第四話『闇霧』

『闇霧』1


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 ――ほんの一分前まで、そこはただのビルだった。


「はあ、はあ――!」

 足はとっくに動かなかったが、それでも走るしかなかった。掌は汗でびっしょりだ。気を抜くと妹と繋いだ手が滑りそうになる。マサキは手に力を込めた。走れ。走らなければ。

「うわっ!?」

 階段を駆け下りようとして、ミオが足を滑らせた。まだ七歳の妹の体をとっさに抱き止め、マサキは階段の上を見る。仄暗い通路には何者の影もない。

 今はまだ。

「だいじょうぶ。急ごう」

 必死で優しく言い聞かせて、マサキはズボンで手を拭き、妹の手を握る。ミオは弱々しく頷いた。何度も泣いたせいで目元は真っ赤だった。急いで階段を降りる。三階から二階へ。二階には本屋やレストランやお店がたくさんある。あそこでまたしばらく隠れよう。ろくに食べ物もないから、お腹も体力も限界だ。

 だが、たとえどんなに苦しくても、今は逃げなければならない。何とかして、ここから逃げなければ。

 そうしなければ――

「お兄ちゃん……」

 妹が言った。その顔は蒼白だった。

 マサキは慌てて顔を上げた。

 上のほうで、音がした。ずる、ずるという音。何か、大きな物が床を擦っているような音。犬か豚かが匂いを嗅いでいるみたいな荒い鼻息。がちがちと歯を噛み合わせる金属音。低く喉を鳴らし、息を吐く。

 ――くぐもった雄叫びが上方から轟いた。

「逃げろ!」

 妹の手を引っ張りながらマサキは駆け出した。雄叫びが再び聞こえた。ずる、ずるという擦る音が速度を増した気がした。

 二階へ入った。店も通路も暗く、人はいない。明かりは、電灯が微かに灯っているだけだ。マサキとミオ以外、だれもいない。つい何時間か前まで、いつものように店員やお客がいたというのに。

 目の前の百円ショップに入る。今ならまだ間に合う。しばらく、どこかに隠れよう。マサキは素早く判断した。妹を抱えて走ったせいか腕が痛い。ミオは黙り込んでいた。恐ろしくて、口が動かないのだ。

 レジカウンターの中に飛び込み、マサキは妹の肩を抱いた。

「だいじょうぶ……」

 マサキは言った。妹の体は震えていた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」

 小声でそう言いながら、マサキは妹の肩を強く抱いた。

 あいつは三階より上の階にいた。何度か、あいつの姿を見た事がある。物凄く大きいが、カタツムリみたいに這うようにしか動けない。それにどうやら、音でしかマサキ達を追えない。一度、かなり近付かれたが、その時でさえ音を立てなければ気付かなかったほどだ。

 あいつがこのまま降りて来るかはわからない。でももう、足が限界だ。このまま隠れながら、しばらく休まないと。少年野球をやっている六年生のマサキでさえこうなのだ。一年生のミオにはこれ以上は無理だろう。

 耳を澄ます。あの這うような音は聞こえない。階段から遠ざかったのか。それならいい。何とか休めるなら。出来るなら、このまま少し寝たい。疲れて、疲れて、倒れそうだ……。

 ――チン。

 小さかったが確かに聞こえた電子音に、マサキは身を固くした。眠気は一気に吹き飛んでいた。音は聞こえた。この階で。それほど遠くないところから。

 何の音だろう。妹を抱き締めながら、マサキは記憶を探る。聞き覚えはあるが、思い出せない。よく聞いた音だ。いつものように両親とこのビルに来て、いつものように帰る時。地下の駐車場へ行く時。

 ――……エレベーターの音だ。

 カンカンカン、と何かが床を叩いていた。金属バットを床に落とした時のような音だ。このビルに閉じ込められてから、初めて聞いた音だった。

 耳障りな金属音は止まず、ずっと床を叩き続けていた。カンカンカン。カンカンカン。一定の間隔を保ちながら、だんだん近付いて来る。

 あいつ以外にもいたのだ。このビルの中には。恐ろしい何かが。

 カンカンカン。音が少し変わった。距離はより近くなった気がした。

 入ってきた。

 風を切る音がして、何かが割れるような音がした。床に叩き付ける音が止んだ代わりに、ひゅん、ひゅんと何か細い物を振り回すような音がする。何かが割れたり、ぶつかったりと音が激しくなってきた。暴れている。腕の中で妹が目を閉じ、両耳を塞いだ。音はすぐ傍でしていた。

