『黄金樹』8


      8


 スレイプニルが空を駆ける。霊馬にとっては大地を駆けるのも空を行くのも同じ事だ。樹皮の巨人を見た瞬間、麻來鴉は何が起こったのかを理解した。黄金樹、そして伊藤が取り込まれたのだ。広範囲の呪術には広範囲の魔術を展開し、轟く雷鳴の下で麻來鴉は霊馬を駆る。雷を司る大鴉の槍を振るい、樹皮の巨人に穂先を叩き込む。一撃だけではない。巧みな手綱捌きで霊馬に樹皮を蹴らせ、そのまま肩、頭部へと斬撃を加える。巨人の追撃にすかさずスレイプニルを走らせ、躱しざまさらに一撃を加える。が、巨人の動きに変化はない。

「やはり中からやらなきゃ駄目か」

 マントの内側に隠した物が震える。相手は大きいが、打つ手はある。ただし、賭けだ。

「スレイプニル!」

 麻來鴉に呼応して、霊馬が駆ける。空中で実体化するコールタール人間が雨のように襲い掛かってくる。その一体一体を素早く槍で切り裂きつつ、麻來鴉は巨人に接近する。瞬時に伸びた無数の枝が、麻來鴉を捕らえようと距離を詰める。まだだ。もう少し、もう少しだけ近付かなければ。

 鋭く尖った、巨大な指がすぐ真横に迫る。槍から放った雷撃で、巨大な指の動きを止めた刹那、肩に触れた花冠がコールタール人間に変じた。

「ぐっ――!」

 ここでやるしかない。懐に手を伸ばし、ガタガタと震えて今にも割れそうなガラス瓶を取り出す。

「さあ、おばあちゃん。お孫さんを迎えに行こう」

 言いざま、麻來鴉はガラス瓶を樹皮の巨人へと投げつけ、

落ちろシゲル!」

 指を鳴らすと同時に空から雷がガラス瓶を直撃する!

 ランプのようなオレンジ色の魔法陣が雷光の中から展開し、

「ユルサナイぃいいいいいいいいいいい!」

 解き放たれた俄者髑髏が樹皮の巨人へ襲い掛かる。突如として現れた新たな敵に、巨人はあからさまに狼狽していた。呪力と魔力が混在した塊である巨人に、強い呪力の塊である俄者髑髏が突撃する。強力なエネルギー同士のぶつかり合いによって、巨人の体がぐにゃりと歪む。虚の中からこちらを見る巨大な桐緒の目。それが幻影のように現れては消え、現れては消えを繰り返す。

「そこか」

 電光石火の速度でスレイプニルが駆ける。沼地に飛び込むかのように、どろりとした呪力の中へ、麻來鴉は突入した。


 伊藤芯治は、もはや自分に正気と呼べるものは消失したと理解していた。

 かつていた世界と自分は解離していた。だから、唯一自分を選んでくれた桐緒を選んだ。桐緒と一つになれれば、ほかにはもう何もいらなかった。

 その結果が、これだ。

 伊藤の目には、周囲の景色はオレンジや紫や緑といった毒々しい彩りに満ちていた。人間など一人もいない。いるのは、手が無数に生えた化け物、顔がテレビで雑音を喋る化け物、斧で自分の腕を切断してくっつけ、くっつけては切断するを繰り返す化け物。化け物、化け物、化け物。数多の化け物で構成された見知らぬ街角で、伊藤はただ茫然と佇んでいた。雑踏に聞こえるのは意味のわからぬ言葉ともつかない音。そして、桐緒の喘ぐ声だ。異様な光景と好意を抱いた女の淫靡な声。それらが同時に展開するこの世界。

 これが桐緒だ。これが桐緒の世界なのだ。その中で、化け物ではない自分はただ一人正気を失っている。

 愛してくれた女の中にいるというのに、伊藤はまたも自分が世界から解離していると感じていた。

「伊藤さん」

 声がした。あの人の声が。

 自分の意識などないまま振り返れば、人間の姿の桐緒がそこにいた。

「ようやく一つになれたね」

「桐緒さん……」

 崩れていく自意識の中、伊藤は言葉を紡ぎ出す。

「君は、どうして僕を選んでくれたんだ」

「言ったでしょ。伊藤さんが一番綺麗だったからだよ。欲望も恐怖も知らない。ただ生きているだけの人。生きる事だけが目的になっている人。芽を出し、花を咲かせ、やがて枯れる植物と同じ人。汚れていない人。だから好きになったの」

