『闇霧』23


      23


 浮かんでいる。

 奇妙な浮遊感に気付き、火保は目を覚ます。

 周囲が蒼く輝いている。暗闇の中で力強く輝く幾条もの箒星の軌跡。地球から一番遠く、一番高いところにある銀河の光景。

「もう行くよ、お姉ちゃん」

 少年の声がした。浮遊する火保は咄嗟に声の主を探す。

 いた。一本の箒星の軌跡の上に、マサキとミオの姿があった。

「ありがとう。お姉ちゃんのおかげで、僕たち元の世界に帰れるよ」

 火保は声を出そうとする。が、言葉は出ない。何か言いたいのに、何も言えない。

 ここは、おそらく本来火保がいるべき場所ではない。三昧真火がビル中の呪いを焼き尽くした際に、偶然火保もここに飛ばされたのだ。いるべきでない者は、魂が安定しない。

「さようなら、お姉ちゃん。またいつか……もしまた会えたら」

 マサキが何かを言いかけ、

 ミオが小さく口を動かす。

 魔女のお姉さんによろしく。お姉ちゃん。

(マサキ君。ミオちゃん――)

 声にならない声で、火保は二人の名を呼ぶ。

 光が迫って来る。箒星が二人を運んでいく――

 耳元で、奇妙な音がする。

 固い物で、紙に何か書き付けるような、そんな音。

 蒼く光る流れ星のペンで。

 何者かが、全ての運命を書き綴っている――……



 麻來鴉はふと目を覚まし、身を起こす。

 どうやらムーサ・柴崎ビルのどこかのフロアのようだ。万華鏡工法によって構造が奇妙に改変されており、右手側には溶けたオブジェのようなものが立ち並び、左手側には、これまた奇怪な形に固形化した白い立体物が、無造作に転がっている。

 いや、今は周囲の事などどうでもいい。麻來鴉は、今しがた見えた光景を思い出す。

 蒼く輝く、無数の箒星が飛び交う銀河。

 見た。確かに、見た。現世の景色ではなく、単なる異界でもない。白い大火がネオデーモンを内部から焼き尽くしたその瞬間、麻來鴉はあの蒼い光景を見たのだ。おそらくは、火保も同じ光景を見ているだろう。

 それに、あの音――

 まさか、本当にある・・のか。

「素晴らしい成果だ」

 銀髪の男が、麻來鴉の正面に立っていた。

「ガルタンダール……」

「その様子では君も見た・・な。いやはや、何とも素晴らしい。今回の儀式は一種賭けだったのだがね。やはりパラレルワールドの移動者が手に入ったのは大きかった。ましてや行く先々で業を重ねた男だ。必ず使えると思った。儀式が失敗して、一時はどうなるかと思ったがね。いやあ、最期は良い火種になってくれたよ」

 惑乱の王子と呼ばれるその男は、これまで見た事もないほどの上機嫌で独りでに喋り続けた。

「最低でもネオデーモンの体くらいは持って帰れるだろうと考えていたんだが、まあそっちはもういい。とにかく、これで証明出来た。全ての運命を書き記す者は存在する。その記録も、ね。とにかくこれで決まりだ。次は、今回以上の規模でやる。無祝より、もっといい素材を見つけて、必ずあちらへと辿り着く」

