『黄金樹』2


      2


 カレーは美味しく出来た。食べ物を美味しいと思って食べたのはいつ以来の事だろう。祖母と暮らしていた頃か、両親がいた頃か……。

「美味しかった。ごちそうさまでした」

 丁寧に両手を合わせる桐緒。その様子を見ていると、胸の中が何だかぽおっとなる気がした。

「一人暮らしなのに、結構片付いているんですね」

「ええ。まあ……」

「いいなあ。わたし、散らかしちゃうから」

 伊藤の部屋が片付いているのは、そもそもは祖母が片付ける人間だったからで、単に伊藤は現状維持に努めているだけだ。こんな綺麗な人が部屋を散らかすなんて事があり得るんだろうか、と伊藤は益体のない事を思う。

「あの、そっちの部屋」

 おもむろに桐緒が言った。

 襖で閉ざされた伊藤の寝室だ。

「お花とかあります? 何だかいい匂い」

 匂いなんて今までしただろうか。そうかと思えば、花の香りのような、少し甘ったるい匂いがする。

 でも、この家に花なんてものはない。

 あの部屋にあるのは、黄金樹だけだが……

「見てもいいです?」

「え……。あ、いや……」

 寝室を見られて何となく恥ずかしいという気持ちと、先日ついた嘘を思い出してどうしようかと思う。だが、桐緒の期待に応えたいという気持ちが勝った。

「どうぞ」

 言って、伊藤は席を立ち、襖を開ける。

「え……」

 黄金樹に、花が咲いていた。

 小さな白い花だ。今朝見た時は、あんなものなかったのに。いや、それ以前に黄金樹に花が咲いた事なんて、今まで一度も……。

ダイニングの照明を受けて、黄金の実が煌めいている。それを見て、桐緒が可愛らしい声を上げた。

「きれい! これ、伊藤さんが育てている植物?」

「は、はい。そうです!」

 事実そうなのだが、伊藤は慌てて答えた。

 桐緒は興味を引かれたようで、植木鉢へと近付いて行った。

「美味しそう」

「え?」

 桐緒が黄金の実を指で撫でている。その指が、ぷつん、と黄金の実をもぎ取った。

「あ、ちょっと!?」

 止める間もなく、一粒五十万円する黄金の実が、桐緒の唇に飲み込まれる。

「…………ぇー」

 ごくん、と桐緒が喉を鳴らした。

「うん。美味しい」

 食べちゃった、と伊藤は声にならない声で言った。

「あの、あの……」

 何だかカレーを食べた時より上機嫌そうな桐緒に、おずおずと話しかける。

「うん? どうしました?」

 花の香りが強い。何て言おう。何て言えばいい?

「あの、あの!」

 言え。言うんだ。何で食べちゃったんですかって言うんだ!

「…………あの、もう一個、食べますか?」

 ――駄目だった。

「んー、またにしておきます」

 桐緒は満面の笑みでそう言った。

 部屋の中が花の香りで満ちている。



 黄金樹の異常は、花が咲いただけに留まらなかった。

「何で……」

 青々とした葉が、天井ぎりぎりまで届いている。昨日まで頼りなかった幹が、今は男性の二の腕五本分はある太さになっている。根っこは容赦なく植木鉢を破壊していた。

 クリスマスツリーの飾りくらいの大きさになった黄金の実が、朝日を受けて煌いている。

 黄金樹は急成長していた。

 こんな事は、今まで一度もなかった。

「どうしてだろう」

 朝食のあと、伊藤は祖母が残したノートを紐解いた。祖母が日記のように、いや日記よりも執拗に書き綴っていたこのノートはニ十冊以上あり、その全てが日に焼けて汚らしい色をしている。

 内容は、黄金樹の観察日記だと、祖母から聞いている。伊藤はこれまで、そのノートの中身を真剣に見た事がなかった。パラパラとページをめくり、何度か手を止めて文字に目を走らせ、それからうんざりしてノートを閉じた。

