『七ツ森』17
17
「最初のレッスンは《ラクガキ》だ」
ニールスが指をくるくると回しながら言った。
「ラクガキ……?」
「そう、ラクガキ。魔力で空中に図形を描くんだ。最初は
ピン、とこなかった。
「……えぇー」
マキの反応に、ニールスは、え? と、表情を強張らせた。マキにしてみれば、自分の心に素直に従っただけに過ぎない。
「え……ラクガキだよ。楽しそうでしょ?」
「ラクガキとかしないし。何で〇とかじゃなきゃダメなの。つまんない」
「つ、つまらない……?」
ニールスがびっくりしたような声を出した。いや、現にびっくりしているのだ。
「これ……昔、君くらいの年齢の弟子に教える時には大ウケだったんだけど。えー……駄目なの。……あ、じゃあそしたら、猫ちゃんとか描いてもいいから」
「絵、下手だから嫌」
マキはわりと成績が良くなかった。得意なのは国語くらいである。文章はいくら読んでも苦にならず、中学生、あるいは高校生が読むような難しい漫画でも楽しむ事ができた。反対に、図工は絵も粘土も同じクラスにもの凄く上手い子が何人かいて、マキは自分の描いた犬や猫や花や太陽がいかにも子どもっぽく、お世辞にも上手くないのが嫌だった。
「ていうか、〇とか×とかで練習しなきゃ駄目? わたし、分身作れるんだよ?」
「それはもちろん君の素晴らしい才能だ。けど、マキ。何事も基礎ができていなければ、ぐらつきが生じるものさ」
さっきまでの戸惑いをさっと消し去って、ニールスは教えを授ける人物の顔に戻っていた。
「ぐらつきって何。わたし、ちゃんとできるよ。〇とか×とかより、もっとすごいものを教えてよ。必殺技とか」
分身だけでは、どうにもならない事はマキにもわかっている。それなら、〇だの×を練習するより、怪物たちを倒せる魔術というものを勉強すべきではないか。マキの心には、そんな感情があった。
「ふーむ……」
ニールスは顎に手を当て、しばし考えるようにマキを見つめた。
それから、
「たとえば、〇はこんな感じなんだけど」
ニールスの手から白い燐光の、綺麗な線で描かれた〇が出現した。とても綺麗な円だ。マキにもそれはわかる。
「これがね、こんな感じに……」
ニールスが手を動かすと、その動きの軌跡を描くように、〇が連なって増えていく。
ちょっと良い。
「おお……」
思わず、マキは言った。
「さらに、こう」
〇を一周させて大きな円を描いたニールスは、くるっと手を回す。すると一瞬で、連なった〇たちが頂点の〇に収束し、一つの〇に戻る。
「これを、こう」
収束した〇に対して、横回転を加える。すると、平面だった〇は、白い燐光の球体になった。
「おおー!」
ぱちぱちと、マキは拍手した。
ニールスはへへへ、と笑った。
「いやーありがとう。実はこれ、魔力を綺麗に操るための練習なんだ。これができると分身だけじゃなくて色んな事ができるようになるんだよ。〇、×、△、□がちょうどわかりやすい形だからね。だから最初はこの四つから始めるんだ」
「へえー」
ちょっと。ちょっとだけ、自分でもできるんじゃないかという気持ちが、マキの中に浮かび上がってきた。
「……やってみる?」
ニールスが柔らかい笑みで聞いた。
「……うん」
マキは、少し目を伏せて頷いた。
〇は綺麗に描けず、×は二本の線の長さが違う。△は何だか歪んでいて、□は辺の先が微妙に飛び出る。
頭で思い描くのと、実際に魔力を使って描くのは全くイコールではなかった。とにかく想像している通りにならない。何だか、全部がずれていくのだ。
「大丈夫。まずは数をこなそう。ちょっとずつでいいから、魔力を綺麗に形にするよう意識してやってみて」
ニールスはそう言うが、魔力は身体の外に出すだけでも疲れる。しかも何だか思った以上の量が出るのだ。自分の中にあるエネルギーが尽きるとは思わないが、〇から□までの四記号を連続して出すと、全力疾走したような疲労感がある。
「さん……かく……っ」
手がプルプルと震える。線のぼやけた△が、弱弱しく浮かび上がる。
「し……かくっ!」
台形めいた四角を持つ図形が手から飛び出し、マキはそのまま膝をついた。全身の筋肉が疲れている。そんな感じがした。このあいだまではこんなふうじゃなかった。無限のエネルギーが自分の意のままに動いていたはずなのに。
「前にも言ったけど、君の身体は増強された魔力に併せて変化している。君自身の心と身体が一致するまではちょっと時間がかかるだろう。でも気にする事はないよ。こういうのは自然と馴染むものだから」
言って、ニールスはローブの袖から取り出した懐中時計を見る。
「じゃあ十分休憩ね」
「十分? もっと休ませてよ」
校庭を何周も何周もして、百周くらいノンストップで走り続けたような気分である。とても十分では疲れが取れそうもない。
「大丈夫さ。僕の見立てじゃ十分もすればけろっとしているよ。走り回れるくらいにはなっているだろうね」
