『闇霧』2


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「オボロとヨミチは県警と協力して呪術師の正体を探って。ガルタンダールが関わっているとはいえ、これほど大規模な術を行使出来るのは、呪術師界隈でも指折りのはず。オボロは盤石先生から話を聞いてきて。ヨミチは前線基地に残って、ビル内のわたしたちを追跡して」

 魔力を込めた毛髪を専用のガラス版に挟み、解析プログラムにかけると麻來鴉と火保の魔力波形が特殊犯捜査係のシステムに登録された。魔力波形を追跡するためのマーカーを足首に装着する。呪力が濃密な地帯での追跡は困難だが、ないよりはましだ。

「君たちのマーカーが消失したら、すぐさまビルの封印を開始する」

 顔色一つ変えずに、小野管理官が言った。

「永久封印だ。脱出は出来ないし、させるわけにもいかない」

「承知しています」

 麻來鴉が答えた。

「本当に君と白原君の二人だけで大丈夫なのか」

「二人で十分です。麻來鴉は敵方が狙いをつけていますし、私の術はこういった事態のためにありますから」

「……万が一の時は、永久封印と君の術でこの呪いを完全に封じ込める事が出来る、か」

「完全というものがあればですが」

 小野管理官は嘆息した。

「こちらは一刻も早い犯人の特定と呪璧の弱体化に全力をあげる。君たちが無事ビルから出られる事を祈っている」

「祈りは重要です。わたしたちの業界では」

 麻來鴉がにっと笑った。

「可能であれば連絡手段を確保します。それでは、行って参ります」

 ビルまでの道路は一般人が立ち入り出来ないように交通規制が敷かれていた。前線基地として設置された幕屋からビルまでは、少しばかり距離があった。

「組んで仕事は久しぶりだね」

 さっきまでの硬い表情は消え、軽やかな調子で麻來鴉が言った。持ち前の槍を肩に担ぎ、足取りは緩やかだが歩幅は広かった。

「あなたも最近は日本で仕事をしていると聞いていた。社長が会いたがっていたよ」

「依頼があればどこにでも行く。そっちの会社でも手がいるようなら呼んでくれていいよ」

 道路を包む気配に異様な冷気を感じる。赤い呪璧に囲われたビルはもうすぐそこだ。

「出てるね」

 麻來鴉が小さく言った。

 道路のそこら中に、青白い人影が立っていた。二十や三十という数ではない。もっといる。

「ビルの呪力に刺激されて出てきた浮遊霊か」

 浮遊霊自体は害のあるものではない。彼らは肉体を失ってなお現世に残ってしまった想念の残滓であり、焼き付いた魂だ。いずれ自然と消えていく痕跡だ。だが、こうして大勢の浮遊霊が現れるのは危険な兆候だった。呪力であれ魔力であれ、彼らを刺激するだけのエネルギーが溢れ出ている事を示すからだ。

「体調、平気なの?」

 火保の問いに、麻來鴉は一瞬怪訝な顔をした。

「……ああ。さっき仕事を終えてきたばかりだからって事?」

「そう」

「そうだね。まあ、やるしかないってところかな」

 言いながら、麻來鴉は銀のケースから薬丸を取り出すと、音を立ててそれを噛み砕いた。

 ビル周辺は制服警官と特殊犯捜査係の加持祈禱官、熊野の関係者であろう宮司と巫女の姿が散見された。すでに呪璧弱体化のための祈祷が始まっていた。火保が会釈をすると、背広姿の男が近付いてきた。

「連絡は受けている。あなた方のマーカーはこちらでも追っている。幸運を祈る」

「ありがとう」

 非常線テープを越え、火保と麻來鴉はビルの入り口である自動ドアへと近付いていった。ムーサ・柴崎ビルは、二十七階建ての複合ビルであり、その入り口は正面入り口の他は、裏手の通用口、地下駐車場への入り口の二つだ。赤い呪璧のせいか、そびえ立つ円柱型の一本のビルは、異様な気配を放っていた。

 赤い呪璧。その見た目を解説するなら、粘性の液体が絶え間なく動きながら、ビルの外壁を旋回している、といった具合だ。液体の中には黒いミミズのようなものが何匹も蠢いており、近くで見ればおぞましい外見をしていた。

