『七ツ森』15
15
ニールスが《泉の間》と名付けたその部屋は、足の甲が浸かるほどの高さの、魔力溢れる水で床一面満たされている。部屋の中央には九つのルーンを組み合わせて作られるマザー・ルーンが刻まれ、色とりどりの光球が部屋中を漂っている。光球の一つ一つが組み上げられた魔術であり、必要に応じていつ何時でも行使する事ができる。暗い蒼の天井はドーム状になっていて、そこにもいくつもの光が瞬いていた。
「スズリ」
ニールスは裸足で泉の間に入ると、部屋の番人である使い魔の名を呼んだ。部屋の隅からすぐさま使い魔がやってきた。姿かたちは同じ使い魔のアウストリにそっくりだが、その目は
『お呼びでしょうか。
「渡瀬マキにかけられた精神魔術に介入する。無事現実に戻してやりたい。
『恐れながら主よ。これは娘に与えられた大神の試練にございましょう。ならば手を出せば主に咎が』
「大神は自身の手駒を増やしたいのだ。彼女が大神の期待に応えられなければ、都合のよい
手をかざして光球の一つを呼び寄せる。他者との精神的な繋がりを作る魔術だ。
「補佐をしてくれ、スズリ。たとえ大神の思惑通りであろうとも、彼女を現実に連れ帰る者が必要だ」
涙が止まらない。世界が壊れてしまった。
広大無辺な真っ白い部屋の中に、マキは一人だった。何もかもが失われてしまった。もうどこにも行けないし、誰にも会えない。みんな消えてしまった。通っていた学校、帰るべき家。クラスメイトも先生も両親も。
巨大な運命が、マキから全てを奪い去ってしまった。運命は、マキの心など歯牙にもかけず、嵐が通り抜けるのと同じく、大事なものを毟り取っていくのだ。
青い光も、もう見えない。マキを絶対的な存在にしてくれていた、あの青い光も、もう。
身が震える。この白い部屋は牢屋だ。全てを失ったマキが一生を過ごすための牢屋。死ぬまで。いや、もしかしたら死ぬ事なく、ここで永遠に苦しみ続けるのかもしれない。誰が望んだのか。マキが苦しむ事を誰かが望んだのだ。誰かがこうしようと思わなければ、不幸など訪れるはずがない。誰かが、こうなるように仕向けたのだ。
わかったところで、抗う事などできないが。
「何をしておるのだ」
声がした。
「そんなところで、何をしておるのだ」
マキは顔を上げた。
帽子を被り、マントを纏った長い髭の老人がいた。不思議な事に、老人だと頭は理解するものの、顔の造作はよくわからない。帽子の影が濃く、見えないのだ。
「……あなた、だれ」
「儂は多くの名を持つ者だ。明かされた名。まだ知られていない名。儂自身が忘れ去った名。いくつもの名前があり、姿がある。忘れ去ったものは、今となってはいらぬものだ」
老人の言っている事はよくわからない。
「お前もまた、様々な名を持っていたはずだ。それらは今もお前に必要なはずだ」
「わたし……たくさんの名前なんか持っていない。わたしの名前はひとつだけ」
「いいや。お前は勇敢という名を持っていた」
老人がそう言うと、マキの傍らに人影が現れた。
それは、マキと同じ姿をしていた。だが、魔力で作り出した分身とは違い、まるで人形のように生気がない。
「あるいは、お前は優しさという名前もあった」
新たな人影が現れる。やはりマキと同じ姿だが、人形のようでぼうっと立ち尽くしている。
「知恵者という名前があり、向こう見ずという名前がある。無垢という名前も持っていて、正義という名前もあった」
次々とマキの写し身が現れ、マキの周囲で立ち尽くす。不思議な事に、皆、マキのほうを向いてはいなかった。
「さて。お前の名前は?」
「……マキ。渡瀬マキ」
「お前は確かに渡瀬マキだが、今のお前はそうではない。お前はこの部屋でただ一人
老人の言葉に、マキの首筋が熱くなった。
「だって! どうしようもない! わたしじゃ何もできない! 助けてくれるって言ったから来たのに、お父さんもお母さんも死んじゃった! 何で連れてきたの! こうなるんだったら来ないほうが良かった!」
