『七ツ森』3


      3


 石から広がった桜のようなピンク色の光は、春の如き暖かさで周囲を包み込んでいた。敦は、何となくではあるが、さっきまで聞こえていた虫の声や遠くを走る車の音などが、聞こえなくなった気がした。

「エオール・ザ・ドームは守護の魔術。この光に包まれている間、わたくしたちは外界と遮断され、音は漏れず届かず、他者を傷つけず傷つけられない」

 さながら魔術師のように、クレマチスは言った。

「ようするに、いくら暴れても大丈夫という事。遠慮はいらないわ。頭の中にある事を、全部やってごらんなさい」

 敦はマキを見た。対峙するマキはクレマチスの顔をじっと見ながら、何かを考えているようだった。分身たちの姿はない。クレマチスは先ほど、マキの魔力を利用したと言った。もし、マキの分身が魔力とやらできているのなら、クレマチスはマキの分身を消し去る事が容易にできるのかもしれない。

「マキ……」

 敦が呟いた瞬間、マキは目にも止まらぬ速さで動いた。ターコイズブルーの輝きが、マキの全身から発せられている。

 あれが魔力だ。あの宝石のような輝きが、敦と奈央子の娘が秘めている力だ。

「ふっ!」

 一瞬でクレマチスとの距離を詰めたマキが跳び上がり、回し蹴りを放つ。あんな動きは初めて見た。空手もやらせていないのに、まるでもう何年も身体に染み付いた動きのようだ。

「ふふ――」

 クレマチスは何気ない動作で左腕を上げ、マキの回し蹴りを防いだ。ピンクとターコイズブルーの光が弾け、マキがくるくると独楽のように回転して着地する。

「マキ、人を蹴っちゃだめでしょ!」

 奈央子がいつもの調子で叫んだ。この状況でよく普段通りになれるなと、敦は思わず感心する。

「あら。いいんですよ、お母様。思いっきりやらなきゃ力が測れませんからねえ」

 クレマチスは悠然と言った。

「今の蹴りは良かったわよ。魔力を全身に巡らせて身体能力を上げるのはこの道の基本。どうやら感覚的に魔力の使い方をわかっているようね」

 言いながら、クレマチスはビジネスバッグから新たな石を取り出した。

「これはルーン・ストーン。この石に刻まれているのはルーン文字。ルーン文字は何かに刻まれる事で魔術として機能するの。ルーン・ストーンはいわば、魔術を携帯しているのと同じ」

 そう言って、クレマチスは手に持ったルーン・ストーンを手前に向かって放り投げる。

水よ、弾ける球となれラグ・ボール

 パチン、と。クレマチスが指を鳴らした。放られた石がピンク色の光を放ったかと思えば、たちまち石から水が溢れ出し、大きな水球を形作る。

ラグのルーンを刻んだストーンにわたくしの魔力を通わせ、みずの球体を作ったの。魔力というエネルギーを無駄なく洗練し表出させる技術。これが魔術よ」

 マキは、どこか不満そうにクレマチスの話を聞いている。

「マキさん、あなたには魔術を身に着けてほしいの。蛇口から水を出しっぱなしにするような使い方では、すぐに魔力はなくなってしまう。今のあなたに必要なのは、エネルギーを効率よく、効果的に使う技術だわ」

「別にそんなのなくたって」

 マキは負けん気を隠さないまま、己の纏う魔力を解き放った。分身があっという間に四人出現する。

「わたしは何でもできる」

 クレマチスは微笑んだ。

「ふふふ、いいでしょう。それなら」

 とん、と。クレマチスの指が水球に触れた。

「ドッジボールといきましょう」

 クレマチスの指先が、水球をほんの少し押し出す。

 瞬間、まるで矢のように水球がマキめがけて飛び出した。奈央子が息を呑む。敦が走り出そうとした。

 まるで後ろに目があるかのように、マキが手を挙げてそれを制した。

「平気!」

 言うや、四人の分身が水球を受け止める。本物のマキを含めた五人全員がターコイズブルーの光を発している。敦はまだ、先ほどのクレマチスの言葉をよく理解していない。だが、このターコイズブルーの光もピンク色の光も凄まじいエネルギーそのものである事は理解できる。