観察日記である事は間違いないが、祖母個人の日記としても書かれていたのだ。つまり、黄金樹に関係のない、感情に任せて書いたような殴り書きが多かった。

 黄金樹にしか興味がないような人だったが、あれでなかなか、ストレスを溜め込んでいたのかもしれない。

「仕方ない」

 伊藤はぷつんと黄金の実を一つもぎ取った。

 今日は換金の日である。


 窓口で黄金の実が入った巾着袋を渡して数分。いつも通り、中身のなくなった巾着袋と茶封筒が、受付係から差し出された。

「あの」

 後ろに下がりかけた受付係が動きを止める。いつもなら黙って終わるやり取りだが、今日は別だ。

「何か」

「あの、樹について、聞きたいんですが……」

 桐緒と喋っている時のようにはいかなかった。言葉がどうしてもつっかえる。

「樹?」

「樹です。あの、実をつける」

 受付係は無表情のまま軽く頷いた。

「樹がどうかしましたか?」

「大きくなっているんです。急に。これまでそんな事はなかったのに」

 伊藤はスマホで撮影した黄金樹の写真を見せた。画面を見る受付係の瞳は虚無だ。

「……わかりました。こちらから専門の方にご連絡します。後日担当者がご自宅にお伺いしますので」

 言って、受付嬢は、後ろにいる別の人間に言った。

「十文字さんに連絡して」


 その晩も、桐緒は食事にやって来た。

「仕事してないでしょ、伊藤さん」

 いたずらっぽく言われたその言葉に、カレーを運ぶ手が止まった。

「あ、あの……」

「いいよ。隠さなくても。わたし、そういうの偏見ないから」

 どこか面白がっている風で、桐緒は言う。

「それで、お金はどうやってやりくりしているの?」

「あ、あの、それは」

 言ってしまおうか。いや、言うしかない。大した言い訳は思いつかなかった。

「実は、あれを売っているんです」

 伊藤は、黄金樹を指差した。葉が広がってきたのでダイニングに移したのだ。

「あれって……」

「あの樹の実です。金色の。僕は、黄金の実って呼んでいます」

「あれが、売れるんですか」

「……一粒、五十万です」

「五十……」

 桐緒は軽くその言葉の意味を考えるように言葉を切り、

「えー……いや、それは」

「本当です。ほら、ここに。ちょうど今日貰ってきた分がある」

 伊藤はテレビの前に無造作に置いてあった茶封筒の中身を見せた。桐緒は目を白黒させていた。

「これで生きていけるなら働く必要ないですねえ……」

「す、すみません……」

 何故だが謝罪が口を突いて出た。

「じとー」

 わざわざ口に出して桐緒が見上げてくる。

「いいなー。働かずに五十万円手に入って」

「いや、その、これはお祖母ちゃんの頃から続いている事で」

「お祖母ちゃん?」

 伊藤は祖母と黄金樹について説明した。祖母がつけていたノートも見せた。

「伊藤さん、おばあ様はこの黄金樹をどこから持って来たんですか」

「わからないんです。僕が生まれた時には家にあったから。ノートは、内容がよくわからないし」

「ふーん……」

 桐緒は何か考え込むような風情だったが、

「まあいいや。とりあえず今のところは、お金には困っていないって事ですものね」

 桐緒の顔が近い。花の香りがする。嗅ぐたび濃くなっていて咽るほどに。

 外見からは想像も出来ないほど、蠱惑的な桐緒の瞳。だがその目は伊藤を見ていない。見ているのは、その向こうの黄金樹だ。

 樹の息遣いが聞こえるかのような気さえする。今も、自分の後ろで、黄金樹がその枝葉を伸ばし続けている気が――

「誰!?」

 突然、桐緒がそれまで聞いた事のないような声を上げた。伊藤が動転している間に、桐緒は足早にカーテンを開けて、ベランダに出た。

 バタバタと何かが飛び去っていった。暗かったが、家の中から差し込んだ明かりで何となく姿が見えた。

「鴉……?」

 飛び立ったのは、二羽の鴉だった。羽ばたき方と大きさからして間違いないだろう。

「……」

 桐緒のほうを見る。

