『七ツ森』2


      2


「泉先生、休職されたって」

 温かい煎茶の入った湯呑をテーブルに置きながら、奈央子なおこはおもむろに言った。

「……マキの担任の?」

 あつしは、思わず奈央子の顔を見た。奈央子は暗い顔で頷いた。

「この間の校庭での事があってから、とてもお仕事をできる状態じゃなくってしまったって」

 敦は、すぐに言葉が出なかった。

「奈央子さん、この間の事って」

 敦は声をひそめる。

 十歳になる娘のマキは、少し離れたところで何やら言いながら、一人遊びに興じている。

「マキが原因? 例によって、また不思議な力で……」

 仕事柄、海外出張の多い敦が、家に戻ったのはつい数時間前の事だ。娘が抱える特殊な事情から、奈央子は、たとえ簡単な説明になってしまったとしても、小学校で起きた事件については逐一敦に連絡していた。

「ううん、違う。その、何だかよくわからないけど、コックリさん? をやっていて不思議な事が起きたみたい。マキは……あの力を使ったみたいなんだけど、でもマキから何かしたってわけじゃない。それは確か」

「教室から校庭に現れたんだろ? それに……分身?」

「三人くらいいたって。五人だったかも」

「うーん……」

 敦は、いわゆるオカルトめいた話が苦手だった。幽霊だとか、宇宙人だとか、超能力だとかだ。夢見がちな話すぎて、どうもついていけない。奈央子は怖がりで、そもそもそういう方面の話を受け付けない。

 だが、自分たちの娘がそうした力を使うとなったら、無関心でいるわけにもいかなかった。

 一体、どうしてこうなったのか。

 少なくとも、小さな頃はこうではなかった。幼稚園を卒園するまでは普通の子だったと思う。異変を感じたのは小学校に入って最初の夏、奈央子の実家に泊りに行った時の事だ。

『木が歩いている』

 夜、蛍を見に行った帰り道、マキはそう言って暗闇を指差した。

 何も見えなかった。妻の実家は絵に描いたような田舎町で、街灯などほとんどなく、田んぼのほかは民家が点在しているだけだ。

『木が歩いている?』

 敦は娘に聞き返した。七歳の娘はこくりと頷く。

『おっきい、人みたいな木が歩いている』

 敦は、娘が言った通りのものを想像してみたが、よくわからなかった。マキが指差したほうに目をやる。

『何もいないよ、マキ』

 敦は言った。夜空は晴れていて、月は明るく、通り抜ける風が木々をざわめかせている。子どもの想像力というのは、そうした光景を手がかりにどこまでも広がっていくのだと、呑気にそう考えていた。

『歩いているよ、お父さん』

 マキは暗闇を見つめたまま言った。

 敦はもう一度、マキが見つめる方角を見た。

 何もいない。

 月の光が田んぼの穂を照らし、木立に暗い影が降りている。蛙や虫の合唱がうるさいが、足音らしいものも聞こえない。

『マキ、何か怖い映画でも見たんだろ』

 敦はそう言って、娘の頭を撫でると、手をつないで振り返り、歩き出そうとした。

 物音がした。がさがさと、枝や葉の擦れるような音が。

 敦の目の前を、何か、大きなものが通っていた。三メートルはある、頭に何か飾りのようなものをつけた人間。いや、本当に人間だろうか。僅かに月光に照らされたそれの表皮は樹木のようにごつごつとしていたし、顔だと思ったものは、太い枝が絡み合ってできた顔らしい何かだった。眼窩のような位置にある黒い穴から、目玉のようなものがぎょろりと動いている。

『な……』

 声に、ならなかった。

 まさしく歩く木のようなそれは、敦とマキなど意に介さず、暗闇の中へと消えていった。

『あれだよ。お父さん』

 マキが、淡々とそう言ったのを覚えている。

 それから、不思議な事は何度も起こった。リモコンもないのにテレビを勝手がつく。一階と二階と庭に同時にマキがいる。誰もいないのに窓際に人の影だけが残っていて、マキが目に見えない何者かと話している、などなど。

 オカルトは苦手だったが、調べるしかない。インターネットや文献を当たったところによれば、いわゆる霊能力、超能力というものは、家系に由来するところが大きいという。だが、敦の家も奈央子の家も、イタコや拝み屋といったものとは全く縁がなかった。