 がん、とレジカウンターに何かがぶつかった。

 ぞっとなった。驚く声を必死に抑えた。

 何者かは、振り回す事をやめていた。沈黙している。物音一つしない。

 ばれたのだろうか? マサキがそう考えた時だった。

 がん。

 何かが、再びレジカウンターを叩いた。

 がん。

 強く、重々しく叩く。次第に、早くなっていく。

 がんがんがん。がんがんがん。

 気付いている。マサキはそう直感した。マサキ達がここにいる事に、あれは気付いている。

 何者かは、強くカウンターを叩き続けている。音がさらに大きくなった。何もしてこないが、すぐそこで待ち構えている。

 ――たすけて。

 妹の体を抱き締め、必死に声を出さないようにしながら、マサキは思わずにはいられなかった。だれか、だれか……。

 階段のほうから、雄叫びが聞こえる。

 ――だれか、たすけて……



 白原しろはら火保かほは、通話終了ボタンをタップすると、県警が設置した特殊犯捜査係の幕屋まくやに戻った。幕屋の中では特殊部隊の隊員たちがパソコンと監視モニターを確認しつつもせわしなく動き回り、背広姿の男たちがキーボードを叩きながら渋面を作っていた。

「彼女と連絡がつきました。到着までニ十分ほどだそうです」

 火保の報告に警視庁刑事部捜査一課、小野おの英正えいせい管理官が、眉根を寄せた。

「ニ十分? そんなにかかるのか」

「遠方での仕事だったそうですから。どんなに飛ばしてもそのくらいは」

「その間に犠牲が出る。やはり突入しかない」

 苛立たし気にそう言うと、隣の捜査一課の面々に振り返って小野管理官は言い放った。

「浄化作業済みの電気丸鋸を使い、正面入り口の呪璧を切断する。同時に加持祈禱官かじきとうかんらによる解呪を行う。相手の呪術師は一人だ。呪術の展開にも限界があるだろう。呪璧を弱めれば突破可能だ」

「管理官、それは危険です。強引に呪璧を破れば警官隊が呪いをこうむる可能性があります。またビル内の呪力濃度も不明です。呪壁を破った瞬間、放出された呪力がさらに広い範囲で異層転移を引き起こす事も考えられます」

「どの道、ビルの中の人間はすでに呪力に晒されている。内部の異層転移はすでに完了している頃合いだろう」

 檄してはいるものの、小野管理官の分析は概ね冷静なものだった。

「すでに時間はないのだ。犯人の要求がどうであれ、即応しなければならない。君の同業には悪いが、遅すぎたな」

 小野管理官の冷たい目を、火保は怯む事なく見返した。

「敵の狙いは魔女です。彼女が来れば呪璧は突破できます。もう少しだけ待っていただけませんか」

「駄目だ。熊野にも協力を要請した。封印の準備が進行している。呪術師の捕縛、およびビル自体の解呪、囚われた人質の救出。これらがいずれも達成困難である場合、内部の呪力が漏れ出ないよう、ビル一棟を永久封印するほかない。突入作戦の結果次第だが、時間が経てば経つほど封印を優先せざるを得なくなる。今すぐ突入か、封印かだ。白原君」

「二十七階建てのムーサ・ビルを封印? 無茶です。規模が大き過ぎます」

「そんな事はない。似たようなシチュエーションでの封印は前例がある。八か月ほどかかったそうだが、出来ないわけではない」

「儀式の反動で術者にどれだけ犠牲が出るかわかりません。管理官、魔女を待つべきです。再考お願いします」

「白原君。ではその魔女は――」

 小野管理官がそう言いかけた時だった。ゴロゴロと雲の中で雷のひしめく音がしたかと思うと、つんざくような爆音が幕屋の外に落下した。

「一体……何事だ――」

 爆音に耳を押さえていた小野管理官が、途切れ途切れに言った。火保は答えた。

「彼女です」

 幕屋の入り口が開いた。黒いとんがり帽に、黒マント。長い槍を携えた少女と、その両脇をやはり黒マントの少年少女が固めていた。

「麻來鴉」

 火保は魔女の名を呼んだ。

「火保。ごめん、待たせた」

 想定のニ十分よりもさらに早い到着だったが、魔女は顔色一つ変えずにそう言った。

「白原君。では彼女が……」

「はい。小野管理官、ご紹介します。彼女は七ツ森ななつもり麻來鴉まきあ。我々の業界では、鴉の魔女と呼ばれています。そばにいる二人はオボロとヨミチ。麻來鴉の仕事仲間です」