「絶対無理……。三十分は休みたい……」
だが、実際はニールスの見立て通りとなった。十分が経過する頃には、マキの身体は活力を取り戻し、さっきまでの疲労感はどこかへ消え去っていた。
「すごい……」
手を握って開いてを繰り返し、軽くその場でぴょんぴょんと跳んでみる。すぐにまた全力疾走できそうなくらいに身体が軽い。
「まだ意識的に動かせない魔力が自己回復を促したんだ。こういうところからも、魔力を使う事を身体に覚えさせていくんだよ」
さて、とニールスは言った。
「次のレッスンだ」
次のレッスンは《アスレチック》だった。森の中に設置された広大なアスレチックの中を駆け回るのだ。高低差の激しいコースをクリアするためには、魔力による身体能力の向上が不可欠で、やはりこれも魔力を使う事を身体に覚えさせるためのレッスンだった。アスレチックの各所には
レッスンの要点について、ニールスは次のように言った。
「魔力を扱う以上、空間内で自由自在に動ける事は必須能力。極論を言えば、魔力さえ完璧に操れれば地球上のあらゆる場所で生き延びられる。そのためには使用できる魔力の量を増やす事と、大量の魔力を繊細に扱う事を覚えなければならない。《ラクガキ》と《アスレチック》はまさに基礎訓練なんだ」
レッスンは日暮れまで続き、終わる頃には今度こそマキは疲労困憊だった。それでも風呂に入り、ハチミツの入った特製ドリンクを飲むと食欲が湧いてくる。昨日と同じ多くの品々が並んだ食卓でマキはもりもりと食べた。
「クレマチスさん、大丈夫?」
食事の合間に、マキは尋ねた。
「さっき部屋で夕食を摂って、今はまた眠っている。彼女は魔力をほとんど使い切ってしまった。元気を取り戻すにはまだまだ休養しないと」
ニールスはフォークを皿の上に置いた。
「明日の午前中は今日と同じレッスンだ。そのあとは部屋の修理をしよう。その時、もしクレマチスが起きていたらお見舞いに行こう」
「うん」
マキはポケットの中を探った。平べったい、文字の刻まれた石を取り出す。ルーン・ストーン。クレマチスから貰った『
「その石は役割を果たしたようだね」
ニールスが言った。
「だが見たところ、まだ魔力を込めても問題なさそうだ。クレマチスは刻印が上手い。ルーン・ストーンは消耗品なんだけど、綺麗にルーンが刻んであるとストーンは長くもつんだ。刻み方は彼女に習うといい」
夜。マキは小さな寝室を用意された。明かりと机とベッドだけの部屋だ。窓の向こうには暗い森と星空が見えたが、寒いのでカーテンを閉めた。
「僕はもう少し仕事があるが、アウストリが家の管理をしている。何か用があれば呼びなさい」
ニールスの横で、翡翠色の目をしたマスコットのような使い魔が軽く一礼した。
「一人で平気かい?」
「うん」
マキは頷いた。ニールスは人差し指で丸眼鏡の位置を直し、
「わかった。どんな用事でも構わない。何かあれば遠慮なく言ってくれ。それじゃ、おやすみ。マキ」
「おやすみなさい」
用意された寝間着は着心地が良く、ベッドもふかふかだった。少し枕が柔らか過ぎる気もしたが、まあいいかと思う。疲れていて、でもお腹は満たされている。お風呂に入り、歯磨きもしっかりした。
目を閉じた。両親が傍にいない夜だ。もしかしたら……いや、きっとこれからは、こういう夜が当たり前になる。知らない家の知らない夜。朝。その繰り返しが始まる。ニールスはいつか家に帰すと言っていたが、帰ってどうなるというのだろう。お父さんとお母さんはいない。学校の皆はマキをどう思っているだろうか。旅行が長引いていると思っているのか、それとも、いつの間にかいなくなったねと話しているか。
いつの間にか眠っていた。悪夢らしい悪夢は見ない。代わりに、ただ真っ暗な闇の中に、静かに降りていく感じがした。
翌朝八時からレッスンを開始した。《ラクガキ》と《アスレチック》を一時間ごとに交互に行う。
魔力で記号を描くのは、粘土をテレパシーだけで形にするようなものだ。逆に、どうして分身はスムーズにできるのか、マキには不思議だった。考えてみれば、分身する時には何かスイッチが入るように、自然に、勢いよく分身を生み出せる。この違いは何だろう。
気分の問題だが、分身を生み出す時、マキは自分がすごい者、とても強く、高みにいるような感覚を覚える。一度、この感覚を実感すると、物を転移させたり、魔力で飲み物の中身を操ったりといった事は簡単にできるようになる。
つまり、この『高みにいるような感覚』が、ニールスの言う『才能』の実態なのだ。
それなら、いつもこの感覚になれればいい。全てができるという感覚を持てるなら、全ての事がマキにはできるはずなのだ。
「あー……」
芝生に大の字で倒れ、マキは曇った空を見上げる。すでにラクガキを二回、アスレチックを一回終えていた。やっぱり疲れる。
「マキ。ちょっと移動しよう」
様子を見ていたニールスが言った。
