第二章  猫と桔梗と貴婦人

 1


「ねこさん、おはようございます」


 奇抜な入り口とは打って変わって、内装はごく普通の応接間、といった感じである。入ってすぐのところにふっくらとしたソファセットとガラステーブルが置かれている。床は一面に白と黒のタイルが敷かれ、チェス盤のような市松模様を描いていた。


「ねこさーん?」


 部屋の最奥には天然木素材のデスクがあり、その向こう、北側に面した窓辺に一人の女性が立っていた。こちらに背を向け、窓の外を見やっている。腰の後ろで組んだ手は落ち着きなく動いており、仔犬がじゃれ合っているようにも見えた。


「何をしているんですか?」


 私は彼女の隣に立ち、その視線を追った。

 このビルの裏手は空地となっており、この時間帯は市内の幼稚園バスの停留所として使われている。世代の異なる数人のお母さんたちと園児たち――ほとんどが女の子だった――が送迎バスを待っているところだった。

 やがて虎をモチーフにした黄色いバスが現れ、園児たちを乗せて走り去っていった。その時になってようやく彼女は私の存在に気づいたようで、「あら、おはよう」と言った。


「また子供を視姦してたんですか? やめた方がいいですよ。いつか通報されます」

 私が冷ややかに言うと、覗き趣味の探偵は小さく首を振って、

「きーちゃん、視姦というのは相手側に見られているという意識がある場合に使うべき表現だよ」

 と言って不敵な笑みを漏らした。


「じゃあ覗き魔ですね」

「ここは屋内だよ?」

 ああ言えばこう言う。

「軽犯罪法における窃視の罪は衣服を身に着けない場所をひそかに覗き見る行為を指すのだから、あたしのやっていることを咎めることは誰にもできないのだよ。あたしはただこうやって、微笑ましい母娘の語らいで目を和ませているだけ」

「いや、そんなこと真面目に語られても困りますよ。いいですか、女だからって大丈夫って理論は現代では通用しませんからね。女性の性犯罪者だって多いし、私は心配です」


 私は呆れながら目の前の探偵を見下ろした。

 彼女こそ、この探偵事務所の主、百合川猫子ねここその人である。肩まで伸びたベージュ色の髪におしろいを塗りたくったような真っ白な肌。顔立ちは幼く、中学生、いや小学生と紹介してもほとんどの人が信じるであろう犯罪的な容姿をしている。

 背は低く、私より頭一つ分小さい。

 猫のように掴みどころのない性格に加え、成長が止まったとしか思えない子供のような容姿。化け猫、という言葉こそ、彼女を最も的確に表す言葉だろうと私は考える。

 自分のことは語りたがらず、年齢や出自すら人前で話すところを見たことがない。もちろん私も彼女の過去については何も知らない。ほのめかすことすらしないので、過去に何かあったのだろうな、と勝手な想像をしているだけである。


 そんな猫子について私が知っていることといえば、ロリコンであるということと、彼女が創作の世界で活躍するような優秀な探偵だということくらいである。

 年齢不詳。少なくとも、数週間前に運転免許の更新に行ったと話していたから、成人ではあるようだが……


 私が百合川探偵事務所で助手として働き始めて四か月近く経ったが、その間、猫子の許には様々な依頼が飛び込んできた。その多くは人の死に関連する事件性のあるものばかりで、K県警の刑事が殺人事件の捜査協力を求めてやってくることもあった。

 警察と探偵が力を合わせて捜査をするなど、昨今のサスペンスドラマでも珍しいことである。猫子曰く、「県警には友達がいる」のだそうだ。さらに驚くべきはその解決率である。彼女は受けた依頼を百パーセントの確率で解決に導くのだ。


「今日も依頼人がお見えになるんですよね」

「うん、だからお掃除しといてくれるかな。十時にこっちに来るそうだから。あたしはそれまでにシャワーに入ってくるよ」


 そう言って猫子は右手の扉の奥に消えてしまった。その先には寝室と浴室があり、そこが彼女の生活スペースとなっている。

 私は隅のロッカーから掃除機を取り出し、命じられた仕事に取り掛かった。


 2


 掃除が終わったタイミングで猫子が戻ってきた。濡れそぼった髪にタオルを当てながら、窓辺の机から椅子を引き、腰を下ろす。室内はあっという間に彼女のシャンプーの残り香で満たされた。

 時刻は午前九時半。

 私はキッチンに向かい、依頼人に出すお茶と茶菓子の準備を始めた。冷蔵庫に麦茶があることを確認すると、棚から数種類の菓子を取り出し、皿に盛った。あとは依頼人が来るのを待つだけだ。

 応接間に戻ると、猫子がつまらなそうな顔をしてテレビを観ていた。帯のワイドショーだ。

 私がソファーに座ると、彼女は私の隣に移動し、主人にじゃれつく猫のように寄り掛かってきた。シャワーを浴びたせいか、いつもより猫子の体温が高い。


「ねこさん、暑いです。ほかほかしてます」

「ん、クーラー下げる?」

「そうじゃないです」


 触れ合っている部分に猫子の体温を感じる。汗っかきな私にとって、人とのスキンシップは恐怖以外の何物でもなかった。

 汗臭いと思われたらどうしよう、という考えが脅迫的なまでに私の行動を制限していたのだ。おかげで彼氏ができたこともない。


「そういえばねこさんって、彼氏いたことあるんですか?」

 さりげなく訊いてみた。いくら幼い少女が好きといっても、恋愛の経験くらいはあるだろう。彼女のような童顔は男受けもいいはずだ。

「男は嫌いなの」

「あ、そう」

「理由は聞かないの?」

「聞かなくても判ります」


 どうやら彼女は筋金入りのロリコンのようだ。

 まもなくして、インターホンが鳴った。

 約束の時刻の五分前だ。


「いらっしゃいましたね。さあ、ねこさん離れてください」

「あう」


 私はもたれている猫子を乱暴に払いのけて玄関へ向かった。そこには、一人の貴婦人が立っていた。

夏目なつめ様ですね、お待ちしておりました」

「ここが、百合川さんの探偵事務所でよろしいのですか?」


 現れた女はひどく当惑したような顔をしていた。このどぎつい扉の配色に気圧されているのだろう。私は努めて柔らかい声色を作って、

「はい、どうぞ中に。先生がお待ちです」

 夏目絵理華えりかは全体的に線が細く、上品な白いワンピースを着ていた。濡れ烏のような黒髪は耳の辺りで切り揃えられ、薄紅色のつば広帽子キャペリーヌをかぶっている。きめ細かい肌には小さな汗の雫が浮かんでいた。右手に折りたたんだ日傘を、左手にエルメスのハンドバッグを持っている。


「……失礼します」


 絵理華は若干の躊躇を表情に出しながら、おずおずと私のあとに続いて中に入った。


「どうも初めまして、百合川猫子です」

 猫子は猫のようなアーモンド形の目を見開き、口角を上げた。それを見て、絵理華はさらに当惑したようで、


「えっ」


 と口元に手を当てて驚嘆した。そして、まだ子供ではないか、と言いたげに私の方をちらっと見た。このような反応は珍しいことではない。私が無言で頷きを返すと、絵理華は小さく会釈をした。


「……夏目絵理華でございます」


 ソファーを勧めると、彼女は再度会釈をして腰を下ろした。その動作には淑女の持つ洗練された奥ゆかしさが感じられ、彼女が上流階級の人間であることを端的に示していた。

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