『闇霧』19
19
十三時三十五分。儀式の寿命が尽きる時刻。
時計の長針が時刻を示したその瞬間、ムーサ・柴崎ビル周辺一帯から、音が消えた。
小野英正管理官は慄然としながら、遠く、不気味に沈黙する呪われたビルを見つめていた。
有賀ミオを名乗る少女からの連絡はすぐ途絶えてしまった。三十分あったはずの時間はビル周辺に出現した新たな怪物たちへの対応に追われて消耗させられた。SATチームのビル内への突入はまだだ。だが、もう……。
「ムーサ・柴崎ビルの呪璧、消失」
ビルの呪力変化を観測していたB班のスタッフが、小さく言った。
「ビル外周、内部からの呪力、いずれも計測出来ません。計器はゼロCSを示しています」
CSというのは呪力量を示す単位だ。
「消失……? あれだけの呪力量が、一瞬で?」
「間違いありません。時刻が十三時三十五分になるのと同時に呪璧の消失を確認。ビル周辺に出現していた怪物たちの残骸も消えた模様です」
「それは……」
勝った、のか? 二人の退魔屋が。いや、違う。呪力は通常、対となる魔力をぶつけるか、浄力と呼ばれるまた別のエネルギーを与えなければ消滅しない。呪力はマイナスの力であり、世に蔓延るネガティブな感情に刺激され、この世に残留するエネルギーだ。一瞬で消え去る事などあり得ない。
「管理官、SATチームの突入準備が完了しました」
別のスタッフが報告する。
違和感が頭を支配する。音がしない。身近な人間の声は聞こえる。だが、ここは街の中だ。周辺の避難が完了しているとはいえ、この異様な静けさはあり得ない。
「……突入作戦は中止」
頭を働かせる。恐ろしい。抑えようにも恐怖が次々と湧いてくる。嫌な予感がする。
「ビル周辺の全班に通達。即刻退避。最終防衛ラインまで退避するんだ。今すぐに――」
風の音が聞こえる。自分は指示を出しているはずなのに、これではうわ言だ。ひどく、寒気がする。震えているのは体だろうか。それとも目に見えない小野自身の魂だろうか。時計を見る。十三時三十六分。
――――ぉぉおぉぉぉおぉ――――
「ビル内の呪力、急速上昇!」
観測スタッフが緊張した声を上げる。
「五千CS……七千CS……」
ビルの見た目が、霊感に乏しい小野でさえわかるほど異様に変化していた。空間が歪んでいる。暗紫色の空が見える。
何か、とてつもなく大きな力が蠢いている。
「いちまんにせんCS……いちまんごせんCS……」
――お母さん、助けて。
「異層転移……」
やっと、閃いたのはその言葉だ。小野は通信機のスイッチを押す。
「対呪術防衛! 加持祈禱班! 異層転移だ、急いで対呪術防衛を――」
風の音が、一層大きくなった。
爆発音のような音が聞こえたその瞬間、小野の体は幕屋から吹っ飛んでいた。周囲の景色は暗紫色一色となり、建物も人も何もかもが、水面に映った物体が波紋で歪むのと同じように、あるべき形を失いつつあった。
「あ……あ、あっ、が」
口がうまく動ない。正気を保つ事が出来ない。全てに見捨てられたような絶望がある――母に助けを乞うている――人間の価値の一切が否定される――どこにも逃げられない。
異層転移が始まる。
新たなる異界の誕生が始まる。
この土地が積み重ねた呪いが、呻き、ひしめき合っている。
今や暗紫色の巨大なトンネルとも、落とし穴ともいえる異空間と化したビル内の最奥から、新たな存在がその姿を見せている。数百年、もしかしたら、もっと以前からかもしれない。呪われた企てが齎した呪われた血の積み重ね。偶然か、運命か。育ちに育った祟りの地。
ネオデーモン。暗黒の儀式。その末裔。
七ツ森麻來鴉は槍を握り締め、異空間トンネルの向こうで待ち構える存在を睨み付ける。
「儀式は寿命を迎えた」
ガルタンダールが言った。
「外では今頃、異層転移が始まっているだろう。逃げるなら早くしたほうがいいんじゃないか。今回の儀式は時間軸に手を加えるのが目的だった。それが失敗した以上、積もりに積もった呪力が時間の流れを破壊するだろう。君らの手には負えない事象だ」
「……手はまだある」
冷静に、麻來鴉は言葉を返す。
「呪いの中心は、あいつだ。あのネオデーモンの中には、失敗した儀式の呪文書が残っているはずだ。それを消し去れば、この事態を止められる」
「……かもしれない、だろう? だいいち、いくら鴉の魔女でもあの規模の怪物を退治できるのかな?」
「わたしは一人じゃない」
麻來鴉は火保を見た。もう一人の退魔屋が翳りのない気力を秘めた目で麻來鴉に頷いた。
「火保、ドラゴンならあいつを焼き払える?」