「確かにすごい呪力量だけど、これなら後ろの皆さんで破れそうじゃない?」

 槍を担いだまま、麻來鴉が言った。

「試していいよ、麻來鴉。私はさっき試したから」

「ふむ」

 麻來鴉の槍にターコイズブルーの魔力が籠った。目に見えるほどの大量の魔力量に、火保は内心驚いていた。仮にもひと仕事終えてそれなりに魔力を消費したはずである。それなのに一切翳りの見えない潤沢な魔力。

「ふん!」

 麻來鴉が槍を振るうと、穂先から太い稲妻が迸った。雷鳴を轟かせ、白い雷が呪璧に食らいついた。赤い粘性の壁が焼かれたかと思ったのも束の間、バチバチと壁の表面で音が弾け、跳ね返った雷が麻來鴉へと襲い掛かる。

「うわっ!?」

 麻來鴉が慌てて槍を振るい、跳ね返ってきた雷を穂先で叩き霧散させる。飛んで来た雷の破片を避けるために、火保はちょっとだけ飛び退いた。

「跳ね返すのか。力任せに突破するのは難しいって事ね」

 呪璧の表面が蠢き、音を立てた。これまで見た事がない動きだ。赤い壁の表面に亀裂が入ったかと思いきや、どろりとした音を立てて亀裂が開き、二つの大きな目玉がぎょろりと麻來鴉と火保を見た。

「うおっ」

 麻來鴉が呻いた。二つの目玉は無言で見つめているだけだ。

「私が攻撃した時にはこんなものは現れなかった。麻來鴉の魔力に反応したのかしら」

「デカいよ。もう少し小さくしてほしいもんだわ」

 麻來鴉は二つの目玉を睨み返しながら、懐からカードの入ったビニール袋を取り出した。鴉が槍に貫かれ、稲妻が走る様を描いたカードの絵を目玉に見せつける。

「招待されて来てやった。とっとと中に入れなさい」

 目玉は、まるで麻來鴉を観察するように上下に小刻みに動いていた。

 ばくり、と粘性の壁が口のように開いた。建物の正面扉が開き、その奥には見通す事の出来ない闇がただ広がっている。

「入れそうだね」

「私も入っていいのかしら」

 意識しないまま、火保は全身に魔力を纏った。麻來鴉のそれとは違い、火保の魔力はさながら白い炎が静かに燃えているかのような外見をしている。扉の向こうから漂ってくるのは、虚無の気配である。全ての命が否定されるのかのような、冷たい世界が垣間見える。

「行きましょう。喧嘩は中でやろうって事だ。やってやるよ」

 そう言って、麻來鴉は扉へと向かい、闇の中へ一歩を踏み出した。

 火保もそれに続く。敵の目的は、少なくとも一つは麻來鴉をおびき寄せる事のようだ。それ以外はわからない。だが、行くしかない。

「――っ!?」

 誰かの視線を感じて、反射的に火保は振り返った。

 後方には誰もいなかった。いかなる霊的な気配もそこにはなかった。だが、確信はあった。確かに、誰かが見ていたのだ。振り返る瞬間、青白い人影が視界に入った気がする……。

 火保は深呼吸して、闇の中へと進んだ。こういう場所に立ち入るのは別に初めてではない。だが静かすぎる。

 建物の中は真っ暗闇に覆われていた。外の明かりがあるうちに、火保はスーツのポケットからお札を取り出すと、短くしゅを唱えて魔力を札に通した。札は白い炎に包まれ、火の玉となって浮かび上がる。

