煙くらべ ~女三宮秘恋抄~

長居園子

第1話

 どうしていつも皆、わたくしをそっとしておいてくれないの?これは彼女の人生において最大の疑問であり、願望でもあった。

 父帝と共に暮らしていた時は、まだよかった。いつまでも子どもっぽさの抜けぬ愛娘はご心配の種であったが、父院だけは彼女の生来の気質に一定の理解を示してくださっており、深い父性愛のもとのびのびとした幼少期を過ごすことができた。穏やかで変化とは無縁だった人生が転機を迎えたのは、裳着を終えてからほどなくのことである。

 「出家する前に、あの子らをそれぞれにふさわしい男に任せたい」

 退位されいまや世も捨てようとなさっている御身の心残りは、やはり未婚の皇女たちの行く末であった。とくにはやくに生母を亡くした三女については、母が皇族出でほかの姫宮たちよりも生まれがいいだけに、つまらぬ男にやるわけにはゆかぬ。どうしたものかと悩む父院の横で、無表情だった娘はそっと首をかしげた。

 「太政大臣のご長男は、いかがでしょうか?たびたびご消息が届けられていますが」

 「確かに、あの青年ならば家柄も将来性も申し分ないと思うが、まだ若く身分も低い。ほかの姫宮ならば問題はないが、あの子の夫としては…」

 不足であるということらしい。だったら、父院と一緒に出家してはいけないだろうか。滅多に自分の意志を持たない娘は、黒い愛猫を撫でながらちらりとそう考えた。大人は出家をすることを大きな決心のように言うけれど、彼女にとってはそれほどの一大事には思えない。

 (朝夕お経を唱えたり、閼伽棚あかだなのお掃除をするだけでいいなら、わたくしにもできそう…)

 自分がほかの人々からどう見られているのかにも無関心な彼女も、まわりが自分に対してはがゆさを感じていることはわかっていた。出家すれば、そういった煩わしさからも解放されるのではないか。そう思ったが、しばらくしてお呼び出しかかり参上してみると、命じられたのは意外な人物への嫁入りだった。

 「ろく、じょういん…」

 「あぁ。いささか歳が離れてはいるが、彼ならばそなたの婿として充分釣り合いが取れている。何事も六条院の仰せに従い、よく導いてもらいなさい」

 「…」

 話が決まると、あとは判で押したような展開となった。形式的な恋文のやり取りを何通かした後、夜陰にまぎれ大きな影が御帳台みちょうだいに入って来た。そういうことがこれまた何夜か続き、翌正月彼らの結婚は正式に発表された。

 唯一の肉親である父院が出家されてしまうため、彼女は夫に引き取られることとなった。彼の通り名の由来にもなった大邸宅、六条院への豪勢な輿入れは京じゅうの評判となったが、彼女にしてみれば気疲れのする時間でしかなかった。庶民から貴族まで皆が皆自分に注目し、あれこれとささやき合っている。もといた自分の居所へ取って返し、ひいな遊びをして心を落ち着かせたい。彼女の心は荒れ狂う夜の海のように混乱した。

 (お父さま!)

 彼女は、父院がたまらなく恋しくなった。けれどもう引き返すことはできない。ガタンッ!と大きな音を立てて到着した新たな住まいにしても、大勢の見知らぬ人々に出迎えられ萎縮するばかりである。人垣を割るようにして現れた夫の顔を、彼女はすがるように見つめた。だが新しい庇護者となった男の言葉は、さらなる困惑しか与えなかった。

 「よくお越しくださいました。我が家は大所帯でいささか騒がしゅうございますが、心ばえのよい者たちばかりです。きっと皆、あなたの言葉に従ってくれるでしょう」

 (〝従う〟って、どういうこと?わたくしが、ここの人たちに何を従わせるというの?お父さまは、六条院に導いてもらいなさいとおっしゃった。わたくしはどうすればいいの?)  

 おしのように黙り込んで硬い表情を崩さない幼妻に、親子ほども歳の離れた夫は眉根を寄せた。どうもこの姫宮は、娘の中宮のような闊達な性質ではないらしい。

 (まあいい。初めは不慣れなことも多く上手くいかぬかもしれないが、そのあたりは対の上に助けてもらえばよかろう)

 励ますようほほ笑んだ夫の顔に、ふと父院の面影を見た気がして、ようやく彼女は少しだけ安心することができた。


 到着して数日こそひっきりなしに来客が訪れ、好奇心の目にさらされて辟易したが、まもなくそういったお祭り騒ぎも下火になっていき、嫁ぐ前と同じような静寂が訪れた。いつも通りの生活に戻ったのだと解釈した彼女は、嫁入り道具のひとつとして持参した唐櫃の中からお気に入りの雛遊びの御殿や人形を取り出すよう命じ、寝殿の真ん中の畳の上にでんと据えた。そして、連れてきた女童数人と人形を六条院の住人たちに見立てて遊び始めた。

 「この姫はわたくし、この殿方は六条院よ」

 常よりは熱のこもった声で、自分が考えた物語を語りながら人形を動かしている時の彼女は幸福だった。ここには、自分の思うままにできる世界が広がっている。夢中になって遊んでいると、ふと女童たちが金縛りにあったように身体を固くし静止した。彼女たちの視線に促され背後をふり向くと、夫が目を丸くして立ちつくしている。

 「何を、なさっているのかな?」

 尋ねているというわりにはいささか険のある口調だったが、何が悪いのか見当もつかない幼妻は彼の態度に不審感を覚えながらも、「雛遊びです」と小さいがはっきりした声で答えた。

 「ほう、雛遊び。それは面妖な」

 夫が小さく笑ったので、彼女はホッとした。だが、周囲に控えていた者たちにとってはそれが失笑なのは一目瞭然だったし、年かさの女房などはその場で突っ伏したい気持ちになっていた。

 「その、雛遊びというのは、よくされるのですか?」

 「はい」

 「そうですか…。ほかの遊びはなさらないんですか?」

 「ほかの遊び?」

 「琴や薫物たきものなど、あなたと同じ年ごろの姫君がよくやっているような」

 「はい、やりません」

 きっぱりとした妻の否定に、夫は絶句した。一方の彼女は、夫が黙り込んだことで会話が終了したのだと判断し、いまだ硬直したままの女童たちを残して雛遊びを再開した。女房らは皆ひたすら額づき、女主人の背の君が妻の幼稚さに言葉を失っている場面を見まいとした。彼はそのまましばらく雛遊びに没頭する妻を観察していたが、やがて「何か不自由があったら遠慮なく言うように」と乳母に告げて足早に去っていった。

