『闇霧』6


      6


 天正てんしょう十一年五月。

 戦国武将、柴田しばた勝家かついえが家臣、柴崎しばさき馬褒まほめは政権のいしずえを着々と築きつつある羽柴はしば秀吉ひでよしを討つべく、一族郎党を率いて密かに出立。途中立ち寄った武蔵国むさしのくにで、羽柴家家臣小向こむかい繁信しげのぶの一派と鉢合わせ、すぐさま合戦となった。

 賤ヶ岳しずがたけの戦いで失った主君柴田勝家の仇を討たんとする柴崎がたの猛攻凄まじく、戦いは夜半を越えて続いたが、夜明けまで耐え忍んだ小向方の決死の反撃により、形勢は一気に逆転。そのまま小向方が勝利を収めた。世に言う、《小向・柴崎合戦》である。

勝利した小向繁信は、敵ながら柴崎方の勇猛果敢な戦い振りを称え、戦場となった一帯を柴崎原しばさきはらと呼んだ。のちの柴崎市である。

 柴崎方はこの戦で一人残らず討ち死にし、青草の野原はおびただしい返り血で真っ赤に染まった。

 ある資料では、柴崎方の兵は一、二度斬られただけでは止まらず、斬られたそばから傷口がまるで塞がっているかのように何度も何度も立ち上がり、最終的には皆、頭を潰されるまで襲い掛かってきたという。この資料では、柴崎家の棟梁である柴崎馬褒が、実は外法に通じており、妖術を用いて兵を操ったとも、そもそも真っ直ぐに秀吉の元へ向かわず、わざわざ武蔵国に立ち寄ったのも、より大きな呪詛の下準備のためとも書かれているが、信ぴょう性は低い。

 奇怪な逸話はほかにもある。合戦が終わり、小向繫信が戦地を検分していた時の事だ。ふと、小向は何者かの視線に気付き、振り返って野原を見回した。

 白い、奇妙な影が見えた。大柄で、決して人間ではない。獣だ。馬よりも大きく、牛のようにも見えるが体毛が豊かで牛ではない。だが、牛のように角が生えている。

 見た事もない奇妙な獣は、確かに、小向らのほうをじっと見ていた。距離は十分離れているというのに、小向は獣の視線を一身に受けているような気がして、寒気がした。獣の額には、何か奇妙な印が刻まれているようにも見えた。

 気が付くと、獣の姿は野原のどこにもなかった。殺したばかりの柴崎方の死体が異様に腐敗している。小向は柴崎方を丁重に葬った。一説には、小向は柴崎の祟りを恐れ、その霊魂を鎮めるために、この地を柴崎原と呼ぶようにしたという。

祟りのためかはわからないが、小向繫信は十年後のある晩、突如乱心し、家中の者を惨殺したあとで、自刃して果てた。

 数世紀が経ち、平成の世を迎え、柴崎原の名前も過去のものとなった頃、この地にある建築物が建てられた。円筒状の高層ビル、《ムーサ・柴崎ビル》である。



 万華鏡工法カレイドスコープ・メソッドによって構造が絶え間なく変化する闇の中を、男は明かりもなく歩いていた。

 闇は、馴染みの棲家だった。男の人生に光が差した事などない。男に備わった唯一の才能は他人を呪う事であり、それによって得られた金品が男の心を満たす事はなかった。結局のところ、呪術師とは他人の暗部を肩代わりする仕事でしかない。進む先は惨めな生、待ち受けるのは惨めな死。誰かにかえりみられる事もない。要するに、男は呪術師のくせに真っ当過ぎた。悪魔に魂を売り、人類の敵となる覚悟がなかった。だから苦しんでいるのだと、男は自嘲していた。

 あの呪文書に巡り合うまでは。

「く、くく……」

 込み上げた期待と興奮に、唇がめくり上がるくらいに震える。今回の儀式・・・・・・はこれまでとは違う。幾度も同じ事を繰り返した挙句、ようやく違った目が出た。闇霧の一族。それに、魔女。

 今度こそ、願いは叶えられるだろう。たった一人で追い求めた悲願だ。この狂った世界で、自分一人だけが罰せられた事こそが罪だ。魔女を筆頭に、このビルに居合わせた数百人の命を贄に、必ずこの世の運命とやらに罪をあがなわせてやる。

 だが、この神聖な儀式には異物が一人紛れ込んでいる。

 退魔屋、白原火保。

 あいつは、余計だ。鴉の魔女を殺せば完成するこの儀式において、障害物など不要なのだ。ガルタンダールは何故あの女を……。いやに、気に食わない。声を聞くだけで何だか落ち着かなくなる。棲家である闇が揺るがされる。

