『闇霧』10
10
小さなコーヒーカップの中の黒い液体は、見た目こそコーヒーそのものだったが、中で怨嗟が渦巻いているのは明らかだった。
「七品目――」
エレベーターガールが口を開き、
「《アイベツリクフカイリコーヒー》でございます」
八尾の声がエレベーターガールの声と重なった。
ケガレ値を確認する。八尾のケガレ値は【9】。テーブルから離れた位置で倒れている小向のケガレ値は【5】。小向はまだ生きている。
「こっちに来なよ、白原さん。そこじゃ話辛いでしょ」
八尾の真っ黒な瞳が火保を見る。カップを掴み、火保は席を立つ。料理を持っているならルールに抵触しないのだろう。金縛りはない。火保はよろめきそうな足を何とか保ちながら、八尾の対面の席を目指す。カップをテーブルに置き、椅子を引いて座った。
「飲みなよ。わたしの過去をあなたにも知ってほしいし」
八尾が言う。ついさっきまで気の弱さを見せていた彼女は、今や禍々しい気配を
「遠慮しておく。悪いけど、ここの料理は口に合わない。トリップはもう
「……そう。残念」
八尾はカップを持ち上げると、コーヒーをひと口飲んで、ふっと息をついた。
「全部、カズアキ君のためにやったの」
八尾は真っ黒な液体に目を落とし、小さな声で言った。
「彼、気弱だけどいい人だった。猪狩なんかに目をつけられなければ、今も生きていたと思う。もうすぐ結婚する予定だったんだ。わたしたち」
「……ハシダ? ハシモト?」
火保は静かに問うた。最初の食事の時に感じさせられた炎の熱さが蘇るかのようだ。
八尾は片眉を持ち上げて笑った。
「マエダ。マエダカズアキ君。あの男は名前も覚えちゃいなかった」
八尾は冷たい視線を床に転がった猪狩に向けた。
「あの日、わたしたちは喧嘩したの。カズアキ君は仕事を辞めるつもりだった。わたしは苛々していて、つい強い言葉を使っちゃった。自分の事でいっぱいいっぱいで、カズアキ君があそこまで追い詰められているなんて知らなかった」
八尾が顔を伏せる。
カップの中から、何かが焦げたような臭いがする。
「このフルコースは、カズアキ君のための復讐だったという事? それなら、標的は猪狩さんだけだったはず。どうしてほかの人を巻き込んだの」
火保は淡々と問う。八尾が顔を上げた。
瞳が血走っている。
「決まっているじゃない。儀式には生贄が必要なの。過去から未来へと進む時間の流れを破壊し、死者の国からカズアキ君を連れて帰るには、命に関わる罪を犯した罪人の魂が身代わり地獄に堕ちなければならないのよ」
語調が変わってきている。まるで何かにとり憑かれているかのようだ。
「あなたは呪術師なの?」
火保は銃把を軽く握る。
「違う。わたしはそんなんじゃない。今日ここに来るまでわたしはただの人間だった。ただ、知ったの。わたしたちが生きているこの世界を一枚めくれば、そこには魔術や呪術というものが確かにある。迷い込んだ闇と霧の中にこそ、実は望みを果たす手段があったって事を」
いつの間にか、エレベーターガールと給仕係が、八尾のすぐそばに並んで立っていた。周囲が一変している。床も、壁も、まるで流れる血の河のように重低音を響かせながら蠢いている。
「猪狩は
淡々と語り終えた八尾が、カップの中身を一気に飲み干す。
「完食おめでとうございます。退出チケットを進呈いたします」
エレベーターガールが、懐から封筒を取り出し、八尾の手元に置いた。
あれが、退出チケット。
「これで食事は終わり。ここにいる全員の魂を使い、わたしはカズアキ君を死者の国から呼び戻す。退出チケットはカズアキ君に使ってもらうわ。彼には日の当たる場所に戻る権利があるんだから」
八尾の両目から赤い液体が流れ出す。八尾の両目が黒く染まり、肌は血の気を失って白くなる。八尾の胴体は音を立てて変形し、胸から下は樹木の根か頭足類の触腕のような、長いものへと変わっていく。両の手は血にまみれ、今や八尾は完全に怪物と化していた。ファム・サングラント。血まみれ女。
