『黄金樹』4


      4


 まるで、ファミレスの中に突如花畑が出現したかのように、甘い匂いが充満している。

「伊藤さん。こちらは?」

 魔女の声も顔も、あくまでも穏やかだった。だが、伊藤は、その気配に猛禽のような不穏さを感じた。以前にテレビで見た、死肉を貪るハゲワシのような気配。

「こちらは、桐緒さん。さっき話した、お隣さん」

「桐緒です。はじめまして」

 そう言って、桐緒は麻來鴉に左手を差し出す。

 人付き合いの経験がほとんどない伊藤でさえ、その仕草には違和感を覚えた。握手は、普通右手でするものだろう。桐緒は利き手が左手なのだろうか。いや、別にそんな感じでもなかったような……。

 魔女の顔を見る。一瞬、物凄い目つきで差し出された左手を見ていたが、すぐにその表情がにこやかなものに変わる。

「はじめまして。退魔屋の七ツ森麻來鴉です。よろしく」

 そう言って、麻來鴉は左手を握り返す。

 途端、パンパンパン! と弾けるような音がどこからともなく聞こえ、伊藤のコーヒーカップが回転しながら横滑りした。まるで、何かに押されたかのようだ。

「い、今のは……?」

「静電気だよ。すごいね」

 左手を握ったまま、麻來鴉がにっと笑って言う。

「ねえ? 桐緒さん」

「そうね。七ツ森さん」

 微笑んで、桐緒は手を放し、伊藤の横に座った。

「お待っ。たせっ。しました。コー、ヒーっ、です」

 タイミングよく、ウェイトレスがカップに入ったコーヒーを持ってきて、桐緒の前に置いた。

「……コーヒー、頼んでましったけ? いや、ていうか、ここファミレスだから、コーヒーは持ってきてもらうんじゃなくて、ドリンクバーじゃ」

 いちいち言うまでもない事を、自分でもべらべらと喋っていると思う。落ち着かない。何かが変だ。

「あ、がぁっ……」

 妙な声が聞こえた。喉で唾が詰まったような声。

 今のウェイトレスの声。

「ひっ――」

 声のしたほうに目をやって、伊藤の血の気は引いた。

 白目を剥いたウェイトレスが、うがいでもするかのように首を逸らしたまま、がっ、がっ、と涎を詰まらせている。いや、よく見ればウェイトレスだけではない。ファミレスの中の客、店員、目に見える範囲の全員が首を逸らせたまま、奇怪な呻き声を上げている。

「これは……何が……」

「伊藤さん。ごめんなさい」

 強く、濃い花の芳香が、伊藤の鼻孔に充満する。

「ちょっとだけ眠っていて。ね?」

 そうして、強い衝撃が伊藤の頭を襲い、ふと目の前が真っ暗になった。


 伊藤芯治が気を失い、テーブルの上に突っ伏した。死んではいない。それは確かだ。目の前にいる、この桐緒という女が使っている魔術は、どうやら人を操る術のようだし、伊藤の呼吸も耳をすませば聞こえてくる。

「あんた、何者?」

 相手の様子を観察しながら、麻來鴉は尋ねる。

「人間じゃないのはわかる」

 桐緒はあくまで余裕のようだ。コーヒーを口に運び、上品にひと口飲む。

「さすが。あなたの事、聞いた事があるよ。鴉の魔女」

「へえ。どんなふうに?」

 質問に答えていないのは、脇に置いておくとして、麻來鴉は続きを促した。ちょっと興味が湧いた。人間ではない者どもの間で、自分がどういう目で見られているのか。

「とんでもない量の魔力と、幅広い魔術に通じている。噂じゃ、あの天宿りの怪物も倒したとか。二つ名も多いよね。鴉の魔女、ルーン・マスター、稲妻使い、呪われた家を焼く魔女カースドハウス・バーン・ザ・ウィッチ。それに……」

