『七ツ森』10
10
――闇。視界全てを覆い尽くす漆黒の闇。
彼は、その闇の中を一歩ずつ、慎重に進んでいた。
急がなければならない。しかし、闇の重力は彼を引き寄せ、この場に留めようとしている。
明確に、意思を持って。
「……まだ行かせないつもりか」
彼は、闇の中で呟く。
大いなる力を感じる。途轍もなく、大きな力。
彼を、今この瞬間、闇の中で足止めする事で、何かを成し遂げようとしているかのような。
「あなたは、何を考えているのだ。
目の前で、白いものが揺らぐ。
――霧。
溶けた十字架が地に落ちる。かろうじて形を残しながらも、聖なる輝きを失った十字架が、小さく、音を立てて路上に落ちる。
「うぅっ!」
スコルの背に乗った老人の口から大量の血が吐き出される。すかさずテンガロンハットのマーティンが動いた。しゃがみこんだスコルの背から老人を下ろし、十字を切って何事か唱える。
「ラファエル。神と人よ。
血を吐いた老人の身体が暖かな光に包まれる。死の危機に瀕していた老人の顔が安らいだように見えた。
敦も無事ではない。老人ほどではないものの、全身を灼く痛みによって立つ事もままならない。
と、敦の視界が真っ白な光に包まれる。何か、清らかなものが敦の身に触れた。身体中の痛みがあっという間に消えていく。
マーティンは何も言わなかったが、おそらく老人を包んだ光と同じ光が、敦を癒したのだ。
ガン! ガン!
白い怪物、タッツェルヴェルム・グロブスターの背から伸びた棒が、勢いよく音を立てて収納されていく。あの禍々しい赤い光はもう収まっている。力を使った怪物は不気味なほどにじっとしている。腐敗の呪い。クエンティンはあの光を見てそう言った。敦の手の甲には古代文字のような異様な紋様の痕が白く残っている。あの怪物がやったのだ。あのクレマチスが使ったような術。あれよりもっと悪意に満ちた攻撃的な術を。
マーティンが立ち上がり、クエンティンの横に立った。クエンティンもまた腐敗の呪いを受けたはずだが、いつの間に癒したのか苦しそうな様子はない。
「人工の怪物か?」
「辺境の異界生物の改造かもしれん。背中の棒が術の制御と放出を両方兼ねている。一匹で集団を突破できるように調整されているんだ」
「霧のせいであっちの術の力が増幅している。ここで仕留めないと」
「ああ、やるぞ」
クエンティンが腰のポーチから、何か部品のようなものを取り出す。それは砲口のついた四角い屋根のような形状で、下側に銃身程度の長さのものを嵌め込むように作られていた。クエンティンは自らの拳銃の両側面に彫られた溝に合わせて、その部品をスライドさせる。ガチ、と音がして、クエンティンの拳銃に部品が取り付けられた。敦は別に銃器に詳しいわけではないが、部品が取り付けられた拳銃は砲口の口径もあいまって、まるで大砲のような雰囲気を醸し出していた。
「おれが奴を引きつける。マーティン、あれの準備を」
「わかった」
頷いたマーティンが、ちらとスコルを振り返る。
「スコル。お前はその人たちを頼む」
巨狼の目は、ただじっと怪物を見ていた。
タッツェルヴェルム・グロブスターが、静かに頭をもたげた。術を使った事で疲弊しているのか、あるいは呪いの効きが悪いとみて別の手に移ろうとしているのか。敦は怪物の視線が、路上に転がった翼竜の頭に向けられているように見えた。
「《
クエンティンが装着した部品の上部に十字架を嵌め込む。微かな音がして、部品全体に光のラインが走った。清らかな光によって天使の翼が銃器に描かれ、武骨な拳銃に神の威光を讃える敬虔さと誇りが宿る。
マーティンは少し離れたところで
「あいつ、呪力を補給するつもりか!」
気付いたクエンティンが地を蹴った。同時に、白い怪物が翼竜の頭まで跳んだ。着地と同時に翼竜の頭を咥え、走り出す。
クエンティンの身体に炎のような揺らめく燐光が現れた。消えたかと思うほどの速度で跳躍したクエンティンが、白い怪物の正面に着地する。
「ウリエルの炎よ」
銃口を向けると同時に、祈りを捧げたクエンティンが引き金を引く。爆炎を纏い発射された銃弾が、タッツェルヴェルム・グロブスターの眼前に迫った。直前まで突進していたその動きを急速に方向転換して、白い怪物は聖なる炎の銃弾を避けた。爆発音がした。タッツェルヴェルム・グロブスターの後ろ右脚が、爆炎によって消し飛んでいる。
