『闇霧』16


      16


 ――時間は少し前に遡る。十一時四十五分。フルコースの四品目が下げられ、テーブルから、突然異様な力で、無理矢理引き離された時の事。

 有賀ミオは暗闇の中で意識を取り戻した。頭はどんよりとして重たく、世界の全てが自分に呪詛を吐きかけているかのような気分だった。体に力が入らない。予感がする。もうすぐ、肉体と魂が分離させられてしまう……。

「あんた……あんたが……」

 声が聞こえる。

 不思議な事だが、暗闇の中に人の姿が見えた。寝間着のような格好の、ぼさぼさの長い髪をした女の人。

「何で……鬼なんか見るの……あたし、普通に育てた……もう関係ない……あたしのせいじゃない……あたしは呪われていない」

 ガン、ガン、と。女の人は柄の長いハンマーの頭のほうを、何度も何度も床にぶつけている。ケガレがまとわりつく今の状態でも、ミオは彼女がこの世のものではない事を見て取った。

「あんたぁっ! 何で鬼を見るの! そういうの終わらせたじゃない! 縁を切って終わらせたじゃない! 何で、何でぇっ!」

 女の傍に、誰かが立っていた。淡いピンク色の制服を着た女。エレベーターガール。

「二十七階。地獄入り口でございます。お母さんはどうしてわたくしを捨てたのでしょうか。それはわたくしが鬼を見る子どもだったからです。鬼は見えるものなのです。いないと信じるのは愚かなのです」

 ぼさぼさの髪の女はうずくまって泣いていた。エレベーターガールは、これまでとは違う顔をしている。あの薄気味悪い笑顔ではなく、どこか遠くを見るような顔。

「この世界は一つではなく、縦横たてよこなな上下うえした無尽むじんに広がっているのです。世界は一つではないのです。ありとあらゆる別々の世界が存在するのです」

 床一面が、真っ赤な光に包まれる。真っ黒な床の上に、血管のように走る無数の線が現れた。無数の分岐が存在し、無数の合流点が存在する線の数々。それらは無限に広がる床の上に描かれ、どこまでも果てしなく終わりがない。

 赤は、呪いの色である。

「お兄ちゃん……?」

 エレベーターガールの隣に、座り込んだ兄の姿があった。両腕には包帯が巻かれ、その包帯は、途中から鎖へと変じている。

「お兄ちゃん!」

 兄、マサキの顔は虚ろだ。完全にケガレが体を侵食している。禍々しい力が兄の中で覚醒し、溢れているのがわかる。

「世界から逃れようとしても無駄なのです。結末を変えようとしても無駄なのです。エレベーターと同じ。行き着く先は同じ。始まりと終わりは決まっていて、往復して見える景色を景色が変わったと信じ込んでいるだけなのです」

 エレベーターガールが、手を差し出した。

「全ての運命が呪いによって繋がっているのです。だから、わたくしたちは家族になれるのです。同じエレベーターに乗って、家族として生きるのです。乗る時も、降りる時も一緒なのです」

 鎖が鳴る。

 エレベーターガールと、ぼさぼさの髪の女と、マサキが一本の鎖で繋がっている。その背後に、さざ波の立つ赤い海があり、海面下で何かが蠢いている。ミオにはわかる。波の下にいるのはクラゲだ。いつの日か、自分を捕まえる化けクラゲ。生きとし生ける者全てが、運命の鎖で繋がっていて、最も強大な力を持つ存在が気まぐれにそれを引っ張れば、人間はただ引き摺られるだけだ。

「ミ……オ……」

 兄の口が、微かに動いた。じゃらじゃらと伸びる鎖が、エレベーターガールに巻き付いていく。

「逃げ……て……」

 虚ろな兄の目に、僅かな光が見える。体に、少しだけ力が戻る。重い体を起こし、ミオはよろめきながらも立ち上がった。兄の腕から伸びた鎖は、エレベーターガールとぼさぼさの髪の女の両方に巻き付いている。