 舐めるような目で、桐緒が麻來鴉の目を覗き込む。

「親殺し」

「――ッ!?」

 自分でも抑えきれないほどの衝動が、麻來鴉の中を突き抜けていた。両の瞳が、ターコイズブルーに輝く。脊髄反射の勢いで、桐緒の体に九つのルーンを念写する。と、同時に、懐からルーン刻みのナイフを取り出し、瞬間的に桐緒の首筋に当てていた。

「誰から聞いたッ!? その話ッ!」

「おー怖い。そんなに怒らないでよ。私は小耳に挟んだだけ。別に人間なら不思議な話じゃないでしょ。誰かを殺すなんて」

「怪物にはわからない感覚でしょうよ。知っている事、全部話してもらおうか。そのあとでこの世から消し去ってやる」

「殺意の塊、ね。でも……」

 突き刺すような花の香りに、麻來鴉の頭は一瞬で冷えた。テーブルを蹴り、桐緒から距離を取る。と――

「これは……」

 店内に、花が咲き乱れていた。

 異様な花だ。花弁は大きく、芳香は強い。そして何より、花は首を逸らした人々の口から生えていた。

「その短慮では、私たち怪物には敵わない。次に私に妙な事をしたら、ここにいる全員を殺す。そいつらの口に咲いた《切緒花きりおばな》に、生気を全部吸い取らせる」

「ちっ」

 ――最初に左手で握手した時から、わかっていた事だ。

 桐緒は魔術を使う怪物である。握手の時、魔力の反発が起こったのは、彼女が魔力を発していたからだ。魔力とは、与える力である。と、くれば店内の人間が彼女の魔術にかかった時点で、何かしら体内に仕掛けたと考えるべきだったのだ。

「安心して。私は取り引きしたいだけ。あなたが条件を呑むなら、術を解除してあげるから」

「条件?」

 桐緒は頷いて、カップの縁を撫でる。

「伊藤さんから手を引きなさい。黄金樹の事も、私の事も忘れて、次のお仕事に行くといい。放っておいてくれればいいの。永遠にね」

「あんた、思ったよりも馬鹿だね。そんな条件、わたしが呑むと思ってんの?」

「思ってるよ」

 店中から聞こえていた呻き声が、苦悶の声に変わる。見回せば、花はより生気を得て鮮やかに咲き、代わりに生気を吸われた人間のほうは、死相が滲み出ている。

「やめろ!」

「やめるよ。条件を呑んでくれればね。伊藤さんから手を引いて。一切関わらないでくれればそれでいい」

 縄で首を締め上げるような音が聞こえる。おそらく、根だ。切緒花とかいうこの人間から咲いた花の根が、人々の喉を内側から締め上げているのだ。

 桐緒は何の予備動作もなく、花を操作する事が出来る。であれば、麻來鴉が何かしらの魔術を繰り出すよりも早く、花を咲かせた人間全員の生気を吸い尽くせるだろう。

 残念だが、ここは条件を呑む振りだけでもして、花の魔術を解除させるしか……

「……ちょっと待って」

 ふと、頭に閃くものがあった。桐緒が怪訝な顔をして、こっちを見る。

「なに? 時間稼ぎならやめてよ? 人間ら死ぬわよ」

「あんたの条件……変じゃない?」

「何が?」

「いや。だって……」

 自分も変な顔をしていると思いながら、麻來鴉は言った。

「『伊藤さんから手を引け』って、何?」

 麻來鴉自身、予想だにしていなかった事が起こった。

 それまで余裕ぶっていた桐緒の顔に、赤味が差したのだ。

「っ――!」

 空気が、ぐにゃりと曲がったかのような感覚。術のために拡散された魔力が乱れたのだ。

 この機を逃す手はない。麻來鴉は懐からルーン・ストーンを放り投げた。

「〝伝われアッシュ〟!」

 指を鳴らす。ルーン・ストーンに込められた魔力が店中に拡散する。術のために一定の流れを形成していた桐緒の魔力が乱れ、そこへさらに異物となる麻來鴉の魔力を流し込む。完全に流れを乱された魔術はぐらつき、消滅する。