 その後の展開は、彼女にとって理解しがたいことばかりだった。近頃だんだんと話す機会が減ってきている乳母子めのとご小侍従こじじゅうが、いつになく深刻な顔つきで「姫宮さま」と雛遊びの手を止めさせた。そして乳母共々、母娘で女主人の言動さを諌め、人妻のなった貴婦人の心がまえを切々と説いた。

 「よろしゅうございますか?いくら六条院さまが臣籍降下されたとはいえ、姫宮さまは位人を極められたお方の正妻となられたのです。いつまでも独身の頃のお気持ちでいてはなりません」

 「…」

 「娘の言う通りですわ。まして六条院さまには、すでに対の上や明石の君など優れた妻女がいらっしゃいます。そのような女人方を差し置いて、姫宮さまは正妻として迎えられたのですから、もっと自覚をお持ちになりませんと…」

 交互に女主人へ言い含める母娘は、双子のようにそっくりであった。彼女はそれまで無意識に見て見ぬふりをしてきた孤独を、この時初めて自覚した。しかし、乳母らの説教はまだ序の口であった。その出来事以降夫の自分への接し方は明らかに変わり、幼妻へ話す時にはまるで師匠のように教え諭すような言い方をするようになった。


 そのような窮屈な日々を送るようになってしばらく経ったある日、夫が「対の上があなたにご挨拶したいと申しております」と言ってきて、こちらが承諾していないうちから対面することが決まった。生来人見知りする性質である彼女はイヤでたまらなかったが、女房らは長年六条院からもっとも深い寵愛を受けているこの貴婦人との対面に強い対抗心を燃やし、室内の掃除や飾りつけ・段取りなどを念入りに準備した。

 いよいよ対面の日に現れた対の上そのひとは、確かにあたりを払う美しさを備えた完璧な女人であった。部屋に入って来た途端、女房たちは美貌と威厳に息を呑み、彼女らの女主人は本能的に気後れを感じた。

 「お初にお目にかかります。姫宮さま。この度はお時間を取っていただき、誠にありがとうございます」

 相手のそつのない挨拶で始まった会話は、もっぱら対の上が先導する形で進んだ。彼女もはじめは饒舌であろうと努めたが、慣れないことをしても続かぬもので徐々に口数は減っていき、やがて理路整然と語ることが難しくなってきた。無理をさせていると察した対の上は、「姫宮さまは、ご趣味などはございますか?」と、こちらが喋りやすそうな話題をふってきてくれた。だが、極度の緊張状態の中で与えられたこの気配りは、ただでさえ気持ちの切り替えが苦手な彼女をさらに混乱させた。

 「雛遊び、ですか?」

 自分よりはるかに大人びている女人の困惑を隠せない表情に、さすがの彼女も赤面した。混乱のあまり、つい馬鹿正直に答えしてしまったのだ。一方沈み込んだ表情をする姫宮を見た対の上は、感情を露わにしてしまった己の失態を反省した。

 (困ったわ、いつもはこうはならないのに。この姫宮には、何か相手の調子を狂わせるところがある)

 とにかく凍りついた場を溶かしたいと思った対の上は、年少者に調子を合わせることにした。

 「まぁ、雛遊び?わたくしも子どもの頃は大好きでしたよ」

 「そうなんですか?」

 「えぇ。夢中になり過ぎて、『そのように子どもじみたことばかり、いつまでもなさってはなりません』と乳母によくたしなめられたものです」

 ある程度世慣れた女ならば皮肉ではないかと勘繰る言葉に、彼女は小さな喜びを見出して胸が熱くなった。こんな完璧なひとも、雛遊びが好きだったのだ。思いがけない共通点が、いつもより彼女を大胆にした。

 「よろしければ、一緒にやりませんか?」

 「えっ、雛遊びをですか?」

 「はい」

 一瞬冗談を言われたのかと思ったが、どうもこの姫宮は本気らしい。幼さの残る顔に興奮を抑え込んだような喜色を浮かべ、じっとこちらを期待するように見つめている。その後ろでは、彼女の女房たちが再び表情を凍りつかせていた。断ってさらに気まずい空気になることを懸念した対の上は、今度は強いて嬉しそうな表情をつくり、「まぁ、それはいいですね」と返事をした。

 久しぶりに子ども以外と雛遊びができた彼女は、対の上が帰ってからもしばらく上機嫌だったが、その気持ちも厳めしい表情をして現れた夫を見てあっという間にしぼんだ。

 「対の上と雛遊びをなさったとか、本当ですか?」

 例によって咎めるような口調での質問から始まり、対面で交わした会話の内容などをこと細かく訊いた彼は、あからさまに失望の色を浮かべた。あとで聞いた話だが、どうやら当初あちらから対面がしたいとの要望が出された際、夫は彼女の幼稚ぶりを見られることに難色を示したそうだが、「成熟した対の上の人柄にふれることは、姫宮にもよい刺激になるやもしれぬ」と思い直し許可をしたらしい。それならそうと、なぜ「対の上を見て、勉強なさい」と言ってくれなかったのか。いつもはあれだけいろいろとやかましいくせに、肝心なところでは何も言ってくれない。結果的に、彼女にとっては大きな不満だけが残る思い出となった。


 「今度は蹴鞠の宴ですって。まったく次から次へと、よく続きますこと」

 「けれど、見目麗しい公達きんだちが大勢招かれるそうよ。楽しみねぇ」

 春の盛り、運命の日がとうとうやって来た。この頃になると、公私問わず六条院に関するあらゆる雑事を取り仕切るのは対の上の役割であることが暗黙の了解となっており、正妻である彼女へのお伺いは形式的なものとなっていた。だからこの日も、また不用意な真似をして周囲からひんしゅくを買わぬように、秘像よろしく部屋の片隅にひっそりと鎮座し、一心に黒猫の頭を撫でて無聊を慰めていた。

 「姫宮さま、ご覧あそばせ。若人わこうどたちが蹴鞠に興じていらっしゃいますわ」

 「あの夕霧さまの隣にいらっしゃる方はどなた?」

 「あぁ、あれは太政大臣のご長男、柏木衛門督かしわぎえもんのかみさまよ」

 「柏木…?」だれも聞き取れないようなか細い声で呟いた彼女は、猫を愛撫する手をピタリと止めた。どこかで聞いたことのある名だ。

 (そう、そうだわ。小侍従が持って来る消息のひと

 脳裏に流麗ながら線の太い筆跡が浮かんだ。滅多に人の名を覚えぬ彼女も、あまたいた求婚者の中でいまだに秋波を送ってくる彼の存在はさすがに認識していた。

 (どんな方なのかしら?)