「……次?」

 麻來鴉は、静かに目の前の男を睨んだ。

「聞くまでもないんだろうけど、止める気はないという事?」

「当然だとも。私は、運命のなすがままにされるつもりはない。我が故郷である闇と霧の世界だけで、終わるつもりはないのだよ」

 理解出来ない、だが、妙に切実な口調で惑乱の王子は言った。

「七ツ森麻來鴉、君には期待している。今ここで連れて行くよりも、まだまだ育つのを待ったほうが良さそうだ。その力と才能は、必ず私の役に立つ」

「舐めるな、くそ野郎。わたしがあんたの道具になると本気で思っているのか」

「威勢だけはよせ。魔力の残っていない今の君に何が出来る」

 ガルタンダールの足が、固い靴音を立てた。

 麻來鴉の目には――見えていた。

「王子様。意気揚々とご高説を垂れ流す前に、自分の足元くらいは見ておくべきだったね」

「一体何を――」

 ガルタンダールの目が足元を見る。

 その靴が、お札を踏んでいる。害毒消去。孔雀明王のお札。

「オン・マユラキ・ランデイソワカ!」

 闇の中から現れた火保が、孔雀明王陀羅尼を唱える。害毒消去の霊験が発動し、光輝く孔雀の羽が舞い上がる。

「この程度で」

 ガルタンダールは無造作に足を動かし、孔雀明王のお札を蹴り飛ばす。

「まさかこの程度で粋がるとはな。この期に及んでこの私を甘く見積もるとは――」

「いいや。おかげで狙いが定まった」

 麻來鴉は、右手の親指と中指の腹を合わせる。

 ガルタンダールの目が、何かに気付いた。

「槍は――」

戦神ガグンラーズの槍に散れ」

 魔女が、指を鳴らす。

 次の瞬間、轟雷とともに上方から飛来した金色こんじきの槍が、ガルタンダールの腹に音を立てて突き刺さった。

「これは――」

「大鴉の槍だけは残しておいた。お前は最後に必ずわたしの元にやってくる。ひと槍くらいは報いてやろうと思ってね」

 最後に残された黄金の魔力が膨れ上がる。

「ほら、七年かけて作った大事な体に傷がつくぞ」

 雷光が迸った。黄金の雷柱が立ち昇り、惑乱の王子の体を焼き焦がす。

「……面白い」

 無造作に、大鴉の槍が放り投げられ、麻來鴉の前に突き刺さる。

「第二のアバターを貫通するとはね。黄金の魔力、確かに恐るべきものだ」

 煙が、晴れていく。

 ガルタンダールの体に開いた大きな穴が、黒い靄に包まれて、再生していく。

「返礼は受け取った。今回はこれで手を引こう。七ツ森麻來鴉、そしてそこの退魔屋」

 冷たい目で、ガルタンダールは火保を見た。

「君たちの才能は私に必要だ。せいぜい大事に育てる事だ。我々はまた相まみえる。闇と霧の気配がするところで、いずれまた」

「二度と帰って来るな。このくそ野郎」

 麻來鴉が毒づきながらも槍を引き抜き、

 火保は無言で、銃を抜いていた。

「絶対に勝てない状況でまだ牙を剥くか。いいぞ。せいぜい生き延びてみせるがいい。ふ、ふふふ、ははは――……」

 惑乱の王子が、堪え切れないといった様子で嗤う。

 気配が、去った。

 もう、ここに闇霧の一族はいない。

「なーにが、ふはははだっつーの。舐めるな、まじで」

 言いながらも、麻來鴉は槍にもたれかかる。

「強がりはやめて。私もあなたも打つ手はなかった。向こうがその気になっていたら二人とも死んでいた」

 たしなめながらも、火保は麻來鴉に肩を貸し、その体を起こす。

「殺されたって死んでたまるか。あいつを倒せるならその場で化けて出てやる。火保も一緒ね」

「考えておく」

 歩き始める。瓦礫は散らばっているが、幸い足元が見えるだけの光は差し込んでいる。

「あの二人は?」

 麻來鴉が問う。兄妹の事だ。

「大丈夫、元の世界に帰った。私たちも急ごう。外の皆と合流して、すぐにほかの人たちを助けに来ないと」

「そうだね。急がなきゃ……。ていうか、ここ何階なの」

「お札が貼ってあった位置から考えて、ここは一階。出入口はすぐそこにあるはず」

 歩く。歩く。二人の足取りは決して軽くはない。二人とも、力を使い果たしているのだ。

