『七ツ森』6


      6


「一号車より二号車。霧が濃くなってきた。五〇メートル先の路肩に寄せて停車する」

『二号車より一号車。了解した。少し車間距離を空ける』

 運転手同士の、ノルウェー語の通信が聞こえた。バス内は立ち込めた霧のせいでにわかにざわめき出している。

「乗客の皆さん。濃霧のため一時停車します。席をお立ちにならず、どうかそのままでお願いします」

 観光ガイドのブロンド女性が英語でアナウンスする。

「すっごい霧だね……」

 奈央子が呟いた。

「……うん」

 マキが、固い顔のまま頷く。

 バスが速度を落としながら、緩やかに路肩に停車する。外は白い霧に包まれ、景色はおろか反対車線さえ見通せない。これでは確かに動くのは危険だろう。

「一号車より二号車。停車した。霧がひどい。追突に気を付けろ」

『二号車より一号車。〝霧の騎兵隊〟だな。了解』

「一号車より二号車。間違っても英雄になるなよ。こっちは山賊じゃないんだ」

「お父さん、きりのきへいたいって何?」

 マキが敦に尋ねた。

 咄嗟に敦は答えかねた。何だっただろう。聞き覚えのあるフレーズなのは間違いない。そう。確か、この辺りの土地に関連したフレーズだ。

「今、ドライバーが言った霧の騎兵隊というのは、ヌールランに伝わる伝説です。一八九四年、この辺りには獰猛な山賊一団が暴れ回っていました。ある日、山賊たちは濃霧に乗じて、村の女性たちを攫っていきました。普段から山で暮らす山賊たちにとって、濃霧など苦になりません。村人の追跡もむなしく、あっという間に山賊たちは霧の中に消えてしまいました」

 ああ、と、敦はガイドの話を聞いて思い出した。霧の騎兵隊。ノルウェーに来る前、ウィキペディアで読んだのだ。史実ではなく、あくまでも伝説だが、映画みたいで面白かった。

 ――何か、違和感があった。

「村人たちは悲嘆にくれましたが、そこへ通りかかったいにしえのノルウェー王家の血を引く人物が村の若者を率いて騎兵隊を結成し、濃霧の中、逃げ去ろうとする山賊の列を横合いから急襲、見事女性たちを取り戻したのです」

「ねえ、マキ。さっきどうして……」

「一号車から二号車。どうした、騎兵隊。停車の連絡がないぞ。山賊でも現れたのか」

 運転手が、いくぶんかふざけた調子で言った。

「そう、まさにこんな濃霧の中でしたでしょうね。騎兵隊が、山賊を襲撃したのは。この辺りでは今も、霧が出る日には山賊の恨めしい声が聞こえるのだそうです。うう、怖い怖い」

「やだー」

「ちょっとやめてよー」

 観光ガイドのおどけた調子に、若い観光客が英語で非難の声を上げた。

「あははは、ごめんなさい。でもちょっと待って。今、もし耳をすませてみたら、ひょっとして……」

 ガイドが懲りずにまたもふざける。マキの黒髪が、小さく揺れた。

「一号車より二号車。トーマス、どうした。停車の連絡を入れろ」

 運転手がまたも通信を入れる。

「トーマス。どうした? 道に迷ったわけじゃないだろ」

「ちょっと、ガイル。やめてよ、お客様が不安がるでしょ」

 ガイドがノルウェー語に切り替えて文句を言う。

「だけど、トーマスから応答がない。停車にてこずるような場所じゃないんだが……」

 運転手の困惑したようなノルウェー語が聞こえる。

「――後ろの車は駄目かも」

 小さく、マキが言った。

 敦は娘の顔を見る。その目が、ターコイズブルーに爛々と輝いている。

「マキ、どうして……」

「声が聞こえるの。お父さん、お母さん――」

 マキの身体に、目と同じ色の燐光が仄かに光る。

「もう駄目。来るよ」

 ガイドが運転席から振り返り、客席のほうへ、よくできた笑顔を向ける。

「濃霧のせいか、後ろのバスとの連絡が滞っているようです。ですが、ご安心ください。霧が晴れるまでは、この場から動かなければ安全――」

 何かが、動いた。ガイドの首のあたりで。

 次の瞬間、笑顔のままのガイトの頭が床に滑り落ち、鮮血が一気に首から噴き上がる。

 悲鳴が、一瞬で車内を埋め尽くした。

 倒れ込む観光ガイドの死体の背後に、奇妙な人影が立っていた。古い、軍服のような格好。手に持っているのは、血の付いたサーベル。両の目玉はなく、鼻はなく、顔面の肉は腐り落ちかかっている。

