『闇霧』15


      15


 記憶は封印されている。幼い頃の記憶。真の名にまつわる記憶。真の名を知られる事は命を取られる事に同じ。だから封印されている。

 意識が、深く深く沈殿している。

 ――生家の庭を思い出す。今ではもう珍しい縁側のある家。思い出す事はあり得ないはずなのに、記憶が勝手に蘇る。

 幼い頃から奇妙なものをよく見た。鳥のような脚の生えたお皿。歌い踊る真っ白な人々。天気雨の日の小さな嫁入り行列。雨雲の中のぽっかり空いた穴からこちらを見る目。

 不思議に思っても恐ろしいと思った事はなかった。だから、この日も最初はいつも見ている奇怪なものの仲間かと思ったのだ。

 だが、違った。

 恐ろしい形相の女が庭に佇んでいて、じっとこちらを見ていた。やはり、怖いという感情はなかった。ただ、時間が止まったかのように身動きが取れない。

「――ちゃん?」

 兄の声がする。家のどこかから、自分の事を呼んでいる。

 鬼のような顔の女が一歩、こちらに近付く。着物姿のその女は裸足で、爪はどれも割れている。

 嫌な空気がまとわりついていくる。

「――ちゃーん?」

 兄が呼んでいる。着物姿の鬼は、すでにすぐそこまで迫っている。庭に来させるわけにはいかない。

 鬼の尖った爪が、喉に触れる。氷よりも冷たい指先が首にかかる。細い指からは想像も出来ないほどの力が、気道を押し潰す。

 ドタドタと、誰かが反対側の廊下を走ってくる。

「喝っ!」

 野太い声が、瘴気めいた庭の空気を吹き飛ばす。

「ノウマクサンマンダ・バザラダン・カン!」

 錫杖を床に強く突き、六つの遊環ゆかんがじゃらんと鳴る。鬼が忌々し気に音のほうを見た。

「ノウマクサンマンダー・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン」

 法師がいた。刀印を結び、慈救咒じくじゅを唱えながら錫杖を素早く床に突く。首を絞める力が強くなる。大の大人でさえ耐え切れないほどの呪詛。目の前にいるのは、本物の鬼だ。死が現実に近付くにつれ、ようやく恐怖の感情が襲ってくる。

「かっ、はっ――」

 息が漏れる。鬼が裂けた口で嗤う。真言を唱える声が強くなり、錫杖が激しく鳴る。

「離れろ!」

 兄の叫び声。ついで、強風のような衝撃。

 息を切らせた少年が鬼に向かって手をかざし、その恐ろしい形相を目にしながらも、臆する事なく睨み返している。

「妹から、離れろ!」

 強烈な浄の気。鬼の体が一瞬歪んだ。もう片方の腕が動く。骨の可動範囲を無視して、悪鬼の掌が少年へと伸びる。

「喝っ!」

 錫杖が鳴り、法師が気を込めた一声を放つ。少年へと伸ばされた鬼の腕が吹き飛んで、砂となり縁側に落ちる。

 悪鬼の叫び声がした。顔の大きさが変わるほど口が開く。飲み込まれる――!

「放せっ!!」

 少年が、鬼の腕に掴みかかった。湯気が立ち、少年の顔がたちまち苦悶を浮かべる。焼けている。だが、それでも少年は手を放さない。

えいっ!」

 法師が素早く腕を振るった。鬼の顔が吹き飛び、砂になる。着物姿の体が崩れ落ちる。

「――ちゃん!」

 自分の掌の火傷など構いもせず、少年が落ちそうになった体を支えてくれた。

「大丈夫!? どこか痛いところはない?」

 首を振って、無事を伝える。実際、絞められていた首はまだ痛むが、目の前の兄の怪我よりましだ。

「……見てしまったか」

 法師が、愕然とした様子で言う。額には脂汗が浮かび、ひどく消耗しているように見える。

「見てしまった以上は、連れて行くしかない」

「駄目!」

 すかさず、兄が叫んだ。

「ボクが守るよ! ボクがずっと守るよ!」

 法師は目を逸らす。首を横に振る。

「自分で自分を守れなければいかん。備わった力が、さらなる不幸を呼ぶ前に、強く鍛えなければ……」

 兄の手に、ぎゅっと力が込められる。

「嫌だ。離れたくない……」

 ひどく焦った顔。何かを恐れるような目。

「……兄さん」

 その肩を、掴む。この先の未来を、何となく予見する。

 真っ赤にただれた兄の手が見える――……



 波の音か、鎖の音か。あるいはその両方かが耳に障って、火保は目を覚ます。

 砂浜に横たわっていたようだ。右足に違和感があった。鎖が巻き付いている。糸玉のような、鎖が何重にも巻き付いて出来た玉が、さながら鉄球のような重石になって右足の動きを制限している。少し離れたところにアーミーナイフが落ちていた。