 だが、行かなければ。ビルの中には、まだ安否不明の人々が大勢残っている。

 出口が見えた。

 外に出る。

 ビルの周辺は、異様な静寂に包まれていた。呪力の残滓が、そこら中に漂っている。ネオデーモンの誕生によって、ビルの中のみならず、外側でも異層転移が起こったのだ。

「麻來鴉ー!」

 声が聞こえる。大男の人影と、数名の巫女、それにSAT隊員らしき人が見える。

「麻來鴉ー! 白原さーん!」

「十文字!」

 麻來鴉は、駆け寄ってくる十文字に手を振った。


 ――カチリ――


 音が、した。

 後方。ビルの中。

 呪力の異様な高まりを感じる。

「――っ、十文字、来ちゃ駄目!」

 咄嗟に、麻來鴉は叫んだ。

 素早く身を動かし、麻來鴉は槍を、火保は銃を構える。

 だが、もはや。


 ――カチリ――


 時計の、針が動く音。

 ビルの中で、呪力が急速に膨れ上がっていく。

「……来る」

 火保が、言った。


 ――壊れたRuina時間Chronus――


 地の底から声がした。

 暗紫色の呪力がビルから放出される。ヤギの頭を持つ悪魔、バフォメットの体。その下に接続される、白い巨人、邪視の体。さらに巨人の腹から逆さまに生える巨大なエレベーターガールの姿。さらにその下には、尽きる事のない闇が続く。

 暗紫色の呪力を纏い、ネオデーモンが顕現する。全てを嘲笑う怪物どもの目が、麻來鴉と火保を見下ろしている。

畜生子守歌Vazy#zong♪救済負負負無縁DLXVI0x7

 暗黒の歌が歌われる。駄目だ。奪われる。今、ここで奴を倒せる手段は存在しない。恐るべき時間神の呪術。あれほどの火焔に焼かれてなお、この世を恨み再生する――……

「くっ――」

 槍を構える。やるしかない。手段などなくても。今ここで戦わずに死ぬのなら、かすり傷の一つでもつけなければ。ただ死ぬわけにはいかない。何とか、何とか最後に――


 ――――――――――――赦―――――――――――――


 鞘鳴りが聞こえた。

 巨大な影が、天を動いていた。

 ネオデーモンは巨大な怪物であるが、それよりもはるかに大きいそれは、一本の剣だった。彼方の地平から、横薙ぎに一閃された剣が、ネオデーモンの胴体を真っ二つにし、突風のような浄の気が、ビルから放たれて散った一帯の呪力を、一気に吹き飛ばす。

 ネオデーモンの断末魔でさえ、浄気の風が消し去っていく。

「今のは……」

 人間の技ではない。麻來鴉のように、神の力を借り受けただけでもない。

 まさに、この世に神仏を顕現させたかのような。

「盤石先生の宝剣……」

 火保が言った。

 とめどなく広がり、幾度となく再生する呪力を完全に断ち切る、神の剣。

 時計の針の音は、もう聞こえない。周囲に漂っていた忌まわしい気配でさえ、もう微塵も感じられない。

 終わったのだ。今度こそ。本当に。

 

      ――――


【特殊退去・祭礼サービス業者 従業員記録より一部抜粋】

 ムーサ・柴崎ビル呪詛儀式事件。

 二〇二〇年五月二十一日。午前九時、発生。

 呪詛儀式による大規模異層転移を企てた呪術師が、柴崎市内のビルに立てこもり、来訪客を人質に儀式を強行した事件。

 ビル内の客は、残らず儀式に巻き込まれ、供物とさせられた。

 県警と退魔屋の活躍により、事件は収束したものの、主犯である呪術師は死亡。もう一人の犯人と目される人物は逃亡している。

 負傷者数、二八二名。死亡者数、一〇三名。行方不明者数、二三〇名以上。

 あまりにも異様な事件である事から、表向きは化学物質を用いたテロとして発表されている。


      ――――


 警視庁本部庁舎を出た火保は、無表情に付近の自販機へと足を向けた。

 事件から三週間が過ぎていたが、捜査は未だに続いている。

 ムーサ・柴崎ビルは完全に封鎖され、今日も捜査員が立ち入っている。火保も何度となく足を運び、捜査に関わり続けている。盤石先生が使った宝剣の影響で、ビルの中には、幽霊の気配一つない。

