『黄金樹』5


      5


 目を覚ますと同時に、伊藤は頭がくらくらとした。焦点が定まらず、しばらく体が揺れる。ファミレスで気を失ったあとの記憶がない。

 最初に気になったのは、自分が今、どこにいるのかわからないという事だ。目をこすり、自分の身の回りを確認する。伊藤は、いやに柔らかいでこぼこしたシートの上に横になり、上にはブランケットが掛けられていた。寝ていたのは布地で囲われた部屋……いや、これはテントだ。たぶん、ファミリーサイズというやつだろう。かなり広く、大きな造りのテントの中に伊藤はいた。

「起きた?」

 魔女の声がした。テントの隅で、ノートパソコンに向かっていたらしい麻來鴉が、振り返って伊藤を見ていた。

「ここは?」

「わたしの拠点。何があったか覚えている?」

 伊藤は頭を振った。

「ファミレスにいなかったっけ? そのあとは……」

「覚えていない?」

「何だか、すごく甘い匂いがしたような……」

 麻來鴉は鷹揚に頷いた。

「あいつの魔術が結構効いているみたいだね。無理に思い出そうとしないほうがいいよ。脳に余計な負荷がかかる」

「……あいつって?」

「桐緒」

 桐緒さん? と言いかけて、途端に頭がぼうっと重たくなる。伊藤が思い出せるのは、麻來鴉とファミレスで話していた事だけだ。それ以上は、記憶が先に進まない。

「これ飲んで」

 そう言って、麻來鴉が差し出したのは、大き目のビー玉くらいの大きさの、抹茶葉のような深い緑色をした球体と、水の入ったコップだった。

「これは?」

「酔い覚ましの丸薬。飲めばかけられた魔術を解く事が出来る。あんま強い魔術だと無理だけど、今くらいだったらいけると思う。喉に詰まるから細かく噛み砕いて。それから、飲むのは外でね。何か出てくるかもしれないから」

「何かって何……?」

「そりゃあ虫とかエクトプラズムとか……。まあいいや、とにかく飲んで。わたしも外行くから」

 飲まされる伊藤にしてみれば、まあいいやという話ではなかったが、とにかく気分が悪い。渡された丸薬と水を持って、伊藤はテントの外に出た。

 テントを張った場所は見晴らしの良い小高い山の上だった。夕暮れが迫った街並みが遠くに見えて、よく見れば自分が住んでいる街だとわかった。

「葉山公園の外れあたりか。ここ」

「そう。わたし、今回は遠征しているんだけど、拠点にするのに手頃な宿がなかったから、キャンプにしたんだ」

 振り返るとテントがある。想像した通り、魔女のテントは大きかった。まるでちょっとした小屋だ。

「伊藤さん。薬」

「ああ、そうだった」

 伊藤は頷いて、もらった丸薬を口の中に放り込んだ。薬が舌に触れた瞬間、とんでもない苦味を感じる。

「これ……何だ?」

「トネリコの樹液ににがヨモギ、ラタトスクの木の実、ニーズヘッグの子孫の骨の粉末、麦酒を混ぜあわせてルーンで丸薬にしたもの。いいから噛んで。噛むとよく効く」

 仕方なく我慢して噛み砕く。苦味はさらにひどくなったが、細かく噛み砕いてから水で流し込む。

「ぐ、ぅ……」

 膝を突いた。気持ちが悪い。頭の中を占領していた白い靄が口の中まで下りてきて外に出ようとしている。

 たまらず吐き出したそれは、ぬるりとした白色の塊だった。それこそ、人魂か何かに似ている。一メートルほどのぬらぬらとした白い塊が、逃げるように空中に浮き上がる。

「結構でかいのが出たな……」

 ぼやいた麻來鴉が、白い塊に向かって指で何かを描く。

「〝浄められよベオーク〟」

 魔女が指を鳴らす。白い塊の表面にアルファベットのBのような青い文字が浮かび上がったかと思った次の瞬間、パン! と音を立てて塊が弾け飛ぶ。

「これでよし。少し時間が経てば気分もすっきりしてくると思うから」

 そう言ったかと思うと、魔女は一度テントに戻り、すぐに出てきた。手に、スプレーのようなものを持っている。

「それも魔法の道具?」

「アルコールジェル。手、消毒して。夕飯の準備、するから」

「……ひょっとして、僕が作るのか?」

「そりゃキャンプだもの。全員参加だよ。わたしは火を起こすから、伊藤さんはテントで肉と野菜をひと口大に切って。トマト煮込み作るから」

 流されるまま、アルコールジェルを掌に盛られる。それからクーラーボックスや調理器具の位置を説明され、

「じゃ、わたしは薪を拾ってくるから。留守番と準備よろしく」

 そう言って、麻來鴉は日が落ちかけた森の中へと姿を消してしまった。

「やるしかないのか」

 確かにお腹は空いている。言われた通り、クーラーボックスから食材を出し、まな板と包丁をアルコールジェルとキッチンペーパーで拭き、ジェルを取り切ったうえで食材を切る。