「それは……」

 そんな人間は、普通なら選ばれないはずだ。この人間社会で労働をせず、向上をせず、ただ生きているだけの人間など。人間らしくないはずだ。

「あなたに人間らしさなんかいらないの。だってあなたは人間の世界では生き辛い人だもの。汚れ切った人間の世界では、あなたは汚辱に耐え切れないもの。あなたに必要なのは純粋な世界。人間たちでは住む事の出来ない、闇と、霧と、原始の混沌の世界」

 桐緒の手が伊藤の頬に触れる。その行為にもはや喜びを感じる事はなかった。ひたすら混乱と、恐怖を感じるだけだ。

「どうしたの、伊藤さん。汚れかかっているよ」

 桐緒が耳元で囁く。

「嫌だよ……怖いよ」

「どうして?」

 だって、と息も絶え絶え伊藤は言った。

「だって……だって、君は、化け物なんだろ」

「ええ。そう」

 桐緒は艶然と微笑んだ。

「人間の世界では、私は化け物。伊藤さんと同じ、ね」

「違う!」

 思わず、伊藤は叫んでいた。

「僕は化け物なんかじゃない! 普通に暮らしていただけだ! 黄金樹の実が売れるから売っていただけだ! 悪い事なんか何もしていない!」

 桐緒の白い指が目の前にあった。掌をぎゅっと握って、それから開いてみせる。桐緒の手の中には、黄金樹の実があった。

「伊藤さん、黄金樹がどうやって実をつけるか知っている?」

「……知らない。別に興味もない!」

 ふふふ、と桐緒は笑う。

「見てて」

 桐緒の手の中の黄金樹の実が、ぐにゃぐにゃと動き始めた。それはやがて手が生え、足が生え、頭が生えた。屈折させた手足を捩りながら、泣き声を上げる生き物。

 赤ん坊。

「何を……」

「黄金樹の実の正体は、これ」

 黄金の赤ん坊が泣きじゃくっている。

「命だよ。黄金樹は、人間の命を吸って実をつけるの」

「何、を……」

 ――祖父が、倒れる。その光景が目に浮かぶ。

 脇に、黄金樹の鉢がある。まだ小さかった黄金樹の鉢が。

 倒れた祖父を見ても、祖母はちらと目をやっただけで編み物を続けている。

「黄金樹は選んだ人間だけを生かし、その周囲の人間の命を吸う」

 ――父が、家の床でのたうち回っている。

 すぐ近くで黄金樹の実が、金色に輝いている。

 あれこそは、命の輝きだ。

 ――母が、黄金樹に油のようなものをかけている。

 母は気付いていたのだ。このおぞましき植物の正体に。いや、母だけではない。父もまた気付いていたのだろう。

 マッチで火を着けようとした母が、唐突に倒れる。まるで体中の生気を吸われているかのように、急速にやせ細っていく。

「あ、ああ……」

 ――祖母の姿が見えた。布団の中で横になっている。

『黄金樹様。あとをお願いします。芯ちゃんをお願いします』

 びくん、と祖母の体が震える。かっと目を見開いた祖母が、ばたばたと手足を動かし、口から泡を吹く。

「そんな……」

 眼前を過る光景は、もはや家族のものだけではなかった。過去、黄金樹に命を吸われてきたありとあらゆる人々の最期の姿が、次々と伊藤の目に映っていた。次々と実をつける黄金樹。それらを一粒ずつ摘んで、毎月売りに行く自分。一粒五十万。それが理不尽に黄金樹に吸い取られた命の値段。伊藤はその金で服を買い、家賃を支払い、食糧を買い、電気やガスや水道代を払い、インターネットに接続して時々卑猥なサイトを見た。そんな生活をしながら心は一向に満たされなかった。人の命によって生活していたというのに、だ。

「人の命を奪うものは――」

 桐緒がころころと笑っている。

「人間の世界では化け物、でしょ?」

 何の事はなかった。伊藤は世界から解離していて然るべきだった。知っていた、知らなかったはこの際問題ではない。

 伊藤は化け物だった。無知と無関心の化け物だった。団地の中に潜んでいた最も愚かな怪物だった。

「あ、あああ、ああああああ」

 伊藤は泣いていた。あまりの恐怖に、あまりの狂気に。自分が知らず知らず犯していた罪に。もはやどうやっても償いようのない罪悪。人の命を、両親の命を食らって生き延びていたのだ。両親の命で出来たものを、五十万という値段で売っていたのだ。

