『闇霧』5


      5


 コツ、コツ、コツ、という規則的な音で、麻來鴉は目を覚ます。覚醒すると同時に、自分が気を失っていた事を思い出し、即座に臨戦態勢を取る。ここはどこだ。何分眠った。武器は。五体はあるか。火保は無事か。

 徐々に、状況を理解する。愛用の槍は手に掴んだままだ。マントも、帽子もそのまま。欠けたものは何一つない。

 天窓から青白い光が差し込んでいるこの部屋には、大きな柱時計が立っていて、コツ、コツ、と時を刻んでいる。麻來鴉は背後をちらと見て、自分が古びた革のソファーで眠っていたらしい事を悟った。

 天窓の真下に、アンティークの椅子に腰掛けた男がいる。手に持った本に目を落としたまま、男は何の抑揚もなく言った。

「起きたかい。鴉の魔女」

 うねる銀髪を煌かせ、惑乱の王子ガルタンダールはページをめくる。隙だらけだ。だが、麻來鴉は、すでに自分が相手の術中に落ちている事を理解している。今ここで何かしても、無駄だろう。

「わたしを殺さなかったの? そんな価値もないって事?」

「やれやれ。血気盛んなお嬢さんだ。私は趣向を楽しんでほしいと言ったのだがね」

 暗黒色の瞳が麻來鴉を見た。待ち焦がれた宿敵を改めて目の前にして、麻來鴉は自制心を取り戻していた。

 必ず、復讐の機会はある。だが、今は知るべき事を知らなければ。

「趣向? パーティーにでも招待したつもり? わたしはお前の首を取りたくてうずうずしている。さっさと続きを始めよう」

 闇の王子が薄く笑ったのがわかった。

「よしたまえ、魔女よ」

 ぱたんと、本が閉じられる。

「まださっきの傷が癒えていないのだろう。傷口をルーンで塞いでも完全ではない。まずは休んだらどうかな。この部屋は無限の夜の部屋。今日のためにわざわざあつらえたんだ。君と、二人っきりで語らうために」

「語らう?」

「そう」

 空間が一瞬、縮まる。十メートルは離れていたであろう麻來鴉とガルタンダールの距離が縮まり、さながら居間にでもいるような近しい間隔でアンティーク椅子に座ったガルタンダールと、ソファーのそばで立ち竦んだ麻來鴉が向き合う。

「掛けたまえよ。茶の用意もある」

 黒檀こくたんのサイドテーブルが床から音もなく生えてくる。磁器のティーカップとソーサーが机上に描かれるように出現し、湯気の立つ溶けた琥珀のような色の紅茶がカップの中に湧いた。

 ――毒の心配はないだろう。入れる必要もない。

「準備がいいのね」

 麻來鴉は槍を置き、ソファーに腰掛ける。

 こちらの格を試されている、という事はわかっている。退魔屋としての格、魔女としての格、七ツ森麻來鴉という人間の格。その値踏みするような向こうの思惑は気に入らないが、挑まれた勝負なら受けてやる。

 カップの中身に口をつける。顔のすぐそばで花開いたかのような芳醇な香りと、口の中に残る渋さ。

「……紅茶は詳しくないんだけど」

「ダージリンの秋摘みだ。市販のものだが、このアバターの口に合ってね」

 嘘は言っていない。紅茶の味に不自然な点はないし、紅茶どころかこの空間全体に呪力を感じない。

「〝人間〟を体験できない事は、私にとって損失だ」

 本をサイドテーブルに置いて、ガルタンダールはティーカップを手に取る。

「……何、急に」

「言葉の通りだよ。アバターを通じてとはいえ、せっかくこの世界へ越境してきたというのに、まるで宙に浮いたままのような居心地の悪さだ。君ら人間ならば、七年の歳月というものにはそれなりの味わいがあるのだろう? 私にとっては一瞬だった。このアバターを組み上げたと思ったら、それで終わりだ。何というのかな、そう、生きている実感がない」

「当たり前だろう。お前らは元々この世界の住人じゃない。とっとと闇霧の世界ごとこの世界から引き上げて、永久に闇と霧の中で暮らせばいい」

「君らにしてみれば当然の言い分だな。だが、この侵食現象は自然発生的なものだ。あらゆる星々に終わりがあるのと同じく、闇霧の世界がほかの世界を飲み込んでいくのは避けられぬ事。闇霧の一族と呼ばれる我々の意志でさえ介入できない」

