『闇霧』17


      17


 儀式の終わりが近付いている。

 闇霧の一族、ガルタンダールは無限の夜の部屋で、静かに、その時が来るのを待っている。

 ローテーブルを挟んだ対面の席の上には、大きな氷の塊がある。魔女、七ツ森麻來鴉は自らを氷の中に封印した。見たところは防衛魔術だが、封印の解き方は不明だ。強引に破壊する事も出来るが、その結果、何らかの罰則を被って魔女が使い物にならなくなる可能性がある。せっかく手に入れた逸材を台無しにしたくはない。

「待つさ。いくらでも」

 仮に封印が解ければ、数多の並行世界に存在する、無数のチェス盤面情報を流し込んで彼女の意識を奪う事は出来る。どうとでもなるのだ。

 それより、今、気にするべきは――……

「祝福を失った男よ。もう残り時間は少ない。魔女を贄とし、運命を変える事が、お前に出来るか……?」



 周囲の様子が変化し始めている。

 見渡す限りの不穏な砂浜が、ざわめている。幻聴でなければ、草の擦れ合うような音が聞こえる。海からは波が消え、巨大な水たまりとなっていた。

 破壊されたエレベーターの扉が見える。青白い幽霊たちが無理矢理扉をこじ開けて、鎖を下ろしていた。

「何をするつもり?」

 火保は無祝に問うた。

 呪術師は腕の包帯を変じさせた鎖を伸ばしながら、何かの呪文をぶつぶつと唱えていたが、火保の問い掛けに詠唱を止めた。

「儀式の寿命が迫っている。魔女を追わなければ」

「……だったら、ここで何をしている?」

「マスターキーを引っ張り上げている」

 声音が変わらないまま、無祝は答えた。

「オレの長い旅がもうすぐ終わる。魔女を殺して生贄に捧げれば、儀式は死なず、完成する。お前を救えるんだ、ミオ」

「私はお前の妹じゃない。麻來鴉も、絶対に殺させはしない」

 右手に握ったグロックには、まだ弾が残っている。さらに、ホルスターには、もう一挺のグロックもある。だが、この男の呪力はさっきから増える一方だ。機会を待たなければ。この男を仕留めるために、千載一遇のチャンスに賭けなければ……。

「儀式が完成すれば時間の概念は消える。お友達の魔女の事さえ、どうでも良くなる」

 無祝が火保を見る。狂気めいた思想に身を捧げた男の顔。

 兄の面影など、とうてい見出せない。

「手短に、聞かせてやろう。この歪んだ運命の始まり、そしてミスター・ガルタンダールが約束してくれた、儀式成功の報酬を、な――……」



 ――ミオがクラゲに攫われてから、家族は散り散りになっていった。少年だった無祝は叔父の呪術師に連れ去られ、山奥で強制的に弟子入りさせられた。

 無祝という名は、弟子入りしてからすぐに名付けられたものだ。生まれた時に付けられた真の名は叔父によって封印され、彼は呪術師の弟子、無祝となった。

 修行は過酷を極め、呪われた力を洗練させるために無祝は何度も狂気の世界に投げ込まれた。山奥の庵には叔父が収集した呪具があり、呪具を通して暗黒の存在に触れる事で、無祝の正気は破壊され、呪術師として組み替えられていった。

 ミオを取り返さなければならない。無祝の頭にあったのは、それだけだ。何度、呪われた存在によって脳や心を蹂躙されようとも、その思いだけは決して消える事はなかった。

 呪縛。まさしく呪われた縛りだ。無祝の呪術が鎖を使うようになったのは必然だろう。力によって過ちを犯し、力が人生を縛り上げ、暗黒の運命と結び付ける。

 ミオを取り返さなければならない。そうすることで、己の人生も取り戻せる。

 十五の時、無祝は叔父を呪殺して庵を出た。真の名に関連する記憶は術者が死んだために封印が解かれた。いくつかの呪具はその際に持ち出して、呪術師としての仕事に役立てたり、金に換えたりした。

 呪術師として裏社会で働きながら、無祝はミオを取り戻すための方法を探っていた。

 時間に関する呪具で、初めて手に入れたのは小箱だった。石を加工して作られたもので、中にビー玉のような水晶球が入っている。同じく呪術師だった老婆を殺して奪ったものだ。

 死ぬ前に老婆から使い方を聞き出した。曰く、大量の生贄を捧げる事で運命を操り、使用者の過去から未来まで、あらゆる事象を幸福なものに変えるという。

 準備を整え、無祝は呪具を使用した。二〇二二年六月十日の事だ。

一度に大量の人間を殺すため、効率を考えて毒を使う怪物を召喚した。カトブレパス。ギリシャに伝わる醜い毒牛。円柱型のビルの中で、カトブレパスの毒煙を吸い込み大勢の人間が次々と死亡した。