 再び目線を外へ戻した女房らの背後で、彼女たちの女主人は御簾の垂れ下がるひさしのふちまでいざり寄った。普段ならばそんな端近はしぢかにいると、夫から厳しく注意されるため、薄暗い室内へ引っ込んでいるのが常だったが、なぜかこの日は好奇心が勝った。どうやら蹴鞠はいったん休憩時間に入ったらしく、夕日の温かい光に包まれる中、青年貴族たちは各々 きざはしへ座り込んで散りゆく桜を眺めている。父と夫以外の男性は基本的に皆同じに見える彼女は、どれが柏木衛門督その人なのか判じかね、いきおい御簾へ白い手をそえて外の景色に目を凝らした。

 (あの方かしら?)

 一番近い階に向かい合って座る二人の直衣のうし姿の男たちを、彼女はまじまじと観察した。こちらへ顔を向けて話している人は何となく見覚えがあるから、多分夫の一人息子である夕霧であろう。ならば柏木衛門督は背を向けて座っている方だろうかと、顔を見ようとして首を動かそうとしたちょうどその時、唐突に甲高い悲鳴が聞こえた。

 「きゃぁぁ、猫がぁっ!」

 大声の上がった方角へ目をやると、近頃飼い始めた白い子猫が先程まで撫でていた黒猫に襲われていた。何が気に障ったのか、生来は女主人に似て鈍重なはずの黒猫は執拗に子猫を追いかけ回し、子猫は子猫で首紐をかけられた不自由な状態ながらあたりの調度品を引き倒して必死で逃げ回っている。

 「はやく、あの黒い方を捕まえてっ!」

 「無理よっ!動きがすばしっこくて、わたしたちでは捕まえられないわっ!」

 きゃあきゃあ言うだけで何もしない女房らを尻目に、子猫は御簾に紐をからめながら柱つたいに天井へと登りじっと動かなくなった。一方黒猫の方はというと、ミャオミャオと唸ってなおも威嚇は続けているが、身体が重くて柱を登れないのかそれ以上の攻撃はしようとしなかった。ひとまずは子猫の身の安全が保障されたことに安心した彼女は、あらためて猫たちに荒らされた室内を見渡した。

 (あぁ、ひどい。御簾まで上がって、まるで嵐が過ぎ去ったあとみたい)

 とここまで思いをめぐらせた時、ようやく彼女は重大なことに気がついた。御簾が上がっている…?恐る恐る視線をいましがたまで向けていた方へやると、先程まで垂れ下がっていたはずの御簾が子猫の首紐によって大きくめくり上げられ、外から自分の姿がまる見えになっている。それだけならまだしも、階で談笑していたはずの二人の青年が驚愕の表情でこちらを見つめていた。とりわけ背を向けていた方は、いまや真正面から自分を注視し、自分もまたその目から逃れられないでいた。

 (あのひとが…)

 刹那ともいえる対面であった。しかし彼女は、その後何年も折に触れてこの時の西日に照らされた彼の顔を思い出し、大きな後悔と微かな悦びに胸を焦がすこととなる。はやく部屋の奥へ引っ込まなくては、と頭の何処かでは冷静に考えていた。けれど身体は、凍ったように動かない。空耳だとはわかっていたが、彼の目が自分へ語りかけてくる声が聞こえたのだ。

 (あぁ、あなたなのですねっ!愛しいひと!やっとお逢いできた!)

 男の情念が、いままさに自分をからめ捕ろうとしているのを女は感じた。

 「あぁ、ダメよ!行ってはいけないっ!」

 女房の声にハッとした彼女は、再び猫たちの方へ意識を転じた。天井に逃げていたはずの子猫が、ゆっくりとまた柱つたいに床へ降りようとしている。黒猫は相変わらず眼光鋭く見据えているが、もう威嚇はせず子猫が自分のもとへやって来るのを待っていた。

 (…行ってはいけない)

 彼女ははじかれたように立ち上がると、春の陽光が届かない部屋の奥深くへ踵を返した。そして、何事もなかったかのように御座所おましどころへ座ると、高く澄んだ声で「参れ」と簡潔に命じた。すると途端に黒猫は女主人の膝元へ走り寄り、身を丸くしてあっという間に午睡に入った。

 「かたじけのうございます…」

 さんざん騒いだ挙句事態に対処できなかった後ろめたさから、珍しく女房らは恐縮と畏敬の入り混じった声で女主人へそう謝罪したのだった。


 そうよ、きっと大丈夫よ。その夜もう何度となく心の中で繰り返した楽観の言葉を、いま一度彼女は自らに言い聞かせた。ほかの女房らと変わらぬ小袿姿をしていたし、そもそもあのような端近に皇女たる自分がいるとはだれも思わぬだろう。

 (わたくしがだれであるかは、あちらにはわからなかったはずだわ)

 脇息にもたれかかった彼女は、空いた方の手で黒猫の顎を撫でた。夕方の一件は、これまでそよ風ひとつ起こらなかった彼女の人生にとってまるで突風のような出来事であったが、幸いにもあの場にいたほかの人々には気づかれずにすんだ。もし女房らに目撃されていたら間違いなく話は夫の耳にも入り、激しく叱責されていたことだろう。あぁ、気づかれなくて本当によかった。

 (けれど、待って)

 夕霧が夫に報告してしまうかもしれない。いままで見つめ合った方ばかりに気をとられていたが、もう一人自分を見た男はいるのだ。密かに消息を送り、黙ってくれるよう頼んだ方がいいだろうか。しかし、そうすればあれが自分であったと宣言してしまうようなものだ。あぁ、どうしましょう。一人悶々と悩んでいたところへ、小侍従が「姫宮さま」とそっと声をかけてきた。

 「申し訳ございません。また例の方から消息を取り次ぐように言われましたの」

 例の方。彼女はまたあの熱い目を思い出して、無意識のうちに消息を受け取った。薄紅色の料紙が、今日ばかりはことのほか意味深に感じる。「ありがとう」そう言いながら几帳の後ろへ入っていった女主人を見て、小侍従はおや?と訝しんだ。いつもはその場でご覧になるのに、どういう風の吹き回しかしら?乳母子がさっそく疑いの念を抱いたことなど露知らず、彼女ははやる気持ちを抑え芳香を放つ料紙を広げた。

 恐れていた事態が起こってしまったのだ。一読した彼女は、消息を持つ手をぶるぶると震わせた。いつのまにか見慣れた筆跡が、興奮のあまり今日は乱れている。これまでの消息はどんな時でも常に理性的であろうとする書き手の人柄が窺えて、「きちんとした文章を書ける方なのだわ。うらやましい」と色恋とは別の意味で関心を寄せていたが、いま手元で揺れるそれは文脈がとれず感情のほとばしりがそのまましたためられていた。何も知らぬ人が読んだら謎めいた文章だったろうが、不思議と彼女は一文一文に込められた彼の思いが手に取るようにわかる気がした。一対の男女が同じ心を共有したのである。