 深く眉根を寄せた桐緒が、鴉が飛び去ったほうを睨んでいた。



『母さん、もうやめようよ』

 これは父の声だと、伊藤はぼんやりと気付いた。小さい頃、夜、自分の布団に入ったあとで、父と祖母が言い争うのを聞いたのだ。

『こんな生活まともじゃないよ。何であの実はあんな高値で買い取ってもらえるんだ。あいつらは一体何なんだ』

『お前も祖父さんと同じだね。黄金樹様が怖くなったんだろ』

 祖母の言葉は冷たかった。襖の隙間からそっと覗くと、祖母は父を見てさえいない。

『怖いさ。父さんだって怖かったはずだ。何でうちだけこんなまともじゃない金で暮らしているんだ』

『滅多な事を言うんじゃないよ! 祖父さんの治療費も芯治の養育費も実を売ったお金あればこそじゃないか! いいから、私らは黄金樹様のお世話さえしていればいいんだよ』

 祖母が激昂している。昼間はあんなに優しい祖母が。

『……父さんが病気になったのは、その樹が来てからだ』

 父が抑えるような口調で言った。

『あんなに元気だったのに。まるでその樹に命を吸い取られたみたいに……』

『もう寝るんだね。これ以上の侮辱は許さないよ。お前も、お前の奥さんも息子も、この樹によって生かされているんだからね』

『……出て行けばよかった。父さんが死んでから、母さんが一人になるからと残ったのが間違いだった』

 父は吐き捨てるように言った。

 祖母の顔が父のほうを向いたのはその時だった。

 伊藤が知っている祖母の顔ではなかった。

 蝋のように白く、血の気をなくした顔。

 窪んだ眼窩の奥で、あの実のように不気味に光る金色の眼。

『――なら、今すぐ望み通りにしてやるよ』


「――ッ!?」

 布団の中で、伊藤は跳ね起きた。寝間着が汗でぐっしょり濡れている。

 部屋の中は暗い。スマホを見るとまだ真夜中だった。

 花の香りが強い。もう玄関からでも匂うくらいだ。他の住人からそのうち苦情が来るんじゃないかと心配になる。

「……ふう」

 電気をつけ、寝間着を脱いだ。タオルで汗を拭い、新しい寝間着を出して着替える。

 ふと、寝室の姿見に目をやって、伊藤ははっと息を呑んだ。

 姿見の中に、誰かがいた。

 押し入れのすぐ前。膝を抱えてうずくまっている。黒髪の乱れた、細身の女性。

 振り返れば、いるはずだ。だが、怖くて体が動かない。

 何だか、この女性を知っている気がした。洋服に見覚えがある。……よく、知っている、はず。

「お母さん?」

 姿見の中の女性は、ほんの少しだけ顔を上げた。鏡の中から、確かに伊藤を見ている。

「に げ て」

 姿見の中で、女性の口がそう動いた。

 充満する花の香りに押し潰されるように、伊藤の意識は途切れた。


 翌朝は目が覚めると体が重かった。襖を開けて一歩出るとがさごそと音がした。生い茂った黄金樹の葉にぶつかったのだ。また大きくなっている。

「本当にもう、何なんだ」

 昨晩は奇妙な夢を見た。ごっそり何かが抜け落ちたかのように体が重い。

 黄金の実が見える。たぶん、増えている。あんまり真面目に数えた事はないが、昨日までと違う事はわかる。

 ――に げ て。

 頭がくらくらする。葉を避けて、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターを取り出すのもしんどい。ひどい風邪でも引いたような感じ。

 ――出て行けばよかった。

 グラスにミネラルウォーターを注いで飲む。水が重たい。まるで球体でも飲み込んだかのようだ。これは本格的に体調が悪いのかもしれない。

 口の中に残ったミネラルウォーターをシンクに吐き出し、伊藤は寝室に戻ろうとした。

 息が止まった。

 いつも伊藤が座る椅子に、見知らぬ誰かが座っていた。

 老人だ。

 水分も生気も抜け切ったような干からびた老人がかっと目を見開いたまま虚空を見つめている。皮膚の色さえ日に焼けすぎて汚く変色したかのよう。元は白だったのであろう汚れた髭。頭皮が丸見えの頭。

