『闇霧』18


     18


 天窓から青白い光が降り注いでいる。

 エレベーター内は地鳴りが響いていたというのに、この部屋は未だに静謐を保っている。無祝が足を踏み出し、マサキが続く。鎖に引っ張られて、火保もエレベーターを出る。少し間を置いて、エレベーターガールが出た。

 無限の夜の部屋。

 その天窓の真下に、アンティークの椅子に腰掛けた男が座っている。両手の指を合わせ、静かに目を閉じている。

 その手前に、大きな氷の塊が浮いていた。ただの氷じゃない。どこから持ってきたのか知らないが、高純度の魔力を固めたうえに、いくつもの魔術が織り込まれている。

 氷の中には、人影があった。黒いとんがり帽に、黒マント。

「麻來鴉!」

 思わず、驚きが声に出る。だが、手首が鎖で無祝と繋がれているために、駆け寄る事は出来ない。

「ようやくご到着か。二人ともこのビルに集まった呪いに苦戦したと見える」

「ミスター・ガルタンダール、これもあなたの趣向か?」

 少々苛立ったように、無祝が言った。

「こんな部屋があるとは聞いていない。それにその魔女はどういう事だ?」

「チェスで少々やり過ぎただけだ。儀式の寿命まであと七分。余計な問答をしている暇はないぞ。お前にその氷が砕けるなら、魔女はお前にくれてやろう」

 ガルタンダールの目が、鎖に繋がれた火保に向けられた。

「そちらの退魔屋はリタイアかな?」

「……どうとうでも」

 今は最善の一手を探すのが先だ。火保はもう一度、麻來鴉が中に入った氷を観察する。魔術で造られた氷。ガルタンダールの仕業ではないだろう。麻來鴉だ。おそらく、自分で自分を封印している。

 あと七分。それまでに麻來鴉が生贄となれば儀式は成功。時間逆行が起きる。逆にタイムリミットを過ぎて麻來鴉が生きていれば儀式は失敗。このビルを中心に、新たな異界が誕生する。

 どちらもごめんだが、七分後には二つに一つだ。

「手をこまねている暇はないな」

 無祝の腕が動いた。無祝と火保、お互いの手首を結び付けていた鎖の片側が外れ、目にも止まらぬスピードで火保の両手首に巻き付く。

「貴様っ!」

「ミオ、そこで見ているんだ。もうすぐ全てを終わらせてやる」

 鎖がじゃらじゃらと不快な音を立てる。無祝の呪力が高まっていく。呪力の込められた一撃が麻來鴉を閉じ込めた氷に叩きつけられる。あんな攻撃で破れるとは思わないが、時間がない。この手の拘束を解いて、何とか麻來鴉を解放しなければ……。

(――三秒後に拘束を解く)

 不意に、頭の中に、声が飛び込んでくる。ドラゴンの声じゃない。

 この声は――……

(封印解除は任せる。あんまりたないから、よろしく)

「麻――」

 歪な金属音を立てて、火保の両手を縛っていた鎖が両断される。手のすぐ近くで、砂浜で落としたはずのアーミーナイフが、目に見えない保持力を失って、再び落下しようとしていた。床に落ちる前に、柄を掴む。

 即座に、火保は氷に向かって走った。

 鎖の張りが失われた事に気が付いた無祝が、すぐさま動いた。鎖のうねる気配。追ってくる。

「ミオ! 余計な事はするな!」

 呪力を伴う鎖が絡み付こうとするのを、アーミーナイフで打ち払う。氷はすぐそこだ。だが、火保のすぐ脇を無祝が抜ける。ナイフを投げつけ、無祝の腕がそれを弾く。すかさず、護符グローブを付けた拳を見舞う。気配がする。強い魔力を感じる。よく知っている。この魔力の波形。来る――

 閃光が走った。ターコイズブルーの輝きが無祝を襲う。魔女の姿をかたどった魔力の塊が、手に持った槍で間断なく無祝に攻撃を続ける。

(火保! 早く!)

 頭の中に麻來鴉の声が響く。火保は頷き、氷の元へと向かった。魔力によって造り上げられた氷塊は、よく見れば魔術を構成する呪文がいくつも見える。

「自己封印術。これなら――」

 解除には供物が必要だ。魔術的な供物が。バックパックから簡易儀式キットを取り出し、二十秒で組み上げる。このキットは洋の東西を問わず簡易な術を行えるものだ。床に台座、その上に皿を置き、台座の嵌め込み穴に木製の棒を差す。これを小さな神殿と見立て、術を行う。

「……ノルニル……ヴェルダンディ」

 氷に中に浮かぶ呪文を読み取る。北欧神話に伝わる女神たちノルニルの一柱、ヴェルダンディ。この女神の魔術を読み取り、掛けられた呪文を解除する必要がある。

 残り時間は、あと六分を切っている。

「まずは……火か」

 魔術は火保が普段使う術の系統ではない。が、心得はある。火保は合掌し、炎を呼び起こす呪文を唱え始める。

「やめろ、ミオ! ここで魔女を殺すしかないんだ!」

 鎖の一撃が背後に迫る。ガン! と甲高い音。魔力で作り出した麻來鴉の分身が、彼女の槍である大鴉の槍を使って、無祝の鎖を弾き飛ばす。

(急いで! 分身が安定しない!)