「泣く事ないよ。伊藤さん」

 桐緒の声はどこまでも優しかった。

「やっと本当の自分に気付けたんだもの。あとはそれを受け入れるだけ」

 泣きじゃくる、小さな果実大の、小さな赤ん坊が目の前に差し出された。

「食べて。そして、私と一緒に生きて。怪物として」

 心が割れそうだった。どうしていつまでも思考が続いているのか、伊藤は自分の心が不思議だった。どうして壊れてくれないんだろう。心が壊れてしまって、何もかも認識できなくなるなら、きっと楽なはずなのに――……。

 黄金の赤ん坊に手を伸ばす。これまでと同じ事をすればいい。桐緒と同じ物を食べればいい。赤ん坊の姿だが、同じだ。命を食らうという事では、同じだ。

 ――ほかにも道はあるよ。

 声が聞こえる。いや、声を思い出しているだけだ。これは、まだ人間であろうとしている弱い自分が、ひたすらその根拠を頭の中で再生しているだけだ。

 もう絶対に無理だ。化け物として、怪物として生きるしかない。ほかに道はない。犯した罪が大き過ぎて自分ではとても背負いきれない。

 ――芯治は大きくなったら何になりたいんだ?

 声が聞こえる。懐かしい声が。

 ――もう決まっているのよね。

 やめろ。やめてくれ。僕は、僕にはとても……

 ――うん! 僕ね、大きくなったら――

「――う、わあああああああ!」

 桐緒の手からか赤ん坊を掴み取ると、伊藤は踵を返して走り出した。オレンジと紫と緑の化け物どもがひしめき合う中へ飛び込み、化け物どもをかき分けながら走った。手の中の赤ん坊を落とさないように包み込み、ひたすら必死に走り続けた。

「どうして……伊藤さん」

 桐緒が迫ってくるのがわかった。瞬間移動をするかのように、群衆の中を瞬時に移動しながら、伊藤に追いつこうとしている。

 手の中で赤ん坊が泣きじゃくっているのがわかる。止まるわけにはいかない。逃げなければ。逃げなければ!

 何かに躓いて、伊藤は倒れた。赤ん坊を落とさないように必死に守って、伊藤は肘を打った。

 すぐそばに、桐緒が迫っていた。

「どうしてなの。伊藤さん」

 桐緒が問うた。

「どうして、私と一つになってはくれないの」

 答えるのが怖かった。何を答えればいいのか、頭の中で整理出来なかった。ただ、真実だけは伝えなければと思った。

「だって……僕は人間なんだ」

 伊藤は、言った。

「桐緒さんは僕を綺麗だと言ったけど、それは間違いなんだ。恐怖を知らないと言ったけど、僕は外の世界が怖い。興味はないけど、関わるのは怖い。それに僕は、自分の犯した罪にも耐え切れない。これ以上、恐ろしい事はない。欲望もある。女の人を欲しいと思う。恋人が欲しい。僕を愛してくれる恋人が……」

「愛なら私が与えてあげるよ?」

 桐緒が不思議そうに言う。

「桐緒さんは……僕を愛していない。桐緒さんが言うような僕なんかいないんだよ。植物のような僕なんて、存在しない。汚れていない僕なんていないんだ。僕は綺麗じゃない。働きたくないし、女の人と付き合いたいし、出来るなら今の生活をずっと続けていたかったんだ。でも、そのせいで、父さんも母さんも死んでしまった。だから、だから――」

