『七ツ森』7


      7


 冷たい風が吹き、鼻孔に届く血臭が増す。守護の魔術だというピンク色の光も、白くおぞましい霧の中では不安定に揺らめいている。

 ボディスーツに身を包んだクレマチス・エルフの背中は、まるで甲冑騎士の如く雄々しく、身に纏った気配は戦士のそれだった。

「渡瀬様。奈央子様とマキさんは?」

 クレマチスが前方を警戒したまま言った。

「……わかりません。まだバスの近くにいると思うんですが」

 敦が乗っていたバスからは人がいるような様子は見受けられない。バスの中や影で息を潜めているのか、あるいは、すでにどこかへ逃げたのか。

「邪気が強く、守護エオールの結界がもちません。渡瀬様、その方を連れてお逃げください」

「逃げろと言っても……」

 敦の言葉をクレマチスの鋭い指笛が遮った。黒い巨大な影が、一瞬敦の上を通って、すぐ傍らに着地する。

「なっ……!?」

 敦の近くに降り立ったのは、猛々しい毛並みの黒い獣だった。峻険な山の如き鋭い顔つきに、凛とした双眸。狼だ。しかし、全長三メートル以上はあるだろう。この種の生き物としてはあり得ないほどの巨体だ。

「ご心配なさらず。わたくしの使い魔です。スコル、渡瀬様たちを安全なところまで送ってさしあげて」

 一切警戒を解かないまま、クレマチスは言った。

「そんな……まだ奈央子とマキが!」

「二人はわたくしが探します。今は渡瀬様ご自身の安全を確保しなければ。さあ、スコルに乗ってください。じきに追手が来ます」

 黒く巨大な狼が、すっと姿勢を低くした。まるで、乗れ、と言っているかのような。

 敦は腕に抱えた老人を見た。呼吸が荒く、動揺している。外傷はないようだが、この事態に怯えているのだ。

 奈央子とマキを探さなければ。しかし、この老人を放っておく事はできない。それに、今この場に残っていても足手まといになるのは目に見えている。

「……わかりました。二人を頼みます」

 クレマチスは頷いた。

「必ずや」

 敦も頷き、急いで老人を狼の背に乗せると、その後ろに自分もまたがる。

 不穏な気配が張り詰める。横転したもう一台のバスが激しく揺れた。次の瞬間、巨大な昆虫の脚のようなものが、バスの中から飛び出す。

「急いで!」

 クレマチスが鋭く叫ぶ。巨大な狼、スコルが素早く立ち上がるや、敦が叫び声を上げる前に身を翻し、走り出した。猛スピードだ。敦はたまらず狼の背にしがみつく。

 嫌な予感がする。敦は言いようのない思いに囚われる。とてつもなく、嫌な予感がする。


 ――後手に回っている。クレマチスは冷静に状況を分析する。敵の仕掛けた攻撃はこちらの不意を突き、しかも規模が大きい。

 ボディスーツのそこかしこに取り付けた小型のポーチからルーン・ストーンを引き抜く。横転したバスの中から何かが出ようとしていた。さらに眼前には、幽鬼の群れが迫っている。

 ルーン・ストーンを上空に放る。

「〝ユル〟」

 指を鳴らす。ピンク色の光が石より発光し、柄を形作り、先端に剥き出しの刃を造り出す。魔力を込め、術を発動させる事で、ユルのルーン・ストーンは魔力の斧の核となるのだ。

 ゆらりと落ちてきた魔力の斧を、クレマチスは見もせずに掴んだ。

 山賊。騎兵隊。血を求めて集う幽鬼たちの暗い眼窩が、クレマチスを見つめている。

「この地に眠る魂たちを呪いに染め上げましたか……」

 魔力が迸る。邪気の霧が身体に侵食してくるのを防ぎ、闘志を燃やす。

 路上には、犠牲者たちが無残な姿で倒れている。

 どこの呪術師の仕業であれ、決して許しはしない。

「グ、ギャ……」

 幽鬼たちがカタカタと顎を鳴らし、喉を締め付けられた奇声を上げる。クレマチスは地を蹴った。幽鬼の群れに飛び込むや、魔力の斧を振るい、その頭を砕く。後方から襲いくる刃を避け、振り向きざま二体目を叩く。跳ぶ。三体目の頭に斧を投擲し、素早くルーン・ストーンを取り出す。

「〝育てイング〟」

 成長のルーン・ストーンを放り、指を鳴らす。魔力の斧が瞬時に巨大化し、回転しながら緩慢に集っていた幽鬼たちの身体を切り裂いた。成長の魔力効果が切れ、斧のサイズが元に戻る。

