第三話『黄金樹』

『黄金樹』1

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 伊藤いとう芯治しんじは、二十四年間、ずっと同じ市営住宅に住んでいた。生まれてから、これまでほかの家で暮らした事はない。

 両親は早くに亡くなった。小学生の頃だ。それ以来、ずっと祖母と生活してきた。その祖母も二か月前にこの世を去り、伊藤は家族三人がいなくなった部屋に今や一人で住んでいた。

 親戚はいない。というより、知らない。もしかしたら両親や祖母の兄弟姉妹がこの世にはいるかもしれないが、伊藤は生まれてこの方、両親らが親戚というものと連絡を取っているところを見た事がない。

 父は、背広を着て仕事に行っていた事を覚えている。母も、昼間には仕事を持っていた。が、二人がどんな仕事をしていたのか、伊藤は知らない。全く記憶にないから、興味がなくて聞き流してしまったか、教えられていないかのどちらかだろう。

 伊藤は自分を取り巻く世界というものに興味を覚えずに育った。伊藤に世界の広さを教えてくれるかもしれなかった両親を早くに亡くし、強いて友達を作ろうという気持ちも持てなかったために、伊藤は常に一人だった。

 中学に上がったあたりで、伊藤は、周囲の人間と比べて自分が普通ではない事に気付いていた。ほかの人間は他人に興味があるのに、伊藤は全く他人に興味がない。クラスメイトの顔も、コンビニの店員の顔も大差ない。全ては背景と同じだ。季節を経て団地の壁の色が変わっていくのと、隣の席に座る人間の顔ぶれが変わるのとに何の違いがあるだろう。

 人生のほとんどの中で、話す相手といえば祖母だった。物心ついた頃から顔つきがほとんど変わらなかった祖母。

 伊藤の生活を支えていたのも祖母だ。正確には、祖母がずっと大事に育てていた植木鉢の小さな木になる実が、祖母の収入となり、二人の生活費となっていた。

 黄金の実をつけるその小さな木を、祖母は黄金樹と呼んでいた。


 伊藤が生まれる前から、祖母は黄金樹を持っていたという。

『樹』という字は、植物の総称を意味する。だからおかしくはないのだが、伊藤は大樹や果樹といった、自分よりも大きそうな木をイメージしてしまって、植木鉢から生えたこのほっそりとした木が黄金樹と呼ばれるのを、いつも不思議な気持ちで聞いていた。

 祖母は幼い伊藤に、この黄金樹がいかに大切な物かを説いた。

 月に一度、祖母は黄金樹になっている金色の小さな実を一つもぎ取ると、それを巾着袋に入れ、小さな伊藤を連れて町へと出かけた。

 最寄り駅の近くに銀行があり、その横に銀行と同じ壁の建物がある。内装も銀行のような雰囲気だが、ATMはなく、窓口が一つあるだけだ。窓口の後ろでは何人かの人が働いているような気配だが、どんな人が、何人いるのかはわからない。

 祖母はいつも真っ直ぐ窓口に向かい、受付をしている女性に巾着袋を差し出す。制服を着た女性は巾着袋を受け取って一度奥に下がり、次に戻ってくる時には中身のない巾着袋と厚めの茶封筒を持ってくる。

 茶封筒の中身は五十万円。黄金樹の黄金の実は、月に一度、一粒だけ、お金に換える事が出来る。

 これが祖母の教えであり、伊藤が二十四歳にして生活の糧を得るための手段だ。高校を出たあと、少しばかりアルバイトをした事もあるが続かなかった。黄金の実を月に一度、一粒売れば五十万円。友達はおらず趣味もない人間が、ただ生きていくためだけには十分過ぎる。

 ひと月のうちを伊藤は、食事、ネットサーフィン、黄金樹の世話で過ごす。食も細く、空腹を満たせれば十分なので食事で贅沢もしない。人並み性欲はあるのでネットサーフィンではそういったサイトを見るが、街を行く人にはなぜか心惹かれない。そして黄金樹の世話。一日二回。水をやるだけ。