 「姫宮さま、お返事はどうされますか?」

 またいつものように無関心な対応をされるだけだろうと予想していた小侍従は、無駄だとわかりつつも几帳からいざり出てきた女主人に一応お尋ねした。するとこれまでなら、「そなたが代わりに書いて」と素っ気ない返答が返ってくるのが常だったが、今日の彼女は逡巡するように下を向いてしばらく押し黙ったかと思うと、「わたくしには、何のことだかわかりません、とお答えして」と蚊の鳴くようにささやいた。幼い頃から宮仕えをし、感情を表に出さぬよう教育されてきた小侍従も、これにはついぎょっとしてしまった。

 (お返事をなさるなんて、いままでそんなこと一度もなかったのに…)

 そういえば、消息を渡してきた時の柏木衛門督もいつも以上に必死な形相だった。これはいよいよ何かある。逃げるように御帳台へ引っ込んだ女主人の小さな背中を眺めつつ、小侍従はそう確信した。


 しばらくは内心に大きな不安を抱える日々が続いたものの、傍目には穏やかな月日が流れ、あっという間に数年が経った。いつまでも一向に大人びる気配のない幼妻が夫には頭痛の種であったが、夫が彼女のもとへ顔を出す頻度は年月を経るごとに高くなっていった。あまりにも頼りない気質に生まれたひとは、本人がそうと望まなくとも周囲の人々があれやこれや世話を焼かずにはいられないらしい。彼女の場合夫は言うに及ばず、ときには父院や異母兄の主上までもが明に暗に手を回し、六条院の正妻たる彼女の地位を盤石なものにしようと尽力なさった。

 一方女房らは、女主人が対の上に取って代わる存在になりつつあることを喜ぶあまり、近頃では彼女が夫から説教を受けているのを目の当たりにしても、むしろ愛情の裏返しであると解釈してほほ笑ましく見守っていた。その召使いたちに流れる風潮に、彼女はいらだちを覚えた。まるで歩き始めた幼子を見下ろす大人のように、彼女たちは自分が夫に叱られているのを〝あたたかい目〟で観察している。

 「そんなにわたくしのことがお気に召さないのであれば、対の上さまのところへ行かれればよろしいではありませんか」

 衆目の中よほど夫へそう言い返してやりたくなる気持ちは日ましに強くなっていたが、ぐっと飲み込むだけの分別は育っていた。だが、そういう時決まって脳裏に浮かぶのが、あの桜吹雪の中の邂逅であった。すでに彼女の異母姉と結婚しているにも関わらず、相変わらず彼は小侍従を介して定期的に消息を寄越してくる。自分の姉の夫に言い寄られてよい気分がするはずもなかったが、以前のような冷淡な態度に徹することは難しくなっていた。

 とくにあの邂逅から数日後、月ごとのご機嫌伺いに来た兄東宮の使者から、「柏木衛門督さまが、先日こちらで見かけた子猫を是非もらい受けたいとおっしゃっています」と話をされた時は、御簾内で危うく卒倒してしまいそうになった。「イヤ、イヤよっ!」とその場で叫び出したい衝動に駆られたが、あれ以来弱みを握られたような気持ちになっており、結局望まれるがまま例の白い子猫を譲ってしまった。

 (猫など引き取って、一体どうしたいのやら…)

 そう呆れる一方で、彼女はあの貴族にしては少しがっしりした体格の青年が、慎重な手つきで子猫を撫でる姿をはっきりと思い描くことができた。わたくしは、猫じゃないわ。性懲りもなく送られてくる消息に、心の中でそう言い返す日々が何年も続いた。


 「宮よ、すまない。あちらの人が急に床に就いてしまってね。しばらくこちらへ伺うことが難しくなると思うが、どうか恨みに思われず寛大なお心で見守っていてください」

 そよ風ひとつ起こしてはならなかったはずの人生に、すきま風が吹き出したのは夫のひと言からだった。あの対の上が病に苦しんでいるという。一緒に雛遊びをしてくれた美しいひとの危機を彼女は心から憂いたが、その一方で当面夫がこちらを訪れることができないという事実に大きな解放感を覚えた。

 「姫宮さま、またそのように子ども子どもなさって…」

 呆れかえる乳母を尻目に、寝殿の真ん中に再び雛遊びの道具類を広げた彼女は、数年ぶりに自分の世界に浸ることのできる幸福に酔った。はじめは非難がましい視線を送っていた女房たちも、女主人が連日気でもふれたかのように雛遊びに熱中するさまを見て、だんだん困惑の表情を浮かべ押し黙るようになった。だが、そのような周囲の戸惑いにも彼女はすっかり慣れっこになっていた。自分の大好きなことを、できるうちに思う存分やっておきたい。いまの彼女にあるのは、その一念だけであった。

 嵐の渦中に放り込まれたのは、賀茂祭の夜だった。この日は昼から祭り見物で女房の多くが出払っていたため、邸内はひっそりと静まりかえっていた。「さびしくなったわねぇ。こう暗くて静かだと、物の怪でも出てきそうで怖いわ」、とわずかに残った留守役の者たちがいかにも心細そうに話していることが、彼女には不思議でならなかった。むしろ普段のような大勢の人々が侍っている状態の方が、常に人目があって落ち着かないではないか。いまに始まったことではないが、どうも自分は皆と感覚が違うようだ。

 いつも以上に雛遊びに熱中できる環境であったため、その夜は床に就くとあっという間に睡魔に襲われた。だから、傍らで寝ていた黒猫が人の気配を察して御帳台からさっとすべり出たことも、大きな影が自分に覆いかぶさってきたことにもまったく気がつかず、何か違和感を覚えてうっすら目を開けた時には、力強い手がひとえへ手をかけようとしているところだった。

 「やっ、なにっ⁈」

 猫が男になっている⁈驚いて飛び起きそうになったところを押し倒され、彼女は生まれて初めて抵抗した。が、耳元で「わたしです。姫宮さま」と切羽つまった様子でささやかれた途端、さっと血の気が引いて固まった。

 (あのひとだわ!あぁ、どうしましょう!)