「ふん! ふん!」

 マキは、理由はよくわからないが、力を込めて、さっきから必死に腕を振り下ろしている。

「……マキ、何やってるんだ?」

 思わず、敦は聞いた。

「必殺技を考えているの」

 答えながらも、マキは腕を振り下ろすのをやめない。

「ひっさつ……?」

「うん。この間の奴も、先生にとり憑く前にやっつけていれば良かった。もっと早く力を出せるようにしないと」

「マキ! そんな事――」

 奈央子が思わず立ち上がった。

「何でマキがそんな事しなくちゃいけないの? その力は危険なものよ。もう使ってはだめ!」

「でも、わたしがやらなきゃ先生は今もあいつにとり憑かれたままだったよ」

「そんなの……」

 言いかけて、奈央子は言葉に詰まったようだった。

「二人とも、やめよう。マキ、こっちにおいで」

 マキはじーっと敦を見つめていたが、やがて変なポーズをやめると、トコトコと敦の元へ歩み寄った。

「マキ。お母さんはマキに危ない目に遭って欲しくないんだよ」

 いつも通り、敦はマキを諭した。

「……でも、わたしがやらなきゃ、先生、とり憑かれたままだったもん」

「それはそうかもしれないけど……でも、たとえ先生を助けるためだったとしても、マキが傷つくような事があったら、お父さんもお母さんも悲しいよ?」

「うー……」

 マキ。十歳の娘は思い切りむくれて、それから少し困ったような顔をした。

「お母さん、マキが先生を助けたの、すごいなって思う。誰にもできない事をしたんだもの。でも、だからってマキに何かあったら、お母さん、泣いちゃうよ。そんなの耐えられない」

 奈央子はそう言って、マキに手を伸ばす。身を預けてきたマキを両手でぎゅっと抱き締める。

 リビングの電灯が、強く、弱く、点滅する。

「マキ、電気はチカチカさせちゃだめ。これやるとすぐ悪くなるんだから」

「……違うのー、勝手になるのー」

 涙声で鼻をぐずらせながら、マキは言った。

 やれやれ。

 敦は湯呑のお茶をひと口飲んだ。

 計り知れない、とんでもない力だ。きっとこんな家族はほかにはいないだろう。

 だが、何にも代えがたい。絶対に失うわけにはいかない。

 ――何か、音が聞こえた。小さな音。スイッチが入ったような。

 振り返ると、リビングの大型テレビがついていた。子どもたちの歓声が聞こえる。

『はいはい、皆ー! ちょっと静かにして。素敵なゲストよ!』

 古い映画だ。ホームパーティーで大はしゃぎしている子どもたちの元に、奇妙な機械を担いだ、ロゴ入りツナギ姿の男二人がやってくるシーン。

「もうマキ、またテレビいじって」

 娘の頬を撫でた奈央子が、にわかに怪訝そうな顔をした。

「違う。お母さん」

 マキの顔は真剣だった。無表情のようでさえある。全く感情の感じられない瞳で、じっと玄関のほうを見つめている。

「誰か来る」

 マキがそう言った瞬間、インターフォンの鳴る音がリビングに響いた。

 身体が強張こわばる。敦は席からゆっくりと立ち上がった。奈央子の顔にも緊張が見える。

 再び、インターフォンが鳴った。

 ボタンが押された事でテレビカメラが起動している。受話器横のモニターに映っているのは、家の前の路地と、女性だ。控えめなグレーのスーツを着た、恰幅のいい女性。まるで保険の営業か何かのようだ。

 こんな時間に、営業?

