第三章 母と子
1
キッチンから麦茶と菓子を手に戻ってみると、探偵と依頼人は無言のままガラステーブルを挟んでいた。
絵理華は細い手を膝の上で組み、斜め下に視線を落としている。その思い詰めた表情から彼女の依頼の深刻さが窺えた。
先ほどは気づかなかったが、よく観察してみると彼女が妙齢の女性であることが判った。目じりや首元に細かいしわが刻まれている。ほっそりとした指をいじりながら深い呼吸を繰り返していた。
人の情を誘うような儚さをまとった絵理華と気まぐれな化け猫探偵。
その様相はまさに対照的だった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は皿と麦茶の入ったコップをテーブルに置き、猫子の隣に座った。絵理華はなまめかしい手つきでコップを握ると、緊張をほぐすように一口飲んだ。
「さてさて夏目さん、本日はどのようなご依頼で?」
猫子が無邪気な声で水を向けると、貴婦人はようやく重たい口を開いた。
「息子を、取り戻してほしいのです」
「と言うと?」
誘拐事件だろうか。それならまず警察に連絡をするのが正しいものの順序だが。猫子は小さな背中を丸めて目の前の淑女を見据えた。
「百合川さんはとても優秀な探偵であると、知人から伺いました。それを見込んでのお頼みでございます。なんでも、どんな難事件でも百パーセント解決するとか」
「それは誇張しすぎですよ。あたしにもできることとできないことがあります。ただの人間ですから」
その後も絵理華は長ったらしい前置きをくどくどと並べ、本題に入ったのは話し始めて五分ほど経ってからだった。彼女はハンドバッグから一枚の写真を取り出し、滑らせるようにして卓上に置いた。
「息子の
私と猫子は身を乗り出して写真を覗き込んだ。濃い顔立ちの青年がそこには写っていた。よく焼けた肌にスポーツ刈りが似合っている。白い歯を見せ、快活な笑顔をこちらに向けていた。
(こんなに大きな息子さんがいるなんて)
私は内心の驚きを顔に出さぬよう、そろりと目の前の婦人を盗み見た。たしかに、写真の中の青年には絵理華の面影があるような、いや、ないような……
「恥ずかしながら、愚息はとある新興宗教にかぶれて家を飛び出してしまったのです。ほとんど連絡をよこさず、どこで何をしているのかも定かではありません」
「宗教、ですか?」
「はい。どうか、息子を連れ戻してはいただけないでしょうか」
猫子は眉をひそめて、
「息子さんは成人していらっしゃいますか?」
「はい、今年で二十七になります」
「ふむ、でしたらね、夏目さん。息子さんも子供じゃあないのですから、子供の生き方に親が必要以上に干渉するというのはかえってよくないことですよ」
猫子は諭すような口調で言った。
「しかし、しかし」絵理華は目に涙をにじませながら「命に関わることなのです。あの子は、龍翔は死ぬつもりなのです。ああ、なんて馬鹿なことを……」
ヒステリックな声を上げ、絵理華は身をよじった。
「落ち着いてください、夏目さん。今、なんと仰いました? 死ぬ、とはどういうことですか」
話が思わぬ方向に転がり始めた。さすがの猫子も慎重な態度になった。なんとか絵理華を落ち着かせ、話の全貌を訊き出す。
「快生教団、という組織をご存知でしょうか。快い人生と書いて、快生です」
カイセイ、という音の響きが私の記憶を刺激する。どこかで聞いたことがあるぞ。それも、つい最近耳にしたような……カイセイキョウダン、快生教団――
「あっ、もしかして、あの快生ですか」
思い当たるのは一つしかなかった。日本中を騒がせたあの宗教団体のことに違いない。絵理華は頷いた。
「あたしは初耳なんだけど、きーちゃん、知ってるの?」
猫子は不思議そうに首を傾げた。
「いやいや、むしろどうして知らないんですか、ねこさん。快生といえば、自殺騒動で有名になったあの宗教団体ですよ。ニュースとか見てます?」
「むっ、見るけど?」
(絶対見てないな)
どうもこの探偵は知識に偏りがある。このままでは話がスムーズに進まないので、私は一般的見地から見た快生教団について説明をしてやった。
正式名称を日本快生教団といい、快い人生の実現を目的とした宗教法人である。他の著名な宗教とは違い、神への崇拝や信仰はなく、よりどころとすべき主も存在しない。
あえて彼らの信仰対象を言語化するなら、それは〝己の人生そのもの〟である。その教義の根底にあるのはニーチェの唱えた永劫回帰の考えだった。
人は同じ人生を永遠に繰り返す。ならば、幸福な一生を送ることで、人は永遠に幸福の中で生きていくことができる。天国も地獄も存在しない。人はひたすら同じ人生を無限に繰り返していくのだから。
「素晴らしい教えじゃないか。つまり、自分が幸せになるために努力を惜しむな、ということでしょ? 同じ人生が無限にループするなら、楽しい人生の方がいいもんね。それがどうして死だの自殺だの、不穏な単語に繋がるのかな。あたしには理解できない」
「うわべだけ切り取って見れば、ねこさんの言う通りなんですけどね。永遠に繰り返す、ということはつまり辛く、苦しい体験もまた同じように繰り返されるわけです。例えば、事故に遭ってとてつもない苦痛に見舞われたり、非道な人間に精神的に追い詰められたり、愛する人と死別したり、といった不幸が一度でも起きてしまえば、それは人生の中に固定されてしまうわけです」
二十歳で交通事故に巻き込まれ、両足を切断するほどの大けがを負った男がいたとしよう。快生教団の教義に当てはめると、彼は死後、同じ人間としてこの世に生を受け、全く同じ人生を辿る。意識、行動に一切のぶれは生じない。彼は二十歳を迎えるたびに交通事故で足を失うのだ。
「なるほど、判りかけてきたよ。つまり、彼らは幸福な人生であると自己認識した時点で死ぬことにより、自分の人生にそれ以上の苦痛を持ち込まないようにするわけか。彼らの教義によれば、死によって運命は確実に固定されるのだから」
「そう、それが問題になってくるんですよ。教徒たちはそれぞれ思い思いに好きなことだけをやって、夏の虫みたいに潔く死んでいくんです。財力的な問題でそれができない教徒には教団が援助をすることもあるみたいで」
そうして人生の絶頂に達した教徒は、自らの手でその人生に幕を下ろすのだ。厄介なことは、彼らが死に対して微塵も恐怖を感じない点である。彼らが唯一恐れるのは、自分たちの幸福な人生に泥を塗る苦痛だけ。
「幸福な人生を夢見る殉教者たちの死が、最近になって明るみに出てきたわけか」
「龍翔が、自殺してしまう前に、なんとかあの子を連れ出していただきたいんです。警察や弁護士の方にも相談しましたけれど、実害がない以上、動くことはできないそうです。お願いします、どうか、お願いします」
絵理華の声にはたしかな焦燥が感じられた。
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