『七ツ森』4

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「話の腰を折って悪いんだけど」

 火保は手を挙げて言った。

「結局、闇霧やみきりの一族は『やみきりのいちぞく』なの? それとも『ダークミストのいちぞく』なの? どっち?」

 麻來鴉は、一瞬怯んだ表情を見せると、火保の顔をまじまじと見つめた。

「……あ、読み方の話?」

「うん。そう」

 『闇霧』の読み方が『やみきり』なのか、『ダークミスト』なのか、という話を火保はしている。

「あー……あんまり気にした事ないっていうか、人によるっていうか。日本人って漢字二つ並べていたら読みやすいように読むじゃない? 『出来しゅったい』を『でき』とか」

「それはつまり誤読でしょう。私としては、どちらが用語として正しい読みかをこの際知っておきたいんだけど」

 火保はじーっと麻來鴉を見つめ返す。

「……ちょっと、ちょっとだけ待って。確認するから」

 麻來鴉は素早く手元の日記をめくった。

「あー……『闇霧ダークミスト』が正しいそうです。一応」

「一応?」

「や、あとの日記には『やみきり』って書いてあったりするし、別にそれで通じるし。何ていうか、どっちでもいいっていうか……」

 火保はじーっと麻來鴉を見つめる。

「どっちでもいいです……」

 麻來鴉は日記を閉じて顔を反らす。こだわり白原め。

「オーケー。まあ、どちらでもいいならそれでもいい。それじゃあ、続きを聞かせて。麻來鴉。クレマチスに力を示したあと、あなたに何があったのか」

 麻來鴉の表情が少しだけかげった。指先が、日記帳の表面を緩やかになぞる。

「そうだね。続きを話そう。クレマチスの助言で、わたしと両親は遠くへ行く事になった。行き先は北極圏の王国、ノルウェー。トロンデラーグとヌールランの県境けんざかいにある大森林……」

 麻來鴉の瞳が過去を見つめた。

七つの森スィーブ・スコーゲル



「マキさん。あなたには師匠が必要だわ」

 クレマチス・エルフは言った。

 晴れた日の昼間だった。川べりベンチに腰掛け、マキとクレマチスは流れゆく川を眺めていた。

 彼女が渡瀬家を訪れた夜から、すでに二日が経過している。

「クレマチスさんがわたしの先生になるの?」

 マキが尋ねると、クレマチスは首を横に振った。

「そうしたいのはやまやまだけど、わたくしではマキさんに何かを教える事はできない。あなたにはオーディンがついている。アース神族の王、最高神が。一体何がよすがとなったのかはわからないけど、あなたの力はルーンの深淵しんえんへと続いている。そんな気がする」

 クレマチスの話は難しくてよくわからない。

「だから、より適切な師に会わなければ。この世界で最もルーンに通じ、深淵に近付いた人に。わたくしの師にして、ルーン・マスター。ニールス・ユーダリルに」

 クレマチスの言葉は、どこか誇らしげだった。

「クレマチスさんの先生? ルーン・マスターってすごいの?」

「それはもちろん」

 クレマチスは頷くと、ハンドバッグの中から平べったい石を取り出した。角が削られ、丸くなった、小判のような形状の石だ。

 石には、稲妻のような記号が彫られている。

「ルーン魔術はいにしえより伝わる神秘の文字を使う魔術。マスターの称号は代々たった一人だけに受け継がれる。ルーン・マスターとなった者は、この世界の在り様に関わり、やがては世界の形そのものを変えてしまう」

「よくわかんない……」

「そうよねえ」

 クレマチスが手に持った平べったい石を青い空にかざす。パン、と音がして、クレマチスの魔力の色であるピンク色の光が走った。

 石に刻まれた稲妻のような刻印に、仄かな光が宿る。

「今はまだわからなくてもいい。いずれは稲妻のように、全てが鮮明になる日がやってくる」

 そう言って、クレマチスは手に持った石をマキに差し出した。

「これをあげるわ、マキさん。我が師匠の元まで、あなたを守るように念を込めた。必ずあなたの力になるはず」

「……これ、何。雷の石?」

 ふふふ、とクレマチスは笑った。

「そう見えるわよね。でもこれは光を表すルーン文字。読み方はシゲル。シゲルのルーン・ストーンよ」

 クレマチスはその刻印光るルーン・ストーンをマキの手に握らせた。

「マキさん。あなたは行かなければならない。北の王国、ノルウェーへ。そこに広がる大森林で、わたくしの師匠があなたを待っている」


「急にノルウェーって言われてもさあ……」

 敦は、誰もいない社内の資料室でぼやいた。

 総合商社ホクナン商事東京第二ビルの地下階。社の創立時からの資料が山積している薄暗い資料室に、敦は籠っている。

 何もサボっているわけではない。次の社報を発行するにあたり、三十年前の資料が必要になったので探しに来たのだ。

「休みなんか取れるわけがないのにさあ」

 人が見ていないのをいい事に、敦はそれなりに大きい声でぼやく。仕方がない。妙案が浮かばないのだから。

 敦たち渡瀬家の親子三人が、例の不思議な女性、クレマチス・エルフから『助言』を受けたのは、つい先日の事だ。

『マキさんの才能は恐るべきものです。彼女には、かのオーディンの加護がついています』

 オーディン。北欧神話の主神だ。本で調べた。戦争と死の神。知識と詩芸の神。呪術と魔術の神。オカルトや神話の事はやはりよくわからないが、どうやら大物らしいという事だけはわかる。

