『黄金樹』7


      7


 降霊術は、その名の通り霊を降ろす術である。死者の霊を降ろすのが一般的だが、幽体離脱体質の人間相手なら生霊でも呼び出せるだろう。とにかく、降霊術で重要なのは呼び出す霊そのものだ。霊の呪力が強すぎれば、当然その場に及ぼす影響も大きい。

「ぐぅっ――!」

 何度か頭を揺さぶられたような衝撃から、麻來鴉は目を覚ました。伊藤みつ子の霊を呼び出したその瞬間、呪力によって引き起こされた異層転移の影響で、霊の記憶の世界に引っ張られたのだ。

「麻來鴉! これ何とかして!」

 オボロが叫んでいた。魔法陣の中で俄者髑髏が暴れていた。手当たり次第に拳を振るうも、まるでガラスのケージに囚われたかのように、見えない壁に拳がぶつかっている。だが、呪力が強い。魔法陣が崩れかかっている。オボロとヨミチが魔力を放って保っているが、ひび割れを片端から糊で補修し続けているようなものだった。

存続せよフェオ定まりイアル守られよエオ

 三種のルーン・ストーンを投げ、同時にその名を唱えて指を鳴らす。存続、安定、守護のルーンが魔法陣全体に魔力を行き渡らせ、強度を保つ。

「遅いよ、麻來鴉」

 魔力の供給を止めたオボロが文句を言った。

「ごめん。記憶の世界で迷った。伊藤さんは?」

「いない。異層転移が収まるのと同時に消えた」

 ヨミチが答えた。おそらく異層転移によって生じたひずみを通って消えたのだろう。記憶の世界での行動が、さながら夢遊病のように現実の肉体に影響を及ぼす事はままある事だ。

 周囲の異層転移は、今は確かに収まっている。が、不穏な気配が消えていない。俄者髑髏は魔法陣に固定されているが、針で刺されているかのような緊張感が抜けないのだ。

 自然と、魔力を目に通わせる。ターコイズブルーの燐光が瞳を照らしていく。

「麻來鴉……」

「待って」

 何かが、ぞわりと麻來鴉の魔力のセンサーに触れた。

「そこ!」

 ルーン刻みのナイフを投擲する。魔法陣の光を受けて煌く刀身が空中で何かを切断した。

 地面に、何かが落ちる。切断された茎と、花冠。淡い紫の花。桐。

「桐緒か。遠隔でわたしの降霊術に介入してくるとは……」

 地面に刺さったナイフを抜き取る。

「オボロ、ヨミチ。伊藤さんの団地に行って。あいつは黄金樹を取り込むつもりだ」

「わかった。麻來鴉はどうするの?」

 緊張した面持ちでヨミチが言った。

「少し準備をしてから追いつく。時間を稼いで」

「重労働じゃん。きついなあ」

 オボロは軽口を叩いてみせ、

「まあ、やるけどね。面白そうだから」

 ぎらりと鋭い眼光を見せた。

「頼んだ。わたしもすぐ行く」

「りょーかい」

「任せて。麻來鴉」

 言う早いか、ターコイズブルーの燐光に身を包んだ二人が鴉に変じ、放たれた矢よりも早く団地のほうへと飛んでいった。

 麻來鴉は魔法陣の前に立ち、未だ暴れて外に出ようとする俄者髑髏に向き合った。

「伊藤みつ子。あなたにはまだ用がある」


「こっちに来て」

 桐緒の手招きに、自然と足が進んだ。家中に満ちた芳香が頭の中を酔いどれさせていく。

 桐緒の腕の中に飛び込み、彼女の細い体を抱き締める。現実だ。紛れもなく、今確かにそこに存在する女性の肉体に触れて、伊藤は、自分という人間の全てが一段階上のフェーズへと上がった気がした。世界の全てがここにある。この家の中に。この手の中に。

 ドアの向こうにあるものは、須らく汚れたまやかしだ。

「あなたは本当に綺麗な心を持っているわ」

 桐緒の声が優しく耳元で囁く。

「私が見てきた人間の中で、あなたが一番純粋で綺麗だった」

「桐緒さんこそ綺麗だ」

 たまらず伊藤は言った。

「ひと目見た時から、僕はずっと君を綺麗だと思っていたんだ」

「まあ嬉しい」

 桐緒の柔らかな手が伊藤の耳を包み、頬に触れる。

「好きなんだ。桐緒さんの事が」

 告白の言葉は自然と出た。壁か、あるいは天井からか、異様に軋んだ音が聞こえたが、今の伊藤には気にしている暇はなかった。桐緒の瞳が宝石のように赤く煌いて見えた。

「私も伊藤さんの事が好き」

 桐緒の瞳が伊藤を見つめ返していた。言葉を聞いた瞬間、本能に突き動かされて、伊藤は桐緒の唇を啜っていた。心臓が今までにないほどに血を送り出している。花の香りが全身を活性化させ、ほかの全ての事を忘れさせる。

