『闇霧』20
20
怨嗟と呪いが限りなく続く暗紫色の空間に、金色の風が吹く。
闇と霧の世界には決して存在しない光が、惑乱の王子の目を焦がした。
「
ガルタンダールは、ただ一人の観客として戦いを見守る。どう転んだとしても得るものはある。だが、期待していなかった見世物を見られるなら、これはまさに幸運と言うべきだろう。
「まさかこんな切り札を用意しているとは。ルーン・マスターを継いだのも伊達ではない、か」
七ツ森麻來鴉。
七年前と変わらぬ瞳で、七年前よりも確実に魔と呪いの世界に踏み入っている。
「まだ見どころはあるという事かな。鴉の魔女よ」
惑乱の王子が、闇の中で笑みを浮かべている。
二十九のルーン・ストーンが、衛星のように麻來鴉の周囲に展開される。金色に染まったマントと帽子には、蔓草の模様に似た魔力の通り道となる脈が現れる。
無限のエネルギーを感じる。麻來鴉自身の精神が、一段階上のクラスへ上がったような感覚。
この身に、
「ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ」
白い巨人の嘲笑が響き渡る。不気味な声のビブラート。歌が始まる。全ての存在を否定する邪悪の歌。
「
音が迫る。魔力を奪う音が。細菌のような呪力が一瞬で広がり、こちらの魔力を喰い尽くそうとしている。
だが、戦神の力の前では無為。
「
ルーンの名を唱えると同時に指を鳴らす。黄金に染まったルーン・ストーンが麻來鴉の前に現れ、富のルーンがその力を発揮する。幾多の複雑な文様に彩られる法陣が広がる。
「ひっひっひっ――」
ノイズめいた怪物の歌が波となって法陣に触れた瞬間、忌まわしい歌声は、天上の音楽へと変じた。白い巨人の声が明らかに狼狽する。
富のルーンから麻來鴉へ、魔力が流れ込んでいく。衣服に出現した脈を通じて、涸れる事を知らない泉のように黄金の魔力が麻來鴉を満たし、その身から溢れてなお注ぎ込まれる。
「黄金の魔力は神の魔力。人の身では御する事の叶わぬ魔力。戦神を降ろし、神の力を借り受けた今のわたしには、全てのルーンに黄金の力が付与されている」
掌から、黄金の魔力が立ち昇っている。体が、心が、神の領域に近付いていく。
「魔力を消す技には驚かされた。だが、
一歩を踏み出す。溢れ出した黄金の魔力は空間に広がり、そのまま麻來鴉の道となる。川のように流れる黄金魔力が音速を越える加速を与え、一瞬よりも速いスピードで、麻來鴉は白い巨人の顎を蹴り上げた。巨人のひきつるような笑いが、初めてくぐもった苦悶に変わる。
「五階――」
麻來鴉の真下に巨大なエレベーターガールの顔があった。おぞましき怨霊が目を剥き、呪いの技を行使する。
「毒ガス室で――」
「
指を鳴らす。黄金の力を得た氷のルーン・ストーンが巨大なエレベーターガールの体を一瞬で氷塊に閉じ込める。もう麻來鴉はエレベーターガールを見てはいない。黄金の魔力を纏った拳を握り締め、ルーンの名を唱える。
「
下方に向かって槍を放ち、空いた手で指を鳴らす。黄金に染まった野牛のルーンが発動する。最初の拳を白い巨人の腹に叩き込む。野牛のルーンは肉体を強化するが、
巨人の一つ目が麻來鴉を見た。潰れた喉からくぐもった声が漏れる。
蝋のような白い肌が蠢く。
「
潰れた喉から出る呪歌とともに、白い巨人の肉体のあらゆる箇所からおぞましい数の目が開く。呪われた目玉から放たれる幾条もの邪視光線が、空気を灼いて麻來鴉の体を貫通する。
白い巨人の顔がたちまち喜びで歪む。が、それも一瞬。
血は――流れていない。
黄金の魔力で満たされ続ける今の麻來鴉に、邪視光線は呪いの一片さえ残せない。身を貫いたはずの光線は無限に湧き続ける魔力によって打ち消され、光線はただ、麻來鴉の体を透過したに過ぎなかった。
巨大な、氷の砕ける音がした。下方に向けて放った槍が、氷漬けになった巨大なエレベーターガールとネオデーモンの接合部を破り、エレベーターガールを暗紫色の闇の底へと落とす。
「ではな」
麻來鴉は無感動に言って、
「
魔女が名を呼ぶのに応じて、黄金浄化のルーン・ストーンが白い巨人の目の前に現れ、輝く。
魔女の指が鳴る。
爆発。黄金浄化のルーンに耐え切れず、白い巨人の体が破裂する。飛び散る呪力の一片一片が黄金の魔力に呑まれ、消えてく。
ネオデーモンの悲痛な呻き声が響く。体から生やした巨大な怪物二体を一度に失い、身体の修復が追いついていない。
「苦しいだろう。終わらせてやる」
麻來鴉の手に、大鴉の槍が戻る。
「
勝利を意味するテュールのルーンが黄金に輝き、槍の穂先に魔力が集中する。
「
重ねて唱える。黄金勝利のルーン・ストーンが星のように瞬く。古の戦士は剣の柄にルーンを刻み、
「
「
「
計五回。軍神の加護を上乗せし、槍は魔力を込められ、研ぎ澄まされていく。
「
意味を為さぬ呻き声を上げて、ネオデーモンが再び麻來鴉をその目に捉える。
「
「っ!?」
ネオデーモンの修復しかかった体から聞こえる呪いの歌。飛び出してくる無数の鎖。
「二十七階、展望レストラン厨房でございます」
畳み掛けるように呪力の鳴動。エレベーターガールの声に答えて、巨大な炎が背後から迫る。前方は鎖の群れが、後方は炎の壁が一瞬で麻來鴉を取り囲む。
