『闇霧』9


      9


 三品目。魚料理ポワソン。《ツレサリクラゲノムニエル》。

 三品目の皿には、名前の通りクラゲのような何かが載っており、彩り豊かなさまざまな色のソースがかけられていた。これまで出てきた中では、一番料理らしい見た目をしている。

 ――少し。ほんの少しだけだが、食欲をそそられる。

「あの子は結局殺せなかったけど、それで良かったんだろうな。前科もつかずに、今もこうして食事できているんだから」

 新たに置かれた皿を見るでもなく、ぼんやりとした目つきで、小向は独り言のように呟いた。

「今日はこの食事会に来れてよかった。ボクの怒りや苦しさを、少しでもほかの人に共有できたんだから……。あ、給仕さん。何か、お酒ない? 喉渇いちゃったよ」

 のんびりした声で、小向は給仕係に言った。つい今まで纏わせていた緊張した雰囲気が消えている。

 明らかに、様子がおかしい。

「二〇〇四年のファム・サングラントがございます。お料理によく合いますよ」

「お、いいですねえ。じゃあそれもらおうかな」

「かしこまりました」

 ワイングラスがそれぞれの席に置かれる。背後から、誰のものとも知れない腕が伸びて、ワイングラスに真っ赤な液体が注がれる。

「うーん、いい香りだ。料理もうまそうだし」

 小向の様子は一変していた。高揚していて、声も弾んでいる。桂木は注がれたワインを黙って飲んだ。

「……ああ。いいわね」

 老婦人は満足げに息を漏らした。食卓の雰囲気が徐々に変わりつつある。この一卓だけが暗闇に飲み込まれていくような感覚。

「白原さん、飲まないんですか。美味しいですよ、このワイン」

 小向が上機嫌そうに話しかけてくる。

「いえ。私は結構」

 グラスの中の液体は確かに香しい芳香を放っていたが、これも卓に並んだ料理と同類なのは明白だった。すなわち、飲めばケガレを受ける。ファム・サングラント。フランス語で、《血まみれ女》。

「あんたも飲まないの? 気分が悪いなら気つけになるわよ」

 桂木が八尾のほうを見て言った。

「ええ……そうですね」

 八尾は青い顔を上げ、ひと口グラスの中身を飲む。数値に変化はない。だが、対面席全体に漂う異様な空気が、濃さを増したように見えた。

「さて、三品目をいただきましょう。不思議ね。さっきまであんなにまずそうに見えたのに、今度のはちょっとましに見える」

 桂木の機嫌も直っている。ケガレ値は上がっていないが、見えないところで怪物側に寄っているのだ。

 火保も同じだ。目の前の料理が魅力的に見えているのは、人間から遠ざかっている証拠だ。内側に溜め込んだ魔力を探す。プラスの力である魔力が感じ取れなくなった時、おそらく火保は正気を保てないだろう。

「そうですね。いただきましょう」

 小向と桂木がナイフとフォークを手に取った。食事が始まる。マサキとミオに、またひと口だけでも食べさせるか? 残りの魔力で相殺させられるなら、増えたケガレ値は三度火保が引き取ればいい。ひたすらに耐久が求められるが、今はやり過ごすほかは――……

「お姉ちゃん」

 マサキの声がした。

「僕、これ――」

 マサキが皿を見ている。ミオもだ。まるで人形のように感情の消えた瞳。だが、それよりも奇妙なのは、皿のクラゲだ。

 触手が、伸びている。二人の顔に向かって。青白い、触手が。

「知っている……」

 マサキが呟く。触手がマサキとミオの顔に絡み付く。

「駄目!」

 そう叫んだ瞬間、火保の顔にも、クラゲの青白い触手が襲いかかった。


 ――波の音が聞こえる。

 さざ波の立つ海辺には人影がなく、夏のようなまぶしい日差し永遠に照り付けている。

 知っている海だ。昔、見た覚えがある。そうだ。確か、こんな海辺で、幼い頃、火保は誰かを待っていた気がする。

 足元に、白いチョークの線が見える。円の上に複雑な記号を書き散らした奇妙な絵。魔法陣だ。その魔法陣のすぐ近くで、うずくまったままの少年が泣いている。

「ミオ……ミオ……」

 少年が泣いている。

 強い日差しが少年の影を黒く、黒く地面に打ち付けている。火保は幽霊のようにそこに立ち尽くして、緩やかに全てが終わっていく様を眺めている。

 道の向こうから誰かが走ってくる。男だ。けわしい顔の男。

「マサキ!」

 男の口から吠えるような声が出た。男はしばし、地面の魔法陣を見つめる。じりじりと太陽の光が少年と男と火保を焼いていく。

「お前がやったのか」

 男が言った。

 少年は泣いたまま、何も答えない。

「お前がやったのか!」

 男は少年の胸倉を掴み上げた。少年は泣いている。何もかもが終わっていく。少年自身の手によって。

 コンクリートの上に、水で描かれた歪な線があった。砂浜の向こうに、何かを引き摺ったような跡が残っていて、それが海まで続いている。役目を終えた魔法陣は消えず、誰が何をしたのかをただ静かに示している。

