『闇霧』3


      3


 血が沸き立つほどの感情の中で、麻來鴉の思考は極めて冷静だった。手に持った槍を手放すと同時に、光のルーンたるシゲルのルーン・ストーンに魔力を集中させ、指を鳴らす。

輝けシゲル

 過剰に込められた魔力が行き場を失い、爆発する。銀髪の男はすでに麻來鴉から離れていた。手放した槍を呼び寄せると同時に、高密度の呪力めがけて穂先を叩きつける。頭部から太腿へ、太腿から腹へ。だが、穂先はまるで何かに弾かれるかのように、一向に相手の体に届いたという手応えがない。連撃を終えざま、麻來鴉は後方に跳んだ。麻來鴉自身の中で、魔力が盛っている。抑えきれないほどに。

 シゲルのストーンから放たれた光が収束していく。

「七年ぶりだね。鴉の魔女」

 麻來鴉のルーン・ストーンを弄びながら、銀髪の男は言った。

「彼からルーン・マスターの称号を継いだようだね。あのお嬢さんが今や立派な魔女だとは。私も嬉しい――」

「ふんっ!」

 雷を纏った槍を投擲する。確実に相手の腹を貫き通すほどの勢いで槍が銀髪の男に迫る。男は微動だにしない。ぐにゃり、と。まるで透明な軟体に食い込んだかのように、槍は男の手前でしなり、跳ね返って麻來鴉の手に戻った。

「以前と同じようには考えないほうがいい。第二のアバターは戦闘用だ。能力表出範囲は前よりも大きい」

「……生きているとは思っていた。闇霧ダークミストの一族はあの程度じゃ死なないだろうって」

 麻來鴉は槍を構える。銀髪の男。標的の顔を見据える。

「ガルタンダール。何を企んでいるのか知らないけれど、お前相手に出し惜しみはしない。全力で叩き潰す」

 瞳がターコイズブルーに輝く。穂先に、柄に、紋様が浮かび上がり、高まる魔力が周囲の呪力を、音を立てて散らしていく。

「懲りないね」

 ガルタンダールの指がルーン・ストーンを持ち上げた。

 穂先が雷を吐き出し、麻來鴉は突進する。ガルタンダールがストーンをカードのように人差し指と中指で挟んでこちらに向けた。透明な軟体のような防壁は呪術であろう。よく目を凝らせばそう、おぼろげながら防壁の輪郭は見て取れる。

 迸る稲妻を防壁に叩き付ける。ぐにゃりとした、弾力のある手応え。

「それでは、さっきと変わらないが――」

「〝変われダエグ〟」

 皮肉を言いかけたガルタンダールの言葉を遮って、麻來鴉は呪文を唱える。放出される稲妻が四方八方に飛んで、ガルタンダールを取り囲む。

魔力分身オド・アンドヴァラナウト

 左手で指を鳴らす。放出された稲妻が人の形をとる。ターコイズブルーの稲妻が形作るとんがり帽、マント、槍。形だけの麻來鴉の分身。その数、八体。

「魔女の分隊」

「ほう」

 分かたれた魔力の分身が、間髪入れずに軟体の防壁を攻撃する。物質ではない純度一〇〇パーセントの魔力の塊である分身が、麻來鴉の槍を模したターコイズブルーの槍で、次々と軟体の防壁を突き破らんと攻撃を繰り返す。

「手数が増えたところで」

 ガルタンダールが無造作に手を振ると、軟体の防壁が生き物のように動いた。鈍重だが、とんでもない衝撃だ。分身たちは危うく振り落とされそうになりながらも、何とか穂先を軟体に突き立てている。

「しぶといね。だが、これでは何も変わらない」

 ガルタンダールの挑発を、麻來鴉は空中で聞いていた。ガルタンダールは目でこちらを追えていない。懐からルーン・スト―ンを軟体目がけて鋭く投擲する。軟体に、ストーンが刺さる――

「〝溶けろラグ〟」

 パチン、と指が鳴るのと同時に、分身たちがずるりと形を崩す。突き立てた魔力の槍が僅かにつけた傷口から、ラグのルーンによって溶けて液体のようになった魔力の塊が、防壁の内部へと侵入する。

「破る必要はない。魔力は浸透する。だから――」

 ガルタンダールの真上から落下した麻來鴉の槍が、轟音を立てて稲妻を放つ。同時に、分散した八つの魔力の塊が軟体の内部で爆発した。

 ――爆心地には、何もない。黒焦げになった床があるだけだ。

 全身が総毛立つ。背後に感じる氷のような気配。振り返りざま槍を叩きつける。甲高い音を立てて、穂先が止められていた。ガルタンダールの指で摘ままれただけのルーン・ストーンに。

