第一章  化け猫の棲み家

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 水色の空に浮かぶ綿飴のような雲を目指して、一羽のカラスが揚々と飛んでいる。


「暑いなぁ、もう」


 肌を撫でる風は生暖かく、むわっとした湿気がまとわりついてきた。こうも湿度が高いのは、汗っかきな私にとってあまり好ましくない事態である。


 ――七月二十日、午前八時過ぎ。


 私は独り、住宅街を歩いていた。

 つい先ほど、家を出る前に観た天気予報では、私の住む町――K県F**市は一日中晴れの予報だった。

 太陽も梅雨が明けたことが嬉しいのだろうか。個人的にはあまりはりきり過ぎないで欲しいのだけれど。


 背中を中心にだんだんと汗ばんできた。

 体内の水分がどんどん流れていくのを感じる。気分は砂漠をさまよう流刑者だ。

 灼熱の太陽の下でオアシスの幻影を探し続ける苦行に比べれば、たかだか数百メートル歩くだけのことだが、やはり汗をかくのは気になる。化粧が落ちてしまっていないだろうか。


 花柄のハンカチで押さえるようにして額の汗を拭いながら、自販機で買ったミネラルウォーターを飲む。あまりの暑さに、ぬるくなっていた。

 私こと、万野原まんのはら桔梗ききょうは今年の春に県内の総合美容専門学校に入学したばかりの十九歳学生である。

 桔梗という名は私が夏に生まれたことに由来する。秋の七草に数えられることから、秋の花というイメージが強い桔梗だが、開花時期は六月中旬から始まるそうだ。

 将来の夢はカリスマ美容師となり、自分のヘアサロンを持つこと。

 学費が比較的安く済む夜間の教育課程を採っており、日中はバイトに精を出し、午後四時から九時過ぎまで専門学校で勉強をしている。

 今もバイトに向かう途中なのだ。


 十字路を左折して数メートル進むと、車の往来の激しい国道に出る。この時間帯はちょうど通勤通学の時間にぶつかるのだ。

 歩道を行き交う人々は皆、涼しげな服装だった。街路樹ではもうセミがうるさく鳴いている。アスファルトの照り返しが厳しい。

 毎朝のことながら、夏だなぁ、と感じる。


 歩道橋を渡って反対側に出る。

 左手には商業ビルが立ち並んでおり、コンビニや飲食店が陣取りゲームのように乱立していた。

 この付近は人通りの多い激戦区であり、新規にオープンした店が生き残ることはめったにない。数か月持てばいい方だろう。私が密かに気に入っていたハンバーガーショップも、開店から二か月ほどで潰れてしまった。


 前方に横断歩道が見えてきた。歩行者用信号が青く点滅しているが、焦って駆けだす必要はない。というのも私の目的地はその手前にあるのだ。

 国道と路地の角に位置する二階建てのビル。一階は〈ジャイロ〉という名前の喫茶店となっている。競争の激しいこの近辺において、この〈ジャイロ〉は創業から十五年という指折りの老舗だった。

 角立地という絶好の立地条件とマスターの淹れる格別美味しいエスプレッソがその理由だろう。まあ、私には苦すぎて飲めないのだが。

 まだ[CLOSE]の札が下がっている扉を開けて、


「おはようございます」


 と挨拶をする。

 コーヒーの香りが漂う店内はがらんとしていて人気がない。開店前だから当然か。店内は冷房が効いていて、汗がすうっとひいていく。ややあって、奥から口ひげを蓄えたマスターが顔を出した。


「万野原さん、おはようございます」


 渋めの声が耳に心地よい。


「おはようございます」

「外は暑そうですね。いよいよ夏も本番でしょうか」


 マスターは窓の外を見やって言った。ギリシャ彫刻のような横顔に見惚れてしまいそうだ。


「すっごく暑いですよ。もうどろどろに溶けちゃいそう」


 私がオーバーなリアクションを返すと、彼は鷹揚に微笑んで一杯の水を差し出してくれた。紳士とはきっとマスターのような男の人のことを言うのだろうな、と考えながら、私はうやうやしくその水を頂戴した。


「ありがとうございます」


 冷たい水が喉にしみわたる。


「私はまだ準備があるので、またのちほど」


 私が返したコップを受け取ると、マスターは奥のキッチンに戻っていった。

 がらんとした店内には店主の趣味である九十年代の洋楽ポップスが流れている。白を基調とした内装は清潔感に溢れており、外界の喧騒とは完全に隔絶された隠れ家のようだった。


 外に出ると、待ち構えていたように日差しが降り注ぎ、せっかくひいた汗がぶり返した。〈ジャイロ〉に立ち寄ったのはマスターに挨拶をするためで、ここがバイト先というわけではないのだ。

〈ジャイロ〉の隣は薬局で、この二軒の間には一メートルほどの路地がある。普通に道を歩いている人はきっと、この薄暗い路地には目もくれないだろう。それこそ、危ない薬の売人が潜んでいそうな陰気な路地である。


 私は太陽を忌避する吸血鬼のように、その路地に入った。一メートルほど先にくたびれた鉄骨階段がある。ところどころ赤く錆びついていて、つたが絡みついていた。

 乾いた音を響かせながらその階段を上って行くと、真っ赤に塗られた毒々しいドアが右手に現れる。


「あっつい、あっつい、あっついなぁーっと」


 もちろん、私はいかがわしいお店で働いているわけではない。頭のてっぺんから爪の先まで、生まれたままの純潔を保っている。

 喫茶店〈ジャイロ〉の真上に位置するのは何を隠そう探偵事務所なのである。このご時世に探偵家業で食っていけるのかは定かではないが、それは私の知るところではない。しかしながら、時給二千円という破格の条件を出せる程度には繁盛しているようだ。


 目の高さのところに白いプレートが貼り付けられており、これまた真っ赤な字で〈百合川ゆりかわ探偵事務所〉と表記されている。

 私はもう見慣れているが、初めてこの事務所を訪れる者のほとんどはこの異様な扉の配色に少なくない驚きを感じることだろう。


 この扉を開けたが最後、二度と日の光を浴びることのできない地獄に閉じ込められてしまうのではないか、と当時の私は思ったものだ。

 耳元で蚊の羽音がした。

 私はポーチから汗拭きシートを取り出し、ささっと体を拭いた。柔らかなラベンダーの香りに包まれた私は、ゆっくりと赤い扉に手をかける。

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