「「「「「せーの!」」」」」

 五人のマキが力を合わせ、受け止めた水球を投げ返す。軌道は真っ直ぐ、スピードは劣らない。避けなければ一秒後には水球がクレマチスに激突する。

魔力分身オド・アンドヴァラナウト

 クレマチスが指を鳴らす。一直線に向かっていた水球が弾けた。分裂したのだ。サイズは縮んだが大きな球が一つ、それからドッジボールサイズの球が四つ。分かたれたドッジボールサイズの水球四つは、即座に軌道を変えてマキの分身たちを狙う。

「え、ずる!」

 文句を言いながら、マキの分身たちが方々に散る。

「五対一じゃ分が悪いでしょ。ゲームはフェアじゃないと」

 言いながら、クレマチスは大きな水球をキャッチすると、すかさずそれを放り投げ、手に持ったビジネスバッグでサーブの如くマキのほうへと打ち込んだ。ビジネスバッグの衝撃を受けた大きな水球が破裂し、さらに分裂する。

「あれじゃバレーだよ!」

「マキ、もっと分身を出して!」

 敦と奈央子が同時に叫んだ。

 マキと分身たちは分裂した水球を機敏な動きで躱す。地面に激突した水球は崩れることなく跳ね返り、スピードを失わぬまま再びマキたちを狙う。

「っ、お願い!」

 マキが追加で分身を出現させる。二体。出現した新たな分身がすかさず水球を蹴り飛ばす。水球は消えない。毬のように跳ねたかと思いきや、マキたちを追って飛んでくる。

 七人となったマキが散り散りに分かれる。小型の水球は予測のつかない動きでマキたちを四方八方から狙う。防戦一方。マキと分身たちは躱し続けているが限界がある。まるで詰将棋のように、盤面が定まっていく。

「あっ!」

 ついに水球の一つが、マキの分身にぶつかった。衝突の瞬間、ターコイズブルーの光を放った分身が、溶けるように消えていく。

「あと六人。……いえ、五人と一人」

 全ての水球が、空中でぴたりと静止する。クレマチスは依然変わらず、微笑みを浮かべたままだ。

「はあ、はあ……」

 中央にいるマキの呼吸が荒い。額には汗が浮かび、身体が少し前のめりに、膝に手をついている。

 対して、クレマチスは守護の魔術を使ってから一歩もその場を動いていない。

「これだけ精度の高い分身を出しっぱなしにしていれば当然そうなるわね。魔術なしで大したもの……と言いたいところだけど、自滅を招くなら褒めるわけにはいかない。わたくしの見立てでは、マキさん、あなたはあと五分ともたずに気を失うわ」

 マキが目つき鋭く、クレマチスを睨み付ける。

「……まだ、まだ大丈夫」

「本当に?」

 不意に、水球が動いた。マキの反応が遅れる。寸でのところで水球を躱したものの、代わりに分身の一人が水球にぶつかった。驚いた顔の分身が光となって消える。

「これで四人と一人」

 クレマチスが言い、水球が再び空中で静止する。

「ねえ、マキさん。わたくしの言葉を思い出して頂戴。わたくしは頭の中にある事を全部やってと言った。あなたの頭の中にある事は、これで全てなの?」

 マキが荒い息をつきながら、クレマチスを見る。

「マ――」

「待って、奈央子さん」

 割って入ろうとして奈央子を敦は止める。

「マキが何か考えている」

 少女の目が煌いている。ターコイズブルーの宝石のように。何かある。娘の中には、何か。この状況を打破する可能性が。

「みんな、戻って」

 マキの言葉に、分身たちが頷き、ターコイズブルーの光となって、マキの体に戻る。

「まだ、ある……」

 マキの脳裏には、イメージがあった。状況を変える力。全てを打ち破る力。それは激しく、とても眩しいものだ。視界を埋め尽くし、塞いだ耳の外側から聞こえてくる、とてつもない力。

 それは、まるで――

「……っ、うう」

 マキが、手を挙げる。ターコイズブルーの光がマキの体から立ち昇っていた。分身たちを戻した事で力を取り戻したのか。いや、そのエネルギーには翳りがある。揺らいでいる。敦でさえわかる。安定していない。