 あの女の顔が頭から離れない。

「おうちのおにわで おにみたこ」

 闇のどこかから、歌が聞こえる。

「ほうしにもらわれ しらぬはま」

「……っ、ああああああああぁっ!」

 込み上げてくる強い怒りの衝動。人生の闇。化け物である事を自覚する惨めさ。化け物である事を受け入れられない弱さ。いや、もういい。大丈夫だ。今回こそ、うまくいく。手に入れる。必ず。人生の報い。得るべき報酬。受けるべき祈り。

「やる。やる。やるやるやるやるやる……」

 祝福は、ある。永遠の闇を繰り返すこの人生にも。数多の供物を捧げる事で、ようやく手に入る。命も、時間も。数え切れないほど捧げてきた。男の名は無祝。古き名前は忘れた。今の名前も、もうすぐ意味はなくなる。

「おやまへいくみち まよったこ」

 歌が、聞こえる。

「うるさいぞ、化け物め!!」

 無祝は四方八方に鎖を解き放つ。ついさっきまで上機嫌だったはずなのに、今は頭の中が怒りで満たされている。だが、祝福は目前にある。化け物も、退魔屋も、邪魔する者は全て排除しなければならない。

「今度こそ成功させる。今度こそオレの、オレの……」

 失った数多あまたの時間。取り戻すべきたった一つの繋がり。今でも瞼に浮かぶ光景が、ひたすら無祝を駆り立てる。幼いあの日、あの砂浜。永遠に失われたあの子の姿。無祝は狂っていた。だが同時に狂気こそが、凡人には成し得ぬ奇跡を成し遂げるのだ。


 白い光に包まれた銃弾を追って、火保たちは通路を進んでいた。

 心身の消耗は激しい。初戦から魔力を使い過ぎた。火保の魔力量は退魔屋でいえば平均的なもので、特段秀でているわけではない。これを補うために、かつて火保は《三蔵さんぞう》という仮想の臓器を体内に作り出す修練を積んだ。この仮想臓器に魔力を溜め込み、バックアップにしている。今回はそれに加えて身体の数か所に魔力のカプセルを打ち込んいるため、一時的にではあるが、魔力量は普段の倍に増えている。だとしても、術の行使はもとより、傷ついた身体の治癒にも魔力を使っているため、余裕があるわけではない。

「あ。お姉ちゃん、あれ」

 マサキが声を上げる。出会った時は〝お姉さん〟だったのに、いつの間にか〝お姉ちゃん〟と呼ばれている。自分はそこまで子どもに懐かれるような人間ではなかったはずだが、と火保は内心おかしく思う。まあ、いい。少しは緊張も和らぐというものだ。

「見てよ。あの光っているの、さっきの弾じゃない?」

 マサキの言う通りだった。暗闇の通路をふらふらと浮遊している蛍のような光は、カトブレパスと戦う前に火保が撃った弾だ。

「そうみたい。どうやら追いつけたようね」

 銃弾にはビルの外に出るよう念を込めてある。出口を探し当ててくれるかもしれない。とにかく、今はこの子らを安全な場所まで避難させるのが先決だ。

 二人の様子をそれとなく伺う。マサキは多少持ち直したのか、この状況でも恐怖は薄らいでいるように見える。一方、ミオは俯いたままだ。

 有賀ミオ。彼女が感情を発露させた事で、変異したカトブレパスは何故か退いた。あの時の、魔力の鼓動……。

 火保の見立て通りなら、ミオは、霊感はおろか、おそらくは魔術的な才能にも目覚めつつある。霊感のない人間は闇の怪物どもにとってはただの餌だが、霊的素養に目覚めつつも身を守る術を持たない者は、怪物どもにしてみれば高級食材のようなものだ。その栄養価は高く、汚らわしい欲望も満たしてくれる。

 急がなければ。制限時間の事もある。一体、猶予はあとどれほどあるというのか。

 ――――カン。

 微かな、固いものがぶつかるような音がした。

 足元に、ひしゃげた小さな物が転がっている。火保には、それが何かすぐにわかった。銃弾だ。つい今の今まで、白い光を纏っていた銃弾。それが、高価そうな石材で出来たビルの床に落ちている。

「……え?」

 違和感。暗闇の中を歩いていたはずなのに、何故床が見えている。周囲の様子が、違う。

「お姉ちゃん……」

 マサキの声が震えていた。いつの間にか、火保たちのいるフロアには明かりがついていた。そこは、奇妙な形に変化していた。目の前にはエレベーターの扉があり、あとは全て壁だった。振り返ると、果ての見えない悪夢めいた通路がある。ずっとここを通ってきたというのだろうか。