 驚きあまり声の出ない彼女に、男は上ずった声で積年の思いをまくし立てた。その時は恐ろしさが先立って言われたことのほとんどは理解していなかったけれど、あとで思い返せば、ひと言ひと言に愛が凝縮された聞く者の胸を熱くさせる告白だった。

 しかしだからといって、その愛に応えることができるはずもない。もう何がなにやら訳がわからなくなった彼女は、男から顔をそむけて「お願い、帰って…!」と絞り出すように声を上げた。想い人の悲痛な叫びに一瞬動きを止めた男だったが、すぐに彼女の顔を両手で包み込んでこちらへ向けさせると、あの邂逅の瞬間と同じ表情でひたと見つめてきた。

 「あなたはいま、ご自分の人生に満足しておられますか?」

 「まん、ぞく?」

 「六条院は、あなたを愛してはいない。あの方の心は対の上さまにある。あなただって、それはおわかりのはずだ」

 「…」

 端的に事実を告げられて、彼女は返答に窮した。確かに夫と自分の関係は、世間一般の夫婦の在り方とは違うのだろう。まことの夫婦関係、まことの男女関係を築いているのは、夫と対の上である。だが夫に限らず、周囲の者たちは皆、自分と心の交流をしようとはしない。訝しそうに遠目から眺めるばかりである。

 (このひとだって、わたくしのことをよく知れば…)

 何年も恋焦がれてきた憧れの女人と、いま自分は見つめ合っている。男は自分の鼓動の音が聞こえてくるような気がした。だが、自分の問いかけに彼女は一向に答えようとはしない。言いよどんで、深い哀しみをたたえた瞳で見つめ返してくるばかりである。そう、この潤んだ双眸のせいだ。理屈で説明することはできぬが、あの桜吹雪の中で目が合った瞬間、いつかきっと自分たちにはこんな夜がやって来るであろうことは確信していた。相変わらず彼女は何も言ってはくれない。しかし、もはや震えてはいなかった。先程の性急さとは打って変わり、今度はゆっくりとやさしく、彼は女の単の帯をほどきにかかった。


 嵐の一夜が去った朝、彼女は乳母子を呼び出した。叱責されると恐れ慄いた小侍従は、緊張のあまり強張った顔を伏せて女主人の御前にひれ伏した。が、女主人は身をすくめる乳母子を見るともなく見ると、膝の上に乗る黒猫を背骨にそって愛撫し始めた。

 「明朝は、だれにも見つからずに帰れたの?」

 一瞬何のことを訊かれているのかわからなかった小侍従は、顔を上げて狼狽した表情を浮かべたが、すぐに察して「はいっ。だれにも見つからず、問題なくお帰りになられました」とまくし立てた。必死になるあまり声が大きくなった乳母子に、いささか顔をしかめた女主人であったが、すぐにまた「そう」といつもの素っ気ない調子の返事をした。そのまま会話は途絶え、何も言う気配がない彼女を小侍従は恐る恐る顔を上げて観察した。多分彼女のことをよく知らない人間が見れば、傍目にはただぼんやりと猫と戯れているようにしか見えないであろう。しかし、生まれた頃からの付き合いである乳母子は、その瞳が微かな余韻に浸っていることを見抜いた。

 (これは、やはりもしや…)

 ひとつの答えにたどり着いたと同時に、未明に見送った青年貴族の表情が回想された。あちらも心ここにあらずといった感じで、階から転げ落ちはせぬかと見ているこちらが冷や冷やする有りさまであった。自分のところで一夜を過ごした後は、事務的にきびきびと身支度を整えてさっさと帰るのに…。身のほどを忘れてじろじろとこちらを見つめる乳母子に、さすがの女主人も眉をひそめて睨み返した。慌てた小侍従が何か言って誤魔化そうと口を開いた瞬間、再び彼女は黒猫へ目線を戻すと、有無を言わせない口調で命じた。

 「わかった、もういいわ。さがってちょうだい」


 対の上の療養は思いがけず長引いた。ひとつかなかなか退治できない物の怪いるそうで、それが回復を妨げているらしい。あちらの看病にかかりきりになる夫に女房らは不満顔であったが、後ろめたいことをつくってしまった彼女は、しばらく夫と顔を合わせずともよいこの状況にむしろホッとした。

 例のあの男からの消息は、懲りもせず送られてきていた。念願叶って本懐を遂げたのだから、もう満足して無理を言ってはこぬのではないかと淡く期待したが、どうやら逢って一層恋の炎は勢いを増したらしい。小侍従に言い聞かせていたのにも関わらず、賀茂祭からそうしばらく経っていない夜に、再び真夜中に違和感を覚えて目を開けると、首筋に接吻をされていた。

 あってはならぬ逢瀬の代償は、必然のように彼女の身体に顕れた。最初は秘事を抱える疲労感ゆえの体調不良かと思われたが、乳母が彼女を触診した後「これはもしや、ご懐妊されているのでは?」と顔を輝かせて告げた時には、彼女だけでなく傍らに控えていた小侍従までもが顔面蒼白となった。吉報はすぐさま六条院邸内や朝廷の人々に知れ渡り、二条院へ移した対の上につきっきりだった夫も、この唐突の懐妊を不思議がりながらもさっそくやって来て彼女を労わった。

 「ありがとう。長年子どもが少ないことを嘆いていましたが、この歳になってまさかまた父親になる喜びを味わうことができると思いませんでした」

 こう語って愛おしそうにこちらの腹を撫でてくる夫の手の感触は、彼女をこの上ない罪悪感へと誘った。そのままその晩は泊まってゆくと言うので、立て込んでいる中で小侍従から押しつけられるように袖の下へ入れられた間男の消息を、とっさに手近に敷いてあったしとねの下へすべり込ませた。どれほど優れた人でも、生きていれば一度や二度は取り返しのつかぬ過ちはするというけれど、彼女が犯した生涯最大の失敗はこれであった。

 翌朝、少し遅く起床した彼女が御帳台の中からいざり出てくると、夫はすでに出かけており小侍従だけが馬鹿に小さくなって控えていた。はて、どうしたのだろう。小さく首をかしげた彼女に、乳母子が当人もその質問をすること自体が破滅の始まりだと思っているとばかりに、恐々と緊張した面持ちで問うてきた。

 「姫宮さま、昨日お渡しした消息はどちらにしまわれましたか?」

 出がけに置き忘れた扇を探していた夫が、茵のそばで何かを広げてしばらく熱心に読みふけっていたのを見た、と語る小侍従の声は途中から全く彼女の耳には届いていなかった。年々反抗心が膨らんでいているとはいえ、彼女にとって夫は神や天のように絶対的な存在であった。その絶対的な存在に、とうとう知られてしまったのだ!

 (一体これから、どうなるというの…?)