「わかってる!」

 魔術で生まれた炎が、小神殿の皿の上でおこっている。それを掬い取り、氷の中に投入する。氷の中で呪文が目まぐるしく行き来し、封印術式の第一関門が解除される。次は風のエレメントだ。呪文を変え、合掌から右手を上、左手を下に魔力で風を造り出す。

「――地下――階――地下――階」

 エレベーターガールが何度も同じ言葉を繰り返している。

 無限の夜の部屋が、揺れた。周囲を構成するエネルギーが、ほどけ始めている。エネルギーが流動している。この部屋も、異層転移が始まったのだろう。

 鎖と槍の打ち合いを続けていた無祝は、いったん分身から距離を取った。さらなる鎖を伸ばし、低く構える。

「……そういえば、一つ聞きたかったんだが」

 真夜中に鳴る鐘のような、不気味な声。

「そもそも、君が呼び出したのは本当にクラゲの怪物だったのかい。無祝よ」

 無祝が、動きを止めた。

 虚無を見つめていたマサキの目が、僅かに動いた。

「一体、こんな時に何を。ミスター・ガルタンダール」

 無祝が、戸惑った声で言った。

「今そんな事を聞く必要があるか。早くしないと儀式が」

「それはそうだが、このビルでは呪いから逃れる事は出来ない。何人なんぴとも。ましてや、呪いを利用した二人など」

 えづくような声が聞こえた。風のエレメントを氷に入れた火保は、思わず振り返った。

「おっ――え――あ――」

 エレベーターガールがうずくまっていた。体を小刻みに震えさせ、何かを吐き出そうとしている。

 何かが、まずい。この期に及んで、まだ何かが起きようとしている。

「早くしないと」

 手早く水の魔術に移行する。皿の外縁を上からなぞるように二本の指で右回り、次に左回り。急げ、急げ、急げ――

「オレが……呼んだのは……」

 無祝の手が、完全に止まる。呪力の気配が強くなっているが、これは無祝のものじゃない。崩壊する部屋のエネルギーを取り込みんでいる奴がいる。エレベーターガールだ。

「おっ――え――地下――ェZ傴ム階――臥嘸――v階」

 床の感触が変わった。固いコンクリートに。目をやれば、砂浜が見える。波の音が聞こえる。

 無限の夜の部屋が、過去の情景に変わりつつある。

「そもそもお前がこんな状況に陥ったのは、この砂浜で起きた事が原因だ。お前は怪物を呼び出したつもりでいたようだが……」

 ガルタンダールが、コンクリートに描かれた魔法陣を見る。

「これは死者を呼び出す魔法陣ではないのかい? 有賀正城君?」

 グロテスクな、水音がした。

 エレベーターガールの体を裂いて、何者かが飛び出していた。

 白い衣服に、真っ白い髪の女性。ワンピースのような服を着ているが、よく見れば触手のように長いぶよぶよとした物が生えている。真っ二つに裂けて、黒い液体を溢れさせたエレベーターガールの体から這い出し、女性は無祝の足を掴む。

(火保!)

 麻來鴉の声に、気を取られていた火保は、ふと我に返る。皿の中に水が出来ていた。水のエレメントだ。素早く、氷に振りかける。第三関門が解除される。残るは地のエレメント。音を立てて皿に罅が入る。簡易儀式キットも限界だ。火保は最後の呪文を唱え始める。時間はあと、二分もないだろう。

「……あ、ぁあ」

 無祝の顔を、白い女性の濡れた手が掴んでいた。長く波打った白髪に隠されて、女性の顔は見えない。

「あぁ……そうだ。そうだった」

 無祝が、うわ言のように言った。

 火保の頭に、記憶が流れ込んでくる。呪いに晒されているせいだ。他人の記憶。これは無祝の記憶。海に入っていく女性が見える――幻視だ。子どもながらに研ぎ澄まされた霊感が見せたのだ――だから、魔法陣を描かねばならない。チョークで固いコンクリートに描いていく――呪文を唱える。一心に。失ってしまったものを取り戻そうとして――そうして、海から真っ白い女性が上がってくる。ドレスのような触手を纏った、女性が――そこに妹が、ミオがやってくる――女性の、手が――……

「……あなたがミオを攫ってしまったんだ。母さん」

 無祝がそう言った瞬間、時を告げる鐘の音が鳴り響いた。

 無限の夜の部屋が崩壊する。押し寄せてくる波が見えた。咄嗟に、火保は振り返り、マサキの元へと駆ける。小さな体を抱き上げたその瞬間、大量の海水が火保たちを押し流す。

 ムーサ・柴崎ビル。フロアごとに閉じ込められた各階の呪力が、今一つになろうとしていた。ビルの中は、もはや中身というものはなく、暗い紫色の闇がどこまでも続き、生き物の体内のように律動を刻む、完全な異界へと変貌していた。マサキを抱えた火保は、暗紫の闇の中を漂っていた。重力が感じられない。が、闇の奥へ引き寄せられる感覚がある。風が唸るような音が続いている。火保はマサキを抱えたまま、同じように漂っていた氷の塊へとたどり着いた。簡易儀式キットはすでにない。だが、あと地のエレメントを供物として捧げ、女神に魔女の解放をわなければならない。

