『雨宿りの女』6
6
雨が、雨が降り注ぐ。さっきまでの晴天はどこへ消えたのか。ただただ、
「ふ、ははははっ!」
糸が切れたように笑い声を上げたのは晶子だった。
「お前、馬鹿でしょ!? 天使様は雨が降ってると力が上がるんだよ!」
天使の口の端が吊り上がった。
懐から、ルーン刻みのナイフを抜く。柄を手の中で回転させ、構える。
「そっちの得意なステージで倒したほうが、天使様もヘコんでくれると思ってさ」
「なめんな! 天使様がくびり殺してやるよ!!」
片方が残されていない翼を羽ばたかせ、天使が一気に麻來鴉へ肉薄する。
「
麻來鴉の懐から白い糸が飛び出した。接近する天使の体に瞬く間に纏わりつき、たちどころに拘束する。
「負府不……」
天使が嗤う。余裕か。だが……
「左腕の剣士、狼の敵、古き天空神、勝利を齎す者よ……」
呪文を唱える。青い燐光がルーン刻みのナイフを包み込むと、麻來鴉は柄から手を放す。ナイフは青い光の柱の中にあって、宙に浮いていた。
「グレイプニルが汝を封じ、神の剣が汝を裁く。この一振りで戦は終わり、この一撃で我らの勝利――」
青い光が強くなる。狙うは首。不遜な顔で嗤う天使の頭を――
「
さながら、大振りの剥き身の刃を振るうかの如く、麻來鴉は光の剣を横薙ぎに一閃した。
雨が、降る。激しさを増して。
天使の首が宙を舞う。だが、血は一滴も流れない。
――死んでいない。
「天使様!」
晶子の悲痛な叫びも虚しい。天使の顔には嘲笑が浮かんだままだ。
「……いつまでやってんの? 天使様」
ナイフを握ったまま、麻來鴉は敵に問う。青い光はすでに消えている。魔力を相応に消費したのに、効果は薄い。頭に来る。
「死体ごっこなんてガラじゃないでしょ。とっとと続きを始めましょう?」
カタカタ、と乾いた音が聞こえる。首の取れた天使の体が震えている。
バシュッ、と前触れもなく幾条もの光線が天使の体から放たれる。不意打ちは計算済みだ。
――いや、駄目だ。一条だけ。麻來鴉ではなく、その背後に向かって飛ばされたものが――
「十文字、よけて!」
言いながら、麻來鴉は魔力で自身の体を包みつつ、守護のルーン・ストーンを十文字のほうへ向かって投げる。直後に、
「
少し遅い。身を捩った十文字の肩を光線が掠める。
「ぐぅっ!!」
苦悶の声を上げる十文字。その直後、麻來鴉の体を光線が貫いた。胴体と手を貫通し、そして直角に曲がって十文字のほうへ!
「壁の影に入って、十文字!」
痛みを堪えながら麻來鴉は叫んだ。守護の石から展開された青白い障壁の裏へ、十文字は身を隠す。直後、障壁にぶつかった天使の光線が跳ね返って四散する。
ガン、と。
石畳に光る物が突き刺さった。晶子の足元だ。さきほどまで麻來鴉の手の中にあったルーン刻みのナイフが。
「っ!」
立ち上がろうとした瞬間、麻來鴉の体は上からもの凄い力で押さえつけられた。いつの間に変異したのか。細長く伸びた天使の指が麻來鴉の体を掴んでいるのだ。
どろりと。コールタール状の液体が天使の首から流れ出ている。まるでテレビ画面に走るノイズのように、その体は雑音混じりに崩れ始めている。
「麻來鴉……あれは」
「いよいよ化けの皮が剥がれ始めたって事でしょ。おそらくはあれが天使の正体。そして……」
――天宿りの最終段階。
「ウゴイちゃ
はじめて。
おそらくはじめて、天使は麻來鴉たちの前で自分の言葉を発した。誰の言葉の繰り返しでもない、自分の意思を語る言葉を。
「
ドロドロとした液体が、十文字の足元に迫っていた。十文字は、一瞬、話しかけられているのが自分だと気付いていなかった。
「……そいつ?」
すかさずコールタールから放たれた光線が十文字の足を貫いた。一条だけだが、肉が焼かれる痛みに十文字は悲鳴を上げる。
「があぁっ!」
「十文字!」
ろくろ首のように伸びた天使の首が、自らの頭部の切断面に接着する。
天使の顔の三つの目が細められる。
「其イ津をワタせ」
荒い息をつきながら、十文字はちらと自分が背負った人物へ目をやった。
「能見さんか」
石畳を赤い血が濡らす。雨はまだ降り続けている。
「悪いが、そいつは出来ない相談――」
「十文字、逆らっちゃ駄目」