「起きたか」

 砂浜に座り込んで海を眺めていた無祝が、顔を火保に向けた。

 周りには、あの青白い幽霊たちと、マサキがいる。皆一様に虚ろな表情で海を眺めている。

「何故、殺さなかった?」

 身を起こし、火保は呪術師に問うた。

「絶好の機会だったはず。一体何のつもりだ」

 無祝は胡乱な目で、火保を見た。

「もしかしたら、思い出すかもと思ってな。退魔屋は真の名を怪物に知られないために、自分の記憶を封印するだろう? だが、ここでならその封印が解けるかもしれない」

「私が何を思い出すと?」

「自分が何者かを、だ」

 無祝は再び海に目をやる。

「オレは数え切れないほど多くの儀式を試した。そして、このビルで発動した呪術はことほかうまくいっている。時間を破壊し、罪を思い出させ、罰を与えてくれる。もうすぐ、忌々しい時の流れを消し去る事ができる」

「……何の話?」

「過去を正すには、時間を破壊し超越するしかない。オレは過ちを犯した。自分の術の才能に酔い、妹の前で海の怪物を呼び寄せてしまった。妹は、海に消えてしまった」

 火保はマサキに目をやる。少年の目は虚ろなまま海を見ている。

 その両腕には、包帯が変化した鎖が巻かれている。

「こんな力はいらなかった」

 無祝が己の腕に巻いた鎖を見ながら言う。

「呪いを産む力も、怪物を呼び寄せる力もいらなかった。オレは幸せになりたかっただけだ。妹を傷つける気はなかったんだ」

「もういい」

 火保はホルスターからグロックを抜いて、銃口を無祝に向ける。

「お前の妄言はもうたくさんだ。この鎖を解いて、マサキ君を解放しろ。三秒だけやる。三……」

「もう答えはわかっているはずだ。退魔屋」

 虚ろな目で、無祝が火保を見る。

「あいつはオレだ。運命は変えられない。あいつはやがてオレと同じ過ちを犯す。妹は、ミオはクラゲに攫われる。だから、オレはこうして過去を変えるために儀式を実行したんだ!」

 火保は素早く右手を動かし、足を束縛する鎖を撃った。あっけなく、鎖の一部が弾け飛ぶ。残った鎖を外し、火保は立ち上がって再び銃口を呪術師に向けた。

「馬鹿な事を。未来から来たとでも言うつもり? 妄想を呟いている間にタイムリミットが来る。悪いけど、お前の正体なんかに興味はない。私はこの儀式を終わらせる。お前はあの青白い連中と一緒に消えて失せろ」

「未来じゃない。オレには未来がない。いや、この儀式を成功させない限り、何度でもオレは、今日と同じ日を体験する事になる」

 銃撃で千切れた鎖が、ずるずると砂浜を張って無祝の足元に吸い込まれていく。

「オレは何度も儀式を試した。ここと同じ名前を持つビルで、何度も何度もな。オレはずっと同じ日に行き着いている。手に入る呪文書はだいたい似たようなもので、ずっと失敗し続けてきた。変化があったのはこの世界だけだ。この世界で初めて、オレは闇霧の一族と出会い、初めて未来を変え得る呪文書を手に入れた。あらゆる世界を渡って来たが、ここが終着だと信じている。オレの歪んだ運命はここで修正できるんだ、退魔屋」

 ――理解できない。

 目の前の男が何を言っているのか、全く理解できない。

「……未来でなければ、どこから来たというんだ。呪術師」

「別の世界だよ。退魔屋」

 気が付けば、砂浜に立ち並ぶ青白い人影の数が増えている。

「宇宙は無限の可能性を秘めている。歴史は一つに見えて実はありとあらゆるバリエーションが存在する。オレはそのうちの一つからやって来た。どの世界にもこのムーサ・柴崎ビルは存在し、どの世界でもオレが儀式を引き起こして人が死ぬ。オレは儀式の度に世界を移動し、そこでまた同じ事をしなければならないと理解させられる。生きているのか、それともすでに死んだオレが見ている地獄なのか、この世界に来るまでわからなかったが、どうやらこれが正しい道だったようだ。この世界は、これまでと何もかもが違う。闇霧の一族、強力な呪文書、魔女、幼いオレと、幼いミオ。そして、お前」