 人形めいた奇妙なまでの美顔の口が動き、いやに物分かりのいい言葉を吐き出す。ガルタンダール自身が何度も言ったように、目の前のこの男は、ガルタンダールのアバターだ。人間ではない。人間のような精神など持ち合わせていない。心のないその言葉は不愉快な音でしかない。

「では何故、わたしの家族を踏みにじった?」

 腹の底から湧き上がる怒りに身を任せながら、麻來鴉は射殺すように言葉を放つ。

「私の調査が、君の人生に多大な影響を与えた事は理解している」

 顔色など変わるはずもなく、惑乱の王子は淡々と言った。

「あの出来事が宇宙によって定められた確定事象なのか、それとも分岐し得るものだったのか、まだ結論が出なくてね。もしそれが解き明かせれば、私の役割もはっきりと――」

 殺意が、麻來鴉の体を突き動かしていた。素早く槍を掴み、ガルタンダールの顔面を貫く。……無理だ。穂先が顔の寸前で止まっている。

「ここで我々が直接戦う事はできない。ここは無限の夜の部屋。時間を共有するための部屋だ。休み、語らい、遊戯に興じる。友人のように」

「お前と友人になった覚えはない」

 怒りが言葉を紡がせたが、それが限界だった。見えない力が麻來鴉の体を強制的にソファーに戻し、手を脱力させ、槍を手放させる。

「っ……」

 魔力でも呪力でもない、もっと大きな力を感じる。世界そのものの力のような。ガルタンダールの言葉を信じるなら、この力は奴自身にも働いているはずだ。

「怒りの感情は理解できるが、この場では無駄だ。私は君と、我々を取り巻く全ての世界の真実について語らいたい」

「訳のわからない事をべらべらと。限界だわ。こんなに近くにいるのに、八つ裂きにできもしないなんてね」

 ガルタンダールが考えるように口元に手をやった。

 柱時計の針が進む音さえ耳障りだ。

「わかった。ゲームをしよう」

「……何?」

 麻來鴉の問いに答えるかのように、二人の間にローテーブルが出現した。ローテーブルの上には白と黒で色分けられた盤があり、やはり白と黒で色分けられた駒が並んでいる。

「チェス……?」

「長い夜を過ごすには遊戯が必要だ。友人同士で殺し合いをしないために」

「友人じゃない」

 麻來鴉はすかさず否定したが、ガルタンダールは無言で見つめ返すだけだ。

 一体、何を考えているのか……。

「このゲーム、勝てば君の望みを叶えよう」

「わたしの……望みを?」

「ああ。心の底から望む事をね」

 この男に心を見透かされるなんてごめんだ。麻來鴉はガルタンダールの顔を睨む。

「代わりに、君が負けたら、私の望みを叶えてもらおう。世界の真実を知る手伝いをしてもらう」

「……面白いね。負ける気は当然ないけれど」

 盤上を見る。何の変哲もないチェスセット。ガルタンダールは白。麻來鴉は黒だ。チェスでは白が先手せんて、黒が後手ごてである。

「黒のほうが好みかと思って先手はいただいたが、もし白が良ければ……」

「馬鹿にするな。漆黒は鴉の本懐だ」

 何故だか、ガルタンダールは満足げな顔を見せた。が、それも一瞬だ。

「それでは始めよう。これも本日の趣向。せいぜい楽しんでくれ」

 ガルタンダールの細い指が、白のポーンをまむ。柱時計が時を刻む音がする。だが、無限の夜と呼ばれるこの部屋に、夜明けが訪れる事などあるのだろうか。取り留めもなく湧き出す思考が収斂し、麻來鴉は盤上遊戯だけに集中する。このゲームの王手チェックは、すなわち現実の詰みだ。槍を手に取るのと同じく、麻來鴉は黒のポーンに手を伸ばした。



 小野英正管理官は《ムーサ・柴崎ビル》を監視するために広域通路に設置された幕屋の中で、飛び交う情報を頭の中で整理しながら、事態を注視していた。傍らには、民間の協力者である霊能コンサルタントの十文字浩太郎の姿もある。