『オーディンの加護を受けた以上、彼女の人生には魔がついて回るでしょう。本人が望むと望まざるとに関わらず、世界の神秘に近付いていく……』

『その……加護っていうのは、取り除けないんですか? 除霊っていうのか……』

 奈央子の言葉にクレマチスは静かに首を横に振った。

『神の加護を取り除く事はできません。それはその人が歩むべき運命なのです。この世で課された役割を奪う事は誰にもできないのです』

 運命。

 敦にしてみれば、あまりにもドラマ的な言葉だ。

『叶うのであれば、わたくしが教え導ければ良かったのですが、いかんせんオーディンの加護となれば話は別です。ついては急な事ですが、皆さんにはある場所に行って、ある人物と会っていただきたいのです。費用は全て、わたくしと退魔屋協会とで負担いたします』

『費用……? 遠いんですか?』

『ええ。とても』

 そう言って、クレマチスは行く先を告げたのだった。

「ノルウェーって……」

 再び、敦はぼやく。

 ノルウェー。トロンデラーグ県。そこからバスで進んだところにあるという大森林。

 七つの森スィーブ・スコーゲル。そこに、クレマチスの師匠に当たる人物がいるのだという。

 事の重要性は、まあわかる。マキの力の謎や、その使い方は、いずれ向き合わなければならない事柄だ。

 だが、そのために見知らぬ人間に会いにノルウェーまで行けというのは……

「話が急だよ。やっぱり」

 一体、会社にどう切り出せというのか。娘がよくわからない超能力を持っているのでノルウェーに行ってきます? まず敦が医師の診察を受ける羽目になるだろう。

 敦と奈央子は戸惑うばかりだったが、クレマチスの話を聞くマキの顔は真剣だった。必要な情報を得ているのだという確信に満ちた顔。間違いなく自分の娘なのに、これまで知る事のなかった一面を知ってしまったような気分だ。

 運命。

「この世で課された役割……」

 もしマキに、娘に、この世で果たすべき特別な役割があるのだとしたら……。

 敦の思考が深みにはまりかけたその瞬間、資料室の内線が鳴った。敦は資料棚から受話器へと走る。

 相手の内線番号は、敦が所属する課のものだ。

『あ、渡瀬さん? 部長がお呼びです。急ぎとの事で』

「……部長?」

 急な呼び出しに敦は戸惑った。いかんせん心当たりがない。

「わかりました。すぐ伺います」


「渡瀬君。休みの都合をつける必要があるんじゃないか」

 穏健派の部長は、敦に言った。

「休み……。は。でも、それは」

「有給休暇が溜まっているだろう。労務部からせっつかれてね。無理矢理、というわけじゃないが、有給消化をしてほしいんだ。できれば、来週にでも。一週間程度……場合によっては、それ以上でも構わない」

「い、一週間?」

 敦は思わず聞き返した。

「一体、どういう事情なんでしょうか……」

「言った通り、労務部からせっつかれているんだよ。昔は有給なんて取らせなかったくせに、時代はどんどん変わっていくな」

 そこで部長は言葉を切ると一通の封筒を取り出した。

「まあ、それともう一つ理由がある」

 敦は封筒を受け取ると、差出人の名前を見た。

「防衛省特殊祭礼部監理かんり対策課……防衛省!?」

「大きい声を出すなよ。特殊祭礼部といえば宗教や式典絡みのセクションだ。が、たぶんこれは、実質的に例の業界からの手紙だろうな」

「例の業界、というと」

「霊能関係。退魔屋だよ」

 部長はため息をついた。

「私も昔、一度お世話になった事がある。怪しげではあるが国が認めた人々だ。渡瀬君。本社は防衛省からの要請により、君に対し来週月曜から一定期間の休業を認める。必要な日数休んでいい。が、事の性質上、騒動になるのを防ぐため、この件については社内でもごく一部の者しか知らない。情報漏洩を防ぐために、今後の手続きも書面のみで平時の如く進めたい。つまりは自己都合による休業としてもらえると助かる。先の有給休暇の話は、そういう事だ。休業手当は出せないし、無給、というわけにもいかないだろうから」

 部長は、そこまでひと息で言い終えると、真剣な顔で言った。

「これは私の経験からのアドバイスだが、霊能関係は長くかかるぞ。休みだけはしっかり確保しておくんだ」


 荷造りをする手を止めて、奈央子は窓から差し込んだ夕日の日差しに目を細めた。

 ノルウェーまでの旅が決まり、急いで荷造りをしなくてはならなくなった。期間は一週間。場合によってはもう少し伸びるかもしれない。パートを休まなければならなくなったが、元より昼の短い時間のシフトだ。店は簡単に休みを了承してくれた。

