『七ツ森』18
18
《大鴉の槍》。ニールスが問題児と呼んだその槍を、マキはじっと見つめた。そもそも武器、というものが現実離れしている気がする。マキは台所の包丁を怖いと思った事があるが、今目にしている槍や、部屋の中にある武器の数々はそれ以上に危険なものだ。見慣れないあまり実感が湧かなかったが、これらは包丁以上に簡単に人を殺せるものなのだ。
「どうして武器を作っていたの?」
マキが尋ねるとニールスは壁にかかった武器に目をやりながら答えた。
「最初は神話に出てくる武器を再現したかったんだ。あの頃は異界探索が盛んで、強力な武器があれば脅威を退けられたから。神話級の武具――僕らは
色々あって今はやめてしまったけどね、とニールスは付け加えた。
「大鴉の槍は一時期だけ武具製作に復帰した時に作ったんだ。さっきも言った通り最高の一本を目指してね。穂は生え変わり銀を織り込んだ特殊鋼で、魔力なしで単純に突くだけでもコンクリートの壁を貫ける。柄と穂の
話が長いうえにカタカナ語も用語も多かった。マキは真顔でニールスを見つめた。
「ごめん。全然わかんない」
『ニールス。武器オタク過ぎるよ』
マキとノルズリが同時に言った。
「えぇ……いやまあ、そうかもしれないけど。本当に大変だったんだよ、この槍を作るの。材料集めだけでもかなりお金を使ったし、八か月は工房に籠っていたし。なのに完成したら言う事聞いてくれないしで、本当にもう愕然としてね……」
はあ、とため息をついて、ニールスは椅子から立ち上がると、あらためて大鴉の槍に向き直った。
「大鴉の槍よ。珍しく高揚しているようだが、ほかの武器たちが困惑している。一度君を鎮めるから――」
ニールスが親指と中指を合わせ、腕を槍に向ける。マキは何の気もなしに槍を見ていた。ニールスの言う武器たちの困惑も、大鴉の槍の高揚も何もわからないが――
――気配を感じた。無機物の中にある意思を――
ぞく、と身体が震えたその瞬間、大鴉の槍から異様な気配が放たれ、瞬く間にマキの身体を、その中にある精神を掴んだ。魔力。マキの中にある超常のエネルギーが吸い上げられ、同時に槍から発した魔力がマキに与えられる。胸の中で何かが弾けるような衝撃はあったが痛みはない。感じる。槍の存在を。身近に。声も、言葉もないのに、その息遣いを。感じる。わかるのだ。槍に意思がある事が。その意識がマキに向けられている事が。
「……繋がった」
思わず、マキは呟いていた。
隣で槍に向かって腕を伸ばしていたニールスが、実に神妙な顔をした。
「……繋がった?」
「たぶん……」
「魔力が吸われた感じ、した?」
「した」
「槍、呼んだら来そうな感じ、する?」
「する」
「あー……」
ニールスは天井を仰いで、伸ばしていた手を頭にやった。
『武器たちのざわめきが止んでいる』
ノルズリが言った。
『大鴉の槍が落ち着かなったのはこのせいかな。彼女、選ばれたんじゃないの?』
「そのようだね。牧場の動物が懐いたようなものだけど……にしても、勝手に魔力を繋ぐなんて行儀が悪いな」
じと、とニールスは槍を睨んだ。
「……わたし、何かしちゃった?」
何となく心配になって、マキは訊いた。ニールスはすぐに首を横に振った。
「ああ、いや。マキが悪いわけじゃないよ。槍がね。勝手にマキとの間に繋がりを作っちゃっただけでね。まあ、武器に気に入られる事は悪い事じゃないけど、少し早すぎる。君はまだ修行を始めたばかりだし、戦いを教えるのはもう少しあとになってからだ。槍からこんなふうに繋がりを作るのは、想定外だよ」
とはいえ、とニールスは続ける。
「できた繋がりを他人が強制的に切るのも良くない。すぐに槍が必要な事態になってほしくはないが、いざという時は大鴉の槍を呼ぶといい。君を守ってくれるはずだ」
ニールスは優しい口調でマキに言い、それから槍を見て、
「ちゃんと来るんだぞ」
と、しかめ面で言った。
マキは槍を見た。壁に留められた大鴉の槍は静かに佇んでいるようにも、不敵に笑っているようにも見えて、これが武器の魂を感じ取るという事だろうかと思った。
昼食を摂ったあと、マキはニールスとともに、最初に泊まった部屋に入った。木材の壁や床のそこら中に傷や割れ目がある。悪夢に囚われていたマキが魔力によってつけたものだ。