「……っ」

 動けない。叫び声を上げなかったのは、そんな声を上げる元気もないからだ。落としそうなグラスをやっとの思いでシンクの中に置く。

 老人は微動だにしない。ずっと虚空を見つめたままだ。その格好は、まるで今の今まで寝ていたかのように、寝間着姿だ。

 誰だ。こんな老人に見覚えはない。伊藤は努めて落ち着こうとしていたが、それは急な斜面で柔らかい土を蹴るのに似ていた。落ちる事はわかっているのだが、それが自分の中で認められない。

「あ……」

 かすれた声が出た。あんた、と言おうとしたのだ。でも、それ以上声が続かない。

 ふと、気が付いた。

 老人が着ている寝間着。見覚えのある柄だ。

 いや、見覚えがあるどころではない。

 伊藤は自分の寝間着に目をやった。老人と同じ、白とネイビーのチェック柄。ただし老人の寝間着はところどころ黄色く薄汚れている。

 あれは、僕か……?

「芯ちゃん」

 はっきりとした声がした。まるで生きている人間のような声だ。

 だが、この部屋には、生きている人間は伊藤しかいないはずだった。

「黄金樹様はねえ、私らを生かしてくださるんだよ。だから、私らは黄金樹様が望むなら、何でもお返ししなくちゃいけないんだ」

 祖母がいた。目の前に。記憶の頃のまま。伊藤がまだ小さかった頃、祖母はこうして上から見下ろしながら、伊藤に黄金樹の重要性を説いたのだ。

「芯ちゃんはお祖母ちゃんが選んだからねえ。黄金樹様のお世話をしながら、ずぅっと生きていられるんだよ」

ガタン、と椅子が倒れる音がした。

視界の端で、何かが床を這いずっているのが見えた。

 あの老人だった。

「ずぅっと生きていられるんだよ。ずぅっと。ずぅっと」

 あ、あ、あ、あ、と床の老人が掠れた声を出す。骨が捩じれて軋む音を立てて、老人が血走った目で芯治を見た。

「あいつらとは違う」

 そう言って、祖母の両手が伊藤の顔を掴んだ。

 体温の失せた、冷たい両手。

 死体の手。

「ひっ――」

 体が割れるような絶叫が、伊藤の喉から迸った。


 「〝輝けシゲル〟」


 ――――――――――――――――――パチン。


 真っ白い光が部屋中を包み込む。視界を埋め尽くす光によって幽鬼のような祖母と見知らぬ老人の姿が掻き消える。

 一瞬ののち、光も消え去って、ようやく普通の景色が帰って来た。

 寝間着の上に、乾いた砂が落ちていた。ほとんど全身に砂を被ったような感じだ。砂は伊藤の上だけでなく、老人が這っていた辺りにも落ちている。

幽解離ゴースト・ディソシエーションだよ。物質化した残留思念とか霊魂とかを分解すると、形を復元出来ずにこんな砂みたいになるの」

 見知らぬ人間の声がした。女の子の声だ。伊藤より年下だろう。恐る恐る声のほうを見ると、奇妙な格好をした少女が立っている。

 黒いマントに、先の折れた黒いとんがり帽。長い黒髪。日本人らしい顔立ちなのに、何故だか異国の人間を前にしているように感じさせる、茶色の瞳。

 ――魔女だ。

「……君は、誰だ。どうやってここに入った」

「悪いけど鍵を開けたよ。緊急事態だったからね」

 針金を手の中で踊らせて、少女は言う。

「はじめまして。退魔屋たいまや七ツ森ななつもり麻來鴉まきあです。お宅の植物を拝見に上がりました」

 優雅に一礼して見せた少女は、一転厳しい目をして、ダイニングの奥を見る。

「ま、ちょっとヤバそうだけどね。あれ」

 そう言う少女の視線の先には、不気味なまでに葉を生い茂らせた黄金樹があった。

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