「まだ子どもじゃないか。彼女が何故今回の標的に……」

 そう一人ごちた小野管理官は、しかし次の瞬間には頭を振って魔女へと向き合った。

「警視庁捜査一課の小野だ。本件の指揮を執っている。早速で悪いが、時間がない。状況を説明させてもらおう」

「問題ありません、小野管理官。よろしくお願いします」

 いつもは口やかましい使い魔の少年少女――オボロとヨミチも今回ばかりは黙ったままだった。無理もない、と火保は内心で思った。管理官の言葉ではないが、今回は余計な事をしている暇はないのだ。火保は管理官に言った。

「私から説明させていただきます。麻來鴉、外に来て」


 オフィスと複数のテナント、コンサートホールを内に持つ二十七階建ての複合ビル、《ムーサ・柴崎ビル》は幕屋が設置された駅と商業施設を繋ぐ広域通路から見る事が出来た。周辺は事件発生から一時間以内に封鎖が完了しており、今は警察関係者と火保や麻來鴉のような退魔屋業界の関係者しかいない。

「あの円筒状のビルがムーサ・柴崎ビル。見ての通り現在は呪璧によってビル全体の出入り口が閉ざされている」

 街の景色の中にひと際そびえ立つビルは、見る人間が見ればそれとわかる、真っ赤な障壁に覆われていた。あれが呪壁だ。赤は呪力の色であり、すなわち、あの建造物が呪われている証である。

「呪力が濃い。中が見えないね」

 そう言って双眼鏡を外した麻來鴉の目は、ターコイズブルーに輝いていた。目に魔力を通わせたり、強力な術を使ったりする時、彼女の目はこのように輝くのだ。だが、その魔眼を以てしても、見えないものはある。

「そう。見ての通り、外側を覆う呪壁より、内側で籠っている呪力のほうが強い」

 言いながら、火保は自分のスマートフォンを操作した。

「今から一時間前、県警の特殊犯捜査係がムーサ・ビルの異様な呪力の高まりを感知し、ただちにビル周辺を包囲、捜査本部が設置された。情報収集の段階で運良くビル内のサーバーにアクセスが出来て、監視カメラの映像が手に入った」

 火保は画面を麻來鴉に見せると、再生ボタンをタップした。

 一階のロビーに異様な人物が入ってきたところだった。ボロボロのフードを被り、手には包帯のような布切れを巻いている。特別大きなキャリーケースを引いているが、何故かキャリーケースはガタガタと一人でに揺れていた。

 麻來鴉とその使い魔たちは、黙って画面を見つめている。

 不審な人物は受付係に大振りなナイフを突きつけた。怯えた受付係がカウンターの中で伏せると、不審な人物は向きを変え、パーカーのポケットから巻き物らしきものを取り出し、それを放り投げる。床に落ちた巻き物は八方に長い紙面を広げた。カメラが遠すぎて、紙に書かれた文字が何なのかは読み取れない。

「呪文書。儀式用っぽいね。魔法陣かな」

 黒マントの少年、使い魔のオボロが呟いた。

 不審な人物がカメラ側を向いたので、どうやら男のようだというのが見て取れた。不審な男は、ナイフを持ったまま特大のキャリーケースのジッパーを開けていく。キャリーケースは相変わらず暴れるように揺れていた。

 キャリーケースの蓋が開いた瞬間、中から何かが飛び出した。

 床に着地したそれはよろめきながら、戸惑った様子だった。

「ヤギ?」

 ヨミチが驚いたような声を上げた。

 キャリーケースの中にいたのは仔ヤギだった。真っ白なシバヤギの子どもが、自分がどういう状況に置かれているのか飲み込めないまま、周囲を見回している。

「ひどい事を……」

 ヨミチが画面を睨み付けた。

 男がヤギの角を引っ張り、呪文書の上に無理矢理連れて行く。それから、ナイフを振り上げ、仔ヤギの首元目がけてナイフを振り下ろす。

 監視カメラ映像は無音だが、おそらくロビーには断末魔が響き渡っただろう。どっと倒れた仔ヤギの死体から血が溢れ出し、男は何か祈るような姿勢を取った。凄惨な行為を見ていた周囲の人間たちが逃げ惑う様子が見える。呪文書の文字が真っ赤に輝き、ヤギの血がコールタールのように真っ黒になった。

