『七ツ森』9


      9


狼の使い魔、スコル。その名は北欧神話『グリームニルの歌』に伝わる、輝く神太陽を追う狼から取られている。クレマチス・エルフはダイアウルフの血を引く黒毛の狼が生まれた時から、一心にその仔を育てた。単なる術者と使い魔の関係ではなく、命を預ける相棒としてスコルを信頼している。スコルにしても、それは同じだ。たとえどれだけ離れていようとその魂は常に、主であるクレマチス・エルフと繋がっている。

今、使い魔スコルは、主の危機を感じ取っている。何が主の身に起こっているのか、具体的にその様子を思い描けているわけではない。クレマチスの命の気配、瀕死の魂を我が事のように感じている。一刻も早く、主の元に駆け付けなければならない。スコルの本能が逸っている。

だが。

「グ……ギイ……ギィヤ」

 今、スコルと、その背中に乗った敦の目の前で、無残な姿になった呪術師が、さらにその身体を捻じ曲げられ、変形させられている。血が膨らんだ風船のようになった身体に亀裂が入り、黒い液体が流れ出す。液体がたちまちかたどったのは黒い格子扉だ。贄として捧げられた呪術師の肉体は、暗黒の牢へと囚われた。


 ――呪牢開錠オープナー――


 路上に響き渡る禍々しい声と、重く錠が動く音。牢の中で、肉塊が激しく蠢く。次の瞬間、血飛沫とともに白い頭が、肉を突き破って現れた。黒い牢が、勢いよく吹き飛ぶ。中から現れたモノが、悲鳴にも似た雄叫びを上げる。

「あれは……何だ?」

 敦は、思わず声に出して言った。

 何と形容したものだろうか。白く、長く、大きく、ぬめりを帯びたその頭部には、マッコウクジラを思わせる大きな口がついていた。並んだ牙はいずれも鋭く、肉はおろか骨をも容赦なく食い千切るだろう。胴体は四足獣の如きしなやかさだったが、異様さは随所にあった。たとえば前肢の先にある指は、人間にそっくりの五本指でありながら、いずれも鬼のように太くごつごつした骨と、鋭い爪を備えており、後肢は、骨ばっていながらもがっしりとした力強さを感じさせ、前肢と同じような指が、放射状に広がっている。背中には、鰭のような突起物が並び、その尾は先端鋭く、別の生き物のように蠢いている。牙、指、尾。目につく部位はあまりにも攻撃的で、まるで害意を以て設計されたかのようなフォルム。

 敦とスコルは知る由もなかったが、この怪物はニューヨークの地下下水道に生き残っていた正体不明の生物で、より強力な手駒を探していたデズモンドが、偶然捕獲できたものである。ニューヨーク地下下水道といえば、巨大な白い鰐の伝説が有名であるが、この怪物は本物の白い鰐に紛れてたびたび目撃されており、ニューヨーク下水道の白鰐を追っている者たちの間では、鰐ではない別の白い怪物として、まことしやかにその存在が囁かれていた。

 その、地球生物とはあまりにもかけ離れた外見から、名付けられた名は《タッツェルヴェルム・グロブスター》。意訳するなら『醜い蜥蜴』である。

 金属を激しく擦り付けるような耳障りな咆哮を上げ、タッツェルヴェルム・グロブスターは霧の路上に着地した。

「鰐……コモドドラゴン……いや」

 敦は息を吸って混乱した思考を振り払う。巨狼スコルよりも大きさは二回り程度小さいが、この異様な生物は一切怯んだ様子を見せず、灰色の舌を動かして、こちらを値踏みするようにじっと見つめている。……いや、目のような器官は見当たらないのだが、敦は、見られているという感覚を拭えなかった。

 敦はスコルの背の体毛を握り直す。温度が上がっているような気がした。見れば、スコルの身体は、シクラメンのような鮮烈なピンクの燐光を身に纏っていた。同じく背中に乗っている老人はかろうじて意識があるようだが、怯えたまま狼の背中に顔を押し付けて震えている。

 タッツェルヴェルム・グロブスターの口元から白い息が出る。次の瞬間、敦は尋常ならざるスピードによって揺さぶられた。何が起きたのかわからない。温かな液体が顔に付着する。血だ。しかし、敦のものでも、老人のものでもない。敦の左足のすぐ近く、黒毛の狼の脇腹に五本線の抉られたような傷ができていた。