「う、ぐう……!」

 マキが天高く掲げた右の掌に、何か細く鋭いものが生まれていた。ターコイズブルーの光が収束したもの。音を立て、光を放ち、小さくもその形を造り上げていく。

「まるで、投槍なげやりね」

 クレマチスがそう言った瞬間、散らばっていた水球たちが集まり始めた。

「術なしで魔力を形にするのは大変でしょう。分身たちとはまた違う、イメージを形にする技術。でもマキさん、あなたがそうしたいというのなら、受けて立ちましょう」

 水球が次々に集まり、ぶつかり合い、元の大きな水球へと戻っていく。

「わたくしの水球ラグ・ボールを破ってごらんなさい。あなたの本当の力、このわたくしに見せてみて」

 クレマチスが腕を大きく後ろに振った。水球が回転を始める。

「マキ――」

 止めるべきかどうか迷いながらも、敦は娘を止められなかった。彼と奈央子の娘は今、何かとてつもない事、これまで考えられもしなかった事に挑もうしているからだ。自らの力に翻弄されず、制御し、未知の力を真に我が物とするための通過儀礼。

「敦さん」

 奈央子が敦の目を見る。敦は彼女の手を握った。

「奈央子さん。マキを信じよう」

 奈央子は不安な顔のまま、マキへと目をやった。

「い、くよ……」

 光の投槍を支えるマキの右腕が震える。限界が近い。

 クレマチスが笑った。

「さあ、来なさい!」

 クレマチスが腕を振って水球を射出する。同時に、マキが光の投槍を放った。空気を裂いて迫る水球を光の投槍が迎え撃つ。


 ――激突――

 

 眩い光が視界を埋め尽くす。その瞬間、敦は見た。光の中に何者かが立っているのを。

 その出で立ちは、まるで絵本に出てくる魔法使いのようだった。折れたとんがり帽、足元まですっぽり隠すマント。うねる白い髪。長い髭。老人。片目の隠れた――……

「――うわぁっ!?」

 突風の如き衝撃波が、敦と奈央子を後方へと突き飛ばした。ピンク色の光のおかげて痛みこそなかったが、二人は同時に地面に投げ出される。

 カン、という音がした。続いて、大量の水をぶちまけたような音も。

「い、今のは……」

 身を起こし、敦は目の前の光景を見た。

 クレマチスが、その場にへたりこんでいる。マキは肩で息をし、膝に手をついているが、まだ立っていた。

 二人の間には、ぶちまけられた大量の水と、一枚の薄い石が落ちている。

 クレマチスは驚いたかのように目を見開いたままだ。

「……オーディン?」

 何かを、クレマチスは呟いた。その意味は、敦にはわからない。

「何故……どうしてオーディンが……」

 動揺したまま、クレマチスは顔を上げる。

「マキさん。あなたは、一体……」

 荒い息をしながら、マキもまた顔を少しだけ上げる。

 汗に濡れた黒髪の隙間から、ターコイズブルーに輝く少女の瞳が見えた。


      ※


 暗く、暗く。地下深くに造られた大広間。

 明かりのないその大広間の床には血のような赤色に輝く禍々しい魔法陣が描かれている。

 特殊な鉱石を用いた床は呪力を澱みなく循環させ、魔法陣の力を存分に発揮させていた。

 その床の上を、靴音を響かせながら、呪術師の一人、デズモンドは真っ直ぐに歩いた。

「エイボン卿」

 自身の主の名を呼ぶ。主は、魔法陣の中心で、静かに呪われた祈祷を唱え続けている。

「北支部ビルを中心とした周辺の呪力量が五千CSを越えました。以後も増大し続けています」

 デズモンドの報告を聞いてなお、主であるエイボン卿は祈祷をやめなかった。

「危険です。北支部で制御できる呪力量ではありません。魔術師どももこの呪力に気付いています。儀式を中断すべきです」

「使徒デズモンド、恐れてはならない。我々は今宵供物を捧げ、かの一族をこの地にお招きするのだ」

 エイボン卿は両手を掲げたまま、ぬらりとした声で言った。

 ごう、と。

 地鳴りが大広間を揺らす。

「こんな勝手な事をしては、本部に何を言われるか……。許可も得ずにかの一族の召喚など……」

「使徒デズモンド。これは運命なのだ。我が手に召喚の奥義書が渡った時から、決まっていた事なのだ」

 エイボン卿。事によっては百年以上も生きているといわれる大呪術師は、フードの奥でその両目を赤く光らせる。

「感じる。聞こえるか、我が弟子デズモンドよ。地の底の赤き炎のように、我々では計り知れないほどの呪いが向かっている。世界を、星々さえも飲み込むであろうほどの、深い深い暗黒の支配者。その血統――」

 エイボン卿は感極まった声を上げた。

闇霧ダークミストの一族がいらっしゃる」

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