『闇霧』4


      4


 白原火保という人間のもっとも古い記憶は、七歳の頃に訪れたどこかの海岸にある。その頃、火保はまだ『火保』という名前ではなく、本当の名前で呼ばれていた。魔術と呪術に関わる者にとって、真の名は知られてはならぬものだ。だから、本当の名前とそれにまつわる記憶の全てを火保は封印した。最初の魔術の師、祖父の教えである。

 火保が思い出せるのは海岸だけだ。夏の海。人気のない砂浜。そこで、大切な誰かをいつまでも待っていた事を覚えている。


「君たちは……」

 火保は銃を降ろした。目の前の二人の子どもには魔力も呪力も感じられない。ただの人間である事に間違いはないだろう。

 小学生くらいの子どもだ。十歳かそこらの男の子と、それより年下の女の子。男の子は必死の顔でこちらを見ているが、女の子は隠れたままだ。

「どうやってここまで……。お父さんかお母さんは?」

「いない。ぼくたち、お母さんと来たんだけどはぐれちゃって」

 女の子が怯えた目で火保を見た。悪霊に抗う術を持たない子ども二人がここまで来られたのは幸運というほかない。だが。

「お姉さん、お母さんを探してくれる? ここから一緒に出なきゃ……」

 男の子が震えた声で言った。この異様な空間の中にあって、正気を保っているのは大した胆力だ。が、これはむしろ危機感から恐怖を押し殺しているに過ぎない。精神の許容範囲を越えれば、たやすく心は崩れるだろう。そうなる前に、何とかしなければ。

「悪いけど、今すぐお母さんは探してあげられない。まずは、あなたたちをここから出すのが最優先。このビルはもう、子どもがいていい場所じゃない」

「だめだよ、そんな! お母さんを助けないと!」

 男の子の大きな声に、女の子の肩が震えた。

「……お母さんは必ず助ける。でも先に、あなたたちを助けさせて。あなたたちをビルから出したら、私はお母さんを探す。ビルに残されたほかの人たちもね」

「でも!」

 なおも食い下がる男の子の袖を、女の子が掴んだ。

「お兄ちゃん……」

 男の子が振り返った。女の子が顔を小さく横に振る。

「……わかった。僕らは先に出るよ。でもお姉さん、お願いだからお母さんを助けて」

「約束する」

 返答しながらも、火保は考える。この子たちが無事だという事は、儀式発動時にビルに居たほかの人間も無事かもしれない。今のところ、犠牲になったのはトリガーにされたあのヤギだけだ。条件に合わない流血は儀式を破綻させ得る。ならば、ターゲットである麻來鴉以外の人間は、ビル内のどこかに隔離されているのではないか。

「名前を教えてもらってもいい? 私は白原火保。あなたは?」

「ぼくはマサキ。有賀ありがマサキ。こっちは妹のミオ」

 女の子がおずおずと火保を見て、すぐ兄の後ろに隠れた。どうやらかなり内向的なようだ。こういう子どもたちが異界にいるのは危険だ。無用な霊感を呼び覚ましてしまう。速やかに外部に連れ出さなければ。

 だが、どうやって。ひとまず入り口に戻るのがいいだろうが、ビル内は儀式のせいで万華鏡工法カレイドスコープ・メソッドが展開されている。ここへ来た道でさえ、すでに姿を変えているはずだ。

《俺を出せ》

 頭の中に、声が響く。

《俺ならばこのような呪い、一瞬で焼き払える。さっさと俺を外に出すがいい》

「黙りなさい。まだその時ではないとわかっているはず」

「……お姉ちゃん?」

 マサキが怪訝そうに火保の顔を見上げる。

「気にしないで。ちょっと独り言を言う癖があるの」

 それ以上の追求を避けて、火保は二挺あるグロックのうち、一挺を抜いた。

「な、何するの?」

「心配しないで。ちょっと調べるだけだから」

 薬室に息を吹きかけ、グロックを構える。引き金を引く。

 銃声が響き渡る。白い光を纏って放たれた銃弾が、軌跡を残しながら闇の向こうへと消える。

「あれを追ってみましょう。うまく行けば、出口まで辿り着けるはず」

 マサキは頷き、後ろにいたミオに手を差し出す。

「ほら、ミオ。行くよ」

 どこかぎこちないミオが、おずおずとその手を握った。

 びちゃり。びちゃり、と。

 何か液体のようなものが滴り落ちる音が聞こえた。

 火保は二人を腕で庇うようにしながら、周囲の様子を伺った。異臭がする。さっきまでなかった臭いだ。

 がちがちがちがち。

 何か、金属の触れ合うような音が聞こえる。

「あいつだ……」

 マサキが喉に貼り付いたような声で言った。

 どさり、と重たい何かが床に落ちた。

 奇妙な姿をしていた。

 獣だ。小山ほどの大きさ、びっしりと生えた固そうな体毛。まるまるとした胴体から、象か犀のように重そうな四足が生えている。頭部と思しき箇所は髪の毛のような長い毛が生えているが、尖った二本の角と、長い面持ちは牛を思わせた。

