『七ツ森』 11


      11


「ほほう」

 呪術師、デズモンド・フォン・ウォーデンが悪魔めいた笑みを浮かべる。

 その目に映っているのは、手負いのクレマチス、そしてバスに残っていた奈央子とマキだ。

「スレンダーマンの報酬が見つかったな」

 黒い靄を纏うスレンダーマンが骨の鳴る音で奏でるかのような、奇怪な笑い声を上げた。スレンダーマン。『痩せた男』の名で知られるこの怪物は、主に人間の子どもを獲物にする。地域によって個体差が見られるが、この個体は高い攻撃力を持っている。満身創痍とはいえ、クレマチスを吹き飛ばすほどの膂力。恐らくは力任せに暴威を振るうタイプだろう。

「クレマチスさん、その怪我は……」

 奈央子が次の言葉を継げずに絶句している。この状況で人の怪我の心配とは。クレマチスは気力を少しだけ取り戻した。ここで親子二人と再会したのなら、なおの事まだ、膝を折るわけにはいかない。

「見ての……通り。状況は、少々厄介ですわ……」

 ああ、血を流し過ぎている。クレマチスは内心歯噛みする。魔力を巡らせれば何てことはない傷だが、肝心の魔力はもう残り少ない。

「クレマチスさん!」

 足音がした。小さな影がクレマチスの傍らに降りた。

「マキさん! 来ては駄目――」

「大丈夫」

 地面に降り立ったマキが小さな手をクレマチスの肩に当てると、ターコイズブルーの光となってクレマチスの身体に流れ込む。

 分身だ。マキの魔力でできた。

 バスのほうへと振り返れば、母の横に立つ本物のマキが、親指を立てていた。

 情けない事だが、今のマキの魔力が身体に流れた事で、クレマチスの中に残っていた魔力が活性化し、身体の傷を癒し始める。

「ありがとう。マキさん」

 だが、これをあいつらに見られたくはなかった。

「ほーう?」

 デズモンドの目つきが、先ほどとは明らかに違っている。

「分身の魔術に魔力の譲渡。魔術師の卵か。しかも、まだ余裕がありそうだな。才気溢れる者を供物にするのは少々勿体ないが……」

「わたしたちから離れて。悪党」

 マキが毅然とした口調で言った。魔力が通った事によって目の輝きが増している。強気な口調も自身の魔力を制御できていない証だ。魔力高揚マジック・ハイ。ポジティブなエネルギーである魔力を使い続ける事で起こる極端な精神の高揚。まずい兆候だ。

「この霧もあんたのせい? 全部引き上げてどっかに行ってよ。わたしたちの前から消えて」

「駄目よ、マキさん!」

 人喰い鰐の前で小鳥が威嚇しているようなものだ。マキと奈央子が無事なのは、何故だか手駒を止めているデズモンドの心持ち一つに過ぎない。

「ひ、ひひひ。ああ、すまない。つい下品な笑いが出てしまったな。いいぞ、お嬢さん。仏頂面で戦ってばかりのそこの女とは違うな。言うだけの魔力はある。お土産に持って帰りたいくらいだ。決めたぞ。君は本部まで持ち帰るとしよう。やはり供物にするのは勿体ない。その魔力が一滴残らず呪力に変わるまで、私が直々に〝教育〟するとしよう!」

 この高らかな宣言に真っ先に不穏な気配を発したのは、誰であろうデズモンドの傍らに立つスレンダーマンだった。

「おいおい、スレンダーマン。そんな顔をするな。子どもならあとでほかのをくれてやる。八つ裂き女、あの親子に手を出すなよ。お前の獲物は退魔屋だけだ。母親もセットで持って帰るからな」

 八つ裂き女の三つの顔が不承不承といった風情でデズモンドを見つめた。

「さて。というわけで、ここで死ぬのはお前一人だ。退魔屋」

 デズモンドの強烈な気が、クレマチスに向けられた。もはや余力はない。だが、クレマチスには奥の手がある。使えばこの場を切り抜ける事はできよう。だが、使いどころを誤ればクレマチスは死に、奈央子とマキが敵の手に落ちる。