 敦は、壁に設置された受話器を持ち上げた。

「はい」

『夜分に申し訳ございません。私、渡瀬わたらせマキさんの担任の泉先生のご依頼で参りました、霊能コーディネーターのクレマチス・エルフと申します』

 一瞬、敦は相手の言っている事が理解できなかった。

「ええと……?」

『霊能コーディネーターです。泉先生のような霊障に苦しむ方や、お嬢様のように特殊な力を持った方の手助けをしております』

 クレマチス・エルフと名乗る人物は、敦が聞き慣れない言葉を自然な調子で口にした。

『泉さち子先生のご依頼で、お嬢様とお話させていただきたく参りました。こんな時間に申し訳ございませんが、なるべく早いほうがよろしいかと思いまして』

 奈央子が不安げな顔をしている。相手の言っている事も真実かどうかわからない。泉先生の依頼? いや、今は考えるべきじゃない。

「申し訳ないのですが、おっしゃっている事がよくわかりません。時間も遅いですし、すみませんが今日は――」

「開けてあげて」

 マキが、不意に言った。敦の胸中で何かうわずるような感覚がした。

「マキ、今は外の人と――」

「開けてあげて、お父さん」

 マキが、すぐそばで敦を見上げていた。いや、マキは奈央子の腕の中にいる。リビングに、マキが二人。

 分身だ。娘の分身自体は別に初めてじゃない。だが、その両目が、ターコイズブルーの光を帯びている。マキの力が強烈に発揮されている証拠だ。

「わたし、その人と会わなきゃいけない気がするの」

 奈央子の腕の中のマキが、じっと敦を見つめて言った。


「こんな遅い時間に申し訳ございません。泉先生からご依頼を受けて、どうしても今日中にお会いしなければと思いまして。ああ、失礼いたしました。わたくし、フリーランスで退魔屋兼霊能コーディネーターをさせていただいております、クレマチス・エルフと申します。以後お見知りおきを」

 最初の印象は間違いではなかった。クレマチス・エルフという奇妙な名前の人物は、まさに話し慣れた営業職のようにするすると言葉を繰り出してきた。名前だけ見れば外国人だが、身に纏う雰囲気やその顔は、東洋的にも西洋的にも見える。

 敦は、テーブルの上に置かれた彼女の名刺を見た。

 肩書は、退魔屋・霊能コーディネーター。

 さっぱりわからない。

「一体、どういう事ですか。泉先生の依頼というのは」

 敦は、来客のためのコーヒーをクレマチスの前に置いて、言った。奈央子は不安そうにしたまま、ソファの上でマキの手を握っている。分身はいない。いつの間にか消えていた。

「泉先生は、マキさんの持つ力が彼女自身を傷つけないか、危惧しておられます。わたくしは、先生からマキさんが力を正しく使えるよう助けてやってほしいと頼まれました」

 クレマチスは穏やかだが真剣な口調で言った。

「マキさんは、先日の事件で泉先生にとり憑いた動物霊を消滅させました。この動物霊は邪気を吸い続けた悪霊で、その魂は呪力そのものと化していましたが、マキさんはこれを、自らが持つ魔力で消し去ったのです」

 クレマチスはそこでコーヒーをひと口飲んだ。

「話を聞いて驚きました。霊能の力というものは、本来誰しもが持っているものですが、マキさんの力は格別です。魔力を以て呪力を消し去るのみならず、分身を出現させ、他人も自分も己の意志ひとつで異なる場所から場所へと転移させられる。本来、そんな事ができるのはマスタークラスの術者くらいです。しかもそれだけの技を披露しておきながら、彼女の魔力には一切の翳りも見られない。これは、相当な量の魔力を持っていると考えてよいでしょう」

「……危険なんですか? マキの力は」

 思わず、敦は言った。

「やはり、この力を使い続けたら、マキの身に何か起こるんですか」

「適切なコントロール方法を学ぶべきです。それに、悪霊や怪物たちに対する知識も。無闇に魔力を使い続ければマキさんの身体は耐え切れないでしょうし、彼女の力を取り込もうとする邪悪なモノも現れます」

「そんな……」

 奈央子が息を呑んだ。

 当のマキは、何を考えているのかわからない目で、クレマチスを見ている。

「まず、彼女の力がどういうものか、よく調べる必要があります。できるなら、これからすぐにでも」

「これから?」

 敦は訊き返した。

「ええ。退魔屋協会が管理している施設の中に、うってつけの場所があります。まずはそこにご同行を」

「そんな事を言われても……」

「怪しいですよ、急に。人の娘を!」

 戸惑った敦より早く、奈央子が険のある声で言った。

「邪悪だとか何とか……。あなたがその悪い人だという事も考えられるでしょう!?」

「奈央子さん……」

 クレマチスは一向に動じなかった。

「おっしゃる事はよくわかります。わたくしも性急過ぎたかもしれません。ですが、今必要なのは事実を認め行動する事です。力の正体を知らないままでは、娘さんの未来に関わります」