 ――チン。

 音がした。目の前のエレベーターから。扉が開く。

「いらっしゃいませ。ようこそ、ムーサ・柴崎ビルへ」

 エレベーターの中から声がした。淡いピンク色の制服を着たエレベーターガールが、にこやかに火保たちを見つめている。即座にグロックの銃把を握る。いくらムーサ・柴崎ビルが、さまざまな企業の入った複合ビルだとはいえ、エレベーターガールは時代遅れだ。それに、このにこやかな表情が印象に残らない。一瞬たりとも顔が記憶出来なくなるこの感覚。認識に干渉されている。

 間違いない。このエレベーターガールは人間じゃない。

「お乗りください。上へ参ります。お乗りください」

 にこやかに同じ言葉を繰り返す女の姿をした何か。火保はグロックを構える。この距離なら外す事はない。女を狙う。

 引き金を――しかし、火保は引かなかった。

 エレベーターガールはにこやかに笑ったままだ。

 駄目だ。引けない。こちらはすでに視覚認識に干渉されている。目の前の女を狙ったはずが、マサキやミオに銃口を向けている可能性は十分にある。

「マサキ君。さっきのお札、まだ持っているよね?」

「え。あ、うん。持っているけど……」

「それは手放さずに、ミオちゃんと手を繋いだままでいてね」

「う、うん」

 言いながら、マサキがミオの手を握り直すのを、火保は横目で確認する。ミオはエレベーターガールを俯きがちに見たが、すぐに目を逸らした。

「今からこのエレベーターに乗る。ついて来て」

「え……。でも……」

 マサキは不安の滲んだ声で口ごもった。

「……無理だよ、お兄ちゃん。逃げられないよ」

 小さく、だがはっきりとミオが言った。

「駄目だよ。乗れないよ、お姉ちゃん……」

 マサキは怯え切っている。無理もない。

「大丈夫。私が二人を守る。でもマサキ君には、ミオちゃんを守ってほしい」

 火保は、強張ったマサキの顔を見た。真っ当な反応だ。この子たちが心を壊さずにいられる事自体が奇跡的なのだ。

 銃を仕舞い、火保はマサキの空いている手を握った。

「私が必ず出口を探す。それには君の助けがいる。お願い」

 マサキの手に体温を感じる。顔は強張ったままだったが、マサキはこくりと頷いた。

「ありがとう」

 火保はマサキの手を引いた。マサキはミオの手を固く握りしめている。

 三人がエレベーターに乗り込むと、扉が静かに閉まった。

 エレベーターガールがボタンを押す。二十七。最上階のボタンを。

「二十七階。展望レストランへ参ります。展望レストランでは、美しい柴崎市の景色を眺めながら、お食事を楽しめます」

 箱が上昇していく。エレベーターガールは扉のほうを向いたまま話し続ける。

「展望レストランでは三ツ星シェフが皆さまのお食事を用意しています。シェフはパリ、ミラノ、柴崎化成社員食堂、自宅、犬の餌、断食、落ちた物、お母さん、お父さん、で腕を磨きました」

 マサキの顔色が青くなった。ミオは俯いたままだが、兄の手を握り返している。

「わたくしはお母さんによって捨てられ、お父さんは顔を知りません。お母さんはお父さんの話をしませんでした。お母さんはわたくしの事を怖がっていました」

「やめなさい」

 火保は右手で刀印とういんを作る。こいつの言葉は危険だ。エレベーターが止まるより前に、こちらの精神を削る気なのだ。

「展望レストランではお食事が楽しめます。三ツ星シェフが調理を担当します。お母さんはわたくしをレストランに連れて行ってくれました。お父さんはまだ来ません。展望レストランではお食事が楽しめます」

 チン、と音がした。エレベーターが止まっていた。

 扉が開く。

「二十七階。展望レストランでございます」

 エレベーターガールが言った。

 赤いカーペットがまず目に入る。それから、白いクロスの掛かった長テーブルが見えた。広いレストランだ。大きな窓によって囲われた、テーブルがいくつもあるレストラン。どこか懐かしい気さえする。

「真ん中のテーブルへどうぞ。お連れ様がお待ちです」

「……お連れ様?」

 一瞬、麻來鴉の事が頭をよぎる。だが、あのガルタンダールという闇霧の一族が、そんな事をするはずはない。

 長テーブルの座席に、人影が見えた。四人いる。恰幅のいい初老の男。傍目にも着飾った老婦人。気の弱そうなサラリーマン風の男。一番若そうな無表情の女性。

 当然と言うべきか。誰一人、火保の知った顔ではない。

「お連れ様がお待ちです。どうぞお席にお着きください」

 エレベーターガールが全く変わらぬ調子で言った。

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