「さて……」

 残る幽鬼たちに目をやったその瞬間、後方で呪力が大きく膨らむ気配がした。

 空気を貫く鋭い爪の一撃が迫る。クレマチスは身を翻し、寸でのところで攻撃を躱す。

 横転したバスの中から異形の怪物がその身体を伸ばしていた。まるでムカデのような節がある長い体に、長く鋭利で凶悪な二本の前脚。八つの目に、赤く禍々しい口を開け、クレマチスを狙っている。前脚が持ち上げられたその瞬間、弾丸の如きスピードでクレマチスの胴体を狙って突撃してくる。

 花びらが舞うような身軽さで、クレマチスは跳ぶ。八つ目がその動きを追っていた。魔力によって長い滞空時間を得ているクレマチスは、悠然とルーン・ストーンを引き抜く。

「〝照らせケン〟」

 強烈な発光が霧中の道路を照らす。松明たいまつのルーンであるケンのルーンによって、八つ目の怪物が目を眩ませる。着地したクレマチスはすかさず斧を引き抜き、魔力によって得た跳躍力によって、ひと足で怪物との距離を詰める。一閃。魔力の色が軌跡を描き、胴体に傷を受けた怪物が、どうっと音を立てて倒れる。

「やはり召喚術。この霧が召喚の起点ですわね」

 残る幽鬼たちは少ない。全員倒してさっさと先に向かわなければ。呪力の濃さからして、術者はこの道の先にいるはず。だが、この規模の召喚術なら、呼び出された怪物が二種類だけとは――

 クレマチスの思考を遮ったのは急接近する二つの気配だった。咄嗟に斧を振るうと、刃の部分が固い物と激突した。不意打ち。突如として頭上に人影が現れていた。ぶつかったのは、その者が持つ両刃の剣だ。

「ははは、ヒルドン! その太った退魔屋は任せるぞ!」

 いや現れたのは一人ではない。剣を持った奇襲者のさらに上、翼竜のようなものに乗った枯草色のマントの人物が言った。

「ああ。この肥えた獲物は任せてもらおう。リュドロー」

 剣を持った枯草色のマントの奇襲者が答えた。

 高笑いをしながら、リュドローと呼ばれた男が翼竜に運ばれ、霧の中に消える。クレマチスは鍔迫り合いを押しのけ、後ろへ跳んだ。

「ルーン使いか。卑しい退魔屋め」

 剣を振り、ヒルドンと呼ばれた男が嘲る。

「あなたとさっきの男が、この召喚術の術者ですか。呪術師よ」

 普段の丁寧な言葉遣いはそのままに、敵に向ける冷徹さを含めて、クレマチスは言った。

「いかにも。我らは大いなる目的のためににえを求めている。死の恐怖に怯え、嘆く人間どもの血肉をな。退魔屋、貴様もその一部となるがいい」

 言って、ヒルドンは剣を一振りし、驕り高ぶった眼差しをクレマチスに向ける。

 クレマチスは冷めた目で呪術師を見つめた。

「……違いますわね。あなたや、もう一人の腕では、この規模の呪術は維持できない。主はどこです? 薄汚い呪術師の主は」

 ヒルドンの顔に怒気が差した。

「貴様……侮辱するか!」

「問答をしている暇はないのです。わたくしは忙しい。あなたの主に止めを刺し、一人でも多く助けなければならない。さっさと主の居場所を言いなさい。そうすれば、ほんの少しくらいは、苦しむ時間も減るでしょう」

 怒気に震えながらも、ヒルドンは口の端を持ち上げて憎々しげな笑みを浮かべた。

「焦るな、豚め。その太った身体を楽しんでやろう」

 ヒルドンはクレマチスの身体を舐め回すように眺め、器用にくるりと剣を一回転させる。

 その回転によって発散した呪力が、周囲の怪物たちに染み込んでいく。刃を持った幽鬼たちの眼窩に赤い光が宿り、後方で倒れていたはずのムカデのような怪物が動く気配がした。

「我らは呪力により怪物どもを操る事ができる。これから怪物どもと一緒にお前を切り刻んでやろう。簡単には殺さぬ。お前の悲鳴と恐怖が血肉に染み渡るまで、何度でも嬲ってやるからな」

「……実に素晴らしい口上ですわ、呪術師」

 背後に迫る巨大ムカデの気配を感じながら、クレマチスは静かに言った。

「ところで、その腕はどうしました?」

「――あ?」

 ヒルドンが怪訝そうに自らの腕に目をやるのと、黒い風となったクレマチスが動くのは同時だった。至近距離に接近した魔力の斧が振るわれ、ヒルドンの剣を持つ手から肘までが宙を舞う。噴出する血煙に驚き、足を滑らせたヒルドンには構わず、クレマチスは幽鬼の群れへと突っ込む。それを追ってムカデの怪物が幽鬼たちの身体を蹴散らし、吼える。路面をスライディングしながら、幽鬼たちに触れる事を許さず、クレマチスは優雅に立ち上がった。幽鬼の群れとムカデの怪物は、もはや統制が取れぬまま、お互いを攻撃し合っている。クレマチスはルーン・ストーンを取り出し、絡み合った怪物たちへと投擲する。

