『七ツ森』5


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 羽田空港からヒースロー空港を経由し、オスロ空港まで飛行機で約一八時間。オスロで一泊したのち、翌朝オスロ空港からトロンハイム空港まで一時間五分のフライト。そこからは、市内の観光バスで七つの森スィーブ・スコーゲルの入り口まで移動する。

 七つの森スィーブ・スコーゲル

 ノルウェーはヌールラン県に存在する大森林地帯。樹齢一〇〇〇年を超す樹木が複雑に入り組んだ原生林であり、その面積は約一五〇〇〇キロ平方メートル。国際的な自然保護区に指定されており、エリアは大きく七つの森林に分かれる。そのうち、一般人でも見学が可能なのは大森林地帯の入り口にあたる第一の森だけである。

 クレマチスの師匠にあたる人物とは、この第一の森の手前にある集落で落ち合う事になっている。

『我が師は、七つの森スィーブ・スコーゲルに住む事を許された唯一の管理人。ゆえに、森を長く離れる事はできません。皆さんにはどうしても、ノルウェーまで行っていただきたいのです』

 敦は出発前のクレマチスとの会話を思い出していた。提示された旅費や諸経費は十分過ぎるほどのものだった。

『仰る事はわかりましたが……クレマチスさんは一緒に来てはいただけないんですか?』

 敦の問いに、クレマチスは首を横に振った。

『申し訳ないのですが、わたくしは抱えている案件の関係でご一緒できません。代わりといってはなんですが、皆さんには事前に隠匿と守護の魔術を施します。現地の退魔屋にも依頼し、ノルウェー滞在中は陰ながら警護をお付けします』

 警護担当の退魔屋と敦たちが会う事はない。これは、面識を作らない事で警護の存在を完全に隠匿するためだ。万が一、敦たちの記憶を覗ける怪物や怪異が存在したとしても、警護役を知らなければ余計な情報を与えずに済む。

「……」

 敦はベッドの上で身を起こした。

 ノルウェー首都オスロ。市街地にあるホテルの一室。

 十八時間のフライトを終え、オスロに着いたのが現地時間昼の十一時。それからホテルに入り、休憩。夕食を摂ったあとは家族三人すぐに眠ってしまった。初めての飛行機ではしゃいでいたマキも、オスロに着いた頃にはすっかりくたびれていた。これが本当に観光旅行でないのが惜しい。せっかくの海外だ。ゆっくり楽しませてあげたかったのに。

 時計を見ると、まだ夜の十一時だ。眠っている奈央子とマキを起こさないように、ベッドを抜け出す。

 ミネラルウォーターのボトルを手に、窓際に近付き、テラスに出る。疲れているはずなのに目がさえてしまった。

 冬のノルウェーの夜は少し寒いが、我慢できないほどではない。目の前には、オスロの夜景が広がっていた。まもなく夜も更けるというのに、オスロの街が眠る様子はなかった。だいだい色の電灯が街全体を仄かに照らし、絨毯のような黒い夜空の下でも街の存在を静かに主張させている。カール・ヨハン通りの向こうに見える歴史的な建物は、かのオスロ大聖堂だ。そのすぐ近くにはノルウェー建築の生粋であるホテル、スカンディック・オスロ・シティ。交通の中心たる、オスロ中央駅。そこから港の方面に目を移せば、先鋭的なデザインのオペラハウスも見えてくる。