「伊藤さん」

 桐緒が、身に着けた衣服に手をかける。乳白色の裸身が露わになった。

 たまらず、伊藤は自らの服を脱ぎ去った。生物としての欲求なのだと自覚した。伴侶を手に入れなければならない。この女を、自らのモノにしなければならない。

「いいよ。伊藤さんの好きにして」

 言われるまでもなかった。裸の桐緒を抱き締める。唇を重ね、相手の口の中を蹂躙する。滑らかな桐緒の肌触りを堪能し、欲望の赴くまま、桐緒の全てを貪り尽くす。

 一つになるのだ。愛しい女と。人生は、それ以外の事はいらない。

 ――脳裡に――光景が過ぎる――父母が見える――笑顔の祖母が見える――まだ生きている頃の祖父が見える――皆で笑いながら食卓を囲っている――これは、何だ――一体、いつの……――

 バリン! と音を立てて、窓ガラスが割れた。小さな黒い塊が外から飛び込んできたと思いきや、突如として人型となり、猛然と飛び掛かってくる。

「待て、オボロ! 伊藤さんが!」

 マントを纏った少女が叫んだ。青いナイフを構えた少年が、一瞬動きを止め、くるりと宙がえりをして飛び退く。

「伊藤さんを放せ。化け物」

 少年が、口汚く罵った。化け物、とは何の事だ。ここには自分と桐緒しかいない。

 桐緒が伊藤の体をきつく抱き締めた。

「無粋な鴉ども。お前たち#$%&%$#&」

 桐緒の声が、外の世界の人間と同じような、意味不明なものに聞こえた。興奮した頭に冷や水をぶっかけられたような怖気を、伊藤は感じた。

「桐――」

「この人は渡さない。私は愛しい人の魂と黄金樹を手に入れる。使い魔ども、去るがいい。ここからは怪物の時間だ」

 伊藤は、見た。

 乳白色の裸身はどこにもなく、ただ樹皮のような固い皮があった。抱き締められていたはずの体は、半分以上がその樹木のような何かに取り込まれかけていた。頭部はなく、人間で言えば首に当たる部分の先端からは薄紫色の項垂れた花が三輪咲いている。豊満な乳房と思っていた胸元には、古びた虚が開いていた。

「あ、あ、あぁ……」

 耐え切れないほどの現実を目の当たりにした時、人間の脳は処理が狂うのだと、伊藤は瞬間理解した。

「伊藤さん」

 虚の中から声がした。

 人間の目が、そこから覗いていた。

「一つになろう?」

 ずるり、と。

 声を発する間もなく、伊藤は樹木の中に引き摺り込まれた。


 伊藤芯治が桐緒の中に引き摺り込まれた瞬間、オボロはルーン刻みのナイフを構えて桐緒の懐へと飛び込んだ。樹木の怪物とでもいうべき正体を現した桐緒の体を、魔力を込めたナイフで斬り付ける。固い。とても内部まで刃が届かない。鋭く尖った桐緒の指がオボロの胴体を狙って迫る。ナイフで切っ先を逸らしつつローキックを叩き込むが、桐緒に怯む様子はない。バク転で桐緒の攻撃を躱しつつ、鴉の羽を手裏剣のように投げつける。

「〝伝われアッシュ〟」

 パチン、と指を鳴らすと、鴉の羽に込められた魔力が急激に放出されて小規模の爆発を引き起こした。桐緒の体を構成する呪力をいくらか削ったが、それだけだ。到底決定打ではない。

「――この程度?」

 虚の中から桐緒の目が覗いていた。爆発による煙が立ち昇っているものの、見た目に変化はない。

「まだまだ、これからだ」

 背中に差してあった短剣スクラマサクスを引き抜く。短剣といっても、刃渡りは六十センチほど、脇差と同程度の長さである。玉鋼にルーンを刻み付けたこの剣は、力を持たない悪霊なら触れるだけで消し飛ぶほどの魔力を帯びている。

「はあッ!」

 ナイフと短剣を二刀流で構えたオボロは、軌道を読ませないように床を蹴り、テーブルに飛び移り、天井から跳ね返って着地ざま固い樹皮の足を斬り付けた。強烈な蹴りが、真横から襲ってきた。襖を突き破り、オボロは隣の部屋の中を転がる。すぐさま起き上がってオボロは傷をつけた樹皮の足に、深々と短剣を突き刺した。

「ヨミチ!」

 闇に潜んでいたヨミチの手の中から、ピアノ線の如き硬質な糸が放たれ、桐緒のもう片方の足に巻き付く。

枷なる糸グレイプニル!」

 ヨミチが糸の名を唱え、魔力を通わせる。枷なる糸が巻き付いた足が後方に引っ張られ、桐緒が抵抗しながらも膝を突く。

「黄金樹を!」

 ヨミチが叫ぶ。グレイプニルをさらに放って桐緒の右腕と左足を拘束し、絶対に動けないように力いっぱい引っ張って締め上げている。

 オボロは短剣をさらに深く刺し、ナイフ一本で黄金樹の幹を狙った。

 体の中で、急に何か変化を感じた。体中に満ち満ちた魔力が何かに喰われているような感覚。蟲か、さながら樹の根でも這い回っているかのような――!