 呼吸が乱れる。息が苦しい。とても悲しくて、苦しい。

「だから、怪物にはならないんだ。桐緒さんと一つにはなれない。これ以上、罪は犯せない。そんな事はしたくないんだ!」

 荒い息をついた。頭はすでにおかしくなっているのだろうが、それ以上に壊れそうだ。自分の正直な気持ちを言えたが、言ったところで――

「そう……」

 桐緒の声が、冷たく響く。

「なら、今すぐここで死んで」

 桐緒の腕が、へし折られた樹木の幹のようになっていた。鋭く尖った折れ目の先が、伊藤の胸元目がけて突っ込んでくる。

 ガッ! と、桐緒の腕に槍の穂先が突き刺さった。

「魔女かッ!」

 恐ろしい声を出して、桐緒が上空を睨む。

 ふわり、と黒マントが伊藤の前に着地する。

「あなたの相手はわたしだよ」

「退け! 私はその男を殺すんだ!」

「退くわけないでしょ。怪物に付き合ってやれるのは魔女くらいのものさ。さて――」

 振り返らず、魔女が言った。

「行って、伊藤さん。この先に出口がある。ここを出て、元の世界に戻るんだ。行けるでしょ?」

「……行くしか、ない」

 ようやく、伊藤はそう絞り出した。

「そうだね。あとは行ってからわかる事。さあ、走って!」

「さようなら。桐緒さん」

 伊藤は再び踵を返して、走り出した。

 桐緒の声は聞こえなかった。


 いつまで続くかもわからない暗闇の中を、黄金の赤ん坊を手の中に包んだまま走る。どこまで行けば出口か。どこまでも行ったところで、出口などないという事なのか。

「芯ちゃん」

 夕暮れの交差点に、祖母が立っていた。

「芯ちゃんは――汚れてしまっていいのかい」

 いいんだ、と伊藤は答えた。

「僕はとっくに汚れていたんだ。おばあちゃん」

 祖母の目を見て、伊藤はそう告げた。

 それまで見た覚えがないような穏やかな顔で、祖母が微笑んでいた。

 祖母の手が、伊藤の手を包む。そして、手の中にあったものを優しい動作で自分の手に移した。

「行きなさい。これはおばあちゃんの罪だよ」

 一瞬、何かを言うべきだと思った。何を言えばいい。何を――……

「おばあちゃん。僕は……」

 光が強くなる。目の前の景色が掻き消えていく。

 祖母が、祖父が、そして父と母が、自分を見つめているのがわかった。

 世界が光に満ちていく――……


 気が付けば、伊藤は破壊された団地の敷地に、手の中に何かを包んだような格好で立っていた。夜が明け、朝日が空を照らしていた。

 どうして周囲がここまで破壊されているのか、伊藤にはわからなかったが、おおよその見当はついていた。

 手の中には、もう何もなかった。

 桐緒の姿も、ない。

「一応言っておくけど、死んだ人はいないよ。ボクとヨミチが助けたからね。まあ、多少怪我した人はいたっぽいけど」

「ホント、疲れた」

 いつの間に近くにいたのか、黒マントの少年と少女が立っていた。

「君たち……」

 太陽の温かさを感じながら、しかしまだ世界から切り離されている感覚が抜けないまま、伊藤は言った。

「桐緒さんは――」

「逃げたよ」

 すた、と麻來鴉がすぐそばに降り立った。

「扱い切れなくなった黄金樹の魔力を放出させてね。悪いけど、わたしらはこれからすぐにあいつを追いかけないといけない」

「もう行くのか」

「そりゃまあ。怪物を追うのがわたしの仕事だから」

 言いながら、麻來鴉は幽霊のように透き通った、八本脚の馬を呼び出すとその鞍にオボロとヨミチを跨らせた。

「それじゃ。まあ伊藤さんから報酬は貰えないけど、その辺りはコーディネーターの奴と話しておくから、安心して」

「待ってくれ」

 鞍に跨ろうとした麻來鴉を呼び止める。

「なあ。僕はこれから、どうしたらいい?」

 こんな事を聞いては駄目だと思いながら、伊藤は問うた。

「何をすればいいんだ。どうすれば正しいと思う。一体、一体どうしたら……」

「何が正しいかはわからないよ。伊藤さん」

 突き放すふうでもなく、優しくもなく、魔女は言った。

「でも生きて。しっかり生きて、何が正解なのかを探すのは、きっとありだよ」

 言って、魔女は鞍に跨った。

「なあ……また会えるかな」

「会わないほうがいい。魔女がくるのは怪物がいるところだけなんだから。それじゃ、元気でね」

 そう言って、魔女は馬を走らせた。まるで最初から幻であったかのように、魔女の姿はどこにもいなくなっていた。

 伊藤は魔女が走り去ったほうをずっと見ていた。太陽は眩しく、伊藤には何もなかった。何から始めればいいかはわからなかったが、何かを始めるべきだという事だけはわかった。


 後日、伊藤はそれまで寄り付かなかった銀行のほうへと足を向けた。アルバイトの面接のために、そちらまで行かなければならなかった。

 銀行の横には、建物などなかった。黄金の実を換金してくれるための施設は、影も形もなく、ただ隣のビルとの僅かな隙間が存在するだけだった。

 その隙間には光が差さず、ひたすらに見通せない薄暗い闇があるばかりだった。

「伊藤さん」

 耳元で、声が聞こえた気がして、はっとなって振り返る。

 誰もいない。伊藤が思い描いたような人は、そこにはいなかった。

 とてつもない虚無、言いようのない暗い感情に伊藤は嗚咽を漏らした。



 『黄金樹』了

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