 リビングの空気が張り詰める。奈央子は感情が昂ったせいで目に涙を浮かべており、クレマチスは堂々してその目は真剣だ。

「――力を見せればいいの?」

 マキが、言った。

 クレマチスの目が、娘に向けられた。

「ええ。できるだけ、本気の力を」

 クレマチスの前のコーヒーカップが揺れる。中に入ったコーヒーが突如として噴き上がるも、一本の柱のように、雫一滴こぼす事なく固まる。

 コーヒーの柱の輪郭には、ターコイズブルーの燐光が仄かに輝いている。

「これは?」

「悪くないわ。でもこれだけじゃ、本気とは言えない」

「「これは?」」

 すかさず、クレマチスの背後に、二人のマキの分身が現れる。

「聞いていた通りね」

 元に戻ったコーヒーを、クレマチスは口に運ぶ。

「でも、まだまだ足りない」

 マキが僅かに眉根を寄せる。

「それなら――」

 ぎゅん、と。

 まるで、空気が捩じられるような、異様な音がした。

 二人の分身が、クレマチスに向けて右手をかざしている。本物のマキも同様だった。クレマチスの背後の空間が罅割れて、ノイズとともに、裂け目が生まれる。放電音にも似たバチバチと激しい音が聞こえ、部屋中の空気が裂け目に吸い込まれていく。

「なんだ!?」

 驚く敦を尻目に、クレマチスのビジネスバッグの留め具が、独りでに外れる。

「渡瀬様」

 クレマチスは冷静な口調で言った。

「奥様のところへ」

 意図は理解できない。だが、クレマチスの目を見た瞬間、敦は弾かれたように奈央子の傍へ駆け寄った。

 マキの目が、ターコイズブルーに爛々と輝く。

「「「これは?」」」

 何か、とても大きな力の動きを、敦は感じた。

 瞬間、敦は見た。クレマチスのビジネスバッグから何かが飛び出すのを。クレマチスの身体が、ピンク色の燐光を纏うのを。クレマチスが、右手の中指と親指を合わせるのを。

「〝騎乗ラド〟」

 パチン、と。

 クレマチス・エルフが指を鳴らした。

 次の瞬間、ピンク色の光が部屋中を覆い尽くし――

 気が付けば敦と奈央子は、家の前の路地に立っていた。

「え? え?」

 何が何だかわからない。家は郊外にあって人通りは少なく、周りはいたって静かだ。

「敦さん、これ……」

 奈央子は戸惑いを隠せないまま辺りを見回している。

「わからない。こんな事……」

 言いながら、敦はすぐ目の前に、マキとクレマチスが向かい合っているのを見つけた。

「マキ!」

 敦はすかさず呼びかけたが、マキは振り向こうとしなかった。

 ただ、目の前のクレマチスをじっと見ている。

「何で……?」

 マキは、困惑していた。

「お姉さんだけ、外に飛ばしたはずだったのに……」

 クレマチスは、口元に笑みを浮かべていた。

「ルーン魔術よ」

 言って、クレマチスが掲げたのは、二本の指で挟んだ平べったい石だ。

 何か、文字のようなものが一字、刻み込まれている。

騎乗ラドのルーンであなたの魔力を利用させてもらったの。術も呪文も使わずに思い描いた事を実現するのは大したものだけど、単に魔力で無理矢理穴を開けているのなら、こうしてわたくしのルーンで簡単に操作できる」

 ガチャ、とドアの開く音がして、家の中からビジネスバッグが飛び出してきたかと思いきや、クレマチスはそれを見もせずに取っ手を掴み取った。

「でも、まだまだこんなものじゃないでしょ。あなたの魔力をもっと、もっと見せて頂戴」

 言って、クレマチスはビジネスバッグに石を仕舞うと、新たな石を摘まみ取って、天高く放り投げる。

「〝守護のルーンよ、エオール・我らを包み給えザ・ドーム〟」

 パチン、とクレマチスの指が鳴る。次の瞬間、放り投げられた石からピンク色の光が広がり、敦たちの家を含めた周囲一帯を覆う。

「さあ、ここからが本番」

 クレマチスの目が、高揚したようにピンクに煌く。

「遠慮はいらないわ。かかってらっしゃい、魔法使いのお嬢さん」

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