火保の体もまた変異している。自分の中のケガレ値が上昇していくのがわかる。手首の数字が目まぐるしく変わる。
ゴリ、ゴリ、という何かが動く音が大きく響く。ドクン、ドクンという心臓の鼓動のような音が、そこかしこから聞こえる。臓器の動く音や、骨や筋肉の軋む音を間近で聞くとしたら、こんなふうに聞こえるのだろう。窓も、ほかの席も周囲から消えて、火保たちの周りには、血の海の真っただ中のような赤黒い液体が流れている。
異層転移だ。八尾の言う死者の国がどこの異界を指しているのか知らないが、カズアキの魂が眠る異界へ接続しようとしている。
「残念だけど、何も出来なかったようだね、退魔屋さん。素人の怪物にやられるのは不本意だろうけど、あなたの魂はカズアキ君のために使わせてもらう」
ノイズ混じりの悪鬼の声で、八尾は高らかに宣言した。
火保の心は静かだった。手に持ったグロックを傾けると、拳銃から弾倉を引き抜く。
「……何。急に」
八尾が、まだ人間らしい驚きを見せる。
「何しているの。降参?」
「儀式よ。あなたと同じく」
スライドを引き、薬室に残った銃弾を抜く。冷たい九ミリの銃弾。
火保の心で静かに炎が燃える。真っ白な、炎が。
「何かを呼び出すための儀式には決まった手順がある。あなたがどういう経緯で呪術の儀式を知ったかは知らないけど、闇の力に手を出したのならば、私はあなたの敵――」
八尾の顔が激情に染まる。
「その体で何が出来るの!? ケガレまみれのその体で!」
周囲に、気配が湧く。血の海の中から何かが出てきた。人型。赤黒い液体に覆われ、怨嗟の呻き声を上げる者。それが次々と血の海から姿を現す。彼らは見覚えのある甲冑を身に着けていた。手に握っているのは刃こぼれのした日本刀。怪物と化した落ち武者の群れが、火保の周囲を取り囲んだ。
「わたしの儀式の邪魔はさせない。この土地に因果を持つ亡者どもがあなたの体をバラバラにする。悲鳴を上げなさい! この血の海の中で!」
「今さら悲鳴は上げない。私は
チェスの駒を動かすように、火保は九ミリの銃弾をカン、と音を立ててテーブルの上に置き――
《……やれやれ》
火保の中の
「
テーブルの上の銃弾に、白い炎が灯り――
火保の体が、白く燃え上がった。
「なっ――!?」
八尾が呆けた顔をしたのも一瞬――
「怪物の世界にようこそ、お嬢さん」
耳をつんざく爆音とともに、八尾の顔を白い炎の塊が吹っ飛ばした。
血の海の中に、燃え盛るヒトのようなものが立っていた。大きく、肩幅は広く、体の全てが激しく燃え盛っている。立ち姿こそ人だが、それは背中までの話だ。首から上はヒトではなかった。面長の、
「何……こいつ、わたし、怪物になったのに」
八尾の顔が、体が、炎によって焼かれている。体から生えた触腕も、血まみれの掌も、血の涙を流す片方の目玉も。
驚愕に打たれる八尾を、白い炎の竜がせせら笑う。
「それは奇遇だ。俺のお仲間というわけだな。歓迎するぞ。俺は新人に優しいからな」
八尾の体が焼かれるのと同じくして、血の海も白い炎によって焼かれていく。儀式の執行者が手傷を負った事で、異界への接続が不安定になったのだ。周囲の景色が、血の海から元のレストランに戻っていく。
「無駄口はいい。ドラゴン」
火保はマガジンをグロックに入れ直し、スライドを引く。
「自由時間は一分だけだ。とっとと片付けよう」
亡者の一人が背後から火保に迫っていた。照準もそこそこに引き金を引いて、呻き声を上げるその頭を吹っ飛ばす。悠然と、火保は椅子から立ち上がった。
雄叫びを上げて落ち武者の群れが襲い掛かる。火保は素早く二人目の亡者の胸を撃った。白い炎に焼かれた事で、火保の体に残っていたケガレが浄化されている。徐々にだが、勘が、体のキレが戻ってくる。立て続けに引き金を引き、二人目が倒れるのを確認もせず、側面に迫る三人目の落ち武者にローキックを叩き込み、さらに腹に蹴り飛ばす。胴の防具がへこんだ落ち武者が態勢を崩したところを頭目がけて銃弾をお見舞いする。