 そこで映像は途切れた。

 火保はすでに一度見ているが、このおぞましい行為に怒りが湧くのを抑えきれなかった。

「ひどい……」

 青ざめた顔でヨミチが言う。もっとひどい光景だって、これまでに見ているのだろうが、そうしたものは多少慣れたとしても感情まで簡単に消せるものではないのだろう。オボロはかっと目を見開いて握り拳を震わせていた。

 麻來鴉の目は冷静だったが、ターコイズブルーの輝きがうっすらと見えた。

「今、我々のほうで生贄を使う呪術師のリストをチェックしている。ずいぶん手慣れているからな。常習犯だろう」

 小野管理官が静かな声で言った。

「呪術師のやる事にしては、ちょっと目立ち過ぎる」

 再生が終了して画面から目を離し、麻來鴉が言った。

「ビルの中にいた人数は?」

「ビル内のテナントを利用していた一般客と、コンサートの準備に来ていた楽団員、それに柴崎コーポレーションに出社していた社員。ビルの平均利用客数と社員数、楽団の構成員数から見積もっておそらく、五百人程度」

「多過ぎるよ。退魔屋が足りない。火保のところのほかの面子は? 社長もいたほうがいい」

「残念だけど、皆ほかの仕事ですぐには戻ってこられない。十文字さんがすぐに動ける術者を探している」

「ぐずぐずしてはいられない。この術の狙いは何だ」

 麻來鴉は小野管理官に向き直った。

「こういう事件なら火保が最初に呼ばれたのはわかる。でも、わたしが直に呼ばれた理由は何ですか、管理官」

「これだ」

 小野管理官はポケットから、ビニール袋を取り出した。

 中に入っているのは、カードだ。トランプくらいの大きさの一枚のカード。絵札だが、トランプではない。

「鴉……?」

 麻來鴉がじっとカードを見た。

 カードには漫画調に描かれた一羽の鴉が、槍に貫かれている様子が描かれている。背景には稲妻が走っていて、全体的にコミカルな調子だが、内容自体は残酷なものだ。

「ビルの呪璧を突破しようと最初に接近した際に見つかったものだ。発見した捜査員は、ビルからこのカードが飛び出してくるのを見た、と」

 小野管理官が言った。

「鴉、槍、稲妻。何かしらのメッセージと受け取った我々は、白原君にこのカードを見せた。そうしたら、君の事だと聞いた」

「描かれている内容からして、ほぼ間違いないと思う。この呪術師に覚えはない? 麻來鴉」

 麻來鴉はしばらく画面を見つめていたが、やがて首を振った。

「ごめん、わからない。生贄を使う呪術師は海外で何人かいたけど、わたしと師匠が全員倒した。そいつらの仲間か、あとは……」

 麻來鴉の手がおもむろに伸ばされ、ビニール袋越しにカードに触れる。

 その瞬間、火保の視界から、ぱっと明かりという明かりが全て消え去った。傍らにいた麻來鴉たちの姿も見えず、火保は暗闇の中にただ一人立っていた。

 スポットライトが、向かい側に照らされた。そう、まるでスポットライトだ。舞台装置のような照明の下に人影があった。うねるような銀髪。ストライプの入った瀟洒しょうしゃなスーツ。焼け付くような硫黄の臭い。男。白い肌。長身。うっすらと笑っている口元。

「はっ――?」

 気が付くと、火保は元の場所に戻っていた。手には自身のスマートフォンがあり、目の前では、麻來鴉がビニール袋越しにカードを摘まんでいる。

「何だ……今のは。今の男は……」

 呆然とした様子で、小野管理官が周囲を見回している。

 どうやら、管理官にも何かが見えたらしかった。

「麻來鴉」

 火保は、麻來鴉の顔を見た。

 いつもは年齢よりも不敵な面構えを見せる彼女が、今はひどく驚いたように、固まった顔をしている。

闇霧ダークミストの一族……」

 ぽつりと魔女の口が呟く。

「惑乱の王子、ガルタンダール。お前の企みか」

 魔女の手にあるカードの中の鴉が、赤い血を流していた。

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