 完全に浄められているので、事件当時、火保や麻來鴉がいなかったほかの階で何が起きていたのか、詳しい事を調べるのにもひと苦労だ。

 フロア全体が変形し、レストランの面影が消えた二十七階。

 火災の痕跡が残る十階。

 儀式の始まりの場所である一階。

 どこかで、もしかしたら恨み言の一つでも聞こえるかもと思ったが、聞こえたのは瓦礫が崩れる音くらいのものだ。

 八尾は、未だに警察病院にいる。意識はあるものの、まだとても聴取に耐えられる体調ではないのだという。

 麻來鴉には事件のあとから会えていない。ネオデーモンとの戦いで力を使い果たした麻來鴉は、ビルを脱出したあと、治療のため火保も知らない秘密の場所へと移送されたという。

 自販機でミネラルウォーターを買い、ひと口飲む。火保とて万全ではない。魔力は未だ完全には戻っておらず、退魔屋として仕事に復帰するには、もうしばらくかかるだろう。

「白原さん」

 自販機の近くに大柄の男がやってきた。霊能コーディネーターの十文字浩太郎だ。

「十文字さん」

「お疲れ様です。白原さんも来ていたんですね」

 十文字は退魔屋ではないが、今回の事件では県警の要請を受けて協力している。彼とて、事件後の捜査のために呼び出されるのだろう。

 十文字と最近の状況について、いくらか話す。周囲に人影はない。

「十文字さん。麻來鴉に会いましたか」

 十文字は首を横に振った。

「いいえ。まあ、麻來鴉の事ですから、そのうちまたふらっと顔を見せるんじゃないかとは思っていますが。白原さんこそ、体調は?」

「まだあまり。でも、私もこれから休暇を取るんです。休んで、調子を戻さないと」

「いいですね。白原さんだって休まないと。どこかに行かれるんですか」

 火保は、ミネラルウォーターのラベルに目をやる。

「遠方に、家を持っているんです」

 ラベルに描かれているのは、商品の名前と白い砂浜。

「海の……海の近くに」



 都心から遠く離れ、電車をいくつも乗り継いで行く、名前も知られていないような、小さな港町。

 その海岸の近くに、火保は、自宅とは別に家を持っている。

 観光客が訪れるような場所ではない。仕事の合間に探し歩いて、ようやく見つけたのだ。

 砂浜の見える海岸沿いの家。

 大きな仕事を終えたあと、火保は休暇を取ってここに来るようにしている。

 もっとも古い記憶に残る海岸によく似た景色の場所。

 タリスカーの瓶を片手に、火保は裸足で、人気のない夕暮れの砂浜に出る。

 記憶に残る場所が、本当にここなのか、確かめる術はない。

 だが、ほかに見ていたい場所もない。

 酒を飲む。火とは違うけれど、喉を熱のようなものが通り過ぎる。

 遠い日。火保はまだ『火保』という名前ではなく、本当の名前で呼ばれていた。その名を思い出す事はもうない。記憶は封印したのだ。白原火保として生きるために。

 タリスカーを呷る。酒精で酔う事はない。ただいささか、この現実を幻想めいたものと嘯いてくれるに過ぎない。

 夏の海。

 人気のない砂浜。

 確かに、待っていた。誰かがやってくるのを。誰かが、迎えに来てくれるのを。それはかつて、庭で鬼と遭遇した際に助けてくれた兄のような人かもしれない。あるいは、もう顔も思い出せない母親であるかもしれない。

 祝福?

 今の自分に、祝福はあるか?

 魔と関わり、呪いと関わり、救えた者も救えなかった者もいて、罪も罰もまだら模様に待ち受けるこの自分の人生に、祝福など存在するのか?

 全てが、自分にはあまりにも大き過ぎるような気がする。

 酒を飲む。波の音が聞こえる。人の声はなく、太陽はあと少しで沈み、夜の闇がやってくる。

 待っている。今も。

 火保は海を見ていた。夜闇の青と、夕日の茜が交錯するマジックアワー。答えなど得られないその色彩を見つめながら、静かに砂を踏む音が聞こえるのを待った。



『闇霧』了                   

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