『七ツ森』16


      16


 やたらとお腹が空く。

「おかわり」

『またおかわりですか! マスター、この子家の備蓄を食べ尽くしてしまいますわよ!』

 差し出されたマキの椀を見て、使い魔が大きな声で言った。

「そんなわけないだろう。まったく、ヴェストリは大袈裟だなあ」

 そう言いながら、ニールスはヤギの乳の粥を口に運ぶ。

「食べないほうがいい?」

 マキがそう尋ねると、ニールスは柔和な笑みを浮かべた。

「遠慮する事はないよ。今は悲しい事に飽食の時代なんて呼ばれているからね。食べ物を粗末にしない事はいい事だ。それに君は、魔力のせいで身体に変化が起きている。食べられる時は食べて、強い肉体を作らなくちゃならない。ヴェストリ、おかわりを用意してあげて」

『アイアイマスター。お嬢ちゃん、ちょっと待っててね』

 使い魔は軽い調子でそう言いながら、厨房へと姿を消す。ヴェストリとは西を意味するのだという。

 ヤギの乳の粥。

 山盛り野菜サラダ。

 ジャガイモを添えたノルウェー風ミートボールヒョットカーケ

 鹿肉の煮込み。

 ほうれん草のタルト。

 ノルウェー風魚のクリームスープ。

 どれも食べ慣れないものだが、とにかくマキはお腹が空いて仕方がなかった。全ての料理が食欲をそそり、どれもこれもが美味しい。身体を作るとはよく言ったもので、食べるたびに新しい細胞が生まれてくるかのように元気が湧いてくる。

 たとえ今いる場所がどこであれ、ここに来るまでに何を失ったのであれ、生きている以上はお腹が空くのだ。

「マキ。辛いだろうが、これからの事を話さなくちゃならない」

 食事が終わり、お茶とデザートが出されてからしばらくしたあと、ニールスがおもむろに言った。

「まず、君のご両親だが、今も捜索中だ。君のご両親だけではなく、今回の件で行方がわからなくなった方は全員捜索している。信じられないだろうけど、君がこの家に来てからすでに七日が経過した。その間、僕に協力してくれる退魔屋や魔術師たちが一帯を捜索したが、行方不明者は誰一人見つかっていない」

「七日?」

思わずマキは聞き返した。何か、ひどく長い夢を見ていた気がするが、それでも一晩の悪夢だったのだと思っていた。

「さっきも言ったが、君の身体は魔力によって変化が起きている。七日も眠ったのは、身体が内側から変化するのにそれだけ安静が必要だったからだ。たとえば、僕の言葉。君にとっては本来外国語のはずだが、すでにこうして会話ができている。魔力によって脳の言語野が発達し、言葉を知らずとも意味が理解できるようになっているんだ」

 そういえば、怪物たちに襲われる直前、バスの中で聞いた運転手やツアーガイドの英語やノルウェー語が理解できていた。

「当初の予定通り、僕は君に魔術を教え、魔力の扱い方を覚えてもらうつもりだ。ただし、そのあとは君のしたい事を優先する。君がどのようにしたいのであれ、僕は君に協力しよう」

 マキは何と言っていいかわからなかった。カップの中の茶にマキ自身の顔が映っている。

「どうして」

 マキは呟くように言った。

「どうしてそこまでしてくれるの?」

 ニールスはきょとんとした顔をした。

「そりゃあ、僕を頼ってきてくれたわけだからね。そんな人間が不幸になるのは見過ごせないよ。それに、今の君には助けが必要だ。僕や、クレマチスのような人間の助けが」

 ニールスの目が、マキの目を見つめた。

「マキ。たとえ人生に何が待ち受けていようと、君は生きて歩んでいかなければならない。君に備わった才能、これから学ぶ知識、体得する技術。その全てを駆使して」

「どうして。どうして生きていかなきゃいけないの?」

 こういう質問をすると、大人は困るだろうとマキは思った。あるいは、怒ったりするだろうと。別に死にたいわけではない。だが、生きるとは何だろうと思った。両親もおらず、恐ろしい事が待ち受けているのに、どうして生きていかなければならないのだろう。

