『七ツ森』19


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 呪術結社≪夜明けの箱舟≫は、ヨーロッパを中心に活動するカルト集団である。起源は二十世紀末に生まれた小さな呪術師グループであったが、インターネットの発達とともに社会に浸透し、現在は複数の支社を持ち、信者は末端の一般人を含めれば、一万人にも上ると言われている。

呪術師エイボン卿は、夜明けの箱舟の北支部の長であり、大呪術師とも呼ばれる。秘術によって百年以上の時を生き永らえ、多くの弟子を持つ。術師の腕前を示す階梯は、第七階梯。神としてはいする者は、歴史の闇にその名を溶け込ませていた邪悪な存在、ガルタンダールである。

――ノルウェー。ヌールラン県近く。七ツ森スィーブ・スコーゲル第三の森外周を見据える山地の麓――

今日。エイボン卿百年の人生が結実する。

「手筈は整いました。我が主」

 エイボン卿は恭しくひざまずいて言った。仮にここに彼の弟子、デズモンド卿がいたならば苦虫を噛み潰すどころではない顔であったであろう。自身が信仰する存在が目の前にいる。この事実だけで、エイボン卿は長たる自らの立場さえ忘れ、いち信者として振る舞っていた。

「いつでも。よろしい時に」

 そう言って跪くエイボン卿の背後には、奇妙な装備の大集団が並んでいる。

 基本的に、全員が同じ装備だった。頭部にヘルメット、ゴーグル、口元には呼吸を補助するためのようなマスクを装着していて、誰の面相もわからない。モスグリーンの迷彩服の上にはタクティカルベスト、さらにその上にケープを着て、背には酸素ボンベのようなものを背負っている。ボンベは四本のチューブで口元のマスクと繋がっていて、何かを体内に送りこんでいるようだった。手に持つ武器は自動小銃よりもほんの少し大きい、奇怪な形状の銃器を基本とし、中にはほかに、一メートルほどの筒のようなものや、ジュラルミンケースを持つ者もいる。

 集団の先頭に立つのはベレー帽を被った、やはり迷彩服の男だ。スキンヘッド、眉毛さえなく、屈強な肉体で、その目はこれから起きる事を期待しているかのように、凶悪さと卑しさを併せ持っている。

 彼らこそ、百人部隊。夜明けの箱舟北支部が誇る切り札。部隊を率いるのは、集団の先頭にいるアシッド・スティングレイ少佐。元米国特殊部隊所属。今は人間の名を捨て去り、呪術師としての名で生きている。彼には、エイボン卿に対する幻滅も失望もない。呪術師として、己の加虐心を充足させてくれるのならば、どのような下衆にも従う。アシッド・スティングレイとはそういう男である。

「結界を突破したら私はまず、私の探し物を探しに行く。まずは、。それからだ。どちらも森の中にあるはずだからね」

 ガルタンダールは静かに言った。銀の長髪が鈍く煌めく。今、この場所に集った者の中で、もっとも闇に近しき存在たるガルタンダールは、己に付き従う人間には一瞥もくれず、七ツ森を眺めている。

「君らは散開し、彼の気を散らせ。森の主である魔術師の気をね。彼がどこまでできるのか試したい」

 エイボン卿の胸中に嫉妬の炎が渦巻いた。ガルタンダールの声は明らかに期待している。森の主、魔術師ごときに。

「森の魔術師。もし、御身のお眼鏡に叶わなければ……」

 感情が言葉に滲まぬよう注意を払いながら、エイボン卿は言った。

「彼奴の首、討ち取ってしまっても構いませぬか?」

 ガルタンダールは僅かにエイボン卿を振り返り、穏やかな笑みを浮かべる。

「構わないとも。この襲撃で敗れるような魔術師ならばアバターの素材には相応しくない。それどころかエイボン、君を次の我が肉体の素材にしてやってもいい」

 エイボン卿の身体に歓喜が駆け巡った。

 信仰の対象、真なる闇と一つになれるのなら、呪術に一世紀を捧げた甲斐はあったのだ。

「必ず。必ずや彼奴めを仕留めてみせましょう!」

「期待しているよ。さて……」

 影が落ちる。ガルタンダールに。エイボン卿に。アシッド・スティングレイと百人部隊に。暗雲が立ち込め始めていた。不吉の予兆たる漆黒の雲が。

「始めよう、諸君。太古の森を血で汚し、人類に、我が兄妹たちに、闇と霧の再来を知らせてやろう」

 空気が、邪悪に震える。

 百人部隊の隊員たちが一斉に片手印を結んだ。彼らの身体から漏れ出た鮮血色の赤い光が、生き物のように周囲に揺らめく。

「スティングレイ!」

 エイボン卿の号令に、アシッド・スティングレイが呪力を解き放った。

 ノルウェー。冬。多くの人々にとって何でもない一日。

 午前十時三分。七ツ森スィーブ・スコーゲル侵略作戦、開始。



「じゃあ、いくよー」

 マキがそう言うと、クレマチスは笑顔でぱちぱちと手を叩いた。ニールスは微妙そうな顔をしている。

「まだ早いって。術なんて」

「あら。あなたの弟子は皆優秀なのでしょう? それなら、若い才能が開花するかもしれないじゃないですか」

 大人たちが何やら話しているのが聞こえたが、マキは自分の動作に意識を集中した。〇、×、△、□。まずこれらの図形を念じるだけで作り出す。重い物を持ち上げるかのような重圧を感じながら、マキの掌から四つの図形が、歪な形ながらも出力された。