麻來鴉は、努めて冷静に言った。
「おい、何を言ってるんだ! 依頼人を明け渡す退魔屋がどこにいる!?」
「天使様はあんたの命を奪っても能見さんを手に入れられる。このままいけば二人とも犬死だよ」
「おい……!」
麻來鴉は構わず首を横に振る。
「渡して」
能見惣一の体は衰弱していく一方だ。だがここで天使に強硬手段に出られれば、魂を元に戻す事さえ叶わなくなるだろう。
「……くそっ!」
十文字は背中から能見惣一の体を降ろした。天使のもう片方の手が伸びる。子どもの落書きのように伸びた五本の指が能見惣一の体を掴む。
天使のやる事は単純だった。娘の前に義父の体を降ろしたのだ。
「イヨイヨだね」
天使は首を伸ばし、晶子の顔のすぐそばで囁いた。
「決チャクをつけよう。キ身の手デ御和らせルんだ」
晶子の目が赤い。鮮血のように赤く、爛々と輝いている。
「……わたしが」
熱でうまく口が動かないような、たどたどしい調子。
「わたしが、殺すの?」
「其ウ堕ヨ」
いつの間にか、コールタールが触手のように動いて、石畳に突き刺さったナイフを引き抜いていた。
「わ、わたし……」
「可汰鬼を討トウ」
雨の音に混じっても、天使の囁きははっきりと聞こえる。
「君の人生ヲ取り戻そウ」
徐々にだが、天使の語調は変化しつつあった。これまでのカタコトな言葉遣いではなく、麻來鴉でさえある種の優しさや導きを感じるような声音だった。守護天使というものがいるのなら、まさにこのように人を導くのではないだろうか。目の前の、コールタールから抜けて出て来たような片翼の存在は、まさに『天使様』だ。しかし、その正体はただの魔物だ。
「さア……」
「……」
晶子はナイフの柄を掴んだ。彼女の目の前に、能見惣一の体が横たわっている。魂が戻るべき肉体が死ねば、当然、それで一巻の終わりだ。
「晶子さん……ぐっ」
麻來鴉は呟く。慎重に。だが、天使の手がさらに体を締め付けるだけだ。
晶子の両目は、今や魔物のように赤い。
「はあ、はあ、はあ……!」
重い。空気そのものが重圧を発しているかのような空間。憎しみが漂っているかのようだ。しかし、その憎しみは一体誰に向けられたものか。理不尽を強いた父親か。母を失う因果を作った義父か。それとも奇怪なものを引き寄せてしまった己自身か。
――雨が降っているのが、せめてもの救いだ。
「あああああああああああっ!」
ナイフが振り下ろされる。ルーン刻みのナイフが、深々と能見惣一の胸に突き刺さる。
血が、溢れ始める。真っ赤な。生者に流れる血が。
その瞬間、ふっと周囲の空気が軽くなった。ついさっきまでこの場を支配していた異様な空気が跡形もなく消え去っている。
能見晶子の目は、もう赤くはない。
天使が術を解いたのだ。彼女の思考を支配し、憎しみを増幅させていた術を。
「え……?」
一瞬、晶子は状況を飲み込めていなかった。呆然とし、辺りにちらと目をやり、それから。
能見惣一の死体を見た。
「え、あ……」
血のついたナイフに、目がいく。
「これ、わたしが……」
「其ウ堕よ」
勝ち誇ったような嘲笑を伴って、天使が言った。
「これでお父さんモお母サンもいなイ。君はモうワたシのもノだ」
コールタールが翼のように広がる。能見晶子の顔から強い感情が消えている。あるのは恐怖。絶望。
――そうはいくか。
「〝
指を鳴らしたその瞬間、存在を思い出したかのように天使がこちらに顔を向けたが。
「あとの祭り」
次の瞬間、洞窟から飛び出す蝙蝠のように能見惣一の体が幾千もの黒い羽に変わる。
「〝Revelation chapter 14 verse 7〟!」
聖書を片手に、十文字が叫ぶ。
「〝神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい〟!」
雨が滝のような雨が、天使だけに降り注ぐ。さながら箱舟が出発する前の大洪水の下準備だ。だが、こいつは流すのではない。
「雨は天地を繋ぐモノ。お前がこの娘に近付いたのと同じく」
麻來鴉は両目に魔力を集中させる。ターコイズブルーの静かなる輝き。雨で動きを封じられた天使の真下に念を送る。脳裏に思い描いた絵図を寸分の狂いなく念写する。