 あまりのことに茫然自失となり、彼女は何も考えられなかった。一方もはや小侍従は不敬もかまわず、女主人の不用心さを涙声でひたすらなじった。

 「あぁ、あなたさまというお方はっ!これから一体、どうなさるおつもりですか?妻を若い男に寝取られたなど、あの誇り高い六条院は決してお赦しにはならぬでしょう。柏木さまとお腹のお子さまは、もう生きてはゆけませんよっ!」


 次に夫が訪ねて来た時は、彼女は恐ろしさのあまり顔を上げることができなかった。だが、夫の全身から怒りが滲み出ていることは鈍感な彼女でもわかったし、一見身重の妻を労わる言葉の中にも棘のあるものが含まれていた。針のむしろに座らされているような心地に、しまいには発狂して気絶しそうな妻を、人目のいないところを見計らって夫が乱暴に捕まえた。

 「あまりあからさまに動揺を表に出されますな。女房どもが不審がりますよ。慶事なのですから、もっとうれしそうになさってください。わたしをずっと欺いていたあなただもの。そのくらいの芝居はおできになれるでしょう?」

 「…」

 「おぉ、可愛らしいお顔が台無しだ。わたしだって辛いのですよ。まさかこの歳になって、自らのごうの報いを受けることになろうとは思わなんだ」

 「自らの業の報い?」

 「これは失礼。余計なことを言いました。とにかくもうこれ以上、真実を知る者を増やしてはなりませんよ。父院と主上は、今回のご懐妊に大層お喜びです。ややの父がまさか、あんな青二才の卑官だとご存じではいらっしゃらずにね」

 青二才の卑官!憤怒の表情が現れたのだろう、夫がほんの一瞬怯んだ。だがすぐに、これは珍しいものを見たと言わんばかりに、興味深そうに妻の顔を凝視してきた。その無神経さが癇に障った彼女は、自分でも初めて耳にするようなざらついた声で、頭に浮かんだことをそのまま問いかけた。

 「あの方をどうするおつもりですの?」

 「さぁ、どうするもこうするも、こちらから表立って糾弾するわけにはいきませんからね。あとはあの男の覚悟次第ではないでしょうか?あなたとお腹のお子のために、何としても生きぬく覚悟があるかどうかのね」


 何も知らぬ乳母は、長引く養い君の不調をひどく心配した。「おかしいねぇ。もういまぐらいの頃合いになると、悪阻も軽くなってくるはずなのだけれど…。一度薬師に相談した方がいいかねぇ?」何度もそう呟いては、女主人の体調を確認するために座を離れる母を見て、娘はよほど言ってやりたくなった。原因は悪阻じゃないのよ、お母さん。本当にどうしてこのようなことになってしまったのか。自分が手引きをしたことを棚に上げて、小侍従は面倒事に巻き込まれた我が身の不運を呪った。

 さすが艱難辛苦を耐え抜き位人を極めた人とあって、六条院は幼妻の不貞に対する動揺をおくびにも出さなかった。小侍従のした役割についても察しはついているだろうに、一度御手水を捧げたときにギロリと睨まれただけだった。だが、女主人に対してはやはり赦せぬという気持ちが抑えかねるようで、初産の妻を気づかうやさしい夫のふりをしながら、折に触れて遠回しな嫌味を耳元でささやいているようだ。母ほどではないが、小侍従もこの頃は心配になってきた。このような真綿で首を絞められている状態が、母体によいはずがない。

 (よもや六条院は、お子が流れるなら流れるで都合がよい、とでもお考えなのでは?)

 そんなはずはと思う一方で、あのお方ならば腹の底ではそのくらいのことは考えていそうだわと独りごちた。いまの女主人にはとても伝えられる噂話ではないが、先日催された饗宴の席で、病苦をおして参列した柏木中納言が六条院から盃を受けた直後、具合を悪くして抱え込まれるようにして帰って行ったそうだ。小侍従は、小動物をなぶり殺しにする猛獣を連想してぶるりと身を震わせた。姫宮さまと柏木さま、そしてお子さまは、これから一体どうなってしまわれるの?


 (苦しい、苦しい、苦しいっ…!)

 産気づいていからこちら、彼女は心の中でもう何度もそう叫んでいた。これまでに経験したことない激痛が身体中を支配し、身の内でじりじりと動く我が子の感触以外何も感じることができない。何も感じることができないはずなのに、自分をこのような境遇へ追い込んだ男への恨みつらみの言葉だけはなぜか浮かぶ。みんなみんな、あなたのせいよっ!数えるほどの邂逅しかないのに、いつのまにか最も身近な存在になってしまったあのひともまた、近頃は枕から頭を上げることもできぬほどの重篤らしい。

 (どちらが本当につらい思いをしているのか、いっそ親子三人一緒にはかなくなって、葬送の煙で比べてみましょう)

 少し前に自虐も込めて送った消息は、彼の症状をさらに悪化させたらしい。

 「ただでさえお加減が悪いのに、一読されたらますますお苦しそうでしたよ」

 恨みがましそうな態度を隠そうともせず、見舞いに行った小侍従がそう報告した。日々男たちと恋愛遊戯を楽しむこの乳母子には、決してわかるまい。傷つけ合う形でしか、愛を紡げない者たちもこの世にはいるのだ。

 息も絶え絶えに、彼女はいま一度力んだ。もう生きてはおれぬと絶望する一方で、一刻もはやくこの激痛から解放されたいとあがいている己の往生際の悪さを自嘲した。

 「あぁ、姫宮さまっ!いま少し、いま少しでございますよ」

 正直なところ、我が子を愛することができるのか、母親としてやっていけるのか、彼女には全く自信がない。ただ、気分や調子が比較的良い時は、どうなってもやれねばならぬのではないかという気持ちにもなった。

 「あぁ、お生まれになりましたっ!男御子さまでございますよっ」

 「おとこ、みこ」

 うわごとのように呟いた彼女は、女房たちに助け起こされ、たったいま誕生した我が子へと手を伸ばした。はじめはすすり泣くように弱々しく鼻呼吸していた赤子は、口を開けた瞬間吸い込んだ新鮮な空気に驚いたように突然大きな声で泣き出した。

 「まぁまぁ、元気な御子さまでございますねぇ」

 「それになんていい香り」

 口々に褒めたたえる召使いたちの言葉も耳に入らず、彼女はじっと号泣する我が子を見つめた。あまりに激しく泣いているので、この子は自分の分も代わりに泣いてくれているのではないかとすら思った。本能的に慰めてやりたいという気持ちがわいた。

 「こちらへ」

 おうおうとあやしていた乳母に言うと、彼女はぐっと身を乗り出してすくい上げるように我が子を引き取った。火の玉のように熱く力強い赤子は、華奢な彼女でも抱え込めるほど小さく軽かった。乳母がしていたようにぎこちない手つきでそっと揺らし続けると、顔を真っ赤にして興奮した様子だったのがだんだんとおとなしくなり、ついには小さな寝息を立て始めた。