 結論から言えば、数百名程度を殺戮したところで人一人を幸福にするような、そんな都合のいいものは存在しなかった。死の気配に応じて、呪具が起動した瞬間、無祝の体と魂は時空を越え、宇宙を越えた。転移の瞬間、別の人間が召喚されたのが見えた。知っている顔。無祝自身にそっくりな顔の男。

 箱から水晶球が弾き出され、宇宙と宇宙の狭間のような空間から、無祝は街の中に放り出された。

 日本だ。ひと目でわかる。渋谷スクランブル交差点。

 だが、何か変だ。大型ビジョンに流れる文字、人々の顔つき。交わされる言葉。全てに違和感がある。

「※ヵ淪蚓ェ§←」

 誰かと肩がぶつかる。日本語に似ているが知らない言葉で、無祝は罵られ、睨まれる。

 知らない言葉。知らない人間。

 別の世界だ。飛ばされたのだ。


 二度目の儀式で使ったのは、不完全な呪文の巻き物だった。詠唱すべき呪文の後半が何者かによって食い千切られていたため、前半部分を読み込んで、これまでの呪術知識から後半部分を創作した。やはり、同じ円柱型のビルがあったので実行場所も同じとし、今回はビル内の人間全てを殺し合わせる事で呪力を増大させた。

 計算は完璧だった。前半部分は知らない言語だったとはいえ、書いてある意味は読み解いた。そのうえで、必要な文言を盛り込んだのだ。だが、呪文を詠唱し終えた瞬間、無祝はまたも宇宙と宇宙の狭間に放り出された。前と同じだった。転移の瞬間、驚いた顔をしたもう一人の自分と目が合った。


 次の世界では、到着時の時間が違っていた。二〇二〇年の冬。一番初めに儀式を実行した時は二〇二二年の六月だったので、二年も遡った時間に飛ばされた事になる。場所も東北地方らしいどこかの田んぼだった。無祝は手始めに近くの民家に押し入り、この世界についての情報を集めた。

 三度目の儀式は実行までに二年かかった。今度の呪具は彫像だった。トラックに積み込み、ビルの内部に突っ込んだあと儀式を実行した。今度はビル内の人間全てを刃物で殺す事が条件だったので、時間も体力も使った。五百数名の血を吸った刃物を彫像に突き立てた瞬間、転移は起こった。宇宙の狭間に飛ばされる瞬間、何かを諦めたようなもう一人の自分の姿を見たのを覚えている。


 十三度目の儀式をやる前に、全く別の手段を取ろうとしたが、

危うく命を落としかけたので、やむなくこれまでと同じようなシチュエーションで儀式を実行。呪具は死体に詰めた宝石だった。死体を一か所に集める必要があったので、牛鬼を召喚しビル内の人間を食わせた。


 二九度目の儀式では獣の頭骨を使った。この世界で、ようやく無祝は儀式の前にもう一人の自分と出くわした。呪術師ではなく魔術師をやっていたこの世界の自分と儀式を最後まで進めて、それから殺した。すぐに別の世界に飛ぶ。新たな、自分と同じ姿の人間が送られてくるのを見た。


 五七回目の儀式では条件に従い、自身を菌類の苗床にした。自我を失いかけたところで転移が始まる。この頃から、自分に青白い幽霊がつきまとっているのを知った。


 一六五回目の儀式の時は、戦争が起きていた。おまけにビルは五〇階以上あった。終了までに四日かかり、最後は屋上から身を投げ出したが死の瞬間に転移した。この世界では死者を甦らせる儀式も試したが失敗した。邪視と呼ばれる一つ目の白い巨人を召喚したが制御出来ず、カトブレパスと牛鬼をも呼び出し、駆除させた。


 三三一回目。両親が生きていた。儀式に協力してもらおうとしたが、父には抵抗されたので殺害。母は脅して協力させ、最後には生贄にした。


 四七五回目。儀式の条件によりビルを全焼させたが結果は変わらない。


 ガルタンダールと出会ったのは、この世界に飛ばされてきてから三日後の事だった。霊園の近くを歩いていたところを、急に呼び止められたのだ。

「何回目だ?」

 挨拶もなしに、ガルタンダールはそう言った。

「この世界は何回目の別世界だと聞いたんだ」

 銀髪の、底知れない雰囲気の男は淡々と続けた。

「……五二七回目」

 ガルタンダールは鷹揚に頷いた。

「興味深い」

 近くの喫茶店でこれまでの話をした。ガルタンダールは窓際の席で両手の指を合わせたまま、黙って無祝の話を聞いた。

「なるほど。つまり君は柴崎ビルでの儀式を行うごとに別の世界へ移動するわけか。トリガーとなったのは最初の世界での儀式だろうが、因果律の収束によって君の望んだ結果は現れず、最後には必ず別世界に飛ばされている、と」