「絶望しないためだ」

 間を置いて、ニールスは答えた。

「僕自身も大切な人を失い、一時いっときは全てを投げ出していた。死の淵に近付いたこともある。全てが無駄だと思っても、手を動かし、足を動かし、それまで手掛けていた事を再開した時、自分の人生を生きている実感を得た。絶望は人生を殺し、魂を殺す。だが動けば……動き出せば生き返る事ができる」

 ニールスの目は、マキから過去へそしてまたマキへと戻ってきたように見えた。目の前のこの人物の事を、マキは全くと言っていいほど知らない。だが、きっと目の前のこの人にも、どうして生きるのかを誰かに問いたかった時があったのだ。

「マキ。君はまだ生きている。身体があり、魂がある。ここから、何度でも何かを始めてほしい。君はこれからどうしたい? マキ」

 ニールスがマキに問うた。

 思い浮かんだ景色があった。

「帰りたい」

 マキは言った。

「お父さんとお母さんを見つけて、家に帰りたい」

 ニールスは、ただ静かにマキの答えを聞いていた。

「わかった。必ず二人を見つけて、君たちを家に帰そう」

 真剣な瞳で、ニールスは言った。

「捜索と並行して、君のレッスンを進めよう。今日はもう休みなさい。さっそく明日から始めるよ」

 マキは頷いた。胸の裡にはまだ言い知れない不安があったが、少なくとも、これで前に進むのだという確信も生まれていた。



 翌朝。マキは白い修行着と、マントを与えられた。

「修行着は対魔力、対呪力に優れたもの、マントはそれに加えて防寒、防熱、厚さ、薄さ、そのほか環境に合わせて自動で君が過ごしやすいように切り替わる。君がよく魔力を通わせてやれば、マントと修行着は君に応えて一緒に成長する」

 袖を通してみると、着心地はそんなに悪くはない。

「服が大きくなるの?」

「修行着はある程度の大きさまでだけど、マントはよほど破れない限り一生着られるね。簡単に言えば、魔法の素材でできているから」

 マキはまじまじと身に着けたマントや修行着を見つめた。

「……じゃあ洗濯しなくてもいい?」

「洗濯しなくていい服はないね」

 さすがにそれは無理だよとニールスは付け加えた。

 それはさておき、マキはニールスに連れられて庭に出た。空には灰色の雲が広がり、雪がちらついている。少し遠くには鬱蒼した森が見え、冷えた空気が、あらためてここがマキの見知らぬ土地である事を感じさせた。

「まずは基本からだ。魔力と呪力について教えよう」

 ニールスはポケットから赤いリンゴを取り出して、木製テーブルの上に置いた。

「魔力はプラスのエネルギーで与える力、呪力はマイナスのエネルギーで奪う力というのが大原則だ。たとえば、このリンゴに魔力を与えてみよう」

 ニールスの手が深緑の燐光を纏う。光に触れたリンゴから、たちまち蜜が溢れ出し、テーブルを濡らす。

「うわ……」

 美味しそう、というよりもちょっとばかり異様だ。燐光に当てられたリンゴからは止めどなく蜜が流れ続けていて、甘い匂いが広がっている。

「魔力を与えられたリンゴは完熟を超えてなお熟し続ける。簡単に言えば、魔力が栄養となってリンゴを熟しているんだ。これを人間に置き換えると、傷の治りは早くなり、病は身体より駆逐され、呪いさえも撥ね除ける」

「良い事ばっかり?」

「そうでもない。そもそも今の状態は、リンゴにとっては正常ではないものだ。過剰に与えられたプラスのエネルギーは、それを御せるだけの器がなければ身を滅ぼしてしまう。見てごらん。リンゴはすでに壊れかかっている」

 ニールスの言う通り、蜜を流し続けるリンゴの実には亀裂が入り、今にも割れそうだ。

「では逆に呪力を与えると、どうなるか」

 ニールスの手の燐光が、美しい深緑から一転、おどろおどろしい赤い光に変わる。一瞬、マキの身に怖気が走る。あっという間に、蜜にまみれていたリンゴが水気を失って萎んでいく。