 料理は祖母に習った。そんなに苦ではない。とはいえ、この量は少し多い気がする。明らかに二人分以上あるだろう。

「何でこんなにあるんだ……」

 がさごそと、物音が聞こえたのはその時だ。

「麻來鴉ー。帰ったよー」

 伊藤は思わず息を呑んだ。見知らぬ声が、テントの外から呼びかけてきた。

 誰だ、と問う間もなく、テントの入り口が開き、見知らぬ子どもが顔を出す。

「あれ? 伊藤さんじゃん。起きたの? 麻來鴉いない? どこ?」

「あー……薪を拾いに行ったよ。君、誰?」

「ええー。もっと明るいうちから拾いに行けばいいのに」

 子どもはずいずいとテントの中に入ってきた。金ボタンがついた黒いマントに、短い金髪。どこかのスーパーにでも寄ってきたのか、買い物袋を提げている。年齢十二、三歳くらいの男の子だ。買い物袋を置き、ぐぐっと背を伸ばす。それから、買い物袋の中身をがさごそと漁り始めた。

「あー疲れた。だいたい人使いが荒いんだよね、麻來鴉の奴。あ、これ知ってる? この間出たスイーツ、めっちゃうまいの。家に買い溜めしとこうぜって言ったら、麻來鴉がキレてさ。何であれくらいで怒るかなーって……」

「いや、君誰だ!?」

 べらべらと喋り続ける男の子に向かって伊藤は思わず大声を出した。男の子は、全く動じず、シュークリームの袋を破る。

「ボクだよ、ボク。ベランダにいたでしょ? 覚えてない?」

「ベランダ……?」

 何の事だ。ベランダで子どもに会った覚えなどない。

「だからー。あれだよ。伊藤さんがあの女の人と一緒にいた時だよ。あれって付き合ってるの? やめといたほうがいいよ。あいつはね。ボクらでも気付かなかったくらいの――」