 鎖が伸びる。うねる鎖が一瞬でマサキの腕を掴み、無祝の元へと引き寄せる。マサキは虚ろな目で、されるがまま無祝に捕らえられる。

「その子を放せ」

「いいや、違う。退魔屋、お前も来るんだ。自分が何者か思い出せ。家族がいたはずだ」

 ――古い家の縁側で鬼を見たのを覚えている。

「誰にでも家族はいる……」

 ――鬼に襲われた自分を、助けてくれた兄を覚えている。

「家族は、いつまでも一緒じゃない。時には自分の不始末で失ってしまう事もある」

 呪術師が悔いるような口調で言う。じゃらじゃらと鎖が鳴る。

 青白い幽霊たちが、口々に呼ぶ。

 ――ミオ――ミオ――、と。

「だが、この世界では生きていた。この世界では、クラゲに攫われていなかった。この世界では、大人になったお前に会えた」

「違う!」

 否が応でも、古い記憶がフラッシュバックする。七歳の頃。まだ名前を変える前だ。夏の海。どこか思い出せもしない砂浜。そこで、大事な誰かをいつまでも待っていた事を覚えている……。

「私はお前の家族じゃない! お前なんか知らない!」

「偽るな。お前を呼ぶ声が聞こえているはずだ。記憶を封印して思い出せないだけだ。お前は――」

 火保は引き金を引く。三発の銃弾が無祝の胸を貫いた。血は、しかし流れない。体に開いた穴はただ真っ黒なだけだ。

 無祝とマサキと幽霊たちが、どこまでも伸びる鎖で繋がっている。……いや、彼らだけじゃない。

 右手に鎖が巻き付いている事に、火保は気が付いた。伸びた鎖の先でそれを握っているのは、無祝だ。

「お前はオレの妹だ、ミオ。ようやくお前を救う時がきた」

 呪術師の顔は、泣いているような笑顔だった。



 ムーサ・柴崎ビルより約一キロ地点。駅と商業施設を繋ぐ広域通路内に設置された幕屋の中。

 小野英正管理官は時計を見て、時刻を確かめた。十三時五分。白原火保の話通りなら、あと三十分でムーサ・柴崎ビルで展開された儀式の寿命が尽きる。それはすなわち、儀式の失敗を意味し、この国に新たな異界が誕生する事を意味する。

 通信は、先ほどの白原からの一回切りだ。その後、白原からも、魔女、七ツ森麻來鴉からも連絡はない。加持祈禱班がビルの呪力パターンを解析した事で、呪璧の解呪は当初よりも進んでいる。が、時間がない。一部分を解呪できてもSATの部隊が突入できるほどの入り口にはならない。弱った部分には孔雀明王のお札を貼って呪璧の再生を防ごうとしているが、それでもなお、呪璧を構成する呪力が強すぎて、完全には防ぎ切れない。

『――本部! 本部!』

 通信が入った。前線基地からだ。受話器であるマイクのボタンを押して、小野は応答する。

「小野だ」

『加持祈禱班、佐藤です! ビル北東の呪璧を完全に解呪、三階窓からの侵入口を確保しました!』

「何だって!?」

『現在、地階エリアのSAT隊を呼び戻しています! 消防のはしご車も待機中』

「よし、SATは戻り次第突入だ! それまで何としても呪璧が戻らないようにたせてくれ!」

『もちろんです! 必ず――』

 雑音が入る。通信、不安定。

「管理官! 前線基地付近で呪力反応大! 大きさ二メートル! 人型の模様!」

 ビル周辺の監視を担当していたオペレーターが叫ぶ。

「モニターに出せ!」

 すぐさまモニター一面に、前線基地を映していたカメラの映像が映し出される。

 白いワンピースに白い帽子、高身長の女性のようなモノが、加持祈禱班に襲い掛かっている。

「八尺様だと……!?」

 言わずと知れた強力な怪物だ。日本での退魔事例も多い。が、怪物は同種が各地に出現する事もある。呪璧を破った事で防護機能が働いたのか。どうであれ、状況はまずくなった。

「すぐに応援を出してくれ! 動ける者は前線基地へ向かうんだ!」

 指示を出した小野は、その瞬間、冷や水を浴びせられたかのような冷気を感じた。

 気のせいではない。幕屋内の空気が一変している。モニターが全て消灯している。

「管理官……」

 オペレーターの一人が、白い顔で言った。

「後ろに……」

 弾かれたように小野は振り返った。

 幕屋の入り口に、スーツ姿に男が立っていた。見た事がある格好だ。スーツだけではなく、髪型も、顔も。違うのはこちらを見つめる人間味のない目つきだけ。あとは全く同じだ。自分と。この、小野英正と。