「呪力というマイナスのエネルギーが、リンゴに与えられていた魔力を相殺し、内に秘めていた生気を奪った。リンゴはもはや甘い蜜を出す事はない。それどころか、呪力に晒されたものはいとも簡単に、呪いをその身に宿してしまう」

 リンゴの中から嗤い声が聞こえる。口が見えた。果肉の中に人間の口が。リンゴが動く。女の声で、張り裂けそうな不気味な声を上げながら、リンゴがテーブルの上を笑い転げる。

 ふっと、赤くおぞましいエネルギーが消え去る。一瞬、深緑の光が輝いたかと思うと、リンゴはニールスの手の中で、元の姿を取り戻していた。

「魔力であれ、呪力であれ、危険な力だ。もしこんな力を人間やほかの生き物に与えてしまったら、どうなると思う?」

「……おかしくなる」

 泉先生にとり憑いた邪悪な獣の亡霊に、バスを襲撃した怪物。それを従える男たち。

 今ならわかる。奴らは呪力をエネルギー源とする者どもだ。邪悪な力を振るい、人を苦しめる事に喜びを見出すような者どもだ。そんな奴らのせいで、父も母も闇の中に消えてしまった。

 マキの胸中に、言い知れぬ怒りが渦巻いていた。復讐。浮かんだのはその二文字だ。たとえ自分が十歳の子どもであろうとわかる。かたきを取らなければ。両親を奪った者どもをマキ自身の手で。

「マキ」

 ニールスの静かな声が、マキを恐ろしい思考から解放した。顔を上げると、丸眼鏡の向こうからニールスの優しい目が見つめていた。

 ニールスはにっと笑うと、手に持ったリンゴをひと齧りした。

「えぇー……」

 子どもながらにマキは引いた。そのリンゴはつい今の今まで、恐ろしい笑い声を上げていたリンゴである。

「大丈夫さ。僕の魔力で戻したんだし」

 ニールスはしれっとした顔で言ってみせた。が、その表情はすぐに柔和な、けれど真面目なものに変わる。

「マキ、君は人を呪う必要はない。君の身に宿った魔力は、正しい事に使える力だ。怒りに飲まれず、まずは使い方を覚えるんだ」

 ニールスの言っている事はわかるような気がしたが、そんな気がしただけだった。一度巡った血は、すぐにはその熱さを忘れない。暗い感情は、心の片隅でじっとしているが、消え去ったわけではない。

「……正しい事って?」

 何を聞くべきかもわからず、考えるよりも先に、マキは問いを口にした。

「それを定義するのは難しい。正しさは人それぞれだからね。だが、困っている人、苦しんでいる人を助ける事。これは正しい事だと、僕は思う。魔力とは与える力だ。使、必ず善をもたらせる。そう信じているよ」

 そう話すニールスの顔は、少しばかり翳りがあって、マキは目の前のこの人物の事が、何だかよくわからなくなった。


      ※


 長い間。実に長い間。呪術師エイボンは闇の世界での活動にその身を捧げてきた。身体には幾度も改造を施し、呪術を行使する装置そのものとなった肉体は、常人よりもはるかに長い寿命を持つ。何人もの人間を惨殺し、時に恐怖に怯えたその生き血を啜る事で、己の呪力を高めた。

 もはや人でない化け物といっても過言ではない存在になり果てたが、不便な事に、呪力の補充とは別に腹は減るのだった。酒や肉、パンで腹を満たしたいという欲求は消えなかった。人体をいくら改造しても、ベースが地球上の生物たる人間である以上、人間の持つ欲求からは逃れられないのだ。

 女の啜り泣きが聞こえる。食卓の中腹あたりの天井から裸の女が吊るされていた。エイボンは女の絶望を耳にしながら、ワインを口に運ぶ。

 向かいの席には銀髪の人物が座っている。首の付け根あたりまで伸びていた銀髪は、今はゴムで後ろにまとめられており、服装も、彼が封印された十九世紀の装いであるフリル付きシャツにウエストコート、ブルーのコートにベルベットのトラウザーを完璧に着こなしている。