「七ツ森、マーカー信号消失」

 観測を担当する専門スタッフが、冷静に声を上げた。

「追跡中。――マーカー信号、キャッチできず。再度追跡を開始」

「七ツ森の反応が消失したのはどの辺りだ」

 小野はスタッフに問う。同時に、自らのタブレット端末に表示したビルの見取り図に目をやる。

「不明です。七ツ森のマーカー信号がロストする手前まで、両名のマーカー信号がビル内に複数点在していました。欺瞞呪術、あるいはジャミングの模様」

「こちらの動きなどお見通しか……。構わない。七ツ森の信号のタイムラインを全て共有してくれ。B班は七ツ森を見つけ出すんだ。A班はマーカー追跡を続行。白原は絶対にロストするな」

 幕屋内は緊迫していた。七ツ森麻來鴉と白原火保がビルに入ってから一時間も経っていない。だというのに、いきなり突入要因の一人を見失った。マーカー信号のロストは想定の範囲内だが、いかんせん早過ぎる。中で一体何が起きているというのか。

「加持祈禱班、呪璧解体の進捗はどうか」

 小野は通信機器を使い、ビル周辺の警官隊に連絡する。

『熊野からの応援隊による祈祷中に呪詛返しが発生。現在、態勢を立て直しています』

 通信機器からの応答。呪璧は、その名の通り呪いだ。あれだけ大きな建物が呪璧にすっぽりと覆われているとなると、それだけで巨大な悪霊のようなものだ。だが、もしこの呪璧を崩せれば……あるいは、崩すとまではいかずとも弱体化できれば、内部への突入の道も見えてくる。

「地下駐車場はどうだ?」

『入り口はシャッターが下り、やはり呪璧で覆われています。SATによる呪璧解析を継続中』

「どこでもいい、ウィークポイントを探してくれ。これだけ大きな呪璧だ。必ず展開のかなめとなる呪物がある。地下以外にも窓際を洗い直せ。方角を確認してビルの丑寅うしとらを調べろ。鬼門から邪気を吸引しているはずだ」

『了解。全班に伝えます』

 通信終了。思わずため息をつく。県警がこれまで扱った事案の中で、間違いなく最大規模だ。奥の手の封印プランとて、正直成功の見込みはない。つまり、考え得る未来は二つだ。中の二人が首尾よく事件を解決するか、失敗を承知で封印に踏み切るか。後者の場合、小野を含め、作戦に参加している全員の命の保障はない。地獄の苦しみを味わう事になるだろう。そしてこの国には、対処不能レベルの異界が誕生する……。

「管理官」

 大柄の男が近付いてきた。顔には十字によく似た赤い火傷の痕がある。霊能コンサルタント、十文字浩太郎。

「オボロから連絡がありました。盤石先生が宝剣の準備をしています。宝物庫から出すのに、しばしの時間をいただきたいと」

「良かった。先生の宝剣ならあの呪璧も斬れるだろう。先生の到着はいつ?」

 十文字は僅かに口ごもった。

「……およそ、三時間後」

「そんなに? もっと急がせられないのか」

「宝剣を使うためには、寺院内の特別な手順を踏む必要があります。もちろん先生も現状は承知されていますが、これ以上は……」

 胸中の苦々しい思いを何とか振り切る。何を言っても、どうにもならない。考えるのは次。次の一手だ。

「いや……ありがとう。先生には何としてでも来ていただかなくては」

 不意を突くように、卓上のスマートフォンから着信を知らせる電子音が鳴り響く。相手の名前を見て、小野は通話ボタンを押す。捜査一課、松本警部補。

「小野だ」

『松本です。本件の被疑者らしき人物を特定しました』

「何だって!? 一体何者なんだ」

『はい。該当の人物は、界隈でムシュクと呼ばれる呪術師です。漢字二文字で、『無い』に『祝い』と書きます。動物の生贄を使った呪詛を本業にして、柴崎市内を根城にしています。呪術師にしてはかなり派手なほうですね。裏カジノでの目撃情報のほか、組との付き合いもあるようで、会合にも何度か顔を出しています。ただ、ここ数週間は姿を見せていないようです』

「ありがとう。すまないが、すぐ資料を送ってくれ」

 通話を切りながらも、小野は松本の報告から無祝という呪術師を思い描こうとしていた。

 確かに、手口は一致している。報告にあった〝派手なほう〟というのは、私的な行動の派手さであって、犯行手口を指してはいないだろうが、今回の犯行も大袈裟ではある。ビル一棟丸ごと呪ってみせたのだから。

