子の明瞭な声が室内に響いた。依頼人は顔を上げる。
「お受けしましょう。龍翔さんは私が必ずあなたの前に引きずり出して見せます」
「ほ、本当ですか?」
歓喜の表情を浮かべる絵理華の前で、私はひどく困惑した表情を作っていたことだろう。まさかこの依頼を猫子が受けるとは思ってもみなかった。彼女の言うように、宗教にかぶれた人間を改心させるのは相当な労力を必要とするはず。
「ありがとうございます。どうか、どうか、愚息のことを……」
涙で滲んだ目尻にハンカチを押し当て、絵理華は深く頭を下げた。その後、報酬や具体的な日程の打ち合わせを行った。猫子はいつになくやる気を見せていて、それが私には不可解だった。いったい何が彼女の心を動かしたのだろう。
絵理華は正午前に帰っていった。貴婦人の残り香が漂う室内に、私と猫子だけが取り残される。
2
「珍しいですね」
「ん、何が?」
ソファーに横たわったまま猫子はすっとぼけたような顔を向ける。
「ねこさんって、仕事を選ぶタイプの人じゃないですか。完璧主義っていうか、解決できそうにない依頼は絶対に受けない感じの」
「そりゃ、あんた、できないことをぐだぐだとやるのは無駄だからね」
「でも今回の依頼もそうじゃないですか? ねこさん自分で言ってたじゃないですか。宗教絡みの問題は厄介だって。解決の目途がもう立ってるんですか?」
「……猫は気まぐれなのさ」
「それ、自分で言います?」
猫子は跳ねるように飛び起きると、窓辺に立って外を眺め始めた。受けた依頼は完璧にこなす猫子ではあるが、今回ばかりは分が悪いのではないか、というのが私の所見だ。なにしろあの「快生」が相手なのだから。
セミの声が窓ガラス越しに聞こえてくる。裏の空き地に数人の老人が集まってゲートボールの準備を始めていた。熱中症にならなければいいが。
「とりあえずご飯にしようか」
外の階段を下りて、夏の日差しから逃れるように〈ジャイロ〉へ駆け込んだ。ダンディなマスターに本日二度目の挨拶をし、窓際の席に落ち着いた。軽快なポップスが流れる店内はほぼ満席だった。
アスファルトの上をふらふらと歩くサラリーマンや、短パンの少年たちが窓を横切っていく。猫子は道路を挟んだ通りを歩く女児と母の親子連れを眺めていた。ほどなくして女性のウェイターが注文を取りに来た。私たちはコーヒーとランチセットを注文した。
「ところできーちゃん、ニーチェの永劫回帰についてはどれくらい知ってるの?」
注文した料理が運ばれてくるなり、突然猫子はそう切り出した。
「ニーチェって哲学者ですよね。さっきは快生教団の説明のために偉ぶって講釈を垂れましたけど、実はほとんどテレビの受け売りなんです」
「じゃあ軽く教えてあげようかな。あたしなりの解釈だけど。いいかい、そもそも永劫回帰という思想はなにも同じ人間に生まれ変わるとか、そういうお話じゃないんだ。全く同じものが無限に繰り返される、ただのそれだけ」
「はぁ」
何が違うんだろう?
「前提として無限の時間と有限の物質を認めて欲しい。無限の時間の中で、有限である物質は誕生と消滅を繰り返す。その中で、物質の組み合わせ――すなわち世界が全く同じ構成で誕生する可能性はゼロではないはず。物質の構成が全く同じであるなら、それは同じ物として認められ、物が同じならば、それは同じ動きをし、そして同じ結末を辿る……つまり、同じ人生となる、と、こういうわけだね」
「ふぅん……ってことはそれって、正確に言うと生まれ変わりではなく、同じ人間が無限に誕生し続けるってことですか?」
「そういうことだね。快生の人間はこの無限に繰り返されることに救いを見い出しているようだけど、それは全く無価値なものなんだ。同じ人生が寸分の狂いもなく、無限に繰り返されるのなら、いくら頑張ろうが努力しようが意味がないだろう。己の人生の全ては細部に至るまで、すでに決定されているのだから」
「はぁ」
「ちゃんと聞いてるかい? ここからが肝だよ。努力すらも織り込み済みの、ベルトコンベアの上を流れていくだけの人生に絶望するか、それとも底なしの精神力で肯定できるか。強い生への意志の表れこそが、この思想の真の目的である、とあたしは思うな」
「でも、教団の信者さん本人にとっては、幸せな時間が無限に続くと信じられるから、幸せなことなんじゃないですか?」
「そう考えることができる人間は幸せだね。それはそれで一つの答えだと思うよ。快生の基礎を築いた人間はかなり頭の切れるやつだ。実際問題として、死後、人間がどうなるかなんて誰にも判らないのに、自殺を決意させるだけの説得力を信者に刷り込んでいる」
猫子は言葉を切って、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
快生の教義の真髄が信者の自殺幇助にあるとは確定していないけれど、一部の信者の間でそのような破滅願望が行動に移されていることは事実だ。
そもそも夏目龍翔はどのような決意を胸に快生教団に入信したのだろうか。信者と一口に言っても、流行りの宗教にかぶれただけの者もいるだろう。彼だってそうかもしれない。絵理華と連絡を取らないのは、母親に近況を伝えることに照れ臭さを感じているだけなのではないか? そういうのは若者にはよくあることだ。
そんなふうに私が無責任な想像をしている前で、猫子はコーヒーのおかわりを頼んでいた。
「これからどう手を打っていくんですか?」
「やるべきことはいっぱいあるけど、とりあえず快生教団について一から調べることにするよ。幸い、他の依頼はもう片付いてるし、あとは報告書をまとめるだけだからね。きーちゃん、学校はいつまで?」
「えっと、たしか八月の三日から二週間くらい夏休みです」
「予定はもう埋まってる?」
「フリーですけど……彼氏ができれば海に行くかもしれませんねぇ。あ、ディズニーシーもいいな」
「よし、完全フリーだね」
失礼な。
「さて、どうやって夏目龍翔と接触しようか……」
二杯目のコーヒーを飲みながら、猫子は眉をひそめた。渋さの光る動作も、彼女がやれば可愛くなる。背伸びして喫茶店にやってきた中学生のようだ。
「今回のねこさんは気合が入って見えます」
「あたしはいつだって気合十分さ」
「でも、なんだか闘志がみなぎってるようにも見えますよ」
食後にチョコレートパフェを食べ、マスターに挨拶をしてから外へ出た。すると、待ち構えていたようにアスファルトの強烈な照り返しが私たちを襲った。今日の外気温は三十二度もあるそうだ。むわっとした空気が発汗を促す。夏の街並みは陽炎のようにぼやけて見えた。
「暑いね」
猫子が低いトーンで言った。化け猫も暑さには弱いようだ。
「ええ」
「早く戻ろう。この暑さじゃせっかくのチョコパフェがリバースしちゃうよ」
この時、私は自分があのような惨たらしい事件に巻き込まれることになるとは想像もしていなかった。いつものように猫子が軽快な仕事ぶりを発揮し、夏目龍翔は無事に絵理華の許へ引き戻されるのだろう、と楽観的に考えていた。
セミの声が風に乗ってやってくる。
薄着の子供たちが私たちの前を駆け抜けていった。
猫子の背中を追いながら階段を上る。
こうして、快生教団を巡る夏が幕を開けた。
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