 闇霧ダークミストの一族、ガルタンダール。

 彼は人間の食事など必要としない。彼に必要なのは人間の抱く恐怖や絶望、上質な負の感情である。

「お許しください……お許しください……」

 食卓のそばで、両手を後ろ手に縛られ、跪いた男が哀れを誘うような声で懇願する。

「愚物め。魔術師の身でありながら、小金欲しさに我らとの繋がりを選んだのは貴様自身ではないか。それを今さら反故にして、森の魔術師に下ろうなどと」

 囚われた魔術師の男は目を剥いて叫んだ。

「知らなかった! 闇霧の一族が実在するなんて! ただのおとぎ話だと思っていたんだ! 本物なら、あんたらの手にも負えないぞ! この世は終わりだ、何もかも闇に飲まれる!」

「結構な事ではないか。この地球とて闇の中から生まれたのだ。生まれ故郷に帰るだけの事」

 酒で喉を潤し、エイボンは言った。

「お前の弁明は聞き飽きた。さっさとその女を呪い殺せ。そうすれば娘の命は保証してやる。その女の絶望が杯を満たし、我が主の糧となるのだ」

 ガルタンダールの前には装飾の施された細身のワイングラスだけが置かれていて、吊るされた女や囚われた魔術師の男が絶望するたびに、少しずつ杯の中に呪力が増える仕組みとなっている。デズモンドの失態によって用意できなかった供物の代わりに、ガルタンダールに捧げる残酷な食事である。

「妻は何も知らない! 魔術師ですらない! 私は引退するつもりだった! 罰は私だけ受ける! 娘と一緒に解放してやってくれ!」

「スティングレイ」

 エイボンの言葉に、魔術師の男の傍らに立っていた、屈強な身体の男が手を伸ばす。呪力の気配がして、魔術師の男の首筋に何かが突き刺さった。

「あぁあああっ!」

「つくづく愚かな奴だ。この状況でまだ妻と娘を助けられると思っているのか。お前の妻はお前に呪い殺されて死に、お前は妻の死に様を見届けたあとで死ぬ。これは確定だ。わかったらさっさと呪い始めろ。我が主を待たせるな」

「私は退屈していないよ、エイボン。こうしたもてなしは二百年ぶりだ。ま、当代の魔術師の質が落ちた事には、いささか落胆しているが」

 吊るされた女が絶叫しながら罵倒を放った。それがガルタンダールに向けたものか、エイボンに向けたものか、それとも不甲斐ない夫に向けたものかは聞き取れない。だが、ガルタンダールの杯に、少しずつ呪力が増えていくのはわかった。

「エイボン。襲撃までの準備はあとどれくらいかかる?」

「四十八時間ほど。各地に散った百人部隊を呼び集めておりますので」

 焦げた臭いがした。男の唱える呪詛が聞こえる。吊るされた女が苦悶し、じたばたと暴れる。次の瞬間、女の身体から炎が燃え上がり、天井から吊るしたロープが焼き切れ、死体が食卓に落下した。

 燃え盛る女の死体を見ても、食堂にいる呪術師たちは眉一つ動かさなかった。魔術師の男の顔はすでに死人同然で、頬には慣れない呪力の行使で、火傷のような跡ができている。

「料理下手め。せっかくの供物を一瞬で燃やす事があるか。苦しめなければ呪力は溜まらんというのに」

「黙れ! 異常者どもめ! 約束通り妻を呪ったぞ! 娘を解放しろ!」

「私は命を保証すると言ったのだ。解放するとは言っていない」

 食卓の上にノートパソコンが置かれた。画面にはウェブカメラの映像が表示されている。映っているのは、暗い部屋の中で目隠しされた少女だった。

「何を……」

「呪力が足りん。貴様はそこで娘が怪物になっていく様子を見届けろ。貴様の絶望が少しは足しになる」

「話が違う! エイボン! やめろ!」

 魔術師……もはや魔術師だった男が叫ぶ。また少しガルタンダールの杯の中身が増えて、銀髪の男はそれを口に運んだ。

「お味のほうは」

 エイボンが問うた。

「……悪くない。悪くないよ。だがね」

 ガルタンダールは少しばかり残念そうに杯を置いた。

「もしこの趣向をニールス・ユーダリルで味わえたなら、もっと素晴らしいものになるだろうね」

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