「どこに行くの?」
「工房さ。部屋の修理に使う木材や道具を取りに行くんだ」
「ねえ、部屋って魔術で直したりってできないの? 道具も魔術で取ってきたりとか」
頭に浮かんだ疑問をそのままマキは口にする。
「いい考えだ。確かに君の言う通り、僕は魔術で部屋を直せるし、道具もその気になれば手元に取り寄せる事ができる。実際、今僕らが暮らしているあの家も、様々な魔術を施してあるからね。リモコンを失くしても五秒で好きな場所に出現させる事だってできる。でもまあ、手を動かして何かを直すのもいい。魔力は永遠じゃないからね。何でも魔力頼り、魔術頼りにならないほうがいいのさ」
「そうなの? でもじゃあ、どうして魔力で〇を書かせたりするの? 魔力で何でもできるようにするためじゃないの?」
「そうさ。魔力で何でもできるように練習してもらっている。いいかい、マキ。僕らは何でも知っておかなくちゃならない。僕らの使うこの魔力というエネルギーは、とても便利で強い力だ。だから、これを使ってできる事、これが使えなくてもできる事、両方を習得しておかなくちゃいけないんだ。人生とは複雑怪奇。どんな時でも自分を信じられるように、腕は磨いておくべきさ」
ほら立って、とニールスが言い、マキは言われた通り立ち上がる。
《
「伝統的に、森の管理人に任命された者はこの第三の森に住む事になっている。ここは七ツ森の中で、現代人が居住できる最後の地点なんだ。ここから七ツ森全体に魔術を張り巡らせ、巨大な結界を築いている。悪意を以て森に侵入しようとする者は結界の作用によって同じところを周り続けるか、あるいは捕縛できるようになっている」
ニールスの解説を聞きながら森の中を進んでいく。しばらくすると、開けた場所に四角い灰色の建物があるのが見えた。
「あれが工房だ。ノルズリが管理している」
ニールスとマキが工房に向かって歩みを進めていくと、ぼんやりとした影が姿を現した。影はすぐにはっきりした形を示し、ぺこりと一礼する。アウストリやヴェストリと同じ形、姿の使い魔だ。目の色は白である。
『ニールス。今日はどうしたの』
白い目の使い魔は静かな声で言った。
「工具と木材を取りに来た。ノルズリ、この子がマキだ。話した通り、しばらくここで面倒を見る事になった」
『初めまして、お嬢さん。私はノルズリ。北という意味だよ。普段は工房を守っている』
「は、初めまして。渡瀬マキ……です」
静かな声の使い魔は無表情のまま頷いた。
『よろしく、マキ。ニールス、ちょうどよかった。先ほどから武器たちがざわめいている』
「今まで眠っていただろうに。急に何だ」
ニールスが怪訝そうに言った。
「……武器たちって?」
マキは尋ねた。ニールスは、ああ、と言った。
「僕は元々職人だったんだ。職人兼研究者という感じでね。工房には僕がかつて作った武器や防具や、儀式に使う道具が保管してある。今から見せよう」
四角い建物の扉が開く。ノルズリが先導し、マキはニールスに続いて工房の中に入った。工房の床は石でできていて、建物の中はひんやりとしている。ノルズリが入り口からすぐのところにある下階段を降りていく。
階段の先は広間になっていた。壁やテーブルに固定された斧や剣がいくつもあり、武骨な美術館を思わせる。ざわめいている、とノルズリは言っていたが、部屋の中は静かだった。
「武器たちは物を言わないが、製作の過程で魂が宿る。使い手はその魂を感じ取りながら、武器と一体になり、練度を上げていく」
言いながら、ニールスは部屋の中を見回した。
「確かに。どことなくそわそわしている感じがするね」
マキにはさっぱりわからない。並べられた武器や防具は全て、ただの物体に見える。
――カタン、と。
静かな部屋に物音が響いたのはその時だった。
マキは、全く自然に、音がした方向を見た。部屋の奥の壁だ。吸い寄せられるように、それを見た。物音を出したのは間違いなくそれだが、ぱっと見て変わったところはない。だが、一度見てしまうと、マキはそれから目を離せなかった。
「ねえ」
マキはニールスたちを呼んだ。
「あれは?」
そして、それを指さした。
ニールスとノルズリはマキが指し示した物を見た。それは長く、黒い柄を持ち、両刃の穂は冷たく鋭利で、今にもこちらに向かってきそうな気配を放っていた。穂と柄を繋ぐ部分は鈍い金色のパーツが用いられ、それが気品めいた雰囲気を醸し出している。
「……あれか」
ニールスは目を細めた。
「あれは意欲作でね。最高の一本を作ろうとして製作したものだ。とはいえ、少し盛り込み過ぎてね。僕自身にも扱えないし、かといって人目につかないところに置くと騒ぎ出すから、ここに掛けておいたんだけど」
嘆息し、丸眼鏡の魔術師は近くにあった椅子に腰かける。
「銘は《
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