君の好きなものを教えて
大好きな人と距離を縮める秘訣。それは、
大好きな人の大好きなものを知ること。
好きなものについて語るとき、人は明るくなり、笑顔になる。私は松田くんと微笑みながら話してみたかった。
そのためには、彼の好きなものについて徹底的にリサーチする必要がある。
松田くんの好きなものは、ずばり本だ。教室の彼を観察していればすぐにわかるが、朝や帰りのホームルーム、休み時間はもちろんのこと、授業中であったとしても教科書で隠したり机の下、膝の上に本を置いたりして先生の目をかいくぐり、読書をしている。
一体、松田くんは何を読んでいるのだろう?
彼は窓際前から三番目の席に座っている。私はそこから少し廊下側に寄った中央前から五番目の席に座っているから、後ろから彼の姿を眺められる。松田くんが何をしているのかはわかるが、彼が何の本を読んでいるのかまではわからない。
そのことが気になって気になって、しようがない。どうしても知りたい。
教室で違和感なく彼のそばまで行くことはできなかった。休み時間や昼休み中、私はいつも周りの友達と仲良く会話しているから。黒板を消しに行くとか、日直の日誌を取りに行くときに、素早く彼の席に視線を送っても、やはり少し遠くて本のタイトルまではわからない。
よし。決心した。今日は学校帰りも尾行しよう。
私は松田くんが学校から出て帰る途中どこに向かい、何をしているのか知っている。家の近くにある本屋で立ち読みをしているのだ。四月の中旬に彼の帰りの動向が気になり、いつも一緒に帰る友達にテキトーな理由を言って一人で帰り、尾行したときにそれがわかった。どうか私の気持ちを察してほしい。好きな人があんなに急いで帰るのだもの、どこに行くのか誰だって知りたいでしょう?
でもそのときは、怪しまれると思い読書している松田くんのそばまで行くことはできなかった。もちろん閉店間際まで読書をしたあと、帰路をたどる彼についていき、家の場所を突き止めることはできたんだけど。結局、彼の読んでいる本の中身まではわからない。
今回は本屋まで尾行し、彼の近くまで行こう。そう決意した。
帰りのホームルーム終了後。松田くんはそそくさとリュックを背負い、教室を出ていく。
その姿を確認してから、私は友達に声をかける。
「ごめん。ちょっと今日、用事があって。先に帰るね。」
「えー。まじで?もしかして茜、カレシと待ち合わせ?」
「もー。そんなんじゃないってば。」
一通り友達とじゃれ合ったあと、私は松田くんの後を追って、学校を出た。
最寄り駅までの道のり。私は彼の姿を数メートル後ろから眺める。電車のホーム。私は彼の姿を数メートル横から眺める。電車に乗ったあと。私は隣の車両から彼の姿を見つめる。
すべてが至高の時間だった。
電車を降りて、駅の構内のトイレで私服に着替え、化粧をする。万が一気づかれた場合の対策だ。洗面台の鏡で自分の姿を確認するとき、ハッとする。そこにはいつもよりも大人っぽい私が立っている。私は少し綺麗な大学一年生になったつもりで、トイレを出て本屋へと向かう。
本屋の片隅で夢中になって本を読みふけっている彼を、向かいの陳列棚で参考書を読むふりをして遠巻きに眺める。参考書の文面の向こう側に、松田くんがいる。そう思っただけで、空中に浮かんだような気分だ。まるで夢を見ているような気持ちで、半ば参考書で顔をうずめながら活字の列に沿って動く彼の視線を見つめる。
心臓の鼓動が早くなる。呼吸が激しくなり、手が震えはじめる。目の前の数学のよくわからない定理に関するページの上から、彼の表情が見える。普段は少し不安げな顔をしている松田くんが、本と向き合うときだけ見せる真剣な瞳。その中の光を見つけ出した瞬間、自分が水分になって溶けていく感覚を覚えた。
あの瞳で、私のことを見てほしい。
そんな淡い願望を抱いてしまった。