 待つのだ。引き絞られた矢を解き放つ瞬間を選ぶように。確実に。クレマチスという矢の射線に、三匹の怪物が入ってくるその時を。

「では、一緒に来てもらおうか。お嬢さん」

 デズモンドの指先が、マキを指し示した。

 鮮烈な魔力のおこりを、クレマチスは間近に感じ取った。マキの身体がターコイズブルーの輝きに包まれていた。強烈な発光。魔術によって整えられていない未熟で野性的な魔力が放たれる。一瞬だった。デズモンドの邪気に満ちた言葉に反応して、反射的にマキは魔力を飛ばしていた。魔術であれ呪術であれ、階梯かいていの差とはすなわち力量の差だ。何の魔術も身に着けていない、階梯を得てすらいないマキと、恐らくは第六階梯相当のデズモンドでは勝負にもならないはずだった。

 頬から、鮮血がほとばしっていた。デズモンドの痩せた顔に一筋の傷があった。衝突の瞬間は見えなかった。見えたのは強烈なマキの魔力の軌跡と、不意を突かれたデズモンドの驚いた顔。

「わたしたちに手を出すな、悪党」

 毅然とした声で、マキが言った。

 固まったままの顔で、デズモンドが自らの頬に手をやる。血。いかに呪術師であろうと、流れる血の色は赤だ。その血液が、デズモンド自身の指先に付着していた。呪力によって守られていたはずのデズモンドの肉体が、僅か十歳の子どもの魔力によって傷つけられていた。

「……ほう」

 吐息のような、デズモンドの呟き。

 次の瞬間、異様な呪力の流れが一帯を呑み込んでいた。八つ裂き女はクレマチスに高速で迫り、スレンダーマンはマキの身体を掴んでいた。

 奈央子の悲鳴が、空から聞こえた。

 八つ裂き女の奇襲をクレマチスは黒蛇鞭ニーズヘッグ・ウィップで防いでいた。振りかざされた無数の刃を弾きざま跳躍、八つ裂き女と距離を取る。

「奈央子さん! マキさん!」

 奈央子は空中にいた。地上から二十メートル程度。浮かび上がったデズモンドに襟首を掴まれ、気が動転している。マキはスレンダーマンの手に掴まれて身動きが取れない。

「……親子ごと持ち帰るつもりだったが、大した才能だ。お嬢さん。この私に傷をつけるとは」

 冷たいデズモンドの視線が、マキを見下ろしていた。

「今すぐ泣き叫ぶ顔が見たい」

 デズモンドの手が、奈央子の襟首から離れた。

「マキさん!」

 クレマチスは咄嗟に叫んだ。八つ裂き女の攻撃が迫る。奥歯を噛みしめる。念じる。クレマチスの左側第三大臼歯に刻まれたルーン。それを、指を鳴らし発動させる。

 ――〝完成ゲル

 花が開く。クレマチスの傍らに。魔力でできた一輪の花。六枚の萼片がくへんがピンク色に染まった旅人の花。クレマチス。

理想の一輪プリズム》。クレマチス・エルフは自らの奥義をそう呼んでいる。

 魔力の花が開いた瞬間、クレマチスの視界や感覚に変化が生じる。世界全体の動きが緩慢になり、同時に自分の中に何かが入ったような感覚。

クレマチスは日々の修練によって見出した己の理想とする動きを絶えずイメージし、脳内に保ち続けている。理想の動きとは即ち対峙する怪物よりも速く、強く、そして多く動ける事である。

やがてイメージは魔力を帯び、クレマチスの中で魔術のつぼみとして定着する。肉体のどこかに刻み付けた完成のルーンが発動すると花が開き、理想形のイメージは神を降ろすかのようにクレマチスの身体に降りて、一定時間だけその動きを可能にする。

 花が開く、三十秒の間だけ。

 己の理想とする膂力を手に入れたクレマチスの振るう鞭の一撃が、八つ裂き女の手に持った凶器を悉く粉砕する。八つ裂き女の一手の動きによる攻撃に対し、クレマチスは同時に五手の攻撃を放っていた。

 単なる高速化ではない。もし仮に敵が、速度に応じた呪いや罠を仕掛けていたら、高速化では対応できない。

 行動回数の増加。相対する敵よりも多く行動できる事。これがクレマチスの目指した理想である。敵が一秒の間にできる動作が一つとするなら、クレマチスは一秒の間に五の動作ができる。相手よりも多く見、多く攻撃し、多く判断できる。