「ドッペルゲンガー!」

 判断した瞬間、小野はホルスターから拳銃を抜いていた。照準、引き金に指をかける。銃には浄化済みの銃弾が装填されている。当たる。この距離ならば。

「クロノスの儀はマもなくシュウエンを迎エる我ラはコウリンの時をマつ」

 奇怪な発音の言葉が、ドッペルゲンガーの口から漏れる。引き金を引く一瞬前に、その首が伸びた。撃たなければ。しかし、体はすでに金縛りにかかっている。駄目だ、動けない。異様な長さの首が目前に迫っている。喰われる――

「させるかっ!」

 黒い、小さな人影がドッペルゲンガーに突進する。不意打ちで胴体を攻撃されたドッペルゲンガーがよろめき、すぐさま首を元に戻す。

「ごめん、管理官さん! 遅くなりました!」

 その声は、まだ十二、三歳ほどの少女のものだ。ショートカットの金髪に黒マント。手には、何やら文字の刻まれたツルハシを持っている。

 魔女の使い魔だ。名前は――

「ヨミチ……君」

「前線基地もそうだけど、こっちもヤバい気配がしたから戻ってきたよ。大丈夫、すぐにやっつけるから!」

 ドッペルゲンガーの両腕が震える。二本の腕がたちまち六本に増える。体が、少し大きくなっている。

「ワレらウラヌスの血ヲ引くオノエイセイのウツシミなりコウリンのトキ至るまでジャマするモノは――」

「長い、長い、長い!」

 言いながら、ヨミチは目にも止まらぬスピードでドッペルゲンガーとの距離を詰める。ドッペルゲンガーは六本の腕でヨミチを捕えようとするが、身軽な動きに翻弄され、捕まえられない。ドッペルゲンガーの体が震える。その背中から、そして側面から、同じ体のドッペルゲンガーが二体、生えた。

「ヨミチ君!」

 金縛りが解けた小野は、思わず叫んだ。三人のドッペルゲンガーが飛び回るヨミチを追う。ヨミチの金色の髪が揺れる。

浄められよベオーク!」

 ツルハシの一撃がドッペルゲンガーの腹に突き刺さり、

浄められよベオーク!」

 次の一撃が、もう一人のドッペルゲンガーの腹を穿ち、

浄められよベオーク!!」

 ツルハシに刻まれた文字の一つが光りを放つ。最後のドッペルゲンガーの腹に、その先端が叩き込まれる。

「これで終わり」

 パチン、とヨミチが指を鳴らす。次の瞬間、光を放ちながらドッペルゲンガーが三体同時に爆発する。

「――ふう。管理官さん! 通信状況は!?」

 我に返った小野は、モニターの様子を確認する。

 ノイズが走っているが映像が復活している。加持祈禱班はまだ、八尺様と戦っている。

「ヨミチ君! ここは大丈夫だ。すぐに前線基地に向かってくれ」

 ヨミチが頷く。小野は頭を回転させる。ほかに、応援に向かえそうなのは誰か。誰がいるか――

 通信を知らせる電子音が鳴る。いや、電話だ。スマートフォン。相手は――

「小野だ!」

『管理官。通信指令センターです!』

 通信指令センター。いわゆる一一〇番にかけた際に繋がるところだ。しかし、そんなところが何故今、小野に直接連絡を……。

『ムーサ・柴崎ビル内公衆電話より一一〇に入電!』

「……何だって?」

 虚を突かれる。ムーサ・柴崎ビルより一一〇番にかかった? つまりそれは、ビル内の誰かが電話をかけたという事か。それとも、これもまた怪物側の罠か……

『ビル内の人質からの模様です。通話を転送しますが、よろしいですか?』

 通信指令センターのオペレーターが切羽詰まった口調で言う。

「わかった。繋いでくれ」

 出るしかない。これが仮に罠でも、それを恐れていては人質救出の機会を失うかもしれないのだ。

『……もしもし』

 小さな、声が聞こえる。子どもの声のようだ。

「もしもし。私は、責任者の小野といいます。あなたは――」

『……わたし、有賀……ミオ』

 息を潜めた、か細い声が聞こえた。

『ビルの中にいるの……お願い、助けに来て』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る