 騎兵隊だ。

「うわああああっ!?」

 観光客の一人が大声を上げた。パニックになった観光客たちが、慌てて席を立ち、出口へと殺到する。

「開けろ! 開けてくれ!!」

 叫んだその口から刃が飛び出す。怪しげな風体の、野蛮な刀身の剣を持った幽鬼がバスの中に出現していた。

「山賊……」

 思わず呟いた敦のほうへ、刃を持った幽鬼が振り返る。目玉のない眼窩が、確実に、敦を見ていた。

「あ、ああ……」

 咄嗟に、敦は後ろにいるマキと奈央子を庇うように立ち上がった。山賊の血塗られた刃がぎらりと光っている。サーベルを持った騎兵隊もこちらに狙いを定めていた。伝説の再来とはいかなかった。現れたのは二匹の幽鬼だけだ。

「はあ、はあ……」

 息が、うまく吸えない。何かができるとは思えなかった。できる事は何もない。だが、後ろの二人だけは。妻と娘だけは守らなければ。たとえそれが身代わりになる程度の事だとしても――

「来るな、来るんじゃない」

 山賊の幽鬼が、一歩にじり寄る。刃はだらりと下がった手に持たれたままだ。暗い眼窩から、血が流れ落ちる。腐った顔の口が、悪魔のように瘴気を吐き出した。

「来るな、来るな――」

 手が、動く。刃を持つ手が。一瞬。敦の首を狙って。今。

「こっちに――」

 燐光を放つ小さな掌が、敦の顔の横から飛び出した。

「来ないで!」

 ターコイズブルーの光が激しく発光する。山賊の刃を持つ腕が上向きに捻り上げられた。咄嗟に敦は山賊の胴体に向かって突進した。生き物の腐敗臭が鼻の中を埋め尽くしたが気にしている場合じゃない。山賊の身体ごと出口ドアへともつれ込み、必死にその手を抑えつける。

ドアを開けてくれOpen the door!」

 敦は英語で叫んだ。運転席で物音がして、すかさずドアが開き、山賊と敦は地面へと倒れ込んだ。山賊の異様な筋力が敦の身体を押し返し、くるりと上下を返され、たちまち山賊は敦の上に馬乗りになった。ぶる、と腕を振り、山賊の持つ刃が敦の首筋に迫る。

「お父さん!」

 出口から飛び出したマキが叫ぶと同時に手をかざす。強い衝撃。ターコイズブルーの衝撃波が山賊の身体を吹き飛ばす。恐ろしい幽鬼は転げながらガードレールにぶつかり、刃を手から落とすと、道路脇の生い茂る森の中へと落ちていく。