 マサキは、今や完全に正気を失っている。闇の中を漂い続けながら、火保は氷に手を当てて呪文を唱え続ける。魔力で作り出した僅かな土が、手から出現し、氷の中に入る。

「ノルニル、三女神よ。我が友を解き放ってほしい。戦いが待っている。最後の戦いが」

 氷の中で、呪文が動き続けている。だが、魔女が解放される気配はない。

「ノルニル! ヴェルダンディよ! 重ねて請う!」

(大丈夫)

 すぐ横に、槍を持った麻來鴉の魔力分身が現れる。瞳のない分身の顔が、笑っているように見える。分身が、その形状を失い、氷の中に溶けていく。

 氷の中で呪文が一層激しく動き、一瞬の間を置いて砕け散る。

「――ふう」

 黒マントが翻り、大鴉の槍を少女の手が掴み取る。

「ありがとう、火保。助かった」

 黒いとんがり帽の位置を直しながら、麻來鴉が火保の顔を見て言った。

「どういたしまして、麻來鴉。調子はどう?」

「頭はこんがらがっているけど、体は平気。まずは結界を作らないとね」

 言うや、麻來鴉は空中に指でいくつかの文字を描く。

守れエオ存続せよフェオ定めよイアル!」

 指を鳴らす。三つのルーンが魔力の球体を造り出し、火保とマサキ、麻來鴉を包み込んだ。闇は依然として三人を引き寄せているが、体は球体の中で安定し、少なくともこれで不安定に漂う事はない。

「さて……」

 麻來鴉が呟く。

 少し離れたところ、闇の奥に近いところに、白い女性を伴った無祝がいた。

「オレは……助けようとしたんだ」

 ぼそりと、呆然とした無祝が言った。

「母さんを……戻そうとしたんだ。でも……母さんはもう。なあ、お前にも見えただろう? オレたちは過信したんじゃない。お前は過信したんじゃない。オレたちは――」

 無祝の目は、マサキを見つめている。いつの間にか、青白い幽霊たちが闇の中に浮かんでいた。ピンク色の制服を着たエレベーターガールが、その中に混じっている。

「お母さん、助けて」

「お母さん、助けて」

 青白い幽霊たちが口々に言う。エレベーターガールもあの不可解な笑顔を見せながら同じ事を言う。

「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」「お母さん、助けて」

「オレたちは――」

 エコーのように響き続ける幽霊たちの言葉の中で、無祝は言った。

「オレたちは、助けようとしたんだ。母さんを」

 火保の目に、白い女性の顔が、見えた。長く、波打った髪の中から、獣の目が覗いていた。額に五芒星の描かれた、真っ白い山羊。

「あれは……!」

 火保が声を上げた瞬間、白い女性の姿がふっと消えた。

 ――――ぉぉおぉぉぉおぉ――――

 風鳴りのような声が聞こえる。

「全てを溶かし、固めてくださる」

 エレベーターガールの声がする。

「あの方が、降りていらっしゃいます」

 闇の奥から何者かがこちらに向かっていた。もの凄いスピードで。地響きをのような音を立てながら。巨大な影が現れ、大きな口を開ける。そのすぐ傍に、無祝がいる。

「マサキ――」

 無祝が何かを言いかけたその瞬間、巨大な影の顎が無祝の体に喰らいついた。骨が砕け、肉の裂ける嫌な音がした。

 闇の奥から上半身だけを乗り出した巨大な影には翼があり、腕があった。青白い幽霊たちがその体に次々と吸い寄せられていく。エレベーターガールも自ら、巨身の中へと身を投げ出した。

 巨大な影が、顔を上げる。

 面長のその頭は、真っ白い山羊のものだ。黒く、邪悪な気配を纏った二枚の翼を広げ、両腕には、それぞれ文字が書いてある。右腕には、『Solve溶解』、左腕には『Coagula凝固』。

 とてつもない呪力の量だ。あの巨体を造り出す全てが呪力だ。一体、いくつの呪いを取り込んだというのか。

「儀式のトリガーとなった山羊が、怪物となったのか」

 麻來鴉が、槍を構えた。

「あの姿……まさか、バフォメットか?」

 魔女は少しばかり驚いたような声を上げる。

「……いいえ、違う。それだけじゃない」

「その通り」

 火保が麻來鴉に答えを返した瞬間、ガルタンダールの声が響いた。気が付けば、すぐそばに惑乱の王子の姿があった。

「あれは、この儀式のために犠牲になった獣の魂が、ビル中の呪いを区別なく取り込み、巨大化したもの。バフォメットは古い召喚陣をベースに顕現した部位に過ぎない。今の奴はこの儀式の中心、失敗した儀式を食らい無限に成長する新たなる悪魔――」

 山羊の頭が、吠える。隠された半身が、闇の奥で蠢いている。

「《ネオデーモン》、だ」

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