「〝凍れイス〟」

 指を鳴らす。怪物の一体に触れたルーン・ストーンが力を発揮し、瞬く間に魔力の氷が、巨大ムカデを、刃を持った幽鬼たちを凍結させる。

 宙を舞うヒルドンの腕が、落ちる。手は剣の柄を握ったまま、切っ先はまるで計算されていたかのように地を向いて、凍り付いた路面に音を立てて突き刺さる。

 その瞬間、氷漬けにされた怪物たちの身体が、一斉に崩れ落ちた。

「おっ、のれ――!」

 隻腕のヒルドンが自らの血に塗れながら、立ち上がろうとして足をばたつかせる。急に片腕を失ったせいで、身体の取るべきバランスがわからず、立ち上がれないのだ。いや、それだけではない。先ほどの氷のルーンが、ヒルドンの足にも影響している。左足の踵から、少しずつ凍結が始まっている。

 出血と恐怖が、ヒルドンの顔を蒼白に追い込んでいた。

「俺を殺したところで無駄だぞ! すでにリュドローが逃げた乗客を追っている! 貴様が俺にかまけている間に、連中は皆殺しだ!」

「ご心配なく。わたくしの仲間が救助に当たっていますわ。あなたの相棒は……さて、そこまで辿り着けるかどうか」

 魔力の斧の刃が、ヒルドンの頬に当てられた。豚と蔑んだはずの女が、ヒルドンを見下ろしている。卑しいと罵ったはずの女が、悪魔よりも冷たい目で、ヒルドンの目を見ている。

「さっきも言った通り、時間がありませんの。さっさと主の居場所を吐いて頂戴。呪術師の坊や」



 頭のもげた不気味な翼竜が、路上に転がっている。巨大な狼は、口に銜えた翼竜の頭を、味が好みではない餌のように放り捨てた。

「はあ、はあ……っ」

 翼竜の背に乗っていた人物は、何とか道路に着地していたものの、その衝撃を完全に殺す事はできなかったようだ。

 敦は、狼の背に捕まりながら、そして同じく狼の背に乗った老人が落ちないように支えながら、この一瞬の狩りを見ていた。上空から急襲した翼竜を、息も乱さずに巨大な狼――スコルは狩ってみせた。

「舐めるな……! この、駄犬めがぁっ!」

 翼竜から落ちた人物は半身を引き摺りながらも呪詛の言葉を吐き捨てる。真っ赤な、異様な気配のする真っ赤な光が、男の身体から迸る。殺気だ。直感的に敦は悟った。あの男は狼も、敦も、目に映る全員を殺す気なのだ。

 男の悪鬼の形相でさらに呪詛を吐き出そうとした、まさにその瞬間、生温い瘴気めいた風が、路上に吹き抜けた。


 ――血を捧げよ。肉を紅玉髄べにぎょくずいに、臓腑を紅縞瑪瑙べにしまめのうに、目玉を水晶、骨は黄玉おうぎょく、愚かなるリュドローの身は醜き蜥蜴に、浅はかなるヒルドンの身は哀れなる女に捧げよ。魔の霧よ、我が門となれ。我の持つ鍵にて開くがよい――


 不気味な風に乗って、厳かな声が霧の中に響き渡る。

「今のは……」

 敦の呟きに答える者はなく、続いて聞こえたのは潰れた喉から絞り出されるような悲鳴だった。

「ぁあ、っ、がっ、早い、早い、ぞ。デズ、モンドぉおっ」

 翼竜の背にいた男の身体は、異様なまでに一部分が膨らんでいた。目玉は片方がすでに潰れ、片方は空気で膨らんだかのように肥大化している。人体を冒涜する風船が如きその異様な変形に、敦の心はたちまち恐怖した。

「やめ、やめ、るぉ、い、だぃ、い、や、だぁっ、ぁあああ!」

 風に乗って、声が聞こえる。

 ――貴様らは遅すぎたのだ。クズどもめ。せめて我が術の足しにしてやろう。幕は、私が引いてやる――



「これは……」

 クレマチスは、変形を始めたヒルドンの身体から素早く距離を取った。全身の血が血管の中に溢れ続け、瞬く間に膨らんだヒルドンの身体は、今、呪力によって空中に浮き上がっていた。

「クズどもが世話になったようだな、退魔屋」

 長く伸びた黒髪がなびき、霧を運ぶ生温い風がマントを翻す。空間に突如として出現した異次元の穴の中から、その男は現れた。ヒルドン、リュドローとは比べ物にもならぬプレッシャー。纏わせるのは間違いなく呪いだが、超然としたその気配と豪奢な威容。

「《夜明けの箱舟》が呪術師、デズモンド・フォン・ウォーデン。悪いがお遊びはここまでだ。貴様も血肉に変えてやろう」


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