 正面扉が、背後で閉まる音がした。

「〝照らせケン〟」

 麻來鴉がルーン・ストーンを取り出して指を鳴らすと、ストーンが光を放ち始めた。

 先へと進む。光源が二つ出来たものの、フロアの全体を見通す事は出来なかった。見えるのはテラゾー仕上げの床くらいで、四方は相変わらず闇が広がっている。

 麻來鴉が、ふと足を止めた。

「火保」

「ええ」

 火保にもわかっていた。囲まれている。

 ――ひた。ひた。ひた。

 素足で床を歩いているような音がする。数が多い。五、六人? いや、もっとだ。だが、姿が見えない。

「あんた、あんた、あんたなんか……」

 ふと、真横に見知らぬ女性が立っていた。寝間着のようなものを着ていて、長い髪がぼさぼさの痩せた女性だった。

「あんた、あんたなんか。あんたがいるからあたしは……」

「こんにちは」

火保は彼女に声をかけた。

「どうかした? 話なら聞いてあげられるけど」

「あんた、あんた、あんたなんかがいなければ。あんたがいなければ。いなければあの人は」

 ガン、ガン、ガン、と女性が手に持った何かを床に突いている。長い柄の大型ハンマーだ。建築現場で使うようなものだが、何故そんなものを彼女は持っているのか。

「あんた、あんた、あんた。あんたが。あんたさえ……」

「話を聞いて済むなら、聞いてあげられる。私で――」

「あんたがぁっ! あんたさえいなければ!」

 ブン! と大型ハンマーが火保の顔を狙った。驚くほどの事ではない。長年鍛え上げた身体が、考えるまでもなく凶器の一撃を躱す。

 火保は女性の顔を見た。瘦せた肉のない頬。蝋のような白い肌。両の目玉が存在しない眼窩。

「あんたなんか、産まなきゃよか――」

「そういう事は」

 腰のホルスターから引き抜いた、グロッグ17の銃口を呪われた女性の口に向け、

「言わないほうがいい」

 引き金を引く。銃口から放たれた、浄化済九ミリパラベラム弾が、悪鬼と化した女性の頭を吹き飛ばす。

「ぎぃいやあああああああっ!」

 黒板を爪で引っ掻くかのような耳障りな悲鳴を上げて、女性の姿が掻き消えた。

 残ったのは、静寂だけだ。

「今のは……悪霊? それにしては」

「火保!」

 麻來鴉の声が、火保を思考から現実に引き戻す。白刃の切っ先が顔面に迫っていた。寸でのところで火保は身を反り、突きの一撃を躱す。二挺目のグロッグを抜き、相手に問答無用で銃弾を叩き込む。

「ウ、グッウウ……」

 まるで戦国時代からタイムスリップでもしてきたかのような、具足を身に着けた武者が呻き声を上げていた。今しがた、火保を狙ったのは、この武者の太刀である。

「足軽か。この土地の塚はまだ残っていたはずだけど」

「アァアアアアッ!」

 やはり目玉のない足軽の亡霊が殺気を纏った刃を振るった。火保は冷静に胴体を撃った。銃声が闇に響き渡り、胴体に穴の空いた亡霊がばたりと倒れる。

「これは……」

 気が付けば、火保たちの傍には悪鬼の群れが迫っていた。落ち武者、刃物を持った女、犬の死骸を抱えた男。バットを握り締めた神父や、小山ほどの大きさの怪物。皆、意味不明の呟きや呻き声を上げる亡霊たちだ。だが、何か、いつもと違う……。

「こいつら、本物の霊じゃないね。まるで幽霊の影だ。呪力を微かにしか感じない」

 槍を構えた麻來鴉が、穂先に魔力を集中させる。青い輝きに、雷が弾ける。

「めんどくさいし、一気に倒してしまおうか――」

「そうね。でも」

 火保は素早く、宙に浮かせたお札を撃った。浄力を纏った銃弾が光りを放つお札にぶつかる。

 爆発音とともに浄力の閃光がフロアを満たし、亡霊どもを構成する微弱な呪力を吹き飛ばした。

 今度は断末魔の悲鳴もない。爆音が去ったあとの静寂は、まるで音を全て吸い尽くしたかのようだった。

「やるね」

 麻來鴉がにっと笑った。火保は答える代わりに銃を軽く掲げた。

 周囲に悪しき気配はない。火保は歩き始めた。

「敵方は私たちをいくらかでも消耗させたいみたいね。今の連中は、異層転移の影響で呼ばれた連中ってところ?」

「にしては呪力が薄いよ。それにこの建物の空気……」

 麻來鴉の手が空を掴む。

「何だかあやふや。夢の中みたい。たぶん、まだ異層転移は完了していない」

 歩を進める。足元の感覚が確かに変だ。それに、よく耳を澄ませば、何かが大きな物が動いているかのような、ごぉんという音が聞こえてくる。

 決定的だったのは、視界の端に回転する石柱を見つけた事だ。あれは確か、監視カメラの映像で見た、受付ロビーの近くにあった石柱ではなかったか。映像で見た時は入り口からロビーまですぐだったように見えたが、ここまで、ずいぶん歩数を費やしたように思う。奇妙な床の感触。麻來鴉の言う、夢の中のようなあやふやな空気感。建物内の距離感のずれ。