「逃がすか!」
照準を合わせようとしたクエンティンの顔面目がけて、槍のように鋭い怪物の尾が振るわれた。血飛沫が上がる。クエンティンの頬に痛々しい切り傷ができていた。怯む事なく二発目の爆音が轟く。肩を焼かれたタッツェルヴェルム・グロブスターが威嚇するかのような絶叫を上げた。その口から零れた翼竜の頭が地面を転がる。
銃口がタッツェルヴェルム・グロブスターの頭部を狙う。クエンティンの指が三発目のために引き金にかかる。
タッツェルヴェルム・グロブスターの背から、再び制御棒が伸びた。術の発動動作だ。敦の背筋に怖気が走る。腐敗の呪い。警戒したクエンティンの動きが一瞬鈍った。
怪物の顎が開く。タッツェルヴェルム・グロブスターがクエンティンの腕に喰らいかかった。間一髪、クエンティンは身を低くしてその攻撃を躱す。ガチン! 怪物の顎が勢いよく閉じ、噛み合った歯が金属的な音を立てる。
フェイント。怪物は制御棒を飛び出させたまま呪いの術を発動していない。
「こいつ――!」
地面に身を投げ出したクエンティンが最速の動作で身を起こし照準を合わせる。その手から、拳銃が撥ね飛ばされた。怪物の前脚が無造作に拳銃を払い、その身体がクエンティンに覆い被さった。怪物の口が、クエンティンの頭部を喰らおうと開く。
「この銃弾は炎の剣。邪悪で不信仰なものどもを
銃声。クエンティンではない。マーティンの手に握られた拳銃から一発の銃弾が放たれる。銃声の音が消え去る前に銃弾は怪物の脇腹に着弾する。
「神の熱」
マーティンの祈祷とともに、銃弾を追いかけるように光の刃が天より振るわれた。レーザーカッターの如き一撃。敦にその原理は不明だが、聖なる光の刃がタッツェルヴェルム・グロブスターの身体を一閃する。
パン!
弾けるような音とともに、怪物の身体が上下半分に分かたれる。どろりとした体液がクエンティンのスラックスにかかった。
ぱた、と。タッツェルヴェルム・グロブスターの上半身が力なく地に落ちる。
道路に静寂が戻る。白い霧は、依然として濃いままだ。一閃の衝撃で飛んでしまったのか、タッツェルヴェルム・グロブスターの下半身は霧に紛れて見当たらなかった。
「……あーくそ、最悪だ」
怪物の体液でべたべたになったスラックスを見て、クエンティンが顔をしかめる。
「大丈夫か。相棒」
マーティンが倒れたクエンティンに手を差し出し、引き起こした。
「ありがとうよ。しかし、タッツェルヴェルム・グロブスター。恐ろしい相手だった」
クエンティンは動かなくなったタッツェルヴェルム・グロブスターの上半身を一瞥した。
「安心するのはまだ早い。ミズ・エルフを助けに行かないと」
「そうだな。応援を呼ぼう。トリニティ教会なら退魔屋か巡回騎士を派遣してくれる。替えのスラックスもな」
「そっちは任せる。私は乗客の二人を診る」
マーティンの目が敦たちに向けられた。サングラスの男が足早に近付いてくる。
「待たせてすまない。あなたは日本人だな。体調はどうだ。気分は?」
「ええ、大丈夫です。私よりあの人の事を」
マーティンは頷き、老人に向かって同じような事を問いかけた。祈祷を行い、老人の首に自らがかけていた十字架をかける。
ふと、敦は少し離れた場所に拳銃が転がっているのに気が付いた。クエンティンが使っていた物々しい大砲のような拳銃だ。
恐る恐る拾い上げる。重たい。銃など持ったのは初めてだ。出張で行ったハワイの射撃場に誘われた時も、恐ろしくて断った。だが、現状ではこの武器を使う人間がいなければ、敦一人では身を守ることもできない。
「教会と連絡がついた。十五分で応援が来る」
クエンティンがスマートフォンを仕舞う。マーティンが立ち上がった。
「彼は衰弱している。薬と十字架でしばらくはもつだろうが心配だ。もう一人と一緒に安全な場所まで送り届けないと」
「わかった。マーティン、お前は一度スコルと一緒に霧の外まで二人を連れていけ。戻ってくる時に狼たちを一緒に連れてきてくれ」
「オーケー」
クエンティンが敦を振り返る。
「ああ、拾ってくれたのか。ありがとう。銃は触った事あるかい? 銃口を下に向けて引き金には指をかけないでくれ。今、取りに行くから――」