「……最大火力でなら。でも少し準備がいる。それにネオデーモンの核を見定めないと。体を燃やし尽くしても、核を逃したら意味がない」
「あいつを構成する呪力を核が見えるくらい削らないと、か。オーケー。わたしが攻撃に出る。火保はその間に、ドラゴンを起こしておいて」
「麻來鴉、どうする気?」
「魔女の手札はいくらでもある。心配しないで。それから、先にその子を治してあげて。ここから出られても、呪い漬けになったままじゃ救われない」
火保は抱きかかえたままのマサキを見る。虚ろな表情のままの少年は、今、どんな暗闇を見ているのか。
「……わかった。少しだけ、あなたに任せる。麻來鴉」
「当然。わたしが倒しちゃってもいいんだから」
槍を握り直す。魔力が体の中で血流に乗って循環しながら、新たに生まれていくのがわかる。
「ガルタンダール。邪魔をするならお前もまとめて相手をしてやるけど?」
銀髪の怪物は可笑しそうに口元を歪める。
「君は本当に威勢がいいな。私は邪魔などせんよ。君たちがやれるというのなら、この儀式がどういう結末を迎えるか見ていたいからね。視界に入らないところで観戦させてもらうよ」
言いながら、ガルタンダールの体が、暗紫色の空間に掻き消える。もう、気配も感じない。
「手を出したいんだかオーディエンスでいたいんだかわからない奴ね。まあいいわ。じゃ火保、行ってくる」
「武運を」
火保の言葉に麻來鴉は槍を掲げて答え、歩くように、球体型の結界の外に出る。
残された火保はマサキの虚ろな目を見つめる。呪いが進行している。彼の魂を呪詛の中から引き揚げないと。
「マサキ君、ミオちゃんを思い出して。一緒に、あの子を探しに行かなくちゃ」
両手で少年の頬を包み、真言を唱える。
「ノウマクサンマンダ・バザラダン・カン――……」
魔力を身に纏わせれば、暗紫色の空間の中でも安定して飛べる。麻來鴉は先を急いだ。
近付けば近付くほど、暗黒の存在の巨大さを実感する。全長六十メートルといったところだろうか。呪力の塊でありながら、底知れぬ気配を纏わせるその威容。上半身は悪魔バフォメットのようだが、その体は途中から闇に収まっている。恐らくあの闇の中にほかの呪いが詰まっているのだろう。麻來鴉の思索をよそに、ネオデーモンは眠っているかのように、項垂れたまま動こうとしない。
「……やあ」
接近し過ぎない程度の距離で、麻來鴉は足を止め、声を掛ける。
「どんだけ呪いを食ったか知らないけど、あんたを消しに来た。悪く思わないでね」
ネオデーモンは答えない。動こうともしない。
ただ、巨大な呪力が存在しているのがわかる。
「聞こえているかどうかわからないけど、返事しなくても始めるよ。時間がないんだ」
ネオデーモンの体が飛び出している闇の中から、微かに音がした。
額の五芒星が、静かに光る。巨大なヤギの頭が動き、無表情の目が麻來鴉を見た。
「――
知らない発音と、言葉の意味が同時に耳と脳に届く。呪力による身体への干渉。麻來鴉は素早く槍を構える。
「
胸中に一瞬だけ同情が浮かぶが、すぐに押し殺す。
「……不幸だったとは思うよ」
魔力を増幅させる。五芒星の周囲に九つのルーン文字を念写し始める。一気に決める。呪いの集合体といえど、迷える獣の魂がまだ表層にあるのなら。
「
巨獣の両の
巨大な姿が、麻來鴉の眼前から消える。一瞬だった。気配を探る。その場を離れる。どこだ。わかる。呪力の塊が動いている。
後ろ――……
猛獣の唸り声とともに、巨大な拳が背後から迫っていた。咄嗟に魔力を込めた槍を構え、その強力な一撃を受け止める。耐え切れない。槍は壊れないが、衝撃を殺せないまま、麻來鴉の体は吹っ飛ぶ。まだまだだ。魔力を操作し、空中で体勢を立て直す。
「
ネオデーモンの右手の指が、麻來鴉を指差す。次いで、空間を構成する暗紫色の壁がドロドロと溶け出した。大量の粘液が、次々と襲い掛かってくる。
「っ、
溶解の呪術。これは悪魔バフォメットの力だ。ヤギの頭を持つ悪魔。サバトの主。おそらく、過去にこの地で召喚された事があるのだろう。今回の儀式の供物がヤギだったのも、あるいはこの融合を見越しての事か。
「
ネオデーモンの左腕が動いた。暗紫の粘液がドーム状に麻來鴉を覆い始め、固まっていく。閉じ込められる。
「
三つのルーン・ストーンを放り、指を鳴らす。
「
粘液の壁が、音を立てて割れる。
崩壊した粘液の壁の破片が、ミサイルのように次々と麻來鴉を狙ってくる。魔力を込めた槍でその一つを打ち払い、雷でさらにもう一つを破砕する。躱す。駄目だ、数が多過ぎる!