 行くしかない。ミオは後ろを振り返る。床に赤く光る禍々しい線が血管のように広がっているものの、まだ逃げ場はあるように見える。

 大きく息を吸って、吐く。足を動かす。少しだけ、自身の中のケガレが外に出た気がする。

 自分に不思議な力がある事は知っている。

 ミオ自身は理解していなかったが、体内に眠る魔力は活発になりつつあった。一歩踏み出すごとに少しずつ湧き出す魔力が、ケガレを消し去っていく。

 走る。どこにたどり着くかは知らない。とにかく、走る。逃げなければ。自分一人ではどうにもならない。兄を助けてもらわなければ。あの、退魔屋さんに――

「地下一階――」

 エレベーターガールの声が、耳元で囁く。

 足が、何かに取られた・・・・・・・

 転んだと思ったその瞬間、足元が下降する。立っていられない。衣服があっという間に濡れていく。口から、鼻から、水が入ってくる。海水だ。

「――いつかの海・・・・・でございます」

 何かが、体中に巻き付く。鎖ではない。もっと生々しい、生き物の感触だ。いやだ。いやだ。こんな、こんなに苦しいのは――

「いやだぁあっ!」

 次の瞬間、大量の海水とともに、ミオは血管のように複雑に絡み合った赤い線の光る床に投げ出された。

「どこへ行こうとも、あなたの運命は決まっています」

 エレベーターガールの声が暗黒のフロアに響く。

「鬼を見る子は、いずれ鬼となるのです。クラゲに攫われたあなたは海の底でこの世を呪う怪物になるのです。あなたの力もお兄さんの力も、ともに怪物となるべく闇から与えられたのです。力がある者は、誰も逃れる事は出来ないのです」

 鎖がまとわりついたまま、エレベーターガールが近付いてくる。もの凄く大きい。鎖が次々と弾け飛ぶ。今や巨大化したエレベーターガールがミオを捕まえようとしている。逃げられない。どう足掻いても、逃げられはしない。

「家族になるのです」

 ああ……エレベーターガールがすぐ傍にいる。巨大な手が、ミオの小さな体に迫っている。

「わたくしがあなたを産んで差し上げます。お客様ではなく、家族になるのです。産み直し、クラゲに海の底まで連れて行かせたら、地上階まで一緒に戻りましょう。過去も未来も、もうすぐ消えます。全てを溶かし・・・・・・固めてくださる・・・・・・・あの方が・・・・降りて・・・いらっしゃ・・・・・います・・・

 ――見える。ミオの目に、このビルで起こった事が映る。放り投げられた巻き物が八方向へと紙面を広げる。獣が怨嗟の声を上げる。流れる血。ビル中を蝕むケガレ。駐車場で殺し合いが始まる。人々の喉に有刺鉄線が次々と巻き付いていく。人から人へと回していた蝋燭が、不意にカーペットに落ちて火が燃え広がっていく。このビルに集められた五百名の人間たち。その因業、悪行が縁となり、報復を願う者の心によって地獄へと向かう惨憺たる巡業が始まったのだ。ビルひとつが丸ごと呪われ、その中にいた者たちもまた呪い合う――

「家族になるのです」

 エレベーターガールの巨大な手が、ミオの肩に触れる。

 顎が外れたかのような大きな口の暗闇が顔の近くに迫っている。

「呪いで繋がったわたくしたちは、家族になれるのです」

 口が、暗闇が迫ってくる――

 呑まれる――

おかあさん・・・・・

 兄の――声がした。

 強く体を押されて、ミオは突き飛ばされる。兄が、そこにいた。虚ろな目の中に、確かに光がある。衣服のほとんどが鎖と化し、もはや人間の姿ではないかのように見える。

ぼくからだよ・・・・・・

 兄が、言った。エレベーターガールの口が、躊躇なく兄を吞み込んだ。

 喉が、鳴る。エレベーターガールの巨大な喉が。

 一瞬の間を置いて、その目がかっと見開かれ、エレベーターガールの絶叫が迸る。それが苦しみによるものなのか、家族を得た事による喜びからくるものなのか、ミオにはわからなかった。

 まるで高速で吸い込まれるように、エレベーターガールの巨体が闇の彼方に消えていく。

 周囲の景色が、レストランに戻っていた。テーブルは散乱し、大きな窓は悉く割れている。

 海水に沈められたせいで、ひどく寒い。

 行かないと。兄を、マサキを助けられる人を連れてこないと。

 ミオは重い体を引き摺りながらレストランを出る。ケガレは体に残っていない。が、とても気持ちが悪かった。

 意外な事に、通路は薄明りがついていて、嫌な気配はしなかった。通路にも物が散乱していたが、人の姿は見当たらない。体が冷えるのは海水のせいだろうが、フロア全体の静寂がそれに拍車をかけている。ミオは震える体で進んだ。