それは、かつての晶子の生家で見たものだ。救いを求めた男が描いてしまったものだ。
――天使を呼ぶための魔法陣。
「
麻來鴉の指鳴らしとともに、魔法陣が一八〇度回転する。召喚陣から、送還陣へ。
「阿、ア、ァ、尾、マえええええええええ!!」
「〝その日、主は 厳しく、大きく、強い剣をもって 逃げる蛇レビヤタン 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し また海にいる竜を殺される。〟」
十文字が読み上げる聖書の文言が、弱った天使を封殺する。
「ずっと、気になっていたんだよ」
通じるかどうかはわからないが、麻來鴉は天使に向かって言った。
「晶子さんの体も魂も欲しているであろうお前が、どうして彼女を手に入れるためにここまで時間をかけているんだろうってね」
あの時、過去の事象を垣間見た時に聞いた「あれは、欲しいな」という言葉。
あれは、間違いなく天使の発したものだった。
「考えればわかる事だった。お前は晶子さんの魂をへし折り、絶望させたうえで彼女を手に入れるつもりだった。お前はその機会をずっと待っていた。彼女の憎しみが増幅し、その憎しみが彼女自身を滅ぼすような構図になる瞬間を。彼女自身に手を汚させる瞬間を」
ルーン・ストーンを陣の外に置く。この送還術を完成させるために。
「彼女の心が真に絶望するためには、彼女が憎しみに囚われたままでは都合が悪い。だから、きっとやると思った。彼女に手を汚させたあとで、彼女と自分の因果を切り離し、一度だけ正気に戻すタイミングを作ると」
果たして、その瞬間はやってきた。まさに今の今。天使が隙を見せるであろう唯一の瞬間。
その一瞬を捉えるため、麻來鴉と十文字は罠を張ったのだ。
「お前を消し去る事は出来ない。祓う事は出来ない。お前は魔物であって魔物でない。悪ではあるが悪霊ではない。倒せず、祓えないならば、元いた世界に帰すだけ」
ルーン・ストーン最後の一枚を置く。
「
四枚のルーン・ストーンが輝く。
「さあ帰宅の時間だよ、天使様。ただし、再出発はなしだ」
パチン、と。麻來鴉の指が鳴り。
「阿、あ、ア、唖、ああああああイ也堕ぁアあああッ!!」
送還陣がターコイズブルーに輝き、激しさを増す雨の音が最大限に達したその瞬間、陣も、天使も、雨雲も、停止ボタンを押したかのように消失する。
空は晴れ渡っていた。
ルーン・ストーンから降りたアマガエルが、ひょこひょっこと何処かへ消えていく。
「……終わった、のか?」
「ええ。送還術で返した以上、あいつの『繰り返す』術が発動する限り、永遠にどこかへ送り返され続ける。もう地上には戻って来られないでしょうよ」
「それならいいが……。って、能見さんの魂は?」
「それは彼女に頼んである」
かつかつ、と力のない足音が聞こえる。
後ろから本物の能見惣一が歩いて来た。天使を騙し切るため、惣一の体は車の中に残して外界からは見えないように術をかけておいたのだ。魂がまだ体に戻ったばかりで、力は入らないだろう。だが、その横で、彼を支える者がいる。
「……母さん?」
晶子が呆けたように呟く。
能見里穂。魂となって異界を彷徨っていた彼女に、麻來鴉は能見惣一の魂を探すよう頼んでいた。天使の送還には十文字と協力しなければならなかった以上、同じ時間内に惣一の魂を探す者が必要だった。
「母さん」
晶子の声が、わずかに震えていた。
「今まで、どこに……どうして……」
里穂の口が動いた。声は、しかし聞こえない。
日差しが強い。
気が付けば、里穂の姿はどこにもなかった。膝をついた能見惣一が苦しそうに息を吐く。早く戻らなければ。
「十文字、車運転できる?」
「お前な。俺、足に穴空いているんだぞ。先に傷を治せ」
「仕方ないなあ」
十文字が続けて抗議したが、麻來鴉は無視して指輪を握らせ、治癒の念を込めてウルのルーンを傷口に描く。
能見晶子は、呆然としたままだった。泣いているが、何故自分が涙を流しているのかさえわかっていないようだった。
「一つ、確実に言える事がある」
呆けた晶子に向かって、麻來鴉は言った。
「これで繰り返しは終わりよ。過ちも苦しみもここで終わったの。雨は上がって空は晴れた。ここからは――」