 あの子は、もういない。

 怪物に手を引かれ、海の中に消えてしまった。

 男の手が上がる。少年の頬が男の平手に打たれる。

 金属の擦れる音がした。いつの間にか、少年の衣服から鎖が生えていた。鎖は少年の影に溶け、闇の向こうへと続いているように見える。

「……山に行かなければ」

 男が呟く。全てが終わる。平和な時代の全てが。

「お山に連れて行かなければ」

 少年の体から、幾本もの鎖が生えている。

 ――おやまへいくみち まよったこ

 ――てんぐにさらわれ しらぬさと

 怪物が歌っていた手毬唄を思い出す。連想が、連想を呼ぶ。鎖は束縛の象徴。囚われた者である証。鎖に繋がれた者に祝福は、ない。

「……マサキ君、君は」

 夢の中で物を尋ねるように、意識と無意識の間を揺れ動きながら、火保は口を開く。

「一体、どこから来たの?」

 マサキの黒い瞳が火保を見ている。これまでの流れの通りなら、料理を介して見るのは過去の記憶であるはずだ。だが、今見ているものは違う。ミオがこの海で消えたのなら、柴崎ビルの中で火保がマサキとミオの二人に出会うのは矛盾が生じる。つまり、この海岸の白昼夢は、未来の出来事と取るべきだ。マサキが、これから犯す罪――……

「あなたたちを連れて来た〝お母さん〟は……」

 波の音がする。すぐ真後ろで。海水が放つ冷気を感じる。

 連れて、行かれる。

「本当に、ビルにいるの?」

 波が、割れる。青白い幾本もの触手が背後から伸びて火保の体を包み込む。太陽は隠れ、少年の体に影が落ちる――……


 目を開けると、対面の禍々しい面子が見えた。桂木と小向の二人が狂ったように笑いながら、ワインを片手にクラゲを食い千切っている。ソースで手が汚れるのも、食い千切ったクラゲの汁が服に掛かるのも気にしてはいない。

「男の子と女の子がいたのに海の中から時間が逆行してきたものだから未来は確定してしまったというわけなのねえアーハッハッハッハッ」

 桂木が高らかに引きつった笑い声を上げる。

「でも、でも、それはっ……ひひひひっ、それはそもそもひっくり返せた事なんですかねえ! たまたまクラゲに攫われたんじゃない。生まれる前からクラゲに攫われていたんじゃないですかねえ!」

 小向がワインでクラゲを流し込みながら笑い転げる。

「全て終わりです全て終わりです全て終わりです全て終わりです全て終わりです全て終わりです全て終わりです全て終わりで」

 八尾は俯いたまま独り言を呟き続けている。

 三人のケガレ値の数字にノイズが走っている。桂木が【12】、小向が【10】、八尾が【8】――

「――っ、マサキ君!?」

 はっとなって、火保は隣の席を見る。

 空席だった。手を付けられていないクラゲの料理が置かれ、並んでいた食器が散らばっている。椅子の上で、火保が渡したお札が、内側から燃えるように掻き消えていく。

「何で……」

「男の子は脱落してしまいました」

 答えたのは、給仕係だ。

「……脱落?」

「お料理を召し上がらずに己の因業に負けてしまったお客様は生きたままこちらで引き取らせていただいております。フルコースからは脱落です。お食事会が終わりましたら、私どものほうでいただく契約となっています」

 ――……契約?