「はあ、はあ……」

 マキが荒い息を吐く。霧の中は冷気が増して切り付けてくるかのようだ。敵はまだいる。敦は手元に転がった山賊の刃の柄を素早く掴んだ。

「マキ、こっちに! 早く!」

 マキがはっとして顔を上げた瞬間、その背後に血の付いたサーベルを持つ騎兵隊の姿があった。

「マキ!!」

 身を起こすと同時に駆ける。僅かな距離。だが間に合わない。頭を斬り飛ばされた観光ガイドの姿が脳裏を過る。急げ。騎兵隊がサーベルを振り上げた。

 眩しい光が敦の目を眩ませる。ピンク色の激しい光だ。光の中から何が飛び出した。平らなそれは、騎兵隊の幽鬼の頭を貫通し、くるくると回りながら、マキの手の中に収まる。

 幽鬼の体が、塵となって崩れていく。

「ルーンの石……」

 手の中の石を見つめるマキを敦は抱き締める。急いでバスから離れると、中から乗客が次々と降り始める。

「マキ! 大丈夫!?」

 奈央子が手荷物だけ持って降りてきた。周囲は依然霧に包まれ、異様な空気が漂っている。

「逃げないと……」

「でも、どこに」

 奈央子の問いはもっともだ。霧は今もなおその濃さを増し、視界はどんどん悪くなってきている。

 降車した乗客たちが動き出した。車道の中央へと出るつもりだ。戸惑ったような英語やノルウェー語が飛び交い、皆動揺している。

「来た道を戻ろう。今の位置からなら、街が近いはずだ」

 敦は言った。奈央子が頷く。マキは固い表情のまま、虚空を見つめている。

「マキ、大丈夫かい?」

「……お父さん。駄目だよ」

 蒼白の顔でマキは敦を見上げる。

たくさんいるよ・・・・・・・

 敦は思わず、手に持った山賊の刃の柄を握り締めた。バスの影から出て様子を伺う。すでに何名かが、車道の中央辺りをうろうろとしている。

 敦も中央へと出た。霧に包まれた道路は人々の息遣いや戸惑いの声のほかは物音がしない。

 ……いや。

 ――コツ、コツ、コツ。

 よく耳を澄ませば、何かが固い物に当たっているような音がする。バスが進んでいた方角からだ。何となくだが、霧が揺らめいているような気さえする。

 これは、靴音だ。大勢の。

一体何だWhat the hell……?」

 観光客の一人が、震える声で言った。

 霧の中で、大勢の人影が蠢いていた。手に、サーベルや鈍器や、刃物を持った人影が。暗い眼窩から血を流し、緩やかな足取りでこちらに向かってくる幽鬼の群れ。

逃げろRun!!」

 誰かが叫んだ。それが合図となった。恐慌状態に陥った観光客たちが一斉に反対方向に走り出す。人の流れには逆らえない。

「奈央子さん! マキ!」

 人に押されながらも敦は叫ぶ。二人の姿が見えない。幽鬼たちの足取りが徐々に速くなり、こちらに近付いてくる。逃げる人が、敦を邪魔そうに押しのける。駄目だ、二人を探さないと。

 唸りを上げるエンジン音が聞こえてきたのはその時だ。霧の不気味な静寂を切り裂く雄叫びようなエンジン音が聞こえ、敦が振り返ると、一台のバスが姿を現す。猛スピードだ。止まらない。突っ込んでくる。

「危ない!」

 敦がそう叫んだ瞬間、先陣を切って走っていた観光客たちが瞬く間にバスにね飛ばされる。車体はすぐ目の前に迫っている。咄嗟に、敦は左手に跳んだ。アスファルトに身を投げ出し、胸は地面にぶつかって思わず呻く。突っ込んできたバスは人々を撥ねながらハンドルを切り、轟音を立てて横転する。

 敦は、山賊の刃を杖に立ち上がろうとした。辺りは一瞬にして血まみれだ。それに、もうすぐ幽鬼たちの群れも追いついてくる。

「はっ、はっ、はっ……」

 息ができない。道路はすでに、霧の立ち込めた地獄と化していた。



「順調……いや、それでも少し殺し過ぎだな」

 デズモンドはワインを飲み干し、新たに一杯グラスに注ぐ。人間どもの恐怖の濃度が高まってきているのは気配でわかる。呪術の展開は部下の二人が行っているので、やる事といえば酒を飲むくらいしかない。

「おい。もう少し、じわじわとやれ。生きるか死ぬかをもっと連中に堪能させろ。すぐに殺したのでは恐怖の味も――」

 霧の中に、不純物の気配を感じた。デズモンドはその正体を静かに探る。

「デズモンド様?」

「……いるな」

 倒錯的な呪術の中に割って入られたような、デズモンドにしてみれば甚だ無粋なエネルギー。

「魔力だ。三人……手練れだ。森の魔術師の手の者か? いや、さすがに早過ぎる」

「では、退魔屋でしょうか。この辺りの」

「退魔屋……?」

 部下の言葉に、デズモンドは記憶を探った。

「ああ……民間で魔術を行使する連中か。金のために術を使う無粋な奴らめ。もう嗅ぎつけたという事か」

「デズモンド様。ここは我らが」

 もう一人の部下が進み出た。

「よかろう。術はしばらく私が見ておいてやる。退魔屋どもならただの人間より楽しめるだろう。貴様ら、腕を振るってこい」

 部下たちが頷く。直後、二人の呪術師は矢の如き速さで霧の中へと消えた。

「あまり時間をかけるなよ」

 デズモンドは一人呟く。まあ、いざとなれば奴らを残して消えればいい。森の魔術師にさえ見つからなければ、全てうまくいくだろう。



 横転したバスが震える。ガタガタ、ガタガタと。まるで中で何かが暴れているかのようだ。

 敦は立ち上がる。血の臭いが溢れる道路を見回しても、奈央子とマキの姿が見えない。バスの影にいるのだろうか。

 新たな、血飛沫が上がる。首を刎ねられた観光客の一人がばたりと倒れる。幽鬼たちの先陣が、殺戮を始めていた。すぐ目の前で、尻もちをついた老人に鈍器を持った山賊の幽鬼が迫っている。

「やめろ!」

 頭が真っ白になりながら、敦は駆けた。重々しい見た目の鈍器が老人に振り下ろされる。間一髪、敦は手に持った刃を振るった。異様な音を立てて、刃が砕け散る。一撃は防いだ。だが、これ以上は――

「立って!」

 役に立たなくなった刃の柄を投げ捨て、敦は老人の襟首を掴む。窪んだ眼窩から血を流し続けるおぞましい山賊の幽鬼が再び鈍器を振り上げた。

守護のルーンよ、我らを包み給えエオール・ザ・ドーム!」

 雄々しい詠唱の声とともに、ピンク色の光が目の前で展開し――

「ふっ!」

 強烈な跳び蹴りが、幽鬼の頭部を粉砕する。

 人影が降り立つ。まるで特殊部隊のようなボディスーツに身を包んだ女性が。知っている。この人は。

「クレマチスさん……」

 敦の声に、クレマチス・エルフは僅かにこちらを振り返った。

「遅くなりました。渡瀬様」

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