「《万華鏡工法カレイドスコープ・メソッド》。異層転移による空間の歪みを利用して、構造を書き換える呪術……」

 言いながらも、火保の目は、目の前にあるものを見つけていた。首を掻き切られ、無残な姿で横たわる仔ヤギの死骸。

「わざわざ待っていてくれたとはね」

 受付のカウンターに腰掛けた人物に向かって、麻來鴉が言った。

 ボロボロのフードを被った人物は、顔を俯かせたままだ。

「話が早くて助かる。さっさと術の詳細を吐いて、わたしたちに倒されなさい。発端のあんたを倒せば、この術も消えるでしょうから」

 フードの人物は、黙ってカウンターから飛び降りると、靴音を響かせながらこちらへと近付いてきた。

「君が、鴉の魔女……か?」

 フードの人物が言った。予想通り、男の声だ。

「そうだよ。どうやら知り合いじゃなさそうだね。昔、仕留め損なった奴とかじゃなさそうで、よかったよ」

「あの方が言っていたのは君だな。では、もう一人は……?」

 フードの男が火保のほうへ顔を向けた。

「魔女の仲間よ。大人しく投降するなら、なるべく命は助けるようにする。抵抗するなら……」

「仲間?」

 火保の言葉を遮って、フードの男は驚いたような声を上げた。

「別の、退魔屋か? 入れたというのか。このビルに……」

「?」

 男は動揺しているようだった。

「あの方か? 標的は魔女一人だったはずだ。何故だ。どうしてわざわざ術の達成が困難になるような真似を……」

「ぶつぶつ抜かすのはあとにして。あんたのやる事は三つ。術を解く。あいつの居場所をわたしに教える。それからきっちりやられる。以上。オーケー?」

「……術を、解く? いや、無理だ。この呪文書はオレなんかよりずっと腕の立つ古代の呪術師が作ったものだからな。それを、三日三晩親元から引き離した仔ヤギの命をトリガーにして発動させた。獣の恨みや憎しみは決して消える事がない」

 ごぉん、ごぉんと音が聞こえる。建物内の構造が変わりつつあるのだ。

「そいつには可哀想な事をした」

 フードの男が、仔ヤギを指差して言った。

「だが、大勢の人間を供物にするための儀式は、生半可なトリガーでは発動しない。怨嗟と苦悶を収斂させ、最後の生贄の血を捧げる事で、この術は完成する」

 しゅるしゅると、男が両手に巻いた包帯が、ひとりでに解ける。

「能書きはいい。あんたもあいつも暗闇にしか居場所がないんだろ? そのふざけた呪いごと吹っ飛ばして、太陽の下に晒してやるから」

「鴉の魔女。あの方から聞いたぞ」

 フードの男が、飛び掛かる直前の肉食獣のように身を屈める。

 ――ひどく臭う。硫黄の臭いが――

「両親を殺す時もそんな調子だったのかい? 麻來鴉」

 いつの間に現れたのか、瀟洒なスーツを身に纏った銀髪の男が、麻來鴉を後ろから抱きすくめていた。

「なっ――」

 一瞬、反応が遅れる。銃を構える。その瞬間、衝撃が火保の体を後方へ吹っ飛ばす。

 いかなる術によるものか、男の手に巻かれていた包帯は、瞬時に鎖へと変じて、火保の首に絡み付き、ものすごい力で締め上げられる。

「ぐっ――!?」

「まずはお前からだ、退魔屋」

 フードの男が、さながら処刑宣告のように言った。

「生贄は魔女だけだ。首は千切って捨ててやる」

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