 通路を少し進んだところに、公衆電話が見えた。ミオにとっては高いカウンターの上に置かれている。

 足元には財布と、小銭が散らばっている。

 体調はどんどん悪くなっている。ミオは、足元の小銭を拾い集めた。

 カウンターの上の公衆電話を使うには台になるものが必要だ。ミオは無理矢理体を動かし、レストランへと戻る。椅子なら、あそこにいくらでもあるはずだ……。


 ――そうして、ミオは電話をかけた。

「……わたし、有賀……ミオ」

 あまり、声が出ない。

「ビルの中にいるの……お願い、助けに来て」

『わかった、ミオちゃん。今、何階にいるのかな。すぐ行くからね』

 電話に出た、オノ、という人は優しい声で言った。

「一番……上の……」

 駄目だ。もう声が出ない。

 受話器を片手に、ミオはカウンターに突っ伏した。

『ミオちゃん? ……聞こえているかい? ミオちゃん!』

 受話器の向こうで、オノ、という人が焦ったような声を出す。

 ――――ぉぉおぉぉぉおぉ――――

 何か、聞こえる。下のほうから。動物の唸り声のようなものが。

 さっきまで感じなかった嫌な気配が、急速に大きくなっている。

 ああ、来るのだ。ミオは直感した。

 全てを終わらせる怪物。このビルの最初の呪いが。



 運命の三女神ノルンの秘術が一つ、《侵されざる眠りの契約エオール・イス・ヴェルダンディ》。

 術者の肉体を不可侵の氷によって封印し、外界からの干渉を遮断する。代償として、肉体を運命の三女神に捧げているため、肉体の時間は静止し、麻來鴉の意志で動かす事は出来ない。精神は自由であるものの、これは術者の階梯次第でその自由度も決まる。

(ぎりぎりだった……)

 どうやら、ルーンの秘術は何とか間に合ったようだ。麻來鴉は数々のルーン文字が仄かに光を放つ自身の精神世界の中で、静かに思考する。

 ガルタンダールから仕掛けられた数多の情報量による侵食はひとまず防いだ。麻來鴉の肉体は不可侵の氷によって封印されているため、術が破られない限りは外からの攻撃に対する心配はない。とはいえ、相手は闇霧の一族だ。秘術の守りでさえ突破する恐れはある。

 次の一手を早急に打つ必要がある。

(とはいえ、どうする? 肉体を解放するには、外から封印を解いてもらうしかない。つまり、今回の場合は火保だ。何とか見つけてもらわないと)

 火保が万が一にも死亡している可能性は考えない。その場合は手詰まりだ。考えても無駄だ。

 では、何をする。何かしら攻撃の魔術を使ってガルタンダールに反撃してみるか。あるいは、一か八か、内側から契約を破棄して再び自由を得るか。いやいや、どちらも不可能だ。攻撃しようにも外界の様子はわからない。契約破棄など試みて、強引に封印を解こうものなら、罰則で麻來鴉は死ぬだろう。

(……無闇に考えるのはやめよ。出来る事は限られているし)

 腹を決めて、身近に浮かぶルーン文字を念じて寄せる。

 遠隔魔術をやる。ただし、肉体は封じられているから、完全に心の中で魔術を行使する格好になる。

侵されざる眠りの契約この術、使った事なかったからなー。完全に想定外だよ)

 益体もない事を考えながらも、麻來鴉の心は全く別の事をしている。自身の魔力をルーンに通わせる。次に、火保の姿を思い描く。火保の魔力の、色や形や気配を思い描く。

探れペオース――火保を――探れペオース――必ずまだ生きている――探れペオース――探れペオース――)

 この状態から、完全に追跡は出来なくとも、火保の魔力だけなら追えるはずだ。そこは、探索の司るペオースのルーンを信じるしかない。同時進行で、別のルーンにも魔力を通わせる。五つ……いや、最低でも六つルーンが必要だ。

人型を作れマン水のように柔軟でラグ素早く成長しイング知を持ちオス伝達者でありアッシュ旅人であれラド

 まるで、手を使わずにとても長い棒を二本使って、粘土を綺麗に作り上げているかのようだ。状況から見れば悠長で、馬鹿げていて、しかも成功するかどうかもわからない。

 だが、やるしかない。

動けラド動けラド動けラド――魔力分身オド・アンドヴァラナウト

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