 夢でも見ているかのようだ。ついこの間まで、ノルウェーに来る事など考えもしていなかったのに。

「敦さん……?」

 控えめなテラス戸の開く音がしたかと思ったら、奈央子の声が聞こえた。敦は振り返った。

「ごめん。起こしちゃったね」

 ショールを纏った奈央子が敦の傍にやってきた。

「寒くないの?」

「平気だよ。北海道育ちだからね」

「そんな事言って。去年の冬は風邪ひいていたでしょ」

 大きめのショールが敦の肩にかけられる。二人分の体をショールが包み込んでいた。

「ありがとう。奈央子さん」

「綺麗な街だね。敦さん、仕事で来た事あるんだっけ?」

「いや、こっちには来ないんだ。僕も初めてだよ、ノルウェー」

 オスロの夜がゆっくりと過ぎていく。車道を走る車の音。揺らめく街の明かり。美しい異国の夜。

「マキがね」

 おもむろに奈央子が言った。

「大きくなったら、色んなところに行ってみたいって」

「海外とか?」

「飛行機に乗りたいみたいだよ。ノルウェー、ゆっくり見て回れたらいいのに」

「まあ、今回はしょうがないよ。でも、マキが楽しんでくれているなら、来た甲斐はあったのかな」

「明日、用事が終われば少しは旅行できるでしょ。そしたら三人でゆっくり見て回ろうよ」

 明日はトロンハイムに移動したあと、バスで五時間の旅だ。果たして、用事が終わったところでそんな体力はあるだろうかと、敦は内心苦笑する。

「……全部。うまくいくよね」

 奈央子が、敦を見た。

「マキの力の事も解決して、また普通に暮らせるよね」

 敦は奈央子の目を見つめた。

 伴侶の目。

 母の目。

 人生とは海に漕ぎ出した小舟なのだと、何かの本で読んだ。波に揺られ、時に嵐に出くわしても、遠くの寄る辺を目指し、進んでいく。

「うまくいくさ」

 敦は言った。

 ほかに、答えはない。うまくいく。そのほかに、一体何を考えられるだろう。

「本当に?」

 奈央子は、またも問うた。

「本当さ」

「本当の、本当に?」

「奈央子さんの不安を一番解消できたのは僕だ。それだけは自信がある。大丈夫さ」

「わたし、怖いよ。敦さん」

 奈央子が身を寄せた。

「もしかしたら、何一つうまくいかないんじゃないかって気がして。怖い」

 敦は無言で奈央子の手を握り締めた。冬の寒さで冷えつつある手を。

「大丈夫」

 敦は言った。

 敦たち親子は、進む事を決めてこの地に来た。

 この先にも、きっと進める。いや、進むのだ。海に漕ぎ出した小舟が進むように。力強く。先へ。先へ。

「敦さん。わたし、わたしね――」

「奈央子さん。もう戻ろう。さすがに寒くなってきた」

 奈央子がなおも何か言いかけたのを、敦は遮った。奈央子はそれに不満を言うのでもなく、小さく、「うん」と頷く。

 オスロの夜が更ける。冷たく。静かに。何かを待つかのように。


 翌朝。渡瀬家一行は朝八時にホテルを出た。トロンハイム空港に九時四十分に到着。空港から観光バスに乗り、十時に出発する。

 二台の大型観光バスが、七つの森スィーブ・スコーゲルを目指し、高速道路を進む。縦列走行するバスはどちらも満席だ。北欧最大の原生林。いかに立ち入る事ができないといえど、観光に訪れる人は多いのだろう。バスは三時間ほど高速道路を走ったあと、一般道に入る。目的地までは、そこから二時間程度だ。

「マキ。起きた?」

 高速を下りたあたりで、眠っていたマキが目を覚ました。一家は前方を行くバスに乗っている。

「今、どのへん?」

 まだ眠そうな声で、マキが言う。

「今、高速道路を下りたところ。あと二時間くらい。ほら、窓を見て。だんだん山のほうへ入っていくから」

 奈央子に言われるまま、マキは窓の外へと目を向ける。

 出発時には晴れていた空も、山に入るにつれて雲が目立つようになってきた。

 敦も少し眠ってしまっていた。顔をこすり、ミネラルウォ―ターを飲む。

 徐々に、周囲を走る車も少なくなっていく。バスの中は同じように眠りから覚めた観光客の会話で徐々ににぎやかになりつつある。

「……うん?」

 外の景色を何となく眺めていた敦は、不意に、視界が悪くなりつつある事に気が付いた。

「霧だ」


 二台の観光バスより一キロほど後方――

 隠匿の魔術で姿を隠し、猛スピードで駆ける狼の使い魔の背にまたがった、三人の退魔屋がいた。

「ミスタ・マーティン、ミスタ・クエンティン。霧が出てきた。周囲を警戒して」

 クレマチス・エルフは二人の退魔屋に無線でそう告げた。

「了解。ミズ・エルフ」

 すかさず二人から返答がある。

 渡瀬敦には同行しないと言ったが、クレマチスは密かに彼らの警護に当たっていた。方便を用いたがいたしかたない。万が一、何者かによって一家が襲撃されたとしても、警護役の情報が洩れなければ敵方に対してある程度優位を保てるのだ。クレマチスは一家が帰国するまでの間、彼らの前に姿を見せるつもりはない。ひたすら影の警護を務める。

 ミスタ・マーティンとミスタ・クエンティンは、ともに元々ノルウェーでの渡瀬家の警護を依頼していた退魔屋だ。二人とも古くから知る人間で腕は確かだ。

 ここまで何もなかった。もっとも警戒したのは飛行機で何かしらの怪異が出現する事だったが、そこは事前に施した魔術が功を奏した。

 だが今、霧が出始めた事で、クレマチスはまたも最大限の警戒をしなければならなかった。嫌な予感がする。霧が濃くなるのが早過ぎる。

 考えられるのは、この地域に潜んでいる怪物の襲撃だ。マキの魔力を嗅ぎつけたか、あるいは血を求めてか。いや、バスは満席だ。ほかの因果によって引き寄せられた可能性もある。