 異臭。顔を覆おうほどの長い毛。牛に似た姿。

「カトブレパス……」

 言いながら、火保は素早く懐からお札を取り出す。

「マサキ君。これを持って、一心に念じなさい。自分とミオちゃんを守るようにって。それから、そこから一歩も動かない事」

「わ、わかった」

 後ろ手にお札を渡すと、マサキはミオを抱き締めて小さくお札に祈り始める。

「ふ――」

 二挺目のグロックを抜く。

 カトブレパス。西エチオピアの怪物。その名は、ギリシャ語で『下を見る者』という意味だ。人間に友好的な存在ではない。いくつかのパターンはあれど、カトブレパスは邪視の眼を持っている。髪の中に隠された眼で見られたものは死に至る。単純ながら強力な呪詛である。

 こうした異界に怪物がいる事自体は不思議ではない。異界の内部では無造作にゲートが存在し、それが別の異界に繋がっているものだ。そして怪物はゲートを通じて移動してくる。

 問題は、種類である。カトブレパスがこの異界にいるのにはわけがある。何らかの要因、よすがが存在するはずなのだ。おそらくは、儀式の起点となったあの巻き物……。

「何か聞こうにも、物言わぬ怪物では無為、か」

 カトブレパスが唸り声を上げた。火保は素早く両方の銃をくるくると回す。見る者がいれば感嘆の声を上げるであろうガンプレイは、火保の魔力を引き出すための動作だ。白い炎のような魔力が零れ出て、マサキとミオをドーム状に覆う。

 最優先でやるべきは、カトブレパスの眼を潰す事である。

「ふっ!」

 魔力を爆発させて、火保は速度を得る。二挺の銃の引き金を引き、銃弾を頭部めがけて放つ。搦手はない。最速で叩く。

「ボォオォオオォッ!」

 カトブレパスが咆哮し、両脇腹の穴のような器官から異臭を伴う煙を吐き出す。黄色い毒煙だ。煙の濃さで視界を奪う上に、身体を麻痺させる。

「オン・マユラキ・ランデイソワカ!」

 孔雀明王陀羅尼を唱えながら、引き金を引き続ける。銃弾は自在に動き回りながら毒煙を次々と晴らしていく。残弾数は体感でわかる。カトブレパスの頭部に銃口を向ける。

 髪の毛がばさりと逆立った。生物的な外見にはそぐわない真球の黒い目が、火保を見た。

 ――いけない。

 邪視の眼に、暗い光が灯る。次の瞬間、黒い光線が眼から放たれた。寸でのところで体勢を変えて躱し、火保は着地する。

「光線型の邪視、ね」

 火保の全身を覆っている魔力が、少しばかり焼かれた感覚があった。光線が直撃したわけではないが、やはりカトブレパスの眼で見られただけでも呪詛の効果があるのだろう。

 音を立ててカトブレパスの体から、新しい脚が生えた。まるで蜘蛛の脚のようだが、その先端は禍々しい爪が備わっている。

「牛鬼の特性も持つのか」

 カトブレパスが、跳ねた。身軽な蜘蛛のような跳躍。伝承にあるカトブレパスには明らかにない動きだ。落ちてくる。火保の真上。怪物の巨体が。

火保は二挺の銃口を上に向ける。魔力を高め引き金を引く。残弾は残り少ない。残り数発の銃弾で蜘蛛のような脚の付け根を狙う。銃弾が怪物の脚を削る。一本……二本!

「っ!」

 カトブレパスの巨体が地面に着地するぎりぎりを狙って、火保は跳んだ。崩落した鐘楼が立てるような鈍い轟音。怪物の体がひしゃげる。

「……」

 マガジンキャッチボタンを押し、空弾倉を落とす。二つの空弾倉が床に向かって落ちていくのを火保は気にも留めない。

 その一瞬起こった奇妙な出来事を、マサキが見ていた。突如として火保の体から生えた、燃え盛るような白い二本の手が空弾倉を掴んだかと思いきや、新たな弾倉を二挺の拳銃それぞれに装填したのだ。

(今の……?)