 人形のような目で、ガルタンダールは虚空を見つめた。

 喫茶店の別の窓から、外の様子が見えた。

 子どもが横断歩道でふざけている。白線から白線へと飛び移る遊びだ。青信号が点滅しだしたので、母親が早く渡るように怒鳴っている。

「パラレルワールドの移動者か。君の存在を感知した時は驚いた。異界からの移動とはまた違うエネルギーだったからね。調査を開始してから初めてだよ。君のような人間に会うのは」

 手を貸そう、とガルタンダールは言った。

「今回の呪文書は私が用意しよう。君も数多くの世界を見ただろうが、この世界の魔術や呪術は強力だ。今度こそ本当に、過去を修正出来るかもしれんよ」

 闇霧の一族と名乗る男が言う。逆光で影の落ちたその表情を見る事は出来ない。

「有賀正城まさき君。一緒に、運命を変えようじゃないか」



 強く風が吹いてきた。地響きがする。砂が舞い上がる。海の水が次々と円錐状に上へ上へと吸い込まれていく。

 エレベーターの中に下ろされていた鎖が、青白い幽霊たちの手によって引き上げられている。鎖を引く引手の中には、マサキの姿もある。

「ミスター・ガルタンダールが用意したクロノスの呪文書は時間神の呪術。オレと同じく、運命の修正を望んだ者たちが造り出した。生贄を捧げ幾度も呪いを繰り返す事で時間逆行を実現する」

 火保は黙って、スマートフォンの画面を点灯させる。十三時二十五分。

「口上はいいが、あと十分だ。私もお前も麻來鴉をまだ見つけられていない。マスターキーだか何だか知らないけど、このままだと儀式は完成しないぞ」

「いやいや。もうすぐだ、妹よ」

 無祝はそう言うと、鎖が巻き付いた腕を強く引いた。

 幽霊たちが引き上げていた鎖が瞬く間に引き戻される。その先端に、何か、黒いボールのようなものが付いていた。

 頭だ。人の、頭。

「オレたちは兄妹。考える事は似ているな?」

 引き戻された鎖に絡まって、焼け焦げたエレベーターガールの生首が、ボールのように無祝の手に収まった。

「……そんなもの、どうするつもり? そいつの呪術規格プロトコルはすでに燃えた。その生首にはもう何の力も残っていない」

「直せばいい。オレの話を聞いていただろう。頭がおかしくなってしまうくらいには、オレは呪術を繰り返したんだ」

 青白い幽霊たちが次々と無祝の中に入っていく。無数の手がエレベーターガールの生首に触れる。解析している。それから組み立て直している。

「案内人よ。再びエレベーターを動かせ。魔女の元に案内しろ」

 呪力が生首に戻っていく。エレベーターの壊れた扉が吹っ飛び、新しい扉が生えてくる。

「行くぞ」

 無祝の鎖に引っ張られ、火保はその後に続く。

 無祝が、エレベーターガールの生首を放り投げると、生首から下の体が瞬時に生えた。ピンク色の制服は、真っ黒に塗り替えられていて、エレベーターガールの顔も幽鬼のように白い。

「ア……ア……ア……」

 エレベーターの扉が開く。最初にエレベーターガールが乗り込み、次いで無祝、マサキが乗り込む。

 制限時間まであと十分を切った。今はこのまま、麻來鴉の元まで行くしかない。

(――)

 足を踏み出そうとした瞬間、何か、微かな声が聞こえた。

 何故だか、懐かしさが込み上げる。

 反射的に振り返った火保は、向こうから飛んできたバックパックを受け止める。そういえば、いつの間にか体から離していた。気を失った時に無祝がどこかに捨てたのだろう。

 対呪術の加工がしてあるとはいえ、言ってしまえばただのバックパックだ。手元に戻るような仕掛けはしていないはずだが……。

「芸達者だな。早く乗ってくれ。時間がない」

 無祝は気にした様子もなく言う。

 火保は何も言わず、バックパックを背負うと黙ってエレベーターに乗り込んだ。無祝にしてみれば勝利が確定しているようなものだ。今さらバックパックが戻ろうが関係ないのだろう。

 一拍間を置いて、エレベーターの扉が閉まる。

 エレベーターが動き出した。下へ。下へ。下降すればするほど、エレベーターの箱は揺れ、地鳴りのような音が聞こえてくる。呪力が強く、大きくなっていく。

 儀式の終わりが近付いている。

 チン、と。律儀にも電子音が鳴った。

「地――下――ェZ傴ム階」

 エレベーターガールが雑音のような声で言った。

「無限の夜の部屋でございます」

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