涙が出そう
放課後、静まり返った教室で僕らはお互いの文章を読み合っていた。
…。
沈黙の時間が流れる。芹沢さんも、長谷川さんも真剣な表情でノートと向き合っている。時計の針が動く音と、外から入ってくる野球部の掛け声以外は、何も聞こえない。
僕は長谷川さんの文章を目で追っていた。彼女が紡ぐ一つ一つの言葉に自分の心を重ね合わせていた。彼女の魂が文字となって僕の中にじんわりとしみわたっていく。その感覚を身体全体で受け止めていた。
「『心の窓』を開けて 長谷川 唯
私は今までずっと、自分の中にある『心の窓』を開かないまま、生きてきた。友達も家族も入れない部屋の中に、本当の私を閉じ込めたまま、生活してきた。
誰にも知られてはならない。
そんな呪文を唱えながら、窓のカーテンを閉めて自分を一人ぼっちにしていた。
どうしてなんだろう…?どうして私は、本当の姿をさらけだすことができないのだろう…?
大好きなものに熱中している自分を否定されるのが嫌だったからだ。
まだ小さかった頃、私の弟はゲームにばかり夢中になってちっとも勉強をしなかった。そのせいで、よく親に注意されていた。私は親に怒られるのが怖くて、模範的に生きることを心がけていた。
弟を叱るとき、親はきまって私の方を見ながらこう言った。
『お姉ちゃんを見なさい。あんなに真面目に勉強をしているでしょう。あんたもお姉ちゃんを見習って、ゲームばっかりしていないで、勉強しなさい。学校の成績が良くないと、これからの時代大変なんだから。』
そんなとき、弟はいかにも申し訳なさそうな表情をしながら私を遠くから眺めていた。私の姿は彼の瞳にどんな風に映っていたのだろう?優秀な姉か、親の言うことを聞くだけの操り人形か…。今となってはわからない。
叱られているのは弟で、私はむしろ褒められているはずなのに、なんだか負けたような感覚に襲われていた。親に認められる私より、弟の方が輝いて見えた。
親にとって、私は『言いつけに従う素直ないい子』に見えたのだろう。実際には、恐怖に怯える臆病な子供でしかなかったのに。だから、何度叱られても平気でいる弟がうらやましかった。あんな風に自由に振舞えたらいいのにと心の中で思っていた。少し、嫉妬もしていた。
好きなことのために一生懸命になっているのは、ダメなことなんだ。いけないことなんだ。気づかないうちに、そんな強迫観念に侵されていたのかもしれない。
親に従って生きていくうちに、少しずつ自分がなくなっていくような気がした。怒られないように、嫌われないように、変に思われないように振舞っているうちに、私は『他人が好きなもの』に囲まれて生活するようになった。周りの人がニセモノのように感じられるときがあった。ニセモノは私自身なのに。
まだ残っている本当の自分の欠片を必死にかき集めるように、私は心の中に秘密の部屋をつくった。そこに自分を閉じ込めて、守っていた。
幸いなことに、小学校高学年になると私と弟は自分の部屋をあてがわれた。私はそこで秘密の時間をつくり、誰にもばれないように細心の注意を払いながら本当にやりたいことをはじめた。
それは、小説を書くことだった。
私は少しずつ本物の自分を出せるようになったけど、まだ誰にも見られたくはないと思っていた。だから、高校生になるまでずっと、『心の窓』を閉めて生きてきた。
でもそれじゃだめだ。
高校生になるとき、私はもう一人の自分に向かって叫んだ。私たちは生まれ変わらないといけない、『心の窓』を開けて新しく生き直さなければならない、と。もう一人の私は、決心したようにうなずいた。
私は誰かに責められるのを、ずっと恐れていた。敵は他人だとばかり思いこんで、ずっと恨んでいた。
でもちがう。敵はいつだって自分自身なのだ。影のようにぴったりと張り付いて離れない私の妄想こそが、最大の敵なのだ。
何も恐れることはなかった。私は部屋の中のすべての窓を開けた。新鮮な空気が入り込み、澄んだ青空、輝くばかりの大地が私たちの目の前に現れた。
私は外から聞こえてくる声に、そっと耳を傾けた。その声は、はっきりと私の名前を呼んでいた。
声に誘われるように、私は『心の窓』から外に出た。
外は、晴れやかな空で満たされていた。頭上に浮かぶ太陽が、じっと私を見下ろしている。
さあ、歩みだそう。安心して。君と同じ道を行く仲間が、きっと見つかるはずだから。
太陽は私にそう言って、微笑んでくれた。
どこまでも続く緑色の道を、私は一歩ずつ進み始めた。飛び立つ小鳥、体いっぱいに葉をまとった木々、風に吹かれてそよそよと動く花…。すべてが鮮やかに私を取り巻いている。まだ見ぬ仲間の姿に心ときめかしながら、どこへ向かうかもわからないまま先へ先へ歩みつづける。
いつのまにか、もう一人の自分は消えていた。私はもう、ニセモノではない。やっと、本当の自分になれたのだ!
喜びをかみしめながら、目の前の道を歩む。前へ、もっと前へ。」
彼女のまっすぐな思いが矢となって、僕の心臓を貫く。こんなにも心が動かされるのは、どうしてだろう。読んでいるうちに、胸に詰まった思いがどんどん大きくなっていく。
読み終わったとき、僕は泣きそうだった。行き場のなくなった思いが瞳からあふれ出そうだった。ある瞬間、僕は確かに長谷川さんだった。彼女と同じ気持ちで、同じ表情で生きていた。
だからこんなに泣けてくるんだ。
好きなものを否定されるのではないかという怖さ。そしてそれを克服することの難しさ。
彼女の伝えたかったことが、痛いほどよくわかるから。
思い込みこそが、最大の敵なんだ。他人を打ち負かすことが重要なのではない。自分が作り出した幻に勝つことこそが、もっとも大切なんだ。
彼女の言葉を読んでいると、心からそう思える。
長谷川さんに出会えて、彼女の文章に触れることができて、本当によかった。自分の気持ちに嘘をつかず、丹念に心の内をなぞるように言葉を編み出してくれて、本当にありがとう。
僕はそう言って、彼女に笑いかけたくなった。
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