「怪物との戦いに慣れていないの?」

 樹木の如き体から、人間態の桐緒がその半身を出現させていた。両手を広げ、オボロとヨミチに向けてかざしている。呪術だ。ヨミチの口から花が咲こうとしていた。桐緒花。呪力によって作り出した花を咲かせる術。

「あ、がっ――」

 体の自由が利かない。呪文の詠唱もなく、相手を呪術にかけるのは相当な使い手である証拠だ。

「これは私の物よ。伊藤さんも黄金樹も、全て私が手に入れる」

 桐緒の樹木の胴体から無数の枝が伸びて、黄金樹に絡み付いた。めきめきと音を立てながら、桐緒の胴体が黄金樹を取り込んでいく。

「これだけの命の果実。取り込めばどうなるか……」

 いつの間に持っていたのか、人間態の桐緒の手の中に、小さな黄金樹の実があった。

「楽しみ。ね? そう思うでしょ、あなたも」

 桐緒はオボロの目を見つめて嗤い、黄金樹の実を飲み干した。

 樹木の体が痙攣を始めた。

 地鳴りのような音が聞こえる。建物が揺れていた。地震……ではない。一個体が相当量の魔力と呪力を有した事による次元の揺らぎだ。グレイプニルが切れ、異様なスピードで膨らみ始めた樹木の体がベランダを破壊する。

「――っ、ヨミチ!」

 呪術が切れていた。口の中に残った呪花の残滓を抜き取り、オボロはヨミチの体を抱きかかえると、そのまま外へと飛び出した。

 団地は破壊され、樹木の体は巨大化を続けていた。三メートル、五メートルは優に超え、十メートル、十五メートル、と巨大化を続けていく。

「やばい……」

 ヨミチの口内から呪花を取り除きつつも、オボロの目は巨大化する桐緒に釘付けだった。団地の高さを追い抜かし、桐緒の樹木体はその巨体を二本の足で支え、地表に立っていた。夜の団地内に異様な巨人が誕生していた。桐の花を頭部から生やし、樹皮で覆われた顔のない巨人。およそ、五十メートルほどだろう。ところどころ光る黄金の光点は、黄金樹の魔力が漲っている証か。

「オォオオオオォオオオオ……」

 唸りとも呻きとも言い難い怨念が地の底から聞こえるかのような声を上げて、樹皮の巨人が体を反らせた。

 異様な視線をオボロは感じ取った。ヨミチも同様に感じたのがわかった。見られた。そう思った瞬間に二人は跳躍した。直後、ミサイルのようなスピードで伸びた巨人の樹皮の指が、二人が立っていた駐輪場の屋根を破壊した。

「オォオォォオォオ……」

 巨人が無造作に腕を振るい、その勢いで伸びた腕が団地を破壊した。巨人の動きは鈍かった。まるで内側に抱えたモノが重すぎるかのよう。

「エネルギーが多過ぎて自由が利かないのか」

「だとしても、時間の問題。黄金樹の魔力を全て呪力に転換されたら手が付けられなくなる」

 推論を述べ合ったのも束の間、強力な呪力の波動が二人を襲った。団地の屋根から屋根へと渡り、迫ってくる腕を躱す。

「アァアァアアオオオァァ」

 巨人に重なるように、恨めし気な桐緒の顔の幻影が浮かぶ。苦悶に体を捩らせながらも、巨人は二人を追ってこようとする。空に、オーロラのような色が揺らめき始めた。淡い紫の花冠が落ちてくる。巨人となった桐緒が呪術を展開している。範囲が広い。広すぎる。今や街中に、空から桐の花冠が降り始めていた。屋上に落ちた花冠がどろりと液体状になり、呪力で出来た人の形に変貌する。桐緒の人間態に似た姿の、コールタールのような分身が、次々と生まれていく。

「オオォォオォォォォオォォ」

 幻影の目が、今度こそ確実にオボロとヨミチを捉えていた。

「ぐっ――」

 コールタール人間がずるり、ずるりとこちらに迫ってくる。武器はナイフしかない。ヨミチは思ったよりも呪術のダメージが大きそうだ。

「オォォォォ」

「オォォォォ」

 コールタール人間がくる。そしてそのずっと向こうから、巨人が二人を狙ってやってくる。

「っ、麻來鴉――」

 雄叫びを上げて、コールタール人間が一挙に押し寄せてきた。迎撃するしかない。オボロは決死の覚悟を決めた。

 ――暗雲。雷鳴。馬の嘶き。

 次の瞬間、轟音とともに白い雷光が巨人の足を貫き、

 空を切り裂いて飛んできたルーンの短剣が、コールタール人間の頭部を破砕した。

 飛来する剣の柄を掴み、オボロは上空に目をやった。

 空中に霊馬の姿があった。呪花を撒き散らす怨念の空を覆い隠す暗雲が広がっていた。雷鳴が轟く。雷が空で呪いを焼いている。黒マントが翻り、長い槍が雷を迸らせている。

「遅いよ。麻來鴉」

 オボロの声が聞こえたのか定かではないが、呟いたとの同じ瞬間、麻來鴉の乗るスレイプニルが、巨人に向かって駆け出した。

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