 花が消え、仰け反っていた人々は次々と床に倒れ込む。

「魔女め!」

 殺意の宿った目でこちらを睨む桐緒に対して、麻來鴉は冷静にルーン・ストーンを投げつけた。

「〝エオー〟」

 指を鳴らす音と同時に、八本脚の霊馬が顕現し、

「スレイプニル!」

 麻來鴉の号令に従って、桐緒の体を窓ガラスの向こうへと突き飛ばした。破砕音とともに飛び散った窓ガラスの中で、桐緒の体は地面にぶつかり、転げる。

「ぐうっ!」

 多少は痛みを感じたらしい桐緒が地面から顔を上げる。だが、すでに麻來鴉は次の手を打っていた。

「〝照らせケン〟!」

 ルーン・ストーンから放たれる閃光が、周囲を真っ白に照らし、視界を奪う。

「〝ソーン〟!」

 見えなくても、相手の位置は捉えている。茨のルーンから発生した幾条もの茨が、桐緒を拘束する。

「このっ!」

 桐緒の口から悪罵が漏れたが、構っている暇はない。気絶した伊藤をスレイプニルの鞍に乗せ、ノートが入った紙袋やトートバッグを掴み、《枷なる糸グレイプニル》でぐるぐる巻きにして鞍に括りつける。

「拠点に戻って!」

 伊藤を鞍に乗せたスレイプニルが走り出す。道路を避け、川を跳び越えて、住宅街の屋根の上を霊馬が駆ける。

 これで伊藤は無事だ。あとは……

 強い花の香りと気配が背後に迫っている。

「この、魔女ッ――」

「〝落ちろシゲル〟」

 晴天に、雷音が轟く。背後に迫った桐緒目がけて、天空から稲妻が迸った。

「ぐっ!」

 ジュ、っと肉の焼ける音がして、桐緒は再び地面に転げた。右腕が黒く焦げているが、まだまだ動けそうだ。茨の拘束はすでに解かれている。

「やるね。すんでで躱したか」

 道路に突き刺さった槍を引き抜き、麻來鴉はくるりと回して肩に担いだ。麻來鴉の身長をゆうに超える長さの大槍だが、麻來鴉にしてみればナイフやフォークを使うのと同じだ。

「魔女……貴様……」

 鬼の形相で、桐緒は麻來鴉を睨み付けた。焦げた右腕には五輪の大きな花が咲いていた。桐緒の魔術だろう。

「怒るなよ。これでお互い様って感じでしょ。ともあれ、あんたを見逃す事は出来ない。今までどうやって逃げ隠れ出来ていたのか知らないが、ここで消し飛ばしてやる」

 槍を構える。穂先に魔力が収束し、白い電光が音を立てる。

「舐めるなよ。ガキが」

 もはや、伊藤の前で見せていた丁寧な言葉遣いを捨てて、桐緒は立ち上がった。ポケットの中を探り、何か、小さなものを取り出す。陽光を受けてきらりと光るそれは、黄金色に輝いている。

「黄金樹の実か!」

 麻來鴉は跳んだ。稲妻が迸る穂先を叩きつける。一秒でも早く。あの実は危険だ。だが、桐緒が実を取り込む前に叩ければ!