 しかし、どうも違和感がある。あの映像で見た呪術師は、もっと陰気な印象を受けた。少なくとも映像では、犯行を誇示するような素振りは見られなかった。

「十文字君。被疑者の目途がついた。無祝と呼ばれる生贄を使う呪術師だ。聞いた事はあるか?」

「無祝……ですか。確か、この辺りの暴力団が抱えている呪術師が、そんな名前だったと思いますが、すぐには……。すみません」

「いいんだ。その人物で合っている。十文字君、意見を聞きたい。今回のような大規模な呪術テロを、奴は何故企んだのだと思う? もちろん、闇霧の一族という不可解な要因があるのは承知しているが、狙いが知りたいんだ。この規模の呪術が行き着く先には、何がある?」

 十文字はしばし考え込むような素振りをして、山高帽に軽く手をやった。聞くところによれば、この山高帽は護符のようなもので、身に着けておけば思考を助けてくれるのだという。

「呪術は、行使された瞬間から、その場に呪力を発散させます。例えば、誰かが呪殺された場合、被害者の負の感情が邪気となり、呪力に加算され、さらに大きな力となります。呪力とは負のエネルギーであり、場に存在すれば異常を引き起こします」

「異層転移、だな。我々のいる現世と異界とが接続される現象だ」

「そうです。今回のような大規模な呪術の場合でも、起こる事は変わりません。呪力をもって何者かを傷つけたり、殺したりすれば異層転移が引き起こされます。狙いは、やはりそれではないでしょうか。莫大な呪力エネルギーによる異層転移で、さらに多くの混沌をもたらす、とか」

「私も概ね同意だが、もっと根本を考えたいんだ。たとえば、あの呪璧。あれだけの量の呪力が場に存在しているというのに、ビルの周辺で異層転移は発生していない。何故だ?」

「それは……」

 言葉に詰まった十文字に対し、小野はさらに言った。

「聞いてくれ。私の考えはこうだ。奴の狙いはビルと中の人間を呪う事じゃない。ビルはあくまでも舞台として確保されたに過ぎない。本命の儀式はまだ内部で進行中で、それには、あの七ツ森と白原が必要なんだ。敵方は例のカードでさも七ツ森だけを指名したよう見せたが、実際には二人とも必要としていたんだ。しかも、おそらくは単純に命を狙っているわけでもない。もし彼女らの命だけが必要なら、ビルに入った時点で総攻撃でもかければ済む話だ。わざわざ泳がせ、七ツ森だけを確保し、白原を今も生かしているのは、白原にも中の儀式に参加してほしいからだろう」

「麻來鴉を確保、ですって?」

「確保だ。おそらくな。マーカー信号はロストしているが、少なくともまだ殺されてはいないだろう。あのカードは呼び出しであり、招待状だ。すぐに殺すつもりなら、もっと強引にでも拉致しようするだろう。わざわざ招き入れたのは、七ツ森に会いたがっている者がいるからだ」

「闇霧の一族……」

 十文字が山高帽の位置を直す。

「闇霧の一族と無祝は、ある種の契約によって動いているはずだ。一族の者が儀式の実行を手助けする代わりに、無祝は七ツ森を確保したうえで、儀式を完遂させる役目を担う、とかな。この儀式によって発生する呪力量は莫大なものだろう。これを、ただ混沌を生み出すためだけに使うとは思えない。必ず何か、特別な目的のために使うはずだ。大量の呪力によって発生する異層転移のコントロール。これを成し得た場合、一体何が可能だと思う?」

 十文字は山高帽に手をやったまま、広域通路から見える塔のような建物をじっと見つめていた。真っ赤な呪璧に覆われた、悪夢のビルを。

「ゴールの設定……」

 ぽつりと、十文字は呟く。

「異層転移をコントロール可能な場合、行きたい異界へのゲートを繋げるはずです。ほかにも大量の呪力によって時空間は歪み、時間の流れは緩やかになり、停滞する。それから……」

 自信はない様子だったが、十文字は続けた。

「時空間の歪みによる過去への干渉。異界へ繋がる力を時間の流れにぶつける改変術……。理論上ですが、時間逆行が可能です」

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