 はたから見れば退屈そのものであるはずの生活に、退屈を覚えない。生きるためだけに栄養を摂取し、一応繫殖する能力だけは持っている。

 まさに、自分自身が植物のようなものだと伊藤は自覚していた。

 祖母がいなくなった家で過ごす事にも慣れた。というよりやる事に変わりがない。

 自分は一体何のために生きているのだろうと、考えた事がある。だが、思考は浮かぶものの、自覚のないうちに薄れてどこかへと消えてしまう。

 そんな時、必ず黄金樹の鉢が目に入る。

 少なくとも、これを育てるという役割がある。何故ならば、自分はこれこそが生きる術だと教わったのだし、だいいち楽だ。以前に少しやったバイトはよくわからない用語が並び、目的の見えない作業が延々と続くだけだった。その点、黄金樹は水をやるだけだし、それで何故だか心は満たされる気がする。

 努力して思い出せる限り、父と母はこの黄金樹を嫌っていた気がする。きっと息子にはこの木を育てるだけの人間にはなって欲しくなかったのだろう。世間一般で言えば当たり前の感覚だ。両親が今でも生きていたら、何か違ったかもしれない。

 ――ピンポーン。

 取り留めのない思考を浮かべていた伊藤を現実に立ち返らせたのは、インターホンの音だった。食料品は最近ネットで買うようにしているから、それが届いたのだろう。以前は外で買い物していたが、同じ団地の人間に詮索される煩わしさから伊藤は学んでいた。自分の人生に必要ない人間と関わる機会を、極力減らせばいいのだ。

「はい」

 チェーンを外して、伊藤は玄関のドアを開けた。あらかじめ覗き窓を覗き込む用心深さは必要ない。伊藤を訪ねて来る人間は配達員のほかは管理人くらいだろう。

 そう思っていた。この時までは。

「あの……こんにちは」

 混じり気のない、さながら水の音で奏でられる音楽のような声。

 派手さのない、落ち着いた赤の洋服とシックな黒のスカート。

「お隣の部屋に引っ越してきた桐緒きりおです。よろしくお願いします」

 首の根元で切り揃えられたボブカット。髪の柔らかい黒と相まった白い肌。

 おそらくは同年代の女性。

「あ……どうも」

 虚を突かれたまま、伊藤はぎこちなく挨拶する。

「伊藤芯治……です」

 彼女が、微かに笑みを浮かべた。

「よろしくお願いします。伊藤さん」

 静かだが、まるで陽光のような温かさを伴う声。

 心が、胸が、どこか自分のものではないかのようにふわふわとしている。

 伊藤は恋に落ちた。



 ゴミを捨てに行く時や、郵便受けを覗きに行く時、桐緒とはたまにすれ違うようになった。伊藤は何とか勇気を振り絞って会釈をし、盗み見るように、あわよくば目が合うようにと思いながら桐緒のほうを見るようにした。

 桐緒は、いつも綺麗だ。はっきりと目が合うわけではないでも、視線が交錯する瞬間はある。そんな時、桐緒は微かな笑みを浮かべる。少しはにかむようなその微笑みが、伊藤の胸の奥を締め付ける。

 何度か、立ち話になる事もあった。そこで聞いた話によれば、桐緒は在宅で仕事をしている翻訳家なのだそうだ。以前住んでいた場所は夜でも周囲の音がうるさく、仕事の都合で何度か訪れたこの街が、昼も夜も静かな事から引っ越しを決めたのだという。

 それまで他人の仕事など全く気にした事がなかった伊藤だが、桐緒の事が気になりだすと職はおろか資格も持っていない自分が急に恥ずかしくなった。自分にこんな一般人らしい感情が残っているのは驚きだった。