 ――ぱく。

 振り回した穂先が桐緒の胴体を薙ぎ払うより先に、桐緒の口が、黄金の実を喰らい、飲み込んでいた。

「ちっ!」

 槍の横薙ぎの一撃が、ぐにゃりと妙な手応えを受けた。何かにぶつかったはずだが、目の前に桐緒の姿はない。

 何か、柔らかいものが麻來鴉の帽子にぶつかった。帽子のうえに手をやり、落ちてきたものを取る。

 淡い、紫色の花。桐の花だ。

「っ!?」

 一瞬にして、さながら雪が降るかのように、紫色の桐の花冠が、辺り一面に降りしきっていた。

『伊藤さんに手を出すな』

 手に持った桐の花が喋った。すかさず麻來鴉は、魔力を込めた手で花を握り潰す。

『伊藤さんに手を出すな』

『伊藤さんに手を出すな』

 降りしきる花冠の一つ一つが、桐緒の声で囁く。

 呪詛だ。魔術ではない。呪術だ。魔力は与える力であるが、呪力は奪う力である。空間に呪力が満ちる時、次元は歪み、現在とは異なる層、異層との境界が曖昧になる。この業界では、《異層転移》と呼ばれる現象である。

 このまま放っておけば、麻來鴉はおろか、呪術の範囲内に店内の客も、揃ってどこぞ異界へ飛ばされるであろう。桐緒の姿はすでにない。呪術を仕掛けるとともに消えたのだ。


                『伊藤さんに手を出すな』

   『伊藤さんに手を出すな』

         『伊藤さんに手を出すな』


「主神よ。滅ぼす者よ。神の槍の写しに、稲妻の力を与え給え」

 投槍の構えを取り、北欧神話の主神、麻來鴉の魔術の根幹にある神に対し、加護を乞う。契約に従い、瞬間的に大量の魔力が麻來鴉の槍へと流れ込む。さながら発射寸前のロケットエンジンのように、流れ込んだエネルギーを放出しようと、槍自身が震えている。

「貫け、大鴉の槍」

 渾身の力を込めて、麻來鴉は槍を空へと投げつけた。白い稲妻となって放たれた槍が、呪力の壁を突き破り、吹き飛ばす。

 猛烈な衝撃に、麻來鴉の体は堪え切れず飛ばされる。

「いったぁ……」

 カン! と、小気味よい音を立てて、麻來鴉の近くに槍が突き刺さった。呪詛を吐いていた桐の花は消え、空は晴天に戻っている。

「きっつ……」

 呪術を破るためとはいえ、魔力を使い過ぎてしまった。麻來鴉自身も拠点に戻る必要がある。

「オボロ、ヨミチ、いる?」

 道路の並木の影にもたれかかり、麻來鴉は呼びかけた。

 周囲には、誰もいない。

『いるよ。麻來鴉』

『だいぶやられたねえ、麻來鴉』

 返事があった。子どもの声だ。女の子と、男の子の声である。だが、やはり、周囲に人影はない。

「やられてない。ちょっと疲れただけだって。それより、ヨミチは桐緒を追って。見つけたら戻ってくる事。オボロは伊藤さんの部屋を見張って。入る必要はない。黄金樹の影響を受けてしまうから」

『麻來鴉はどうする?』

 男の子の声が尋ねた。

「わたしは一度拠点に戻る。黄金樹の事を調べないと。十文字にも連絡しなきゃ」

『植木屋さんでも呼ぶ? 樹の話だし』

「さあ。ひとまず植木屋さんの意見は聞こうかな。二人とも、行って。わたしは大丈夫だから」

『へばったら連絡してよ、麻來鴉。その辺の鴉と一緒に運んであげるから』

『オボロ、うるさい。行くよ』

 女の子の声が男の子の声をたしなめた。

『麻來鴉、気を付けてね』

「ありがとう。二人もね」

 返事はない。代わりに、電線に止まっていた二羽の鴉が飛び立った。

 救急車と警察を呼ぶ。ファミレスの中の人らは無事だろうが、病院で診てもらう必要はあるだろう。麻來鴉はここから、急いで離れなければならない。人に見られるのは面倒だ。

 槍を引き抜き、人気のない路地裏に入る。塀を跳び越え、屋根へと上り、そこから別の屋根へと飛び移る。本当は魔術で移動したいところだが、消耗している今は仕方がない。足早に、麻來鴉は移動する。

 それにしても……。

「あいつ、何を照れていたんだ?」

 赤面した桐緒の様子を思い返しながら、麻來鴉は呟いた。

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