「ちょっと」

 テントの入り口が再び開き、女の子の声が男の子の軽口を止めた。

「べらべら喋ってんじゃないよ。伊藤さん、困ってるでしょ」

「いやでもさ。伊藤さん、僕らの事全然覚えていないんだけど」

「覚えてるわけないでしょ。格好が違うんだから」

「そう? 魔力見ればわかるでしょ」

「伊藤さんに魔力が見えるわけないじゃん。退魔屋でも何でもないんだから」

「そうか? 黄金樹のそばで生活してるんだから、そろそろ目覚めていそうなもんだけど」

「二人とも、一体何の話をしているんだ!?」

 伊藤の大声も二人には全く届いていなかった。男の子はシュークリームをぱくつきながら、女の子と伊藤には到底理解の出来ない話を続けている。

「わからないわけなくない? あんだけ普段から濃い魔力の近くにいるんだからさ」

「普通の人間が、そうぽんぽん魔力に目覚めるわけないでしょ。霊感だってそうそう目覚めないんだから」

「なあ、ちょっと!」

 二人の子どもが揃って顔をこちらに向けた。

「……ああ! 説明の途中だったね」

「いや、説明してないでしょ。一人で喋りまくってただけでしょ」

「どっちでもいい。……いや、良くはないか。とにかく、君たちは一体誰なんだ」

 男の子と女の子はちょっとだけ顔を見合わせて、

「まあわからないんじゃ仕方ない」

「あんまり人前で変身は解いちゃいけないんだけど」

 そう言いながら、二人は右手の親指と中指を合わせて、手を突き出した。

「「〝変われダエグ〟」」

 パチン、と二人が指を鳴らす。アルファベットのHに似た光る文字が一瞬二人の体に浮き上がり、輝きを放つ。次の瞬間、二人は消えていた。

「……え?」

「ここだよ。ここ」

 男の子の声が足元から聞こえた。目をやると、黒い小さな影が二つある。

「……鴉?」

「そうだよ」

 どういう原理なのか、鴉の一羽が男の子の声で喋った。

「うわっ!?」

「驚くなよー。めんどくさいなー」

「いや、驚くでしょ。普通」

 女の子の声でもう一羽の鴉がすかさず突っ込みを入れる。

「で、どう? 思い出せた?」

「いや……」

 そう言いつつも、伊藤は頭の片隅で何かが動くのを感じた。ベランダ……鴉……。そう、確か。

「あ、あの時!」

 伊藤は、桐緒が突然声を上げてベランダに出た時の事を思い出した。

 あの時、確か二羽の鴉が飛び立ったような。

「あれは君たちだったのか!?」

「そうさ。元々この辺りは、麻來鴉の巡回範囲だったからね。魔力の気配を感じるところには探りを入れていたってわけ」

「オボロ!」

 女の子の声で鴉が叫んだかと思いきや、翼をばさりと広げる。

「余計な事を言わないの!」

「えー? いいだろ、別に。大した話じゃないんだし」

「あんたのそういうところがダメなの。ほら、いいから人間の姿に戻るよ。麻來鴉に見られたらめんどくさいんだから」

「いいって別に。ボクらの正体を知っている人間が一人増えても問題ないでしょ。鴉が人間になっても、人間が鴉になっても、世の中にそう大した影響は――」

「人に正体を明かすなって、前にも言わなかったけ?」

 突如、麻來鴉の声がしたかと思うと、同時に指を鳴らす音がして、二羽の鴉は再び光に包まれて、人間の姿に戻った。

 木の枝を束にして持った麻來鴉が、テントの入り口から顔を出していた。

「オボロ、ヨミチ。伊藤さんも留守番ありがとう」

「あ、ああ……」

 何故だかひどく不機嫌そうな麻來鴉の顔に戸惑いながら、伊藤は生返事をした。

「それはそれとして、オボロは腕立て五百回」

「は!? 何で!? 嫌だよ、人間の体で運動するのだるいじゃん!」

「やかましい! 何べん言ってもほいほいほいほい他人に正体明かしやがって! 腕立てくらいやれ!」

「嫌だ! めんどいから嫌だ! だいたいヨミチも一緒に正体明かしてたぞ!」

「じゃあ、ヨミチは三十回」

「少な! もっとやらせろ!」

 収拾のつかなさそうな言い争いを始めた二人を尻目に、女の子に戻った鴉が近付いてきて、伊藤に言った。

「あれ、もう少しかかるからさ。何か作ってるんでしょ? 手伝うよ」


 トマト煮込みはうまくいった。さらにフライパンで焼いた食パン、目玉焼きが四人分。

 食事をするのは外だ。焚き火を囲んで、四人分の影が揺れる。

「いただきます」

 麻來鴉と鴉の少年少女が言った。少年がオボロ、少女がヨミチという名前らしい。

「いただきます」

 伊藤もそう言って、トマト煮込みに食パンをちぎって浸し、食べる。温かい料理が身に染みた。

「ウマ~~~~~! 伊藤さん、料理うまいじゃん!」

「あ、ありがとう……」

 オボロ少年がばくばくと食パンを食べ、トマト煮込みのスープを飲む。

「うん。美味しいよ、これ。料理屋とかで働けるんじゃない?」

「ない。こんなの誰でも作れるし。こんなんでお金は取れないだろ」

「この料理を売れと言ってるんじゃないよ。仮にバイトだとしても、料理の事わかってるほうがやりやすいでしょ」

 あくまで穏やかに麻來鴉は言う。

 伊藤はファミレスの事を少し思い出していた。どうやら桐緒もいたらしいが、その場面はまだ思い出せない。代わりに思い出したのは麻來鴉との会話だ。

「……黄金樹の実を売らなくてもいいって言いたいのか?」

「ほかにも道はあるよ。あんなものに頼らなくても生きていける道は」

「どこに? 僕は黄金樹を育てたことしかない。ほかにお金の稼ぎ方なんて知らないんだ! 君に一体何がわかる!?」

「落ち着きなって。ご飯食べてる時にさ」

 トマト煮込みの入った椀にスプーンを入れ、麻來鴉は泰然とした様子で言った。オボロとヨミチは黙っているが、マイペースに食事を続けている。

「食事が終わったら、試したい事がある。あの黄金樹がどこから来たのか探ってみよう」

「探る? ノートを見るんじゃなくて?」

「ノートも使うよ。でもそれだけじゃない。黄金樹を持ってきた張本人に話を聞くんだ」

「張本人……?」

 嫌な感じがした。怖気にも似た感じ。あの懐かしい声が、今は忌まわしいものとしてしか思い出せない。

 芯ちゃん――……

「あなたのおばあさんを呼び出す」

 焚き火台の上の鍋からトマト煮込みをお玉で掬い、麻來鴉は自分の椀によそう。そしておもむろに言った。

「降霊術だよ」

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