視界の端で、白い影が着地した。タッツェルヴェルム・グロブスターの鋭い爪が赤い血で濡れている。悪魔のような牙を剥きだしにして、怪物が白い息を吐く。

 スコルが、痛みをこらえるように呻く。ピンクの燐光がより強くなり、傷口が湯気を立てながら塞がっていく。

(今のは、まさか……)

 敦の脳裏にひとつの考えが過った。怪物の爪は敦の足のすぐ近くを狙っていた。敦が攻撃を受けなかったのはひとえにスコルが怪物の攻撃から逃げてくれたからだ。もしや、怪物が狙ったのは……

 タッツェルヴェルム・グロブスター。恐るべき怪物がその頭部を再びこちらに向ける。見ている。狼を。その背に乗った敦と老人を。身を守る術も、攻撃の手段も持たない、ただの獲物を。

「ギィイィイイ……」

 怪物の口から声がする。金属めいた耳障りな声。まるで敦を嘲笑うかのような。

「狙いは僕らか」

 敦の言葉に呼応するかのように、怪物が切り裂くような叫び声を上げる。スコルが咆哮した。スコルの強力な筋肉が動き、即座に怪物との距離を詰める。巨狼の顎が怪物の頭部を狙う。怪物の動きは素早い。嫌悪感を催すほどの奇怪な動きで狼の一撃を躱すや、五本の爪が敦の眼前に迫る。ぐん、と。狼の胴体が旋回する。強烈な後ろ脚の蹴りが、怪物の白い胴体を吹っ飛ばす。ぐにゃりと曲がった怪物の身体が路上を転がるのも束の間、すぐさま白い影が起き上がった。

 スコルの全身を覆うピンクの燐光が炎のように揺らぐ。白い怪物は地に這いつくばるような姿勢のままこちらの様子を伺っている。

(恐ろしいスピードだ。二人も乗せたままじゃ、このの動きが悪くなる)

 命の危機がそうさせるのか、敦の頭の中は奇妙に落ち着いていた。

(このは強い。あの化け物よりも大きいのに、スピードは今のままでもほぼ互角だ。本調子で戦えれば勝てるだろう。つまり、そのためには……)

 敦は、自分の下で怯える老人の背を見た。上着のポケットにライターと煙草が入っているのが見えた。路上に目を移すと、左前方に首の無い翼竜の死骸があった。怪物蜥蜴が現れる前、その翼竜の背に乗って、枯草色のマントの男が襲い掛かってきたのだ。枯草色のマントの男は、そのすぐあとに変形し、今は白い蜥蜴の怪物となって、巨狼と睨み合っている。

(やるしかない。あいつの気を逸らせば……)

 敦は一度深く息を吸った。自分は冷静なのか。いや、冷静だ。動かないままでは状況は変わらない。

「スコル……聞いてくれ」

 通じるか、通じないか。それさえわからないが、敦は狼に向かって囁く。

 狼の息遣いが、僅かに変わった。気のせいではない。まるでこちらの言葉に耳を傾けているかのよう。

「僕が囮になる。あの死骸に向かって走る。あいつは僕を真っ先に狙うだろう。君はその隙を突け。あいつを一撃で仕留めるんだ」

 スコルが、低く唸る。抗議か。余計な事をするなという意味か。だが。

「ほかに手はない。僕の事は構わない。あいつを倒せるのは君しかいないんだ。スコル、君がやるしかない」

 白い怪物の尾が、大蛇のように蠢く。身構えている。

 狼は、静かに視線を怪物に注いでいる。

 了承か。諦めか。少なくとも、敦の案に反対というわけでもなさそうだ。

 やるしかない。

「頼んだ、スコル。おじいさん、ライターを借りるよ。じっとしていて」

 怯える老人の返事も待たず、敦は上着からライターを抜き取る。武器になるはずもない。だが、丸腰よりはましだろう。

 ライターを抜いた拍子に、煙草のケースが上着から零れ落ちた。

 その瞬間、白い怪物が弾丸のように飛び出す。速い。駄目だ。あれでは、すぐにも距離を詰められてしまう!