「伊藤さんも在宅ですか?」

 何気なく、桐緒に聞かれて伊藤はドキリとした。

「ええ。あの、植物を育てる仕事を……しています」

 嘘、ではない。少なくとも黄金樹の世話は、祖母から受け継いだ大切な仕事なのだ。もっとも、桐緒に会うまでは生活におけるルーティンワークでしかなく、さほど大事に思っていたわけではない。もし黄金樹が実をつけなくなったら……という仮定さえ、伊藤は考えた事がない。

「ああ、フラワーアレンジメントの在宅ワークみたいな?」

「そんな感じです」

 嘘をつくのは気が引けたが、相手が納得してくれているならそれでいい。

「素敵なお仕事ですね」

 桐緒が微笑んでくれる。罪悪感とは別に、その笑顔に心が満たされる。

「じゃあ、また」

「はい」

 桐緒と別れ、部屋に戻る。

 最低限の私物。祖母の代から使っていた家具。何年も換えていないカーテン。ずっと同じ配置の洋服箪笥。

 たった一人の部屋。たった一人の家。

 伊藤はこれまで自分の家をがらんどうだと感じた事はなかった。祖母が生きていた頃には聞こえていた他人の生活音がなくなった事も気にしていなかった。ここには何もない。自分は存在しているだけだ。生きているだけだ。

 桐緒のように輝いてはいない。

 寝室として使っている部屋の床に跪き、畳の上に顔を伏せる。

 桐緒の顔が瞼に焼き付いている。

 しかし、自分では――……

 悲しいような気持ちだったが、涙が出るほどの情動は残っていない。虚無感だけが胸の裡に広がっていく。

 ふと、部屋の隅を見る。

 どうしてだろう。心なしか昨日よりも生い茂ったような黄金樹が、新たな実をつけていた。


 その日、珍しく伊藤は外に買い物に出た。

 カレーを食べたいと思ったのだが、具材となる野菜が家になかった。

 買い物を終え、夕方の道をとぼとぼと歩いていると、公園のベンチで佇む桐緒の姿が見えた。

 夕日に照らされた桐緒は出会った時と同じ服を着て、文庫本を読んでいた。

「桐緒さん」

 衝動的に、伊藤は声をかけていた。

 桐緒の白い顔が、伊藤のほうを見た。

「ああ。伊藤さん」

 桐緒がかわいい声で言う。

「どうしたんですか。こんなところで」

「それが……家の鍵をなくしちゃって」

 困ったように笑いながら、桐緒は文庫本を閉じる。

「なくしちゃったって、探さなくていいんですか?」

「ずいぶん探したんです。でも見つからなくて。何だか疲れちゃったので、休んでいました。鍵なら、管理人さんに言えば済む事ですから」

 意外と図太いのか。おおらかなのか。桐緒はいつもにも増して笑顔だった。

 後ろで子どもの笑い声がする。ボール遊びをしているらしい。

 ――……ぐぅぅう。

 ふと、桐緒のお腹が鳴った。

「やだ。鳴っちゃった」

 恥ずかしそうにお腹を押さえる桐緒を見て、伊藤は思わず口走っていた。

「あの、桐緒さん。良かったら、うちで夕飯食べませんか」

「え?」

 きょとんとした顔の桐緒に、伊藤は自分でも不思議なほど勢いづいた。

「今日、カレー作るんです。一人分だと中途半端な量になっちゃって逆に作りづらいから……」

 桐緒は若干戸惑っているようだった。さすがに急すぎただろうか。いやでも、つい口が動いてしまったのだし、今さらどうしようもないのだ。

「……いいんですか。いっぱい食べちゃうかも」

「喜んで」

 ろくに他人と喋った事もないのに、自分がここまで饒舌に受け答え出来るのが不思議だった。舞い上がっているのかもしれない。

 いつの間にか、子どもの姿はなくなっていた。公園を出る時、二羽の鴉が傍で羽ばたいた。夕方だが、心なしか暖かいような気がした。

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