直前に、クレマチスの部屋を見舞ったが、彼女は起きていなかった。ニールスは大丈夫だというが、本当はクレマチスはかなり悪いのではないか、そんな想像が頭をよぎる。
「大丈夫さ」
傷ついた床板を新しいものと取り換えながら、ニールスが言った。
「クレマチスの魔力が徐々に大きくなっているのを感じる。もうすぐ起きて歩けるくらいにはなるさ」
ニールスがマキを見て、にっと笑う。そんなに顔に出ていただろうか。何だか心を読まれたみたいで少し複雑だ。
「心配もいいが、手を動かしてくれ。さっき言った通り、ひび割れ箇所に木工パテを塗っていくんだ。この部屋は修復したらマキの部屋にするから、しっかり直すつもりで心を込めて塗ってくれよ」
心を込めて木工パテを塗れとは一体どういう事か、直れ直れと念じたら部屋が直るのか、そもそもやっぱり魔術で修理したほうがどう考えても早いんじゃないか、などと数々の疑念が湧いたものの、マキはひとまず言われた通りにやってみる事にした。
(直れー、直れー……)
木工パテをひび割れたところに塗り込む。
……以上。
特に変わったところはない。
「何も起こらないけど……」
「もっと心を込めるんだ」
カンカン、と金槌を打ち付けながらニールスが言う。
「そうだな。声に出してみるといい。直れー、直れーってね」
一体何が違うのか。ニールスの言っている事はさっぱりわからない。
ひび割れはまだまだある。マキは木工パテの注ぎ口を次のひび割れに突っ込んだ。
「……直れー、直れー」
木工パテを塗る。
特に変わりはない。
「うーん……」
訳が分からない。ニールスは一体何をさせたいのだろう。ああ、訳が分からない。やっぱり魔術で修理したほうが早いんじゃないか。
「――何を直したいんですの」
「……この部屋。傷だらけにしちゃったから」
「どんな風に直したいんですの」
「うーん……綺麗に? いい感じ? に?」
「それなら、想像しながら塗ってみてはどう? どんな風に綺麗に直っていくのか、想像しながら」
全く不思議な事だが、この時までマキは自分が誰と喋っているのか気付かなかった。
「クレマチスさん……?」
振り返ると、そこには寝間着姿のままのクレマチス・エルフが立っていた。
「クレマチスさん!」
「お久しぶり。マキさん」
クレマチスはまだ少し青い顔で微笑んだ。
「師匠の言っている事、わかりづらいでしょう。ニールスは何でもできるから、自分の教え子にもまとめて詰め込もうとするんですよ」
「できるさ。僕の教え子は皆優秀だ」
さらっと、ニールスが言った。
「それはどうも。でも、皆が皆、師匠のように複数の事を同時にできるわけではないんですよ。さ、マキさん。まずはこの部屋をよく見回してみて。ここはマキさんの部屋になるのだから、どんな部屋になってほしいか、想像するの」
マキはクレマチスの言う通り、傷だらけの部屋の中を見回してみた。どんな部屋に? まあ、壁も床も綺麗なほうがいい。もしここが自分の部屋になるのなら、布を縫い合わせた飾りのようなものを、壁に飾りたい。何て言ったっけ。タペストリー? それから、ここは壁が広いから、世界地図を貼るのもいい。実家のマキの部屋はお母さんが怒るから、好きなものを貼れなかった。
「……マキさん?」
「……
一度、自分の家の事を思い出すと、涙が止まらなくなった。木工パテを塗るどころではなかった。帰りたい。胸が潰れそうになる。家に帰りたい。
「いいの。マキさん」
クレマチスが後ろからマキの事を抱き締める。
「……お二人をお守りできなかった。どんな謝罪の言葉でも足りないわ。わたくしはあなたに尽くします。あなたが寂しい時を耐え、悲しみを胸に秘めて生きていけるようになるまで、わたくしはあなたに尽くします」
金槌の音が聞こえない。嗚咽は止まず、窓の外ではまた雪が降っている。寒さに苛まれる事はなく、人間の温かみはすぐそばにある。マキは一人ではない。でも、ここは見知った家ではない。壁と床の傷を直し、ここをマキの部屋だと言ってみたところで、ここはマキの部屋ではない。家族で暮らしたあの家の、見知った自分の部屋ではない。直れ、直れと唱えても、マキが治るかはわからない。