「
暗紫色の液体が、どこからともなく洪水となって押し寄せてきた。巨大な呪いの波濤。飲み込まれる。
「
騎乗のルーンを三重に掛ける。指を鳴らす。超高速の動きで波濤を切り払い、ネオデーモンとの距離を詰める。
「
槍の刃を三つのルーンでコーティングし、光の一閃をネオデーモンの顔面に食らわせる。まだだ。畳み掛ける!
「
五芒星に
骨と肉とが組変わるような、異様な物音を立てて、ネオデーモンの体が変化する。ネオデーモンの半身が伸びて、闇の中から一つ目の白い巨人が姿を現す。
「ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ」
巨人の、不快な笑い声。次いで、不気味な歌を歌う。
「
奇怪な言語とともに歌われる歌。異様な音が脳に流れ込む。
次の瞬間、麻來鴉は自身が落下している事に気が付いた。
(魔力が消えた!?)
身に纏っていた魔力はおろか、掛けていたルーン文字さえ消えている。すぐに魔力を練ろうとした麻來鴉を、両サイドから迫って来た巨大な手が襲った。全身の骨が砕けるほどの衝撃。まるで蚊のように、巨大な悪魔の両手で叩かれたのだ。
「がっ――」
血が、体の底から溢れて喉から飛び出す。落下していく体。だが、魔力はまだ残っている。僅かな魔力を再び体に纏わせる。
チン、と。
電子音が聞こえた。
「十三階――」
白い巨人の体から、寝そべるようにエレベーターガールの体が伸びていた。
「断頭台売り場でございます」
刃が、降ってくる。いくつもの断頭台の刃が、降ってくる。死に物狂いで魔力をかき集め、槍で上からの刃を破壊する。急いで回避行動。刃の雨を抜ける。
「
刃が、溶ける。液体と化した刃がすかさず麻來鴉の後を追ってくる。
「ぐ、ぅう……っ、
守護のルーン・ストーンを投げる。指を鳴らした直後に液状刃の津波が麻來鴉を呑み込む。全ては守り切れない。体のいたるところが、瞬く間に切り裂かれる。
「はあ、はあ……」
自身の血で、シャツもマントも汚れている。魔力を張り巡らせているが、全身が痛みで絶叫を上げている。身に纏わせた魔力も、もうすぐ切れる。
死――
「ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ」
白い巨人が麻來鴉を嘲笑う。白い巨人の肩からはバフォメットの肉体が伸びている。すすり泣くような、獣の声が聞こえる。
――強大な怪物。幾多の呪いを持ち、人間の知識では及びもしない力を振るう。つい先ほどまで、この世に存在しなかった悪魔。
まさしく、
――勝てない。このままでは。人間のままでは――
「
ドロドロの暗紫の粘液が再びドームを作り始める。だが、血を失い過ぎている。動けない。すぐには。ドームが作り上げられていく。視界が閉ざされていく。闇に閉じ込められる。ならば――
「
呪文を唱える。相手は、人の身たる麻來鴉では敵わぬ相手だ。
だから――力を借りる。
「第七階梯、七ツ森麻來鴉が勧請す。
門が、開く。時間を越え、空間を越え、神域の門が開く。
マントの下のルーン・ストーンが次々と飛び出す。刻まれた文字の一つ一つが金色に染まっていく。麻來鴉の体には、同じく二十九のルーンが封印されており、ルーン・ストーンの文字と黄金の光で結びついていく。
力を感じる。神域の門からやってきた力が、麻來鴉の体を満たす。血の汚れは消え、砕けた骨も裂けた傷も、次々と癒される。
「
暗紫色のドームが、完成間近で崩れ落ち始める。だが、金色の魔力を纏い始めた麻來鴉の体には、もはや触れる事も出来ない。破片は麻來鴉に到達する直前に、粉となって破砕される。
「我、汝の名において敵を撃ち滅ぼさん。
ターコイズブルーの両目が、黄金色に変わる。
主神の力を受けた魔力が、呪われた空間に風を起こす。全身が、黄金に輝いている。知恵を授ける帽子も、呪いを撥ね退けるマントも、魔力を宿した黒髪でさえも。
主神オーディンと繋がる事で、神の力をその身に降ろし、勝利を掴むために我が身を戦神の化身とする。
「続けよう。ネオデーモン」
槍を振るう。黄金の魔力が波動となって、残った破片を吹き飛ばす。
「塵に
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