『闇霧』8


      8


 猪狩の体は痙攣けいれんしている。まだ息はありそうだ。だが助ける事は出来ない。火保の体の中に、何かがいる。黒く重たい違和感。肉体を食卓に縛り付ける奇妙なエネルギーが、火保の中で生まれている。テーブルから離れようとすれば体が固まる。

「おねえ……ちゃ……」

 ひどく、か細い声が聞こえた。マサキの声だ。見れば、少年はひどく苦しそうに机に突っ伏している。隣のミオも同様だ。

「マサキ君! ミオちゃん!」

 火保はマサキの手首を握る。脈が弱い。マサキもミオも、見たところ呼吸が乱れ、顔からは血の気が引いている。

 嫌な気配がする。二人は食事に手を付けていない。ならば、これは――……

「ねえ、ちょっと。何よ、あんたのその数字?」

 桂木が呆けた声を上げたのは、その時だ。

「数字?」

 聞き返した火保は、桂木の頭上に数字が浮かんでいる事に気が付いた。アラビア数字で【1】。

「あなたも……ですよ、桂木さん。何ですか、その【1】というのは……」

 小向が息も絶え絶えに言った。彼の頭上にも【1】が浮かんでいる。その隣で突っ伏している八尾にも【1】。火保はマサキとミオを見た。二人の頭上には【3】。

「小向さん。私の頭の数字、いくつです?」

「……【1】、ですよ? 大人は皆、同じなんじゃないですか」

 小向が青い顔で答える。テーブルを見る限りは、そうだ。火保はもう一度猪狩を見た。さっきまで見えなかった数字が、今度は見えた。【5】。

「どうやら皆さん、数字が見えているようですね」

 知らない男の声がした。

 給仕係の男が、不気味な笑みを浮かべていた。エレベーターガ―ルも同じような表情だ。だが、何故だろう。さっきよりも不可解さを感じない。不思議な感覚だが、さっきよりもエレベーターガールの存在感がはっきりと増した気がする。

「皆さんはこちら側に近付いたのです。頭の上に浮かんだ数字がそのあかし

「こちら側……?」

 小向が怪訝そうに尋ねる。

「そう。我々、怪物の側に」

 給仕係が得意げな笑みで答えた。

「皆さんの頭の上に浮かんだ数字は、ケガレ値です。ひと口お料理を食べると、ケガレ値が一段階上昇します。そこから先は、お客様がたそれぞれの資質に左右されます。料理を完食されてもケガレ値が上昇しない方もいれば、あちらのお客様のように【5】の段階まで上昇する方もいらっしゃいます。ただし、ひと口も料理をお食べになったいない方は、ペナルティとして三段階ケガレ値が上昇いたします」

 やはり。マサキとミオの数字が大きいのはペナルティだ。ケガレ値【1】の火保でさえ苦しいのだ。【3】に達した小さい子どもは苦しいなどというレベルではないだろう。食事を回避させるだけでは駄目だ。この食事会自体から離脱させないと。