 「まぁ、あれほど大泣きしていらしたのが嘘のよう。お母上がおわかりになるのですね」

 満面の笑みで乳母が言うと、きっとそうですわねぇと周囲にいた者たちも同調し、産室の張りつめた空気が一気に和やかになった。あたたかい雰囲気に緊張を解いた彼女は、眠る息子にほほ笑んだ。どうなっても、生きてゆくしかないのだ、この子のために。


 〝父親〟である夫は、女房がつれて来た赤子を冷ややかに一瞥すると、「男か…」とひと言洩らしただけで触れようともしなかったらしい。当然のことだと思う一方で、悲しいような溜飲が下がるような複雑な気持ちとなった。

 そう、生まれた子は男の子なのだ。成人すれば御簾内の日蔭者となる女とは違い、男は気軽に外へも出るし出仕もする。まして天下人たる六条院と先々帝の皇女との間に生まれた子なのだから、必ずや衆目を集めることとなるだろう。そうなれば、息子の出生にまつわる秘密に気づく人もいるかもしれない。

 (けれど、宮中へ出仕するようになれば、息子も本当の父親に逢うことができる)

 桜吹雪のようにはかない願いではあるが、そう考えると彼女は胸に熱いものが込み上げた。だが、小侍従から聞く彼の病状は日に日に絶望的になっていくし、母親である彼女もまた産後のひだちが悪く息子に乳を与えることすらままならなかった。

 「それにしても、六条院さまのなんと薄情なこと。若君のことに興味を持たれないばかりか、近頃はこちらへろくにお渡りにもならない」

 と、ひどく憤った調子で乳母が言うのも、下を向いてやり過ごすしかない。

 (ひょっとして、これは罰なのかしら?)

 身の丈にあわぬ冒険をしたことへの。ひたすら御帳台の天井を眺め、時折傍らに寝かされている息子に触れるだけの一日は、彼女を激しい焦燥感へと駆り立てた。一刻もはやくこの罪を償わなくてはならない。わたくしのために、あのひとのために、息子のために。悶々とした拷問のような養生の日々をしばらく送っていたある日、うつらうつらしていた彼女はふいに頭上が暗くなったことに気づき、ぱちりと目を見開いた。

 「あぁ、姫宮よ。久しぶりだね。思ったより元気そうで安心したぞ」

 記憶にあるより幾分老けた父院のお顔が目の前にあった。

 「お父さま、どうして?」

 「せっかく息子を産んだというのに、そなたがちっとも母の喜びを享受しておらぬと耳にしたゆえ、心配で六条院に無理を言ってこうして忍びで見舞いにやって来たのだ」

 そうおっしゃった父院は、少し困ったようにほほ笑まれた。その慈悲深い表情に、これまで溜め込んでいた苦しみが一気に解放されたような心持ちとなった彼女は、「お父さま、お父さま」と御胸に取りすがってさめざめと泣き出した。父院は動転なさりながらも、ついまじまじと愛娘をご覧になった。幼少から何事にも無関心・無表情だった娘が、これほど感情も露わに甘えてくる姿をどう捉えるべきか、判断を下すことがおできになれなったのである。

 (ようやく人並みの喜怒哀楽を備えるようになったということか?しかしそれにしても…)

 なおも続く母親の悲痛な嗚咽につられて息子が泣き出し、控えていた女房らが慌てて参上した。父院は御自ら孫を抱き上げると、女房の一人にお預けになり、「しばらくわたしと姫宮二人だけにさせてくれ」と人払いをなさった。そして、女房らが完全に下がったことを確認なさると改めて娘に向き直り、たった一言「何があったのだ?」と簡潔にお尋ねになった。

 「なにって…」

 いつもの尊貴なご身分にふさわしい深謀遠慮なもの言いとは正反対のお言葉に、今度は娘がたじろぐ番だった。心なしか眼光が常よりも鋭くなっているお顔立ちは、娘が知ることのない父院の帝王としてのもうひとつの側面だった。

 「六条院と何かあったのか?彼にひどいことでも言われたのか?」

 言外に事と次第によっては異母弟との対決も辞さないお覚悟があることを感じ取った娘は、さらに大粒の涙を流すままにしながら途切れ途切れにささやいた。

 「違うの、違うの、お父さま。六条院は何も悪くはないの。みんなみんな、わたくしが悪いの。わたくしのせいで六条院さまが怒って、あのひとは六条院さまに睨まれてしまったの」

 あのひと?声にならぬ声で、父院は呟やかれた。そして見舞いをする数日前、愛娘や孫の近況をお尋ねになった時にご覧になった弟のつき離したようなもの言いを思い出された。確信はお持ちになれなかったものの、ご両親の代から愛憎渦巻く後宮の人間模様を目にされてきたお方とって、ある推測を立てるには充分な断片がそろっていた。

 だとしたなら、さてこれからどうするべきなのだろうと、しゃくり上げる娘の頭を撫ででつつ思案なさっていると、ふいに娘が顔を上げてまっすぐにこちらを見据え、少し大きな声で言った。

 「お父さま、わたくし、出家がしたい」

 「しゅっ出家ッ⁈何を言っているのだ、姫宮よッ!」

 ぎょっとされた父院の叫び声に、離れたところで控えていた乳母と小侍従母子は何事かと顔を見合わせた。それからしばしの間詳しい内容は聞き取れなかったが、何やら女主人へ向かい必死に諭されているご様子だった。やがてお呼び出しがかかったため参上してみると、憔悴なさった表情で「姫宮がいまから出家することになった。準備なさい」とおっしゃったので、母娘は驚きのあまりすぐには命じられたことが理解できなった。

 急な思いつきのように始まった得度の支度ではあったが、そうはいってもやはり皇族がすることなので、格式ある道具類や人を集めるのにしばらく時間を要した。そのあいだにさすがにだれかが知らせに行ったのだろう。困惑しつつも女主人が世捨て人になる準備を進める女房たちで立て込んでいる室内に、いかにも取るものも取りあえずという感じの六条院が足早に入って来た。妻の居所を探してきょろきょろとあたりを見回した彼は、奥の方に座して女房らの準備を眺めていらした異母兄とピタッと目が合ってしまった。

 「こちらへ来なさい」

 自分から何か申し上げる前に、いつもより強い口調で命じられた弟は、引きずられる囚人のような重い足取りで兄上の御前に恐る恐る座した。

 「あなたへ何も言わず、勝手にこのようなことを決めてしまい誠に申し訳ない。しかし、あの子がどうしてもと言ってきかないのでね。むかしからわがままひとつ言わぬ子の願いだから、叶えてやらねばと思ったのだよ。できれば、もっとほかの願いだったらよかったのだが…」