 震える手で、火保は銃把を握り、グロック17を抜く。

「マサキ君を戻せ。お前たちの事情など知った事じゃない――」

 手の震えがひどくなる。上体が保てない。金縛り。食事以外の動作をした事によるペナルティ。駄目だ。儀式中は怪物どもに主導権がある。反撃は出来ない。

「ぐっ――う――」

 グロックを叩きつけるようにテーブルに置く。視界が揺れる。頭も、心も、どちらも壊されかねない。

「無駄な抵抗はおやめください。お料理はあと四品参ります。お食べになって、あの方たちのように楽しまれてはいかがですか」

「ふざけるな……誰がそんな……」

 カタン、と。

 食器の落ちる音がした。

「だ……め」

 ミオだ。まだ席にいる。ケガレ値は【6】。クラゲの皿には手を付けていない。未食みしょくによるペナルティ。

「ミオちゃん!」

 咄嗟に、火保はミオのほうへと手を伸ばす。駄目だ。何としてでも、彼女からケガレ値を譲ってもらわないと。すでに彼女が耐えられる数値ではない。

「だ……め。おねえちゃん……」

 ミオは、か細い声で言った。すでにその顔色は蝋のように白く、溜まったケガレが黒い靄となって、体中に纏わりついている。

「つぎが……くる。おねえちゃんは……さいごまでいないと……」

「ミオちゃん……?」

 ミオの震える指が、火保の胸元を指した。

「中に……いる子を……」

 ――見えている。この少女には。

「給仕さぁぁーん。次の料理を出してぇぇぇ」

 桂木の甲高い声がした。

「あんたたちぃぃ。辛気臭い顔してんじゃないわよ。オンナはねえ! 強くなくちゃいけないんだよ。そうでないとねえ、人間はすぐ他人を食べるんだから。チェスと株とボートレースに勝てるハートの女王にならなくちゃいけないの。娘にもそう言い聞かせてきたの、私!」

 桂木の両目は血走っている。黒い血管のようなものが顔や手に浮かび上がっている。

 またもどこからともなく腕が伸びてきて、クラゲの皿が下げられる。

 次の皿が来る。ガラスでできた細足の小さな器だ。載っているのは、小さな白い塊に、黒い粉がかかったもの。

「四品目。《ゾウテイナマリシャーベット》でございます」

 エレベーターガールの声が、頭の中に響く。四品目はソルベだ。火保は自分の手首を見る。ケガレ値は……【9】。

 肉体に、現実感がない。体内の魔力を探れない。数字を見るべきではなかった。あとひと口でも料理を食べれば、間違いなく火保は耐え切れない。無理だ。終わりだ――……

「あら。あんた、食べないの?」

 桂木が、席を立った。馬鹿な。そんなはずは。動けないはずだ。食事以外の行動は許されないはずだ。だが、目の前の桂木は、火保のソルベの皿を手に取ると、白いシャーベットをスプーンで切り取って、火保の口に近付けてくる。

「駄目よ。あんた。強いオンナにならなきゃ――」

 尋常ではない力で、火保の口が開けられる。抵抗出来ない。シャーベットが口の中に入ってくる。

 火薬の臭いがする。よく知っている。またトリップが始まる。ああ、でもこれはきっと――。

 火保自身の罪の味だ。


 暗闇の中にいる。

 この光景を、火保は知っている。かつて、視たのだ。

 これは未来の罪。いずれ、火保が犯す罪。

 その時も、いつもと同じように、火保はホルスターから銃を抜き、目の前の相手に銃口を向ける。

 相手は、背を向けている。よく見知った後ろ姿だ。黒いとんがり帽に、黒マント。長い、黒髪。

 相手が、振り返る。火保を信用し切った顔。銃口が自分に向いているなど、考えてもいない顔。

 ――魔女。麻來鴉。

 彼女の目が、火保を見る。驚いているのか。それとも彼女もまたこの未来を予見していたのか。表情を見るより先に、火保は引き金を引く。銃弾が、魔女と呼ばれる少女の体を貫通する。