「ちなみに、お客様のケガレ値は右手首にも表示しております。ご自身のケガレ値を確認される際は、そちらをご覧ください」

 給仕係が微笑んだまま言い、

「皆様、お食事をお済ませください。次のお料理が参ります。お食事を完食させないと退出チケットはお渡しできません」

 エレベーターガールが全く同じトーンで繰り返す。

「ケガレ値が【5】になっただけで、人間はああなる……」

 自分の右手首を見たあとで、桂木は倒れた猪狩に目をやった。

「でも今の話じゃ、完食してもケガレ値が上がらない場合があるのよね? 給仕係さん」

「左様でございます。ケガレ値の上昇率は、お客様の資質次第ですので」

「……ふーん」

 桂木は目を細めて皿を見た。ナイフとフォークが動く。火保は思わず叫んだ。

「桂木さん!」

「言ったでしょ。私はここを一刻も早く出たいの。今さらビビっていられないわ」

 黒い象形文字を切り分けて、桂木はそれを口に運ぶ。戸惑っていた小向もそれに倣った。八尾もたどたどしく食器を動かしている。三人とも、ほどなく食べ終えるだろう。

 子どもたちは衰弱しつつある。何とかしなければ。

「……給仕。質問がある」

 火保は静かに言った。

「何でしょう?」

「ケガレ値を減らす方法はある?」

 給仕係が口の端をひきつったように持ち上げた。

「ございます。他人に譲ればいいのです。ただし、ケガレ値が下がりますと、ワタシの言葉も聞こえなくなります」

「それはケガレ値が【1】あればいい。どうやって他人に譲る?」

 大人の三人が手を止めていた。対面にいる人間の視線が火保に向けられている。

「双方の合意があれば譲渡できます。お相手の右手を掴んでください」

「わかった」

 火保はマサキとミオの二人のほうへ体を向ける。

「二人とも、私の右手首を掴んで。ケガレ値をひとつ、私にちょうだい」

「え……」

 マサキが、青い顔を持ち上げる。

「駄目だよ……そしたら、お姉ちゃんが苦しくなる……」

「私なら平気。君たちは絶対に無事に家へと帰す。今はここを切り抜ける事だけを考えて」

 言って、火保は無理矢理マサキの手を右手で握る。

「さあ、ミオちゃんも」

 苦しそうなミオが上体を起こす。震える手が、火保の右手の指に触れた。

「うっ――」

 何かが、火保の体に流れ込む。黒いモノ。呪い。ケガレだ。右手首の数字が変化する。【3】。

 あとは――

 皿を掴み、猪狩がやったように火保は料理を口に流し、頬張る。地獄のような味が口の中に広がる。悪夢のような感情のフラッシュバック。感情が壊される。料理を咀嚼そしゃくする。嚥下えんかする。体の中で黒いモノが大きくなろうとするのを意志の力で抑え込む。

「う、ぐっ、けほっ――」

「お姉ちゃん……」

 マサキが小さな声で火保を呼ぶ。マサキとミオのケガレ値は【2】。火保のケガレ値は料理を食べた事で【4】となった。

「大丈夫。心配しないで……」

 火保は言いながら、テーブルに目をやる。対面の皿はどれも空だ。ならば、問題あるまい。

「給仕。次の料理を」

「よろしいのですか。お子様は食べ終えられていないようですが」

 人を嘲笑うかのようなにやけ面の給仕係を火保は睨み付ける。

「それはあんたの考える事じゃない。次の料理を出しなさい」

「かしこまりました」

 給仕係が一礼する。どこからともなくテーブルに腕が伸びて、それぞれの皿が片付けられる。それから次の皿が出された。フルコース料理の二品目。スープ。

「二品目、《オトメノラクルイコンソメ》でございます」

 エレベーターガールが料理名を告げた。

 皿のスープは一見ただのスープで、前菜よりも料理らしく見えたが、皿の底が見えないほどに深そう・・・だった。

「……このスープ」

 何故だか、小向は動揺しているようだった。

「何よ、小向さん?」

 桂木がじろりと小向を見た。桂木のケガレ値は【2】。大した胆力というべきなのか。前菜を完食してもケガレ値がそこまで上がっていない。対して、小向のケガレ値は【3】。無言の八尾は【4】だ。

「いえ……そんな。ただ少し、変な感じが……」

 言いながら、震える手で小向はスプーンを取り、コンソメを掬う。火保もスプーンを手に取った。

「マサキくん、ミオちゃん。このスープを少しだけ舐めて。それでひと口食べた事になる。多くなったケガレはまた私が引き受ける。とにかくケガレ値の急上昇だけは防がないと」