マキの激高にも、老人の様子は一切変わらなかった。
「ふむ」
顎鬚に左手をやり、老人は右手の人差し指をくるりと回す。
白い壁に、プロジェクターから出力されたかのように映像が映し出された。
血まみれの家だ。見覚えのダイニングが、誰かの血で汚されている。壁に、大きな犬が何かを一心不乱に食べているかのような影が映し出されている。
マキの家だ。
「これは、お前がここに来なかった場合の未来の一つだ。お前の雑な処理で消えたように見えた獣の亡霊は舞い戻り、お前の両親とお前を喰らってしまう」
老人の枝のような人差し指が一回転すると、映像が切り替わる。
学校が、青い光の柱に包まれていた。
「これは獣の亡霊が来なかった場合だが、お前は魔力を暴走させる。お前のクラスメイト、お前の教師、全てお前が燃やす。……ああ、一応配慮はしたが、嘘だと疑うなら死体も見せよう。喰われた両親も、焼き焦げたクラスメイトも。もっとひどい未来も見せてやれるが」
マキは素早く立ち上がっていた。拳を握り締めている。相手が老人だという事はすでに頭の中にない。全速力で走って、老人を殴りつける。
拳が、空を切る。老人の姿が消えていた。
「いいぞ。その調子だ。お前の名は直情だったのかもしれぬ。いずれにせよ、涙に暮れているよりは上等というものだ」
老人がマキのすぐ後ろにいた。頭の中に熱が駆け巡り、マキはすかさず勢いに任せた跳び蹴りを放っていた。老人はそれを受け止めるでもなくひらりと躱す。
「いやしかし、不思議なものだな。この世界にはお前と同じ歳で、お前より不幸な境遇の人間がいるというのに、お前はこの世の不幸を一身に受けたような顔をしている」
「……何が言いたいの」
老人はずれた帽子の位置を直しながら、言い辛そうに口を開く。
「いやあ……その、いい両親だったとは思うんだがの。今風に言うなら、何というか」
老人の片目がマキを見下ろした。
「そんなに怒る事じゃなくね?」
怒りで目の前が真っ白になった。
絶叫を上げながら、マキは老人に飛び掛かる。青い光。美しいターコイズブルーの光が、怒りに、憎しみに汚染されていく。目の前の老人は、両親を喪ったマキを嘲笑い、その絶望を言葉で串刺しにした。血のように広がりゆく
老人の目が、そんなマキを見つめていた。
「悪くない。適性はある。伸び代も」
がく、とマキの膝が崩れる。分かれていた。身体が。マキと、もう一人の真っ赤なマキに。
「だが、今はいい。今ではない。青い光を育て、黄金に到達したその先だ。全てを揃えなければ」
勢いは失われていた。マキは力なく地面に膝立ちとなっていた。
白い部屋に、大勢のマキの写し身が立ち尽くしている。
老人の指先が、マキの額に触れた。
「娘。奇跡を叶えて欲しくば、この儂を頼れ。崇め、信じ、仰ぎ見よ。儂の使徒として仕え、儂の権能に縋るがよい。さすればお前は救われる。お前の絶望は終わりを告げ、お前は幸福を得るだろう」
大勢のマキが、マキを見ている。
老人の指が、額から脳に入ってくるかのようだ。
「これは選択。お前がこれから進む道の。儂に縋るならば、幸福を与えよう。代わりにお前は儂の駒となる。一生を儂に捧げる生き人形だ」
「……いやだ」
マキは、言葉を絞り出す。目の前の老人は腹立たしく、そして底知れない恐ろしさがあった。
「拒むか? ならば一人でやるがいい。この白い部屋から出られるのならばな。誰かの手を借りねば、そもそもお前はここから出る事もできない。儂だけだ。今、お前を救ってやれるのは、儂だけだ」
白い部屋に屹立する影のような老人が、マキに囁いた。
今、この老人の言う通りにすれば、この部屋を出られる。この無限に続くかのような白い牢屋から。
力もなく、両親も失い、マキは一人だ。ほかに誰も助けようとしてくれる者はいない。そもそも、見知らぬ地で、両親を失った時点で終わりなのだ。もはや誰にも頼れない。なら、それなら――……
誰かが、マキを見ていた。