 だが、理想を体現する時間は僅かしかない。

 萼片が散る。残り五枚。

 魔術によって、クレマチスが必要とする情報が脳内に流れ込んでくる。まるでありとあらゆるところに仕掛けたカメラの映像を見るかのように。クレマチスの呼びかけに、マキは拘束されながらも応えていた。絶叫を上げながら地面に向かって落下する母に向かって、マキは魔力を展開する。奈央子の周囲がひび割れ、空気がしなる。魔力による転移。魔術によって制御されていない技。それは、クレマチスにも介入可能だ。

「〝騎乗ラド〟!」

 マキが展開した魔力をクレマチスは素早くコントロールした。次の瞬間、スレンダーマンと奈央子の位置が入れ替わる。マキが展開した魔力を、クレマチスはさらに増幅させる。

「――っ」

 《理想の一輪》によって増強されているとはいえ、一方で魔術を発動しながら、他人の魔力をコントロールし展開するのは脳にも精神にも負担がかかる。

 

「クレマチスさん!」

 マキの声が聞こえる。流れる時間が違うせいで、少女の声は歪んで聞こえる。

 

 

 クレマチスの意識が追えたのはそこまでだ。敵対する怪物たちを素早く見る。突如空中に放り出されたスレンダーマンは咄嗟に身動きが取れないでいる。デズモンドも同様に動きはない。

 つまり、今なら。

「まずはあなたからです」

 とん、と八つ裂き女の胴体に押し付けたのはイアーのルーン・ストーン。

 萼片が散った。あと二十秒。

「地に戻れ、哀れな女。ここは古き王の庭。王のルーネがそなたを導く。地に戻れ、悲しき女」

 鞭で、地面を打つ。弾ける音と同時に墓を意味するルーンが発動し、八つ裂き女の霊魂を呪力から解放する。デズモンドの支配、そしてこれまで身に着けてきた数多の呪いがほどけ、怨嗟めいた絶叫とともに八つ裂き女の姿は光の中に消えていった。

 スレンダーマンがようやくクレマチスの動きに反応する。怪物は空中からの落下など恐れない。怒気に満ちた奇声を上げながら、上方からスレンダーマンが迫る。クレマチスの左手にはまだ墓のルーン・ストーンがあり、右手は鞭を振るった直後だ。迎撃態勢をとる前にスレンダーマンの攻撃がクレマチスを討つだろう。

 萼片が、また一枚散る。

黒蛇よニーズ

 主の声に、黒蛇鞭が自ら動いた。かつて試練を突破し入手したこの鞭は、鞭であると同時に生ける神話の蛇でもある。死者の血を啜るという漆黒の蛇が、スレンダーマンの身体に巻き付いた。

「やれ」

 黒蛇鞭が、締まる。怪物の身体を締め上げる。鞭の先端が黒き蛇の頭に変わり、スレンダーマンの首筋に喰らいつく。灼ける。スレンダーマンの身体が。呪われた身が神話より出でた蛇の神性によって、灼け落ちる。

「図に乗るなよ。退魔屋」

 背後に気配。同時に殺気を帯びた刃の突き込み。知覚すると同時にクレマチスは鞭から手を放し攻撃を躱す。デズモンドだ。腕を禍々しい形状の刃に変形させている。十中八九呪術だ。

 残る萼片は二枚。あと十秒。

「どんな手品か知らんが、この私をここまで――」

 デズモンドの声が歪んでいる。異なる時間の流れにいるせいだ。しかし、その時間も消える寸前。

「〝勝利テュール〟」

 勝利のルーン・ストーンを右手の指を鳴らして発動しざま、クレマチスは踏み込んでいた。デズモンドとの距離は三十センチもない。最小の動作で最高のフォームを作る。左拳は顎の下。左足の踵は軽く浮かせ、右足の爪先は相手に対して三十度の角度。そして右拳は、相手の胴体を狙う弾丸のように。

「ふんッ!」

 撃つ。《理想の一輪》の恩恵によって完璧なフォームが作られ、勝利のルーンによって攻撃力のなおも増加している。二重の魔術による身体能力と魔力の向上を以て放たれる右ストレートがデズモンドの腹部を通貫する。

「ご、ぁ――!?」

 デズモンドの身体が飛ぶ。同時に、《理想の一輪》最後の萼片が散った。

 後方で、灰になったスレンダーマンの身体が崩れ落ちる。クレマチスの体内から活力が消えていく。目の前が暗い。倒れそうになる身体を支えようと足を踏み出すが力が入らず、膝を突く。