「
振り返らないまま麻來鴉は、左手の親指と中指を合わせる。
「
金色の光を放つ
「これは返すぞ」
呪いの火の玉を変化させた巨大水球を鎖へ向かって放り、
「
槍のすぐそばに黄金雷光のルーンが出現する。指が鳴る。巨大な雷撃が槍に向かって落ちる。
「
悪魔が一手先を呼んでいる。水球の支配権が麻來鴉からネオデーモンに移り、突如巨大な濁流となって麻來鴉を呑み込む。いや、襲い来るのは濁流だけではない。今まさに行使したら雷撃でさえ、、溶解と波濤の呪術によって濁流の中から麻來鴉に返される。
「っ、スレイプニル、戻れ!」
黄金鎧馬のルーンを解除し、濁流の中、雷に撃たれながら麻來鴉はルーンを行使する。
「
故郷のルーンたるエゼルのルーンが金色に染まる時、周囲に存在する一切の魔力、呪力は強制的に麻來鴉のエネルギーに変換され、吸収される。呪われた濁流も雷も、全てが麻來鴉の中に収まり、瞬時に黄金の魔力と化す。
飛んできた槍を、麻來鴉は掴み取る。
「はあ、はあ――」
息が、切れ始めている。黄金万富のルーンで、魔力は途切れる事なく注がれている。当然の事。神の戦に限界はないのだ。今しがた変換した魔力も当然使える。魔力の蓄積に問題はない。問題があるのは――
「
鎖のカーテンが開いていく。声が聞こえる。ネオデーモンの声だ。
「
見抜かれている。この術の弱点……いや、麻來鴉自身の限界を。
体中から立ち上る黄金の魔力に混じって、極めて小さいが、衣服や肌の破片が剥がれていくのが見える。
「神の力を借りるのもタダじゃなくてね」
槍を構える。槍は突くもの。一突きで命を奪うもの。
麻來鴉に降りた戦神が言っている。
その身、尽きるまで――……
「だとしても、お前は逃がさない」
マサキの解呪と、最大火力を放つための準備は、並行で進められる。
「ノウマクサンマンダー・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン」
目を閉じ、火保は不動明王真言
虚ろな目をしていたマサキの目も、今は閉じている。
火保の中に眠るスナップ・ドラゴンの力を上げるためには、不動明王真言を唱え、ドラゴンとの意識を同調させなければならない。その準備段階に、マサキも参加させた。不動明王は一切衆生を救済する菩薩。その真言を聞かせ、魂に呼びかけ続ければ、いかなる呪詛も打ち破るであろう。
「ノウマクサンマンダー・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン」
結界の内側で、白い炎の力が高まっていく。
マサキに巣食う呪詛が、少しずつ消えていく。マサキの魂が少しずつ自分の形を取り戻している。
火保の意識は現実にあり、同時に自身の内側である精神世界にもあった。意識の同調によってマサキの精神とも繋がり、今、精神世界の火保の前には、草むらで胎児のように丸まっているマサキの姿が見えていた。
――起きて、マサキ君。
眠り続けるマサキに呼びかける。予感がする。ただ、最大火力でドラゴンの力を放つのでは、あの巨大な悪魔を消し去れはしない。このビルの呪いに強い繋がりを持つ者の協力がなければ、きっとうまくいきはしない。
繋がり。
雑念が混じる。
何故、そんな事を考えたのだろう。
無祝とマサキが同じだというからか? いや、違う。精神世界にいる火保は、肉眼では見落とす魂の微細な情報をも感じ取っている。何かに、気付いている。ただし、その何かを明言する事が出来ない。魂の世界、精神世界では真理と曖昧さは同じものだ。
――起きて、マサキ君。
ノウマクサンマンダー・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン。
肉体側の自分が唱える真言が聞こえる。
――起きて、マサキ君。
ノウマクサンマンダー・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン。
マサキを起こさなければ。呪いを解かなければ。
何か、ある。あと少しで、何かがわかる。予感がする。結びついた一本の細い線。それが、見える。
――
紛れ込んで来た奇怪な声。火保は眠り続けるマサキを見る。
いた。草むらに。素足で。マサキのすぐそばに。白い衣服に、真っ白い髪の女性。触手のような、ぶよぶよとした物が生えているワンピース。真っ黒に染まった両の瞳。
その、細く、骸骨のような指が、後方を指した。
次の瞬間、精神世界と現実世界にあった火保の意識は重なった。すぐに、自身の内側を探る。ドラゴンとの同調は問題ない。だが、最大火力を引き出すためには、最後の真言を唱えなければ。
「お姉……ちゃん」
微かな声がした。
現実世界でも、マサキの意識が戻りつつある。
「呼んでる……」
震える小さな一指し指が、結界の外側に向けられる。
今しがた見えた、女性の亡霊と同じ方角。
「ミオが……呼んでる」
予感が、当たる。
火保は少年が指をさす先を見た。
黄金に染まった鴉の魔女と、巨大な悪魔の姿がその先にあった。
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