空気を切って、刃が迫る。二方向。火保は二挺目のグロックを抜く。銃声が轟き、落ち武者の一人の手が吹っ飛び、一人はよろめいた。が、それでも構わず落ち武者どもは刀を振るう。後ろへ避けるのはうまくない。火保は二人の間に飛び込むと、それを振るわれた二本の刃が、同時に対面の落ち武者に食い込む。
「ヴァアアアアッ!」
獣のような声を上げて、給仕係が殴りかかってくる。エレベーターガール同様、顔つきは人間のそれではなく白目を剥いた怪物の顔だ。寸でのところで火保は拳を躱し、レストランの床を転がる。給仕係の足が床に落ちていた落ち武者の刀を蹴り上げる。空中で回転する刀の柄を掴み、給仕係がすかさず斬り付けてくる。二挺のグロックを交差させて斬撃を受け止め、火保は刀を押し返す。続く斬撃を躱し、引き金を引く。銃弾が給仕係の太腿を掠めるが、怪物は止まらない。
「お客様お席につきませんかお食事は洗濯機の中で回っていて間もなく地獄に堕ちますのでおかわりは自由です!」
「……何を言っているんだか」
給仕係を蹴り飛ばし、火保は二挺拳銃の引き金を引く。銃声が轟き、浄化された銃弾が給仕係の腹を吹っ飛ばす。
「お客様お食事は――」
「わからないわ」
撃つ。給仕係の頭が吹き飛び、倒れた拍子に手から日本刀が落ちた。
落ち武者どもは、まだ残っている。
「ドラゴン!」
白い
「なかなかやるぞ。あの新人」
「遊んでいる暇はない。そろそろ――」
言いかけたところで、火保は跳んだ。八尾の下半身から伸びる呪われた触腕が大蛇のように暴れ、落ち武者も調度品も区別なくなぎ倒す。
「お前たちのせいでェェエェ!!儀式が台無し! ダイナし! だいなシだァァァァッ!!」
血涙を振りまき、八尾が絶叫する。大暴れする幾本もの触腕を躱し、火保は反撃の隙を伺う。さっきまで食事をしていたテーブルが触腕によって叩き壊され、破片が宙を舞う。炎の竜、スナップ・ドラゴンはその身をうねらせ、怪物と化した八尾に近付きざま砲筒のような銃を撃つ。白い爆炎が轟音とともに放たれ、八尾の肩や腹を焼き尽くすが、それでも八尾は止まらない。
「はははっ! 本当に頑丈な奴だ!」
スナップ・ドラゴンが高らかに笑う。ドラゴンはまだ本気ではない。どのくらいの火力なら相手が耐えるか、試しているのだ。
だが、もう時間は残されていない。
「ドラゴン! いい加減に――」
鞭のようにしなる触腕を躱し、火保は叫んだ。
その時、視界の端で蠢く巨大な影が、目についた。
「……ハア、ハア」
小向だった。怪物になりかかったせいで、まだ尋常ではない巨体であるものの、その顔は浄化弾を打ち込まれた影響で、徐々に人間に戻りつつある。が、今の問題はそこではない。
小向のすぐそばに、封筒が落ちている。フルコース完食の品。このビルからの退出チケットが。
「ハア、ハア」
小向の大きな指が、封筒を摘まみ上げる。
「小向さん! 待って!」
火保は咄嗟に叫んだが、小向の視線は封筒に注がれていた。
「出る。出る。出る。ここから――」
小向の指が封をびりびりと破き、
「やメロ、お前ェェエエェェェッ!!」
八尾の触腕が小向へと向けられる。
「ボクはここから、出るぞおおおおおお!」
雄叫びを上げながら、小向は封筒の中身を掲げた。奇怪な紋様の描かれたチケットを。
――瞬間。何か、強力な力が動くのを火保は感じ取った――
「かしこまりました」
エレベーターガールの声がした。
――――チン。
聞き覚えのある音がした。
次の瞬間、レストランの物陰から無数の白い腕が伸びてきて、火保たち全員をとてつもない力で突き飛ばし。
いくつもの破砕音が重なり、展望レストランの壁面ガラスが破壊され、大量のガラス片とともに、火保たちは空中に投げ出された。
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