いけないとわかっていても、ずっと松田くんの姿を凝視していた。でも彼は本の内容に夢中になっているのか、私の視線など気づいている素振りも見せない。
読んでいる本のタイトル、作家の名前はわからない。
よし。もっと、近づいてみよう。
私は参考書を元の場所に戻し、あたかも本を物色するようなふりをして松田くんの方へ近づいていった。最近売れている大ヒット小説について熱く語る書店員のメッセージを読んでいるふりをして、サッと松田くんの持っている本のタイトル、作家名を確認する。
「夕暮れに立つ若者 東条晴彦」
その本の表紙には、暗闇の中で太陽に照らされる二十代ほどの若者が描かれていた。彼は唇をかみしめて、真夜中の空に浮かぶ太陽を見つめている。一体、何の比喩なんだろう。私は不思議な感動に打たれて、松田くんのそばに立っていた。
でもなぜだか、表紙の中の男性は松田くんに似ているような気がした。
私はゆっくりと元の場所に戻り、少し離れたところから松田くんの顔を見つめ続ける。そうして、どれくらいの時間が過ぎただろうか。ふと閉店のアナウンスが聞こえてきた。
彼は読みふけっていた本を閉じて丁寧に戻し、家に帰ろうとリュックのひもを握りしめた。
その瞬間。彼は私の熱視線に気づき、こちらを見た。
やばい。気づかれた。どうしよう。そんなふうに気持ちが動揺することはなかった。
むしろ、私の心の中は柔らかく、温かな気持ちにすっぽりと包まれた。よかった。やっと私の存在に気づいてくれた。そんな安心感を覚えた。
そうだ。私はむしろ、気づいてほしかったんだ。自分が松田くんのことをこんなにも恋していること。想っていること。ドキドキしていること。誰にも打ち明けられない、胸の奥にしまうしかないあふれだしそうなこの切実な感情のひとかけらでもいいから、松田くんに伝わってほしいのだ。
こんな中途半端に自分の姿を変えて、彼のもとにいようとする自分の気持ちが分かった気がした。自分が松田くんに対してストーカーをしていることに負い目を感じながらも、私は心の奥底で願っている。
彼が私の異常な行動に気づいてくれることを。そして少しずつ狂い始めた私という奇妙な存在に彼が興味を示してくれることを。
不思議そうに私を見つめる彼と目を合わせるのは本当に緊張する。ついに耐えきれなくなり、私は目の前のページに書かれた意味不明な数列へと目線を移す。
松田くんは行き過ぎた。
私は呆然と閉店のアナウンスを聞いていた。彼は私の存在に気づいたのだろうか?それとも、ただの他人だと思ったのだろうか…。
今となっては、もう確かめるすべもない。
本屋を出て、帰路をたどる松田くんの背中を追いかける。結局、私は彼の自宅まで尾行し、玄関先で扉を開けて家の中に入る彼の様子を遠くから眺めていた。徐々に閉じていく扉の隙間から、淡い光に照らされながら母親と言葉を交わす彼の姿が見える。
扉は閉じた。
一体、私は何をやっているんだろう。
ふと、どうしようもない寂しさに襲われた。なぜ私は好きなひとの後をついて追いかけることばかりで、声をかけることもできないのだろう。バカな私、根性ない私。こんな調子じゃ、いつまでたっても彼との関係は進展しない。
決めた。松田くんが読んでいる小説を私も買って、読もう。
そして読み終えたら。
学校の休み時間。彼に話しかけよう。絶対に。
少しでもあの人と気持ちを通わせるために。仲良くなろう。
松田くんに私の好きな気持ちがばれてもかまわない。いや、むしろ私の気持ちに気づいてほしい。
暗闇の中煌々と光る月を眺めながら、私はそんなことを祈っていた。
翌日の朝。私は一時間目の授業を休んで、松田くんの読んでいた本を買いに本屋へ行った。もちろん、彼の家の近くの本屋へ。
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