 マサキの疑問に答えるものはいない。白い手はすでに消え去り、火保は落下した怪物から目を離さない。

 怪物――カトブレパスの体は微動だにしない。まるで虫の死骸のように脚を天に向けたままだ。だというのに、その体からは未だ底の知れない量の呪力を感じる。

「いくつか、打つ手を考えているんだとしたら――」

 物言わぬ怪物に、火保は言った。澱んだ水がぐるぐると回るのと同じく、奴の体内で呪力が動いている。怒りを解き放つその瞬間を計っているかのように――

「時間の無駄よ。来なさい」

 ごきり、と。

 カトブレパスの首が動いた。

 火保は二挺の拳銃をくるくると回転させ始める。己の中の魔力を高める。燃え盛る、白い炎。心の底から湧き上がってくる熱。魔力とはプラスの力だ。体の中で巡れば巡るほど、身体能力を向上させる。腕の振り、動きの切れ、引き金を引く指の筋肉、反射神経。

「ごフッ――」

 不意に、カトブレパスが呼気を漏らした。

 次の瞬間、カトブレパスの肉体のそこかしこに亀裂が入る。独特の緩やかな黒い線。瞼。

「っ!」

 目が開く。カトブレパスの全身の目が。十数個の邪視が一斉に火保を見つめる! 同時に、火保の二挺拳銃が火を噴いていた。魔力を増量して得た運動能力が、照準を補正し、連射速度を上げる。邪視の光線が届くその直前に銃弾を正確に怪物の目玉に叩き込む。合計三十四発の銃弾を瞬く間に撃ち尽くし、そのコンマ数秒後には白い手がすかさずリロードを行う。連続する銃声がフロア中に響き渡り、火保は、ただ射撃という動作に精神を一致させる。まるで自分そのものが銃になったような感覚。銃弾によって砕かれた幾条もの邪視光線が火保の身体を掠める。

 突然、鼻につく悪臭――

「っ!?」

 気付くのが少し遅かった。突如として起こった爆発に火保の体は吹っ飛ぶ。魔力が全身を覆っているが、この爆発は呪詛だ。

 カトブレパスは新たな変貌を遂げつつあった。牛鬼のような胴体に現れたいくつもの目玉がぎょろぎょろと動き回っている。軋んだ音を立てて、カトブレパスの背中が開く。白い、何かが見えた。巨大な、人の体だ。一切体毛のない真っ白な巨人の体。その体をくねくねと動かしながら、何者かがカトブレパスの背中から生えてくる。

「あれは……?」

 一体、何だ。

 白い巨人の顔には、耳があり、鼻があり、口があった。だが、瞼は、顔の半分ほどの大きさで、縦についている。

 目が、開く。一つ目の、闇からこちらを覗いているような目が。わかっている。あれも邪視だ。撃たなければ。だが、目の前の怪物はあまりにも異様だった。一体、カトブレパスの中にいくつの怪物が存在しているというのか。

「おやまへいくみち まよったこ

 てんぐにさらわれ しらぬさと」

白い巨人が手毬唄のようなものを歌う。あれも呪詛か。思考しながらも、積み重ねた経験値と鍛錬の賜物で、火保は素早く起き上がっていた。呪詛の爆発は体に相応の痛みを与えていた。もはや、手段を選んではいられない。あのカトブレパスの正体が何であれ、今ここで殲滅する。火保の内側にいる、怪物の力を使って――

《身勝手な事だな。だが、外に出られるのなら何でもいい》

 声がする。火保の中の怪物。火の化け物。解放されるその時を今か今かと待つ白い炎。いいだろう。望み通りにしてやる。その呪われた力で、同じ怪物を焼き払うがいい――……

「……来ないで」

 小さな、声が聞こえた。

 火保がそちらへ顔を向けると、小さな影が駆け出していた。

「っ、駄目――」

「ミオ!」

 火保とマサキが同時に叫ぶ。どうやってか兄の腕の中を抜け出し、火保の作った結界から飛び出した少女は、一体どういうつもりか、邪視の怪物の前へと駆けた。

「ミオちゃん!」

 走る。何の鍛錬も積んでいない少女が、邪視を受けて無事で済むはずがない。脳裡ではすでに最悪の事態を想定する。急げ。とにかく、急げ。

「おうちのおにわで おにみたこ」

 巨人が歌っている。あの大きな目が、火保の事も見ている。

「ほうしにもらわれ しらぬはま」

 歌詞がいやに頭に残る。何だ、これは。何だ――……

「来ないで!」

 少女の叫び声が、火保の困惑を断ち切った。

「あっちへ行って! 来ないで!」

 ――強い、魔力の鼓動――

 場に満ちた呪力が震えるのを、火保は確かに感じた。

「ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ」

 白い巨人が引きつるような笑い声を上げた。身をよじり、蜘蛛のように跳ねる。

 ――消えた。変貌したカトブレパス、白い巨人の姿は、もうそこにはなかった。

「ミオちゃん……」

 痛みを抑えながら、火保はまだ幼い少女に近付く。

 乱れた前髪の隙間から、彼女の暗い目が火保を見つめていた。

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