一人ではない。多くの目が、マキを見ていた。
何かが、わかった気がした。
「……あなただけ?」
自らを見下ろす老人の片目を、マキは見つめ返した。
傍らに、大勢のマキがいた。
「こんなにたくさんいるのに?」
青い光が見える。手の中で光っている。ターコイズブルーの光。マキ一人ではない。周囲にいるマキの写し身たち。その全てが光を放っている。二十九。それが光の数。マキの写し身一人一人が光を持ち、その身に文字が刻まれている。古より伝わる神秘の文字。ルーン。
マキの手に刻まれているのは、光を意味する稲妻のようなルーン。
轟音が響いている。部屋が揺れている。マキにはわかる。この部屋は無限の牢などではない。両親が去り、怪しげな老人が囁こうとも、たった一人でも、できる事はある。
いや、やるしかない。マキには、たくさんの名前があるのだ。
「殻の外に迎えが来たな」
老人の指が離れる。
視界が、ぐにゃりと歪む。
「娘、お前の名前は?」
「マキ。渡瀬マキ」
今や、マキは一人だった。分かたれていた多くのマキは、一人のマキに戻っていた。
「すぐにまた会おう。渡瀬マキ。たとえその名を失っても、お前自身を失わぬ事だ」
轟音が響き続けている。部屋の中は今や混沌と化していた。闇の中に様々な光があり、それらが渾然一体となって外に出ようとしている。
「卵の中は宇宙の闇。内を照らすは星々の光」
ぱきぱきぱき、と。
何かが、音を立てて割れていく。
「混沌から生まれ、混沌に戻っていく。お前の人生はここから始まる。儂の名を覚えておけ。儂の名は――」
光が溢れる。音が耳を揺らす。どこに向かうか、どこに飛ばされるか、わからない。
誰かが、マキの名を呼ぶ。老人の声ではない。クレマチスの声でもない。
「手を伸ばせ、渡瀬マキ!」
反射的にマキは光の中へと手を伸ばす。誰かが、その手を握り、引っ張る――……
爆発音のとともに、マキは床に落ちた。ごん、と腰をぶつける。痛い。痛みが肉体の感覚を思い出させる。
今度は現実の世界だと、マキは理解できた。木の床、木の壁。部屋中が傷だらけだ。おそらくはマキが眠っていたのであろうベッドが崩壊していて、マキはぐしゃぐしゃになった白いシーツの中にいた。汗がひどい。そういえば、着ている服には見覚えがない。一枚布でできたワンピースのような服。
コンコンコン、とドアが叩かれた。
「……渡瀬マキ。入ってもいいかい」
男の人の声がした。聞き覚えはある。あの雪の森で助けてくれた人の声だ。
「どうぞ」
小さく、マキは言った。声がうまく出ない。
ぎい、とドアが開く。眼鏡に長髪のローブ姿の男が入ってきた。その両脇に、奇妙な格好をした三角目のロボットのようなものを二体、伴っている。
「あー……部屋はこうなるか」
室内の惨状を目の当たりにした眼鏡の男は、がっくりしながらも納得した様子で言い、それからマキのほうを見た。
「気分はどうだい。まあ、腰はぶつけたかもしれないが」
「ぶつけた」
言われるがまま、マキは言った。
「お風呂入りたい。お腹も空いた」
「いいね。お風呂から用意しよう。アウストリ、頼む」
『承知しました。ニールス様』
傍らにいたロボットのようなものが一礼して部屋を出る。今さら気付いたが、ロボットは二体とも宙に浮いていた。
「部屋、わたしが壊しちゃった?」
マキは問うた。眼鏡の男は優しげな微笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいんだ。よくある事だ。一緒に直すのを手伝ってくれればいい」
男がボロボロになった半開きのカーテンを全て開ける。眩しい陽光が部屋の中を照らした。
「わたし、部屋なんて直した事ないよ」
「やり方を教えるさ。どんな事でも、まずはやり方を知らなければね」
言って、眼鏡の男はマキを見た。
「何はともあれ。おかえり、渡瀬マキ」
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