 着替えはひとまず三日分。ホテルも航空券も、あのクレマチス・エルフという女性が全て手配してくれた。夫の敦は海外出張に行くが、奈央子は学生の頃に一度行って以来の海外だ。これが本当に、ただの家族旅行だったら良かったのに、と思う。

 夕日が赤い。冬の空気は澄んでいるはずなのに、今日の夕焼けは燃え盛るかのように赤い。

 奈央子には、誰にも明かしていない秘密がある。

 マキを産む少し前の事だ。産休に入り、実家に戻っていた頃の事。奈央子は、買い物からの帰り道で、何故か道に迷ってしまった。

 そこまで遠くに行ったわけではない。それに、奈央子が子どもの頃から家の周りの様子は、大きく変わってはいない。迷うはずがないのに、気が付くと奈央子は知らない道に入ってしまっていた。その時の気分は不安な夢を見ているかのようで、歩いている途中で眠ってしまったのだと考えたほうが自然なくらい、現実感がなかった。

 深く、暗い森だった。

 木々は空を覆い隠すほど高く生い茂り、苔むした巨大な岩が積み重なっている。ひんやりとした空気が知らず知らずのうちに体温を奪い、奈央子は歩くのが辛くなっていた。湿った植物の匂いが周囲に充満し、森の奥からは正体の知れぬ物音さえ聞こえてくる。

 夢。そう、悪い夢だ。そうに決まっている。

 だが、仮にそうだとしても、お腹の中の子には良い影響はないだろう。奈央子は力を振り絞って森の出口を探した。この悪夢から目覚めなければならなかった。

 霧が濃くなっていた。

 不意に、奈央子は霧の中に真っ白な人影を見つけた。奈央子の前方を歩き、冷たい空気から守るように、胸に抱えたものをぎゅっと抱き締めている。

 人影は一人ではなかった。同じような背丈で、同じような恰好をした人々がまばらに、しかし同じ方向を目指して歩いている。坂を上っているようだが、道はよくわからない。息が上がり、足取りは重くなるが、歩みは止まらなかった。

 白い人影が抱えているものが見えた。布にくるみ、自らの体と結び付けて、絶対に落とさないように抱えている。

 赤子だ。

 赤子を抱えた人々の列に、奈央子は加わっていた。

 いつの間にか坂が終わり、足首の辺りまで冷たい水に浸かっていた。しかし、奈央子は歩かなければならない。

 白い人影が進む方向とは反対の向き立った、老人が立っているのが見える。顔はよくわからないが、老人であるという事はわかる。

 その手が、動く。奈央子のほうへ、ぐい、ぐいと伸ばされる。

 触れる気だ・・・・・。奈央子は直感した。老人が。奈央子ではなく、その腹の中の子に触れる気なのだとわかった。逃げなければならない。しかし、足首まで水に浸かっているせいで、走る事ができない。

 老人の手が迫ってくる。悪夢から目覚める直前のように、奈央子は足掻いた。白い腕が見えた。老人の掌がすぐそこまで来ていて、もはや避けようがない。

『――――――』

 老人が、何事か囁いた。真っ赤な光が見えた。夕焼け。いや、日は沈み始めていて、その太陽が消え去るその瞬間、ひと際赤く輝く僅かな時間。

 黄昏。

 気が付くと、奈央子は家の前に立っていた。血相を変えた敦が家から飛び出してきたのを覚えている。あとで聞いたところによれば、奈央子はこの日、五時間も行方がわからなかったのだという。

 当然のようにどこにいたのかを聞かれたが、奈央子は自分が見た光景を誰にも話さなかった。夢の光景である事は明らかだったからだ。それに実際、どうやって自分が家まで辿り着いたのかはわからない。

 マキが産まれたのは、それから七日後の事だ。

「……オーディン」

 部屋の中で、奈央子は呟く。夕日は、今まさに沈もうとしている。空が、赤に染まる。夜へと変ずるまでの僅かな時間。終わりの空。黄昏。

 あの日迷い込んだ不可思議な森。赤子を抱えた大勢の白い人影。そして、あの老人。クレマチスとマキの戦いを見たあとなら、全ては夢ではなく現実だったのだと理解できる。

 オーディンの加護。運命。

 クレマチスの言葉を頭の中で反芻する。あの老人が触れたのは加護であったのか。ではあの言葉は――……

 玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー」

 声が聞こえる。娘の声が。奈央子は過去を想う事を止めて立ち上がる。

 奈央子には、誰にも明かしていない秘密がある。どうせ夢だと思っていた。どれほど不可思議でも、夢だ。だから言う必要がない。特に、夫には。

 そう思っていたのに。

「マキ。おかえり」

 奈央子は玄関のほうに向かって声をかける。

 あの日の老人の言葉は、今も耳に残っている。

『――汝ら。この娘のために死すべし』

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