 マサキが頷いた。ミオがスプーンを手に取った。火保はスプーンをコンソメに入れてひと口分掬う。掬ってみればただの水のようなそれを、口に運ぶ。

「うっ」

 意識が、一瞬飛ぶ。

『てめえ、ふざけんな!』

 湖が見えた。火保は後ろから突き飛ばされて、桟橋の上に転がった。

『キモいんだよ、デブ。いつもアタシの事ちらちら見やがって。舐めてんじゃねえぞ』

 女子高生の姿が見えた。三人か、四人。男子高校生の姿も一人か二人ある。立ち上がろうとする前に、女子高生の足が火保の腹を蹴り飛ばす。

『妊娠してんのか、デブ。何だよその腹は。なあ、おい』

『こいつ、アンタとヤリたいんじゃないの? 絶対今もボッキしてるよ』

『はっ。キモい。マジで無理。殺そ。この湖に捨ててくわ』

 男子高校生が火保の足を持つ。桟橋の上を引き摺られていく。冷たい湖が近付いてくる。

『おいこいつ、マジでおもてーぞ』

『じゃあな、小向。あの世でシコシコするんだな』

 下品な言葉が女子高生の口から吐き出される。火保の体が浮かぶ。自分の口が何か声にならない声を叫んでいる。火保は暴れる。太った自分の指が・・・・・・・・女子高生のシャツを掴む。

『は?』

 桟橋が、不意に崩れる。根元が腐っていたのか、老朽化していたのか。冷たい湖の中に何人かが落ちた。指は、女子高生のシャツを掴んだままだ。

『がっ。げほっ――』

 女子高生が溺れかかっている。殺意が沸き立っている。今、ここでこいつを湖に沈めてしまえば――

『ばっ、小向、てめえ、やめろ――』

 火保は、自分の腹を蹴り飛ばした女子高生の頭を掴む。体重に任せて水面下へ押し込んでいく。すかさず後ろから火保は掴まれ、自分が水面下に押し込まれる。

 女子高生はすでに自分の手を離れていた。どこかからギャアギャアと泣きわめく声がする――……

「――っ! うう」

 火保は、思わず顔を上げた。またも、他人の記憶だ。しかし、今のは……

「小向さん」

 小向はどこか遠くを見るような目でスープを見つめていた。

 まるでその中に、あの女子高生を見ているかのような目つきだった。

「……結局、殺せなかったんだよ。ものすごい殴られたしね。こっちが死ぬところだった」

 スプーンを持つ手が震えている。

「何が乙女の落涙だよ。ボクが悪いっていうのか」

「溺れた方は、その後、水と太った方がトラウマになったそうですよ」

 給仕係がぼそりと言った。小向の顔から感情が消えていた。皿を乱暴に掴み、一気に中身を飲み干す。小向は皿を投げ捨てた。その顔は蒼白だった。

 ――どうやら傾向が見えてきた。

 このフルコースで出される料理は、出席した人間が他人に与えたトラウマがモチーフになっているようだ。口にしたものは、その記憶を体験させられる。人を傷つけた記憶を。

 だが、もしそうだとすると、違和感がある。フルコース料理は七品。出席者は七人。もし一人につき一品、対応した料理が出てくるのだとすると……。

「はっ。何よ、くだらない。早くも程度が知れてきたわね。ここのコースも」

 桂木がスープを飲み終える。ケガレ値【3】。小向は【4】。八尾は耐えたのか、【4】のままだ。

 ひどい味のスープを飲み終え、火保は自分の手首を見る。ケガレ値に変動なし。マサキとミオは【3】に戻ってしまった。次の料理が来る前に、何とかしなければ。

「二人とも」

 火保は右腕を二人に向ける。マサキとミオが心配そうに火保を見た。

「でも、お姉ちゃん……」

「大丈夫。考えがあるの」

 幼い子どもの手が、おずおずと火保の右腕に伸びる。

「さあ、次の料理を出してちょうだい」

 桂木が言った。

 すぐに次の皿が来る。火保は自身の内側に意識を向ける。体内にある魔力のカプセルの存在を感じ取る――マサキとミオ。二人の手が右手に触れる――黒いケガレが体内に流れ込む。体内の魔力のカプセルを寸でのところで割る。カプセルは観念的な存在だ。だから念じれば、割る事もできる。一瞬、高純度の魔力が体内に溢れ、流れ込んできたケガレを飲み込む。

 皿が置かれる音が聞こえた。

 火保は目を開ける。右手首を見る。ケガレ値は……【4】だ。増えていない。

 耐えた。少なくとも、今は。

「三品目、《ツレサリクラゲノムニエル》でございます」

 エレベーターガールが、変わらぬ調子で言った。

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