「ぐっ――!」

 すかさず槍を振るう。リーチの差はある。勢いも、重さも、構えた槍と摘まんだ石とでは当然勝負になるはずもない。にもかかわらず、側頭部を狙う横薙ぎも、腹部を狙う突きも、大腿部を狙う打ち込みも、全てガルタンダールが摘まんだ石に阻まれる。ナイフより短い自分の道具に、攻撃が防がれている。

「っ!」

 穂先の僅かなブレが、ガルタンダールの指先からルーン・ストーンを弾き飛ばす。ストーンが宙で回転するその一瞬、麻來鴉はガルタンダールの顔面目がけて槍を突っ込む。

 手応えは、ない。穂先の先端が触れるか触れないかの一瞬、ガルタンダールの気配が消えた。ストーンはまだ空中で回転している。時間の感覚がおかしい。異様なまでに一瞬が引き伸ばされている。

 ガルタンダールの姿がない。

「そう焦る事はない。魔女よ」

 耳元で声。全身が何かで斬り付けられたような感覚。

 次の瞬間、激痛とともに真っ赤な血が麻來鴉の体から噴き出した。声がした。喉の奥から吐き出した叫び声が。それが、自分が上げた叫び声だとはわかったが、麻來鴉にわかったのはそれくらいだ。

 力が抜ける。槍が手を滑る。ターコイズブルーの輝きが失われている。両の膝が床にぶつかったが、それ以上動けない。

 カン! と、目の前に何かが突き刺さった。真っ赤な血で汚れた石。麻來鴉のルーン・ストーン。

 細く、白い指が顎に触れる。さして力の入っていない指が、麻來鴉の顔を上げさせた。作り物めいた美顔が目の前にある。生き物の体毛とは到底思えない銀髪が揺れている。

「七年ぶりの再会だ。こちらの趣向を楽しんでもらわないと」

 黒く、深い闇をたたえた、宇宙の果てを思わせるような瞳。

 これが、惑乱の王子だった。


 鎖の重々しい感触が強くなる。息が出来ない。力で外すのは無理だ。そう判断すると同時にフードの男を狙い撃つ。フードの男が軽やかな動作で銃弾を躱し、その反動で鎖が引っ張られる。合わせて床を転げる事で締め付けられるのを防ぐ。面倒な相手だ。

「魔女以外には用はない。お前は何故、ここに来た」

 フードの男が陰鬱な声で言う。相手にする必要はない。今、考えるべきは鎖を外す事だ。

《手伝ってやろうか?》

 頭の中で声がする。面白がっているような声が。

《魔女はアテにならん。俺たちで乗り越えるべきだ》

「不要」

 グロック17を素早くホルスターに収め、両手を組み合わせ三股印さんこいんと呼ばれる手印を結ぶ。

「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ」

 大威徳明王明咒だいいとくみょうおうみょうじゅの真言を唱えると、スーツの下から大量のお札が飛び出し、男の腕から伸びる鎖を覆う。呪力で構成された鎖がのたうった。

「ちっ!」

 呪術師が気付いた時にはもう遅い。鎖は音を立てて爆発し、お札は飛び散って男の視界を塞いでいた。火保は側面から迫る。男の左膝にローキックを叩き込み、ぐらついた上半身めがけてグロック二挺が火を噴いた。よろめいた呪術師が包帯を再び鎖に変化させ、回転する石柱に巻き付かせるやその場を飛んで離れる。

「ぐっ……」

 ぼたぼたと、男のフードの中から血が垂れていた。撃たれた腹部は出血していない。頭部へのダメージの原因。それは――

「呪詛返しか」

 男がフードを取った。

 短髪で浅黒い男の顔が見えた。額から血を流しているのは本人の言う通り、鎖の呪術が破られた事で呪詛返しされたからだ。浄化済み九ミリパラベラム弾では効果が薄い。奴の呪術をひたすら破壊する必要がある。

「名前を名乗っておこう」

 男が額の傷口に手をかざしながら言った。呪術の一つであろうか、たちどころに男の額に包帯が巻かれ赤い血が内側で染みる。

「オレは無祝ムシュク。祝福を失った者だ。我が忌み名には生贄どもの血がべったりと付いている。聞けば貴様にも呪いが及ぶだろう」

 ずぅ、と。僅かにだか火保の体が重くなった。呪術師どもの通り名である忌み名は、それ自体が呪いのキーワードなのだ。聞いた者には軽度だが呪いが掛かる。退魔屋と呪術師の戦闘では考慮すべき要素の一つだが、戦闘の本質ではない。

「退魔屋、白原火保」

 火保も名乗る。本名を隠すというほかに、退魔屋の通り名にもまた破邪の力が込められている。いわば退魔屋と呪術師は、お互いが魔術や呪術で全身武装した戦闘のプロフェッショナルなのだ。