「ほら! もう連続して図形を出せていますよ!」

「……確かに。三日目でこの段階に至るのは早いけれども」

 マキのほうは必死だ。だが、図形を出しただけでバテていた初日とは違い、いくらか体力に余裕がある。

「くるっ……と」

 浮き上がった〇の図形を右から左に撫でると、ふらふらとしながらも〇が横向きに回転する。×を左か右へ。△を右から左へ。□を左から……。ゆっくりで、覚束なく、重々しいが、図形がそれぞれ回転していく。

「ここで……ぱちん!」

 右手の親指と中指を合わせて、弾く。力が入り過ぎた。かす、という音がする。

 ぼ……という鈍い音がして、四つの図形がゆらゆらと消えていく。

「あぁー……」

 マキはへなへなとその場に座り込んだ。指を鳴らすと、四つの図形が花火みたいに炸裂する。そういう想定だったのだが……。

 ぱちぱちぱち! と、クレマチスが拍手をした。

「マキさん! よかったですよ」

 マキは泣きそうになりながらクレマチスを見る。

「……でも、失敗しちゃったよ?」

「途中までうまくいっていたじゃないですか! 小さな成功を積んだなら、それは完全に失敗ではありません。次はもっとうまくできますよ」

「クレマチス、何かすごく師匠っぽいね……」

 ニールスはそう言いながらも、マキを優しい目で見た。

「ちょっと早い挑戦だったけど、考えている事はいいね。魔力を形にするのも慣れてきている。この調子で修行を続けよう」

 ニールスの言葉は柔らかかった。二人の言葉を聞いて、気落ちしかけた心がそっと温まる。

「うん。わかった」

 マキがそう頷くと、ニールスは、ぱん、と手を叩いて立ち上がった。

「よし。それじゃあ、基礎練に戻ろう。クレマチス、マキの魔力の流れを見てやって――」


 ――瞬間、ニールスの目が鋭く上空を見上げ――

 次の瞬間、空が真っ赤に染まるとともに、サイレンのような音が鳴り響いた。


『緊急、緊急。結界に呪力侵食あり。緊急、緊急。結界に呪力侵食あり』


 声が響き渡る。この声は確か、使い魔の一人、スズリの声だ。

「スズリ。どこが破られた?」

 ニールスが冷静な声音で言った。

『第三の森、東端とうたん。結界に破綻あり』

「再構成は?」

『間に合いません。結界を構成する魔力を速やかに呪力で飲み込んでいます。魔力連結が弱体化。呪毒じゅどくです』

「……結界破りか」

 空が揺れている。いや、今のマキには見える。森の上空を包み込む巨大な魔力のドームが。そのドームに血のように染み込んでいく赤い呪いが。

『――E-500から787までの結界が反応消失。侵入者あり。三方向に分かれています』

 スズリの報告に、クレマチスの顔が緊張を帯びる。

「師よ――」

「おそらく先日の呪術師連中の本隊だ。ずいぶん多い。百はいる……それに、異様な呪力の者が三人」

 赤い光がひと際強く光ったせいでニールスの表情はマキから見えなかった。

「スズリ。第三の森からほかの森への出入り口を閉じろ。第一、第二は特に厳重に閉じろ。一般人が迷い込まぬように」

『承知しました』

「よし」

 ぱん、とニールスが手を叩く。すると、何故だかマキはまるで一本の線が、自分の中を通り抜けたように感じた。

「使い魔たちよ。聞こえているな」

 ニールスが少し大きな声を出した。

「侵入者だ。これより迎撃に移る。ノルズリ、倉庫から斥候を飛ばして様子を探らせろ。ヴェストリ、魔力補充用の大釜を準備しろ」

『了解』

『アイアイ、マスター!』

 二人の使い魔の声が聞こえた。

「師よ。わたくしも出ます!」

 クレマチスが前に進み出た。片手で松葉杖をついているが、その覇気は、とてもつい先日まで床にあった人物とは思えない。

「……まだ神具リサナウトは使えないだろう。無理をするな」

「いえ。わたくしもニールス・ユーダリルの弟子。万全でなくとも敵を射抜くくらいはできます。それに敵の正体もわからぬうちに、師お一人だけにお任せするわけには参りません」