「くそぉっ!」

 敦は巨狼の背から路上へと飛び降りた。転びそうになりながらも即座に走り出す。目標は、翼竜の死骸だ。ライターを握り締めたまま、全速力で走る。

 白い怪物が、敦の動きに気が付いた。怪物の軌道が変わる。四本の脚を使い、怪物が敦のほうへと向かってくる。息も絶え絶えになりながら、敦は走った。白い影が死を伴って接近する。死骸までまだ遠い。遮蔽物などない。追いつかれれば死ぬ。敦は地面を蹴る。死骸のあるほうに飛び込む。

「ギィイヤァアアアッ!」

 吼え猛る白い怪物が、敦を目がけて飛びかかった。その瞬間、側面から迫ったスコルの前脚が、怪物の首を横殴りにする。再び怪物の身体が路上に転がる。骨が曲がったのか砕けたのか。異様な音とともに、怪物の首が真後ろにまで曲がっていた。

 敦は地面にぶつかる。腕で衝撃を殺しても、痛みが襲ってくる。胸から、息が飛び出る。

「はっ、はっ、はっ……」

 やった。首があんな折れ方をして生きている生物はいない。現に、横たわった怪物はぴくりとも――

「ギィイイイイイ!」

 ボキボキボキと音を立てて、怪物の首が回る。たちまちその身体が起き上がり、裂けた口が不快な叫び声を上げ、並んだ鋭い歯が涎に濡れて光り、長い舌が忌々し気に踊る。

「伏せてろ!」

 どこかから、声がした。反射的に、敦はその声に従う。次の瞬間、弾けるような音が連続で響き渡り、白い怪物の身体にいくつもの穴が開く。

 二人分の人影が、敦とスコルの前に降り立った。二人揃って似たようなロングコートを纏い、一人はテンガロンハット、一人はサングラスに髭面だ。その手には二人とも拳銃を握っている。

「あ、あなたたちは……」

 サングラスに髭面の男が敦を振り返った。

「助けにきた。おれは退魔屋のクエンティン。そっちのテンガロンハットはマーティンだ。バスの乗客だな? 遅くなってすまない」

 言いながらも、サングラスの男は銃口を怪物に向けている。テンガロンハットの男は怪物から目を逸らさず、銃を構えたまま言った。

「こいつ、タッツェルヴェルム・グロブスターだ。噂は聞いた事がある。ニューヨークの怪物が何故こんなところに……」

「油断するな。こいつはまだ動く」

 サングラスの男、クエンティンがそう言った時、銃弾を受けて倒れていた怪物の背鰭のような突起物が、音を立てて伸びた。ボシュ、ボシュ、と機械的なリズムで、背中に並んだ突起物が、次々と棒のように伸びていく。

 禍々しいエネルギーが、背中の棒から解き放たれる。怪物が、再び身を起こす。銃弾が地面に落ちる。赤く、禍々しいプラズマめいたエネルギーが迸る。怪物の傷が塞がり、血のような色の異様な紋様が、その白い体に浮かび上がる。

「呪詛だ! 対呪防御!」

「伏せろ!」

 クエンティンの言葉に、マーティンが十字架を投げつける。敦が伏せ、スコルが跳んだ。刹那、激しい光が十字架から放たれる。

「ギィイィィイ――――――――――――!」

 鼓膜が破れるかと思うほどの超高音。怪物の叫び声だ。しかし、これまでの咆哮とは性質が違う。赤く、おどろおどろしい邪悪な光が、怪物を中心にドーム状に広がった。

「ぐぅっ!」

 身体のそこかしこに、灼けるような痛みが走る。まるで薬品か何かをかけられたかのような、皮膚を侵食する痛みだ。

 聖なる光と邪悪な光。双方の光が収まっていく。周囲から、何かが溶けたような、異様な臭いが漂ってくる。

「腐敗の……呪い……!」

 苦し気に腕を抑えながら、クエンティンが絞り出すように言う。

 背中から棒状の突起物が飛び出したまま、怪物は白い息を吐き出す。タッツェルヴェルム・グロブスター。この世のことわりに収まらぬ怪物は、呪いの力を撒き散らしながら、この場の者を残さず殺害しようとしていた。

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