 「何とか止めることはできませぬか?父上であるあなたさまが説得すれば、妻も気が変わるかもしれません」

 「説得したさ、何度もね。だが、あの子の決心は揺るがなかった。あれほどはっきり自分の意見を主張するあの子を見たのは初めてだったよ。何があの子を、いや、だれがあの子をそうさせたのだろうね?」

 そうおっしゃって横目でこちらをご覧になる視線を受け、弟は恥じ入ったように顔をそらした。忙しく女房らが立ち回っている室内で、そこだけが気まずい空気にときを止めたように沈黙していたが、ややあって兄上の方が疲労感の滲み出るお声で会話を再開された。

 「ともかくも、話はもう決まってしまったのだ。だが、生まれたばかりの子がいる中での出家。恐らく、この先いろいろと不便・不都合が生じてこよう。だからあなたも、どうかこれきりの縁だと思わず、引き続き娘と孫のことを気にかけてはもらえないだろうか?」

 「はっ、はぁ」

 「まぁ、孫のことについては、あなたも怒り心頭だろうが…」

 危うく聞き流しそうになるほどさりげないひと言であったが、耳ざとい弟は貴人の慎みも忘れ目を見開いた。そして、彼のその表情から院はご自分の推測が正しかったことを悟られた。

 「おっ恐れながら、院⁈」

 「何も言うな。わたしは何も知らぬし、知りたいとも思わぬ。ただ、娘を許すことができずとも、せめて孫のことは悪く思わないでほしい。子には罪はないのだからな」

 「いっ院…」

 「おや、小侍従がこちらへやって来るぞ。どうやら式の支度が整ったようだな。やれやれ、とんだ見舞いとなってしまったものだ」


 亡くなったという知らせが届いたのは、墨染の衣に身を通してまもなくのことであった。

 「姫宮さまが出家なされたとお聞きなって、一気に生きる気力を失われたご様子だったそうです」

 充血した目で報告する小侍従へ「そう」と気のない返事をした彼女は、少し離れたところに寝かされている息子へいざり寄った。この頃はこうして我が子の寝顔を眺めることが日課のひとつとなっている。

 不思議なことに、息子は両親のどちらにも似ていなかった。美しい子には違いないが、両親の形質をそれぞれ平等に受け継いだのか、片方ばかりに似るということは起こらなかった。当初はそのことに心から安堵したが、いまとなってはそれがたまらなく哀しい。息子の顔を通して悲恋を思い出すことも許されないほど、自分たちは罪深い身の上なのか。  

 「ひと目でも我が子の顔を見たかったでしょうに、気の毒なことでしたね」

 後ろからかけられた声に、彼女は顔をしかめてふり向いた。出家によって夫婦関係は解消されたため以前ほど訪れる回数は減っていたが、定期的に夫は世捨て人となった妻のもとへ顔を出していた。

 「そんなに嫌そうなお顔をなさってくださいますな。院からあなたのことをくれぐれもと頼まれているのです」

 そう言いながら歩み寄って来た夫は彼女の傍らへ腰を下ろし、寝息を立てる赤子の頬をそっと撫でた。

 「それにしてもきれいな子だな。夕霧や中宮も可愛かったが、この子ほどではなかった。一体、どのような人生を送ることになるのやら。わたしは見届けることはできないだろうが…」

 しみじみとそう語る夫の顔を、彼女は怪訝そうに見つめた。産まれた当初こそ忌まわしそうに眺めるばかりであったが、この頃は以前ほど煙たがっておらず、ときには抱っこしてあやしている彼の心境の変化は、彼女には理解しがたいものだった。父院が何かおっしゃってくれたのかもしれないが、それだけではないような気がする。実際のところ、自分よりこの人の方がよほど謎めいた存在なのではないだろうか。最近、彼女はよくそう思うようになっていた。

 「何かご不便はありませんか?」

 「いいえ、とくには」

 「そうですか、不便なことがあったらなんなりとおっしゃってください。子どものいる家です。快適にするに越したことはありませんから」

 もはや夫婦というより、主人と家人のような会話であったが、近頃の彼らにとっては平生のそれになりつつあった。結局のところ、この夫婦は本来男女の仲になるべき間柄ではなかったのだろう。相変わらず愛想のない妻の態度に苦笑した夫は、静かに立ち上がり部屋を後にしようとしたが、ふと何か思い出したように出入り口でふり返った。

 「逢いたかったですか?」

 「えっ?」

 「彼にもう一度逢いたかったですか?」

 率直な質問に彼女はたじろいだ。相手が夫だったからがゆえではない。その質問自体に答えられない自分に戸惑ったのである。何が正解なのだろう。逢いたいと思うことも、逢いたくないと思うことも間違っているような気がする。彼女はそっと目を閉じ、憎むだけでは終われなかった男の顔を思い出した。

 「いいえ」

 「逢いたくはなかったと?」

 「はい」

 「…そうですか」

 夫は少し悲しそうに呟いた。もちろん、彼女はなぜ夫が落胆したのかわからない。許されぬ男女がいま一度逢瀬を重ねたところで、あとに続く永遠の別離によけい苦しむだけではないか。彼女にとっては、それ以上でもそれ以下でもない答えだった。夫がものも言わずじっと見つめてくるので、彼女も無言で見返した。歩み寄ればわずか数歩の距離であったが、そこには確かに越えられぬ関が存在した。

 「さて、そろそろわたしはおいとましますよ。また、近いうちに参ります」

 「はい。お身体に気をつけて。いってらっしゃいませ」

 しつけられた通りことを淡々と述べた彼女は、ぺこりと会釈するとそのままいざって几帳の後ろへ引っ込んだ。依然として息子は規則正しい寝息を立て、世の中の苦しみとは無縁の平穏に浸っている。

 (この子にもいつか、愛がもたらす苦しみに悩む日々が訪れるのかしら?)

 寝返りひとつ自分でうてない存在にそんな日々がやって来るところを、彼女は想像できなかった。だが同時に、あの悲恋の果てに生まれた子なのだから激しい恋をするに違いないと確信もしていた。

 (だとしたならば、我が子よ。愛がもたらす苦しみから逃げないで。あのひともきっと、それを望んでいる…)

 いま一度度息子の顔をのぞき込んだ彼女は、そのやわらかな頬にそっと口づけをした。それは、生まれて初めてこの姫宮が自発的にした愛情表現だった。

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煙くらべ ~女三宮秘恋抄~ 長居園子 @nanase7000

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