「ムシュクとやら。今一度、投降の意志を問う。お前には聞きたい事が山ほどある。投降するなら、命だけは保障しよう」

 二挺拳銃を構えたまま、火保は言った。

 ムシュクは両腕の鎖をだらりと下げたまま、虚ろな目で火保を見た。

「何度問われても同じ事だ。オレではこの儀式は解けない。供物を捧げ、儀式を完成させなければ、何人もこのビルから出る事は叶わないのだ」

 確保は、どうやら無理そうだ。

「では殺す」

 気が張り詰めた。自身の魔力と、相手の呪力が高まっていくのがわかる。お互い同時に床を蹴る。激突までコンマ一秒――

「動くな。二人とも」

 相対する二人の間に、二人分の影が降り立っていた。一人は長身で作り物めいた顔立ちの銀髪の男。そしてもう一人は、男に抱きかかえられた魔女だ。

「麻來鴉!」

「おっと。心配するな、退魔屋。気を失っているだけだ」

 銀髪の男が余裕ぶった笑みを浮かべている。火保は二挺拳銃のうちの一挺をその笑った顔に向けた。

「ガルタンダール。闇霧の一族か」

「有名になるのも困りものだな。いち退魔屋にまで名が知られてしまうとは」

 さして困ったふうでもなく、銀髪の男は言う。

「麻來鴉を放せ」

「放すさ。トロフィーを抱えたままでいるつもりはない」

「ミスター・ガルタンダール。これはどういう事か」

 問うたのはムシュクだ。

「標的はその鴉の魔女だ。ならばここでそいつを殺せば儀式は完成する」

「そんなお膳立てをしてやるつもりはない。これは一世一代の大呪術だ。お前にも相応に難関がなければな」

 ガルタンダールがそう言った瞬間、その足元に暗闇が開いた。まるで底なし沼のように、魔女の体が暗闇へと沈んでいく。

「何を!」

 咄嗟に火保は引き金を引いた。いや、駄目だ。指はまるで固まってしまったかのように動かなかった。

「落ち着け。ゲームのルールを説明する」

 麻來鴉の体は、完全に闇の中へと沈んでいた。ガルタンダールのガラス玉めいた瞳が火保を見る。

「彼女はトロフィーだ。そしてゲームの標的でもある。今からお前たちには魔女の奪い合いをしてもらう。ここに展開した儀式の寿命はもってあと三時間。完成しないまま儀式が死を迎えた場合、このビルを中心に呪いが広がり、新たな異界が誕生するだろう。儀式の寿命が尽きるまでに彼女を手に入れ、殺せ。彼女の死をもって、この儀式を完成させたものが勝者だ」

 火保は自身の顔が強張るのがわかった。が、先に声を上げたのは呪術師だった。

「な――それでは、オレの目的は!?」

「ヤギを殺すのとはわけが違う。戦いもせずに殺した生贄では儀式は完成しない」

 ガルタンダールは何でもない事のように言った。

「迷っている暇はないぞ。あと三時間だ。さあ、呪術師よ。退魔屋よ。その腕前を存分に披露しろ。自分より先に魔女を殺してほしくなければ、何としてでも目の前の相手を殺すがいい」

 火保とムシュクの視線が交差する。指はもう動く。然らば、殺すのは今だ。

「あ、待て」

 ガルタンダールが手を振る。ムシュクの姿が一瞬ブレたかと思うと、次の瞬間、その体が飛び上がるようにして、フロアから消えた。

「すぐに勝敗が着くのもつまらないからな。奴は上の階からスタートだ」

「面倒な事を……」

「私を睨んでいる暇はないぞ、退魔屋。あと二時間五十九分四十五秒だ。ああ、それから。敵は我々だけではないので、心してかかるがいい。では、ゲームの終盤で、また」

 言葉が終わった時、ガルタンダールの姿はすでになかった。まるで意識の隙を突かれたかのようだ。

 フロアには、電灯の僅かな光があり、遠くで今も変形し続けている音が聞こえるだけだ。八方は闇が広がっている。

 スマートフォンを見る。十時三十五分。

 あと三時間。

 最終手段として考えていた火保の力も、こうなると使えない。

 おまけに、儀式の終着には、魔女を殺せときている。

「くっ……」

 状況が思考を圧迫するが悩んでもいられない。とにかく、麻來鴉を追わなければ。

 ――タッ、タッ、タッ、タッ。

「!?」

 軽い、そして小さな音が聞こえた。余裕もなく、火保は音のほうへ銃口を向ける。

「あ……」

 怯えたような声。強張った顔が見えた。

 まだ小さい男の子と、その足に隠れたさらに小さな女の子が、銃口の先に立っていた。

「何者?」

 姿形が子どもであろうとも警戒を解くわけにはいかない。ここは魔窟なのだ。彼らの正体が怪物でないという保証はない。

 ……いや。だがしかし、これは。

「う、撃たないで!」

 男の子が懸命な声を上げた。

 衣服は擦ったような汚れが目立ち、ところどころ怪我もしている。

 赤い血は、間違いなく人間の証だ。

「助けてほしいんだ、お姉さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る