 ――違和感がある。何か、違う。霧があっという間に視界を覆っていく。

「わたくしは先に行きます。後ろを頼みますわ」

 言って、クレマチスは狼に魔力を送る。古代狼、ダイアウルフの血を引く黒毛の使い魔は、これまで温存していた足を使い、速度を増す。

 違う。怪物じゃない。おそらく、この霧を操っているのは人間だ。でもなぜ? どうしてこのタイミングで、なぜあのバスを狙う?


「こんな馬鹿馬鹿しい話があるか」

 呪術師デズモンドは霧の中で、用意した椅子に腰掛け、吐き捨てた。

 バスの進行方向である路上にデズモンドはいた。作戦の準備、実行は全て従者にやらせる。二人の従者はいずれも新人、第二階梯かいていにも満たない呪術師ではあるが、この手の作戦で使う分には十分だろう。自らの高度な呪術をこの作戦で使う気はさらさらない。デズモンドの胸中にあるのは、自らの師エイボン卿への怒りと不満である。

「私は第六階梯だぞ? その私にこんな、いつまでも小間使いのような事を……」

 二つの人影が、鎮座するデズモンドの前に降り立った。

「デズモンド様。準備万端整いました」

「ご命令ひとつで、いつでも始められます」

 自らにかしずく従者二人を前にしても、デズモンドの気が鎮まる事はない。

「指示は覚えているだろうな。乗客はできるだけ怯えさせろ。血に恐怖が行き渡るほうが呪力は強まる。私は血肉の回収だけするからな。簡単に殺すなよ。それから痕跡も残すな。魔術師どもは無関心だろうが、警察に嗅ぎ回られては今後の活動に支障が生じる」

「はっ。万事心得ております」

「この手の任務は、我ら幾度となくこなして参りました。ご心配は無用です」

 楽観的な従者の言葉が、デズモンドの神経に触れた。

「甘い! この辺りをどこだと思っている!? 七つの森スィーブ・スコーゲルの目と鼻の先だぞ!」

 デズモンドの怒声に、従者二人はたじろいだ。

 危機感が足りぬ。頭の中を苛立ちが支配する。デズモンドの怒りの原因は命じられた作戦の内容や、正体不明の何者かを崇める老師への苛立ちだけではない。

 危機感。まさにそれだ。

「いいか。万が一、万が一にもだ。森の中の魔術師に気付かれてみろ。私たちが生きて北支部に戻る事はない。どう足掻こうと必ず殺される。我ら《夜明けの箱舟》がこのノルウェーでの活動に慎重を期していたのは何のためだと思う。無用な戦争を起こさぬためだ。森の中の魔術師とな!」

 従者の一人が戸惑った様子で口を開く。

「しかし……デズモンド様は邪神信仰の第六階梯であらせられます。かの魔術師の噂は我らも耳にしておりますが、何もそこまで……」

「それでもなお、だ。いいか、奴は普段森の中に引きこもっている。七つの森スィーブ・スコーゲルは広大だ。仮に騒ぎを聞きつけても、こちらに来るまでには時間がかかる。バスの乗客はせいぜい十数キロも脅せば恐怖に屈するだろう。さっさと回収して撤退するぞ」

 デズモンドに命じられた任務はひとつ。恐怖に染まった人間の血肉を集める事。それも相当量だ。それらは全て、エイボン卿が召喚した、かの一族の男に捧げられる――……

「何が、闇霧ダークミストの一族だ。妄想に支配された耄碌じじいめ。この一件が済んだら、すぐに本部に知らせてやる」

 デズモンドの怒りが沸々と湧き立つ。

「始めろ。皆殺しだ。十分でカタをつける」

 二人の従者が頷き、バスが進行してくる方向へ振り返ると、両手で印を作る。

「「黄道を逆行し、我らの呼びかけに応えよ。マルキダエル・アスモデル・アムブリエル・ムリエル……」」

 従者たちが唱える呪文に呼応し、霧がより深まっていく。呻き声が聞こえる。霧の中から。邪悪の呪文に刺激され、覚醒した悪鬼どもの呻き声が。

 デズモンドは術を使って取り出した酒瓶から、同じく術を使って取り出したグラスへとワインを注ぐ。下らぬ作戦だが、人間どもの悲鳴だけは待ち遠しい。

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