「美しいものを思い描くのですよ。わたくしたちは魔力を操る人間。自身が思う素晴らしいイメージを思い描けたのなら、その指先には必ず魔力が宿る」
ゆっくり、ゆっくりと修復された部屋を頭の中に思い描く。美しい木目を。静謐な室内を。自然と、木工パテを塗り込んだ箇所から、ターコイズブルーの仄かな光が溢れる。
「魔力が通ったら合図をするの。術を完成させるための合図。合図は流派によって千差万別ですけれど、わたくしたちの合図は、これ」
クレマチスは右手の親指と中指を合わせると、パチン、と指を弾いてみせた。
いわゆる、指パッチンだ。そういえばクレマチスもニールスも魔術を使う時、指を鳴らしていた。
「さ、やってみて」
マキは頷き、クレマチスと同じように指を合わせる。……弾く。小気味いい音は鳴らず、かす、という指と指が僅かに擦れた音がした。
「難しいんだけど……」
「慣れれば簡単ですよ。ほら、こう」
パチン、と再びクレマチスの指が鳴る。見様見真似で、マキはもう一度やってみる。ぱす、という音がして、仄かなターコイズブルーの光が、傷ついた床板に広がった。
「……うまくいった?」
「ええ。今の感じで良いですよ」
クレマチスがにこっと笑った。
よし。
「結局魔力で直すんじゃんー」
マキがニールスにむーっとした顔を向けると、ニールスは眉根を寄せた。
「ちがーう。本当に手だけで修理をしてもらおうと思ったんだ。魔力が宿るのは自然に出ればいいなーくらいで」
「そんなふわふわとしたレッスンプランでは、教えられるほうは何をしていいのかわかりませんわ」
「術なんてあとでいい。いくらでも覚えられる。大事なのは魔力を体感する事さ。それから魔力に頼り過ぎない事。クレマチスだってわかっているだろう」
「わかってはいますが、部屋の修理であわよくば両方教え込もうというのが少々乱暴ですわ。マキさん。師匠はこの通りわりと雑な性格をしていますから、おかしいと思ったらすぐにおかしいと言ってしまって構いませんよ」
「わかった!」
勢いよく返事をすると、ニールスとクレマチスは少し間をおいてから笑い出した。マキも笑った。少しだけ、マキはこの家に慣れた気がした。間もなく夕食だ。今日はクレマチスとも一緒にご飯が食べられるだろう。
外はすっかり暗くなって、静かに雪が降りしきっている。穏やかな時間だった。ここがどこかさえ、忘れるほどに。
部屋を出る。マキが先頭、次がクレマチス、最後がニールス。ドアを閉める前に、ニールスが刃のような目で窓の外を見たのを、マキは知らない。
――
血が巡る。呪いという力を持った血。この世界に降り立つために用意した
最低限のエネルギーは補充した。封印された二百年前と同じとは言わないが、問題なく動けるだろう。
「――ぐる、ふぅ、ぐるっ」
ガルタンダールは床に目をやった。人間の血という血がぶちまけられた床の上に、大きな獣がその身を伏せていた。つい数時間前まで人間が生活していたこの家も、今は死した家人の発した呪詛に満ち、家具は破壊され、血の臭いがそこかしこから漂っている。
獣が、ガルタンダールを見上げる。暗い感情を宿した瞳で。
「そう焦るな。遊ぶのは夜が明けてからだ」
ガルタンダールは、獣の長い髪に触れる。途端に獣が、地鳴りのような唸り声を上げた。
だが、ガルタンダールは一切怯まない。獣の髪を撫でつけ、銀の瞳で闇を見つめる。
「人間は変わらないね。果たして二百年眠った甲斐はあったのかどうか。明日は森でピクニックだ。お前も広いところで駆け回るといい。私はゲームの再開を宣言しよう。当代きっての魔術師に、私の
遠い、遠い未来を見ている。
闇と霧の世界からやってきた、呪われ人が。
怪物が。
「お前は怖がらせる役だ。思いっきり暴れておいで」
ガルタンダールの指が、髪の中に沈む。
獣が、吼える。家中に、闇が満ちていく。街の明かりは遠く、夜闇の中に本当の暗闇が溶ける。夜明けまで数時間。その間にエイボンが最後の支度を整える。獣が吼える。ガルタンダールのピクニックまで、あと十時間。
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