 ニールスはじっとクレマチスの目を見た。クレマチスは引かなかった。

「いいだろう。倉庫に弓矢とルーン・ストーンが一式揃っている。敵方を攪乱かくらんしてくれ。ノルズリ、戦車チャリオットと馬を準備してくれ。ヴェストリ、大釜はなしだ。クレマチスが動けるようになるだけの戦闘糧食セーフリームニルを持って彼女と合流してくれ。御者を頼む」

 マキは何か言おうとして、思わず息が詰まった。空気が一変している。幼い自分の居場所などないと、いやでもわかるくらいに。

「ねえ、わたしは……」

「マキは家だ。アウストリ、マキを連れていけ。家は迷宮仕様にして誰が来ても開けるな。クレマチス、倉庫まで飛ばすよ」

 ニールスの顔から柔和さが消えていた。厳しく冷たいその目は、マキの知らない表情だった。

「あ……」

 何を言おうとしたのか。何が言えるというのか。

 ニールスの指が鳴り、クレマチスの姿が消える。いつの間にか現れたアウストリがマキの身体を後ろから抱き締めた。

『お嬢、しっかり掴まっていてください』

 アウストリが耳打ちし、

「マキ。アウストリと一緒にいるんだ。絶対に外に出てはいけないよ」

 ニールスの指が鳴る。身体に浮遊感。マキの目に見えていた景色が、素早くぶれる。視界が、一瞬で真っ白になる――

 直前に、見えた。ニールスの姿が。深緑の魔力を迸らせたその肉体が、ぐにゃりと歪むのが。鹿、リス、兎、熊。ニールスの肉体が分裂し、直後に様々な動物に変化し、一斉に駆け出す。

 あれが魔術師なのだ。今ならわかる。マキとは桁外れの魔力の量。その分身のさま

 何かが始まっていた。マキには到底及びつかない、何か大きな事が。



「攻撃分隊、散開。破壊活動を開始せよ。守備分隊、『怪殖子ゾルファーケン』を放て」

 通信機によって、スティングレイの指示が各隊員に伝達される。百人部隊の動きは早い。背中のボンベは呪力を溜め込んだ供給器ブースターであり、チューブ、マスクを通じて隊員たちの身体に呪力を送り込んでいる。魔術師が魔力によって身体能力を向上させるように、呪術師は呪力を用いて超常の動きを実現する。

 加えて――

『祭司隊、儀式展開点に到達』

 スティングレイに通信が入る。第三の森の地形図は先日、粛清した裏切り者の魔術師より入手している。

「想定よりも魔力が濃い。ブーストをもう一段階上げろ。『プラント』召喚準備。〝彼方の海の悪夢〟にこの森を捧げる」

『〝海洋の悪夢〟よ、来たれ』

 通信の最後に唱えられたのは、彼ら独自の祈りだ。

 百人部隊の基本戦略は信仰対象の統一である。部隊全員が同じ存在を崇め、集団としてまとまる事で能力が高まり、各々が自らの階梯以上の力を発揮できるのだ。

 彼らが信ずるのは、遠き異界で出会った海洋神。嵐の海の真ん中に神殿を構える異形の神。その神の眷属をこちらの世界に召喚するため、今、百人部隊は儀式陣形と呼ばれるフォーメーションを編成している。スティングレイとその補佐を務める九人を除いた九十人のうち、三分の一が森の破壊活動を行う攻撃隊オフェンスに、三分の一が儀式を執り行う祭司隊プリーストに、残る三分の一が儀式と司令部を外敵から守るための守備隊ディフェンスとなる。

 攻撃隊は、さらに三人の分隊に分かれて森に散り、守備隊は祭司隊を包囲するように分隊となる。守備分隊の面々は一メートルほどの筒を持っており、さながらロケットランチャーのように筒についたトリガーを引くと、中に入っていた異界の生物が第三の森の中に射出される。その姿は例えるならロケットの先端部分、あるいは八重咲の花のつぼみのような胴体と、そこから生えた十本の触腕を持つ、異形の軟体動物である。およそ、人間の子どもほどの大きさの異界の生物は、己が自由になった事を知るや、たちまち獲物を求めて森の中へ消えていく。

怪殖子ゾルファーケン』――彼らの信仰対象である異界の神の眷属の一種である。ほかの動植物に寄生し、魔力を始めとする生命が持つエネルギーを吸って、呪力を大量に生産する。呪力が満ちた地域は怪殖子の縄張りとなり、新たな子を育む巣として改造される。

 あらかじめ用意できた怪殖子は十匹。それだけでは第三の森を侵食するには足りないが、祭司隊が『プラント』を召喚すれば、その場で怪殖子を産む事ができる。さらには先に放たれた怪殖子もまた、『プラント』に変貌する可能性を秘めている。

 作戦の序盤は順調。攻撃隊はすでに森の破壊活動を開始し、怪殖子も放たれた。祭司隊の儀式も間もなく始まる――

 スティングレイは笑みを浮かべた。供給器などなくとも、これから始まる暴虐を思えば、彼の呪力はたちどころに増えていく。

「こちらはいくらでも手駒を増やせる。さあ、どうする。森の魔術師」

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