 デズモンドは動かない。

 スレンダーマンは灰と化し、八つ裂き女は地に帰した。

 ――勝った。

 クレマチスは力なく路上に倒れる。

 もはや薄れゆく意識を保つのも難しい。理想の動きを体現する代償に、身体は通常の何倍も酷使される。関節は擦り減り、筋肉は千切れる寸前。エネルギー源たる魔力は涸れようとしている。理想の一輪と名付けたこの奥義は、未だ完成には至っていない。

 ああ、そうだ。二人。二人を。

 安全なところまで、連れて行かなければ――……

「……来い。来い、蜥蜴よ」

 声が、聞こえる。

 

「……醜き蜥蜴よ。来たれ。仕事だ」

 言い終えたデズモンドが、ゆっくりと身を起こす。すぐさま、その身体がくの字に曲がり、大量の血を吐き出す。

「はあ、はあ、やってくれたな。退魔屋。このメスブタめ。断じて許さん。蜥蜴にその肉を生きたまま引き裂かせてやる。そこの娘も――」

 デズモンドがバスのほうへと目をやり、

「……二人はどこだ?」

 クレマチスは、ただ少し頬を緩めて笑った。声を発するほどの力もない。

 マキの物体を転移させる魔力をコントロールし、クレマチスは親子を《七ツ森スィーブ・スコーゲル》に少しでも近い路上へ飛ばしていた。行動回数の増えた時間の中とはいえ、ぐずぐずしていては転移の効能が失われてしまう都合上、咄嗟にイメージしたこの先の路上にしか飛ばせなかった。あとはスコルや、クエンティンたちが見つけるはずだ。

「貴様……」

 事態を把握したデズモンドの顔が怒気に歪むが、それも一瞬だ。クレマチスの渾身の一撃を受けた肉体はすぐにくの字に曲がり、デズモンドはまたしても血を吐いた。

「殺す……」

 荒い息をつきながら、デズモンドは右腕を上げた。袖口から禍々しいオーラを放つ鍵が出てくる。デズモンドが怪物たちを解き放つための鍵が。

「殺す……貴様だけは。この私をここまでコケにしたのだ。貴様の首だけは!」

 死ぬ。無理だ。動けない。デズモンドの攻撃が何であれ、躱せない。でもそれでいい。クレマチスは悟っていた。十分だ。デズモンドには深手を負わせた。ここでクレマチスにかまけている間に、こっちの増援が来るだろう。

 ――が。

「死ねい、退魔屋!」

 デズモンドが鍵を掴み、右腕を天高く掲げた。

 ――空気を切り裂く、微かな音がした。

 呪われた霧を裂いて、一条の光が駆け抜けた。光はデズモンドの掲げた腕を貫き、その身体から切り離す。

「あ――」

 ついに、デズモンドの口から絶叫が上がった。切り離された腕は路上に落ち、鍵が甲高い音を立てた。

 少し離れた場所で、同じく路上に突き刺さったのは矢だ。

 クレマチス・エルフは、その矢を放った者の事を知っている。

「……遅い」

 小さく、クレマチスは呟く。

「あ、ああ、あ、鍵、私の鍵!」

 身体のバランスを崩し、よろめきながら、デズモンドは必死に落ちた腕から、鍵を抜き取ろうとしていた。

「森のッ、魔術師! 七ツ森スィーブ・スコーゲルの主っ!」

 デズモンドの落ちた腕の傷口から、闇が広がりつつあった。

 デズモンドが持つ呪牢の鍵は持ち主にさえ呪いを掛ける呪物である。デズモンドを呪牢の主とする代わりに、生涯鍵を肌身離さず身に着ける事を要求する。ただそれだけの事といえばそうだが、魔術と呪術の戦いに身を置く者が、いつも万全でいられる保証はない。

 傷口から広がった闇が、右腕もろとも鍵を呑み込み、消えた。鍵に見捨てられたデズモンドは呪牢の主ではなくなった。

 あとに待つのは、その罰である。

「あ、あ、あああ、クソっ! くそ! クソッ! 私の鍵! 嫌だ、死にたくない!」

 デズモンドは半狂乱で喚き散らした。

 霧が揺らめく。濃く。深く。

 鍵が消えた事で、デズモンドの召喚術もその制御を失ったのだ。

「師匠……」

 クレマチスは天を仰ぎながら呟いた。そこで、彼女の意識は途切れた。

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