そう言った、クエンティンの心臓の辺りが。
一瞬で、赤く染まった。
「ぐっ――」
その胸から飛び出しているのは、槍のような鋭い突起物だ。いや、あれは。
「クエンティン!」
叫んだマーティンの頭を、霧の中から飛び掛かったタッツェルヴェルム・グロブスターの顎が食い千切った。
クエンティンの身体から、怪物の尾がずるずると引き抜かれた。
異様な事が起こっていた。
霧の中で、タッツェルヴェルム・グロブスターの下半身が動いている。切断面からは脂肪とも肉ともつかない白い塊が溢れ出ていて、それが道路に転がっている翼竜の死体を貪っていた。分かたれた上半身のほうはマーティンの首を放り捨てると、翼竜の頭へと這いつくばりながら近付いていく。やはり、その切断面からも白い塊が溢れ出ていた。
グロブスター。グロテスク・ブロブ・モンスターの略称であり、元々は海岸に漂着する謎の肉塊を指す言葉である。
タッツェルヴェルム・グロブスターの下半身が、翼竜の身体を喰い尽くし、上半身が翼竜の頭部を咀嚼する。
二人の退魔屋は死んだ。
敦は拳銃を握り締めたまま、震える事しかできない。
「ギィイイイ――」
食事を終えた上半身と下半身が接近する。肉塊部分同士が触れ合うと、すぐさま接合が始まった。翼竜の赤銅色が接合部分に現れ、肉塊で伸長した部分から二枚の翼が生える。
「ギィイヤァアアアァアア!」
さらに大きくなった怪物が吼えた。翼を伸ばし、身体を震えさせる。
スコルが唸り声を上げる。シクラメン色の燐光をその身に纏う。
姿を変えた怪物が嘲るような声を漏らす。
――醜き蜥蜴よ。来たれ。仕事だ――
霧の道路に、突如として声が響き渡った。先ほどの声と同じだ。『
タッツェルヴェルム・グロブスターが不満そうな声を上げた。翼が音を立てる。怪物の身体がたちまち宙に上がり、タッツェルヴェルム・グロブスターは悠然と霧の向こうへと消えた。
飛び去った方角は、先ほどまで敦たちが乗っていたバスのある方角だ。
「……ああ、そんな」
異常事態に疲れ果てた頭で、それでも事実を認識する。あちらにはほかの怪物と戦っているクレマチス、それに、もしかしたらまだマキと奈央子がいるかもしれない。
「……」
このまま真っ直ぐに進めば、おそらく霧は抜けられる。先に逃げた人間もいるはずだし、クエンティンの言っていた応援とやらも来る。真っ直ぐ道を進めば、保護してもらえるはずだ。
つまり、敦がすべきは。
手の中の拳銃を見る。それから、
「あの、すみません」
敦は英語で老人に話しかけた。老人はこちらに顔を向けず、何事かをぶつぶつと呟き続けている。
敦は老人に近付き、その肩を抱いて言った。
「私は来た道を戻ります。あなたはこのまま真っ直ぐ進んでください」
それから、敦は巨狼へと振り返る。
「スコル。この人を安全な場所まで送ってあげてくれ。それから、もしできたら、戻ってきてくれ」
スコルの瞳が、敦を見つめる。
巨狼は老人の近くまで来ると、その姿勢をうんと低くした。
「ありがとう。スコル」
敦は狼に礼を言い、
「さあ、立って。しっかりスコルに掴まって」
老人はしばらく動く様子がなかった。うわ言のように「もう嫌だ」「神よ、何故私を見捨てたのか」と繰り返していた。敦が何度か促すと、ようやく老人は立ち上がり、スコルの背に登った。
立ち上がった巨狼が、おもむろに敦に顔を近付けた。鼻が敦の胸の辺りに触れると、シクラメン色の燐光が敦の身体に灯った。
巨狼が、一度吼えた。まるで敦を鼓舞するかのように。
「ありがとう。頑張るよ」
敦がそう答えると、巨狼は身を翻し、走り出した。
敦は狼を見送ると、横たわった二人に目をやった。
クエンティンとマーティン。
敦など及びもつかないような戦いを
……いや、感傷に
「ありがとうございました。これをお借りします」
敦は拳銃を軽く掲げ、それから二人に頭を下げた。
来た道を戻る。悪夢のような霧の中を、敦は走り始める。
マキと奈央子。二人と合流し霧の外まで、安全地帯まで逃げる。何としてでも。
「二人とも、無事でいてくれ!」
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