晶子の手を、麻來鴉は軽く取った。
「新しい始まりだよ」
能見晶子の荷造りはいたってシンプルだった。スーツケースの中に着替えと洗面用具。少々の必需品だけ。
「向こうに到着しましたら、私から連絡します。基本的には、晶子さんは外界と接触出来ないようになりますので、その後も定期的に私から、ご連絡させていただきます」
十文字が、能見惣一に告げた。能見は、まだ少し青白い顔で頷く。
――事件から一週間が過ぎていた。
天使様を退けたものの、晶子の霊能力が衰えたわけではない。その力は、制御出来ない限り、必ずまた別の魔物を引き寄せてしまう。となれば、その力を扱えるだけの技術が必要だ。検討の末、晶子は一時的に熊野に預けられる事になった。期間が半年になるか、一年以上になるか。それはわからない。
だが、一度に魔に関わってしまった以上、普通の人生を送る事は出来ない。
「熊野まではわたしも同行します。どうぞご安心ください」
麻來鴉はすかさず付け加える。事態を解決したとはいえ、男一人に未成年の娘を手放しで預けるわけにはいかない。それに、途中何が襲ってきてもいいように護衛は必要だ。
「よろしくお願いします……」
惣一はそう言って頭を下げる。
あの事件の後、晶子と惣一の間でどんな会話があったのかはわからない。晶子は天使様の影響下にあったとはいえ、ずっと義理の父親に対して複雑な感情を抱き続けてきたのだ。そのわだかまりが完全に解消出来ないまま、二人が離れて暮らすのは正解なのだろうか。柄にもなく、麻來鴉はそんな事を考える。一緒にいたところで、どうにもならないのだろうが……。
「……」
晶子は、何も言わなかった。無表情のまま、トランクにスーツケースを詰め込み、振り返りもせず車のドアノブに手を掛ける。
「晶子」
惣一が言った。掠れるような声で。
少しだけ、間があった。
「待っているよ」
晶子は、振り返らない。
「……部屋はそのままにしておいて。勝手には入らないで」
「……ああ。わかっている」
「それじゃ……」
少し、小さな声で続けた。
「行ってくるね」
「……ああ」
惣一の声が、震えていた。
「行ってらっしゃい」
車は高速道路へと向かっていた。様々なリスクを鑑みて、飛行機と新幹線は使わない。十文字には負担をかけるが……まあ、せいぜい労う事しか出来ないので、道中は癒しの魔術で疲れを取ってやろうとは思う。
それにしても、まだ麻來鴉には引っ掛かる事があった。
――あの魔法陣。
それまで魔道とは関りがなかった葦谷行男が、何故急に天使などを召喚しようと思ったのか。素養のない素人が召喚術など成功させられるはずがない。だというのに、タチの悪いモノを呼び出せたのは、一体何故か。
(誰かが教えたんだ)
麻來鴉は一人、車中で考える。
(おそらくは……)
料金所を通過し、車は高速道路に入る。
スピードが上がり、景色が流れていく。
能見晶子は眠ってしまった。車の中には十文字が適当に流しているラジオの音声しかしない。
『……近イ……うち……に……まタ……』
音声が途切れたのか。不自然な音の繋がりがあった。
だが、十文字が気付いた様子はない。
『マたネ……鴉の魔ジョ……』
――その時、一瞬、スーツ姿の男が――ストライプの入ったスーツ――うねるような銀髪――コロンのような硫黄の臭い――男がいた――麻來鴉の横に。能見晶子ではなく、あの男が麻來鴉の横に座って――!
「――ッ!?」
はっとして隣の席を見れば、能見晶子が窓にもたれかかって眠っている。
自分が汗をかいている事を、麻來鴉は自覚した。ひどい汗だ。汚らわしい緊張感。間違いない。今のは――……
「どうかしたのか? 麻來鴉」
何気なく、おそらく十文字としては全く異常がなかったので、声音に一切緊張がなく、問われる。
「大丈夫。何でもないよ」
麻來鴉は答える。汗を拭い、息を整える。
「……
一人、誰にも聞こえないように呟く。
そう。きっと再び相まみえるのだ。麻來鴉の生涯を狂わせた、あの者どもと。
『雨宿りの女』了
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