 これは起こり得る未来。

 火保が、将来犯す罪。

 裏切り。仲間殺し。


 血を吐く。現実に戻ってきた事がわかる。もはや、この現実が悪夢みたいなものだが。大量の血が、テーブルを汚す。

 向かいの席で、歓声が上がる。

「すごい! やった! とんでもない!」

 小向が手を叩いて喜んでいる。足をばたつかせ、奇声を上げている。

「本物の人殺しだ! アハハハハハ! 本物だ! みぃーんな撃たれるぞ! みぃーんな撃ち殺されるぞ!」

 小向の言葉が耳に届いても、火保は何も思わなかった。もう思考するどころではない。火保の体にも黒い靄が纏わりついている。自分というものが消えようとしている。

「アーハッハッハッハッ! 強い強い強い強い強い! あんたが私の娘だったら良かったのにねえ!」

 桂木が何事か叫んでいる。だが、もう無理だ。助けられない。

 横を、見る。

 ミオの姿がなかった。席から綺麗に、姿が消えている。

「ああ――」

 駄目だった。失敗した。

 状況を見誤ったのだ。もっと早くに動いていれば。火保に、麻來鴉ほどの力があれば。身動きが取れなくなる前に、中にいるモノを解き放っていれば――……

「五品目。《ウサチャンスガタヤキ》でございます」

 血まみれのテーブルに、次の料理が置かれる。五品目。肉料理ヴィアンド。黒焦げになったウサギの人形。

 カチャカチャとナイフと皿が触れ合っている。桂木と小向が人形を切り分けているのだ。

 あと何秒、意識があるだろう? 視界が霞んでいく。手には、まだ銃がある。だが、それがどうした。マサキも、ミオも消えた。火保に出来る事はない。この儀式を終わらせる事だって、出来やしない……。

「……あら、これ」

 黒焦げた人形の切れ端を咀嚼していた桂木が、ふと呟いたかと思うと、満面の笑みを浮かべる。

「娘だわ」

 次の瞬間、特大の破裂音とともに、桂木の体が爆発した。真っ赤な血が飛散し、火保や、隣の小向の顔にかかる。小向は一切気にした様子もなく、黒焦げの人形を丸呑みすると、ワインをボトルから飲み干した。

「ぷっはああああ! やっぱり肉だよなあ! 桂木さん、このウサチャン美味しいですよ!」

 小向の瞳はあらぬほうを向き、肌はどす黒く変色して、体は肥大化している。口は頬まで裂けていて、声は人間のものではなくなっていた。

 怪物だった。

「素晴らしいなぁぁ! 退出チケットなんていらなかったんだ! ケガレを溜めて怪物になれば、ボクはすぐにでも自由になれたんだ!」

 小向が、真っ直ぐに手を挙げる。

「給仕さん! 次の料理を! フルコースはボクの勝ちだ!」

 退出チケットなどいらないと言ったばかりなのに、小向は勝利を高らかに宣言する。チケットの事を覚えているのが、彼の人間性の残滓なのか。

 体が重く、視界が黒に染まっていく。ケガレ値が増えたのだと、火保は理解する。小向が怪物に変じたように、火保の体も怪物に変じつつあった。人間の肉体、人間の心が消えていく。今、自分はどんな顔をしている? 悪鬼のような形相か。幽鬼のような形相か。いずれにしても、答えは一つ。我が身が怪物となるのなら、するべき事はたった一つ。まだ人間の手が残っているうちに、この銃で――……

 銃口を、見る。一瞬、ほんの一瞬だけ、思考がクリアになる。

 ――ああ、そうか。

 ようやくわかった。

「六品目。《      》でございます」

 エレベーターガールの声がする。皿が置かれる。何も載っていない皿が。六品目。デザートデセール

「ええ? これ――」

 小向が不満気な声を上げた瞬間。

 冷たい銃口を腹に当て、火保は自らに向かって引き金を引いた。銃声が四度轟き、火保の視界が真っ白に染まる――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

「すごい! 本当に撃――」

 意識を取り戻した火保は、視界が開けた瞬間狙いを定め、引き金を引いた。怪物と化した小向の体に銃弾が叩き込まれ、肥大した肉体が吹っ飛ぶ。

 激痛などという生易しいものではない痛みが、火保の全身を襲っていた。辛うじて、体内に魔力を感じる。ケガレ値を確かめる。【2】。自らを撃った穴は魔力によって塞がり始めてはいるが、体内に残ったケガレがまだ邪魔をしている。

「……ケガレ値、そうやって減らせるんだ」

 対角の席に座っていた八尾が、小さく言った。

「私の銃は浄められている。銃弾もそう。だから呪われたモノを撃てば、ケガレを祓う事が出来る。この儀式で他人を撃つのは怖かったけど、自分を撃つのは怖くない。自分に当たる分には構わないのだから」

 喋るたびに体が痛む。だが、意識ははっきりとしてきた。

「……ああ、怪物なら撃てるって事なんだ。半端に人間のままだと殺しちゃうかもしれないしね」

 天井を仰いだ八尾が納得したように言った。感情の消失した目で火保を見て、それから給仕係のほうを向く。

「給仕。七品目を」

「かしこまりました」

 給仕が一礼する。空の皿が下げられる。それから湯気の立つコーヒーカップが出される。

 七品目。カフェ。最後の料理。

「あなたみたいな人の事、何て言うんだっけ。エクソシスト? 巫女さん?」

「